『 しずくあつめて 〜知的障害の娘と20年〜 』
南野 雅子:著 学研 定価:1456円+税 (1995年6月)
ISBN4-05-400460-1 C0037 P1500E
岡山で、私よりは少し先輩で、「笠岡市手をつなぐ親の会」会長の南野雅子さんの、これまでの子育てを綴った本です。
少し先輩(・・4才ほど)と言いましたが、子どもの年令で言えば、我が家が末っ子ということもあって一世代以上(17年もの)の差がありますね。その意味でいうと、岡山での障害児子育ての大先輩ということになります。
しかし、時代は変わっても、また障害は変わっても、親の思いというのは同じなのですね。
発達の遅れが気になって、笠岡からO大附属病院(イニシャルですが、おそらく我が家が診断を受けたのと同じ病院でしょう)を受診したときの話です。
夫はその日、朝早い交代勤務に入っていたので、
「竜子が幼稚園から帰るころには間に合うから、家もほうは心配しなくていい。ほんとうはぼくもついて行ってやりたいが・・・・。まあ、どんな診断がされようと、気をしっかり持って、とにかく家に帰って来いよ。帰ってからいっしょに考えよう」
と、いかにも不安げに言うので、
「だいじょうぶよ。いざとなれば、私はいつだって気は強いじゃないの」
と、日ごろの楽天家ぶりを発揮して、笑いながら電車に乗った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
どうやって診察室を出て、病院を出たのか覚えていない ―。気がついてあたりを見回したとき、いつの間にか岡山駅のホームに立っていた。
手提げ袋を通した腕に光代をかたく抱きしめ、サイフと薬袋を、いきだしに握ったままベンチに座れば、ただただ涙が止まらずわれを忘れて泣いた。
頭の中では先生のひと言ひと言が、鮮明なままでグルグル回っている。
(知能障害・・・言語障害・・・脳に傷・・・運動機能障害・・・微細脳損傷・・・、治らないかもしれない。一生この子はちえ遅れ・・・。ことばも話せず、人並みにもなれない・・・。障害児ということは・・・一生みじめにしか生きていかれない・・・・)
私の中で、光代と障害児はどうしても重ならなかったし、ひと事としてしか障害を持った人たちが浮かんでこなかった。
そしてそのイメージは皆、みじめで哀れな姿ばかりだった。
不安と絶望感が押し寄せてくる・・・・、どう考えを巡らせてもそんな生きかただけはできそうもないし耐えられない。
(・・・・死んでしまおうか。この子を道連れに死んでしまいたい・・・)
・・・・そう思えば、白く光るレールが唯一の逃げ場のように見えてくるのだった。
反対側のホームに電車が入った。
・・・・・・・・・・・・・・・・
夫と竜子の顔が浮かんだ。
「とにかく家に帰って来い」
朝の出がけに言ってくれた夫のことばがよみがえってきた ― 。
(そうだ、帰ろう、とりあえず家に帰ろう・・・)
駅のホームに降りると、竜子の手を引いて夫が駆け寄って来た。
「よく帰って来てくれたね。心配で・・・・ついて行けばよかったって何度思ったか・・・」
赤い目をしている私の顔を読み取るように見ると、何もかも知っているかのように優しくうなずいて、光を抱き取った。
本当に同じですね。我が家の妻も、陽気で楽観的だと思われているのですが、障害を告知された帰り道、ショックと悲しみでハンドルを握る手が震えたそうです。車の中でしたので、大声で泣きながら辿りついた我が家でした。
こんな思いが本当に分かりあえるのは、やはり同じ障害児を持った親たちでしょうね。
それからの、障害児の子育て、喜びも辛いこともたくさんありますね。南野さんの時代、やはり障害というものへの周りの理解少なかったせいでしょうか、十数年後の我が家の頃と比べると辛いことが多かったように思えました。
いじめや無理解の対応のために、懸命に学校で妹の面倒を見ようとしている姉の竜子ちゃんが自律神経失調症になったり、学校の先生の対応の悪さに思わず声を荒げたり・・・詳しくは本書を読んでいただきたいのですが、それに比べると、我が家の子育ての時代には、理解者も多く恵まれたいたように思います。
これも、南野さんたち諸先輩が、岡山の地で道を拓いてこられたおかげでしょう。
その光代さん、小学校の5年生から普通学級に移り、中学校でも「特殊学級へは、どんなに勧められても行かせる気持ちはありません」との、なによりみんな中で社会性や協調性を養ってほしいという、強いお母さんの意思で、普通級からJ女子高校、そして就職へと育っていきます。
その教育方針は我が家とは少し違ってきていますが、それはそれぞれの家での育て方の違いであり、障害特性の違いやまた時代背景の差ということで、違って当然なのでしょうね。
愛情に包まれて育った光代さん、今も明るく働いておられることでしょう。
成人式に晴れ着をきて、お母さんにお化粧をしてもらい、でかける光代さんです。
天心らんまん、ほんとうに明るく、くったくのない光代を見ていると、この二十年、また、これから先の何十年、好むと好まざるにかかわらず、私たち親子と出会い、出会った人たちに、
「ありがとう、ありがとうございました」
と、心から感謝の気持ちがあふれてくるのだった。
あのときも・・・・・、このときも・・・・、ほんとうに死ななくてよかった。
(2000.2)
目次
まえがき
第1章 乳児期
光代の誕生
何か異常が?
耳が聞こえない
病院巡りの果てに
耳に体脂が・・・
発育の遅れ
予防接種後にひきつけて
光代が死んだ?
母として
雑踏の中から
夫の決意 ― ジョギング
日課として
光代が歩いた!
第2章 幼児期
三歳児検診
手づくりの小さな遊園地
保育所へ
身辺の自立にむけて
初めての試練の中で
『ことばの教室』で片山先生との出会い
微細脳損傷
薬との格闘
ことばの発達
運動会で
Nさんとの出会い
子どもには子どもたちなりの世界が・・・
幼稚園に入園して
ラジオからの声に・・・
第3章 学童期
小学校就学に向けて
光代の成長記録をまとめて
小学校入学
竜子ごめんね
模索の中で
冷たい雨に打たれて
特殊学級へ
目を輝かせて
運動会
一年八ヶ月の間に
高田先生と離れて
四年生になって
地元校へ
普通学級へ
初潮
小学校卒業
第4章 中学時代から高校時代へ
中学校へ
あくまでも普通学級で
風船の根元をしっかり持って
中学生生活の中で
高校進学に向けて
泣くな! 光代・・・
進路指導
高校生生活の中で
第5章 社会人となって
高校卒業から就職へ
家事手伝い
K食品へ就職
二十歳
第6章 小規模作業所・そして今・・・・・
小規模作業所の設立
福祉新聞投稿より
通所生と共に
聴覚障害のA君
B子ちゃんの幸せ
C子ちゃんを巡って
そして今・・・・・
あとがき