「日々のできごと」その15

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平成11年1月16日(土) 晴れ

最近日記つける精神的余裕がない。
哲多調査も卒論が終わってからゆっくり書くとしよう。
しかしここ2〜3日、痔が痛い(;;)


平成11年2月2日(火) 心は雨

ジャイアント馬場がとうとう引退してしまった・・・。

はっきり言って、自分がその試合をじかにこの目で観たことは10回もない。
でも、この脱力感は一体なんだろう。

『馬場「引退」』の報を知ったのは、2月1日。
2日間の徹夜を経て卒論を提出し終えて帰宅したあとだった。
わたしが卒論提出の余韻の中研究室にいた午後7時40分、友人(K)からわたしに電話があったらしい。
そこで、こちらから掛け直してみると、なんか、「馬場さんが死んだ」などと変な冗談を言っている。
なんでも、職場でその噂を聞いたらしい。
そんなはずはない。
今年に入ってからの報道では術後順調に回復しているとのことだったから・・・。
わたしはその言葉を一笑に付し、卒論の話題を話していた。
その電話の最中、友人が「たった今テレビでやっている」と言う。
わたしはすぐにテレビをつけてみた。

・・・・・・。

午後9時前のニュースで、わたしはそれが事実だと知らされた。
はっきり言ってわたしはそれを見て、いったい何のことだかわからなかった。
こいつらは何を言ってるんだ?
わざわざ全国ニュースで変な冗談を流すんじゃない。
そう思った。
画面に映った神妙な面持ちの鶴田、三沢、百田・・・。
なんだよ。
よってたかってファンを騙そうとしているのか?
そうとしか思えなかった。
そうだ・・・。
きっと卒論で疲れ切ったわたしは夢を見ているに違いない。
それにしてはみょうにリアルな夢・・・。
わたしは受話器を持ちながら話しもせずにそのニュースをぼーっと見ていた。

その電話を切ったあと、わたしはすぐにプロレスファンの友人(I)に電話をした。
電話に出た友人は向こうから「見た?」と聞いてきた。
それを聞いたわたしも、「見た・・・。」としか言えなかった。
数秒間の沈黙のあと、2人は会話を始めたが、はっきり言って何をしゃべったかほとんど覚えていない。
唯一、おそらくはこんなやりとりをしたのだろうということだけは覚えている。
「なんかの冗談でしょ。」
「全国ニュースでこんなたち悪い冗談流すなよなぁ、まったく。」
「ほんと、おもしろい冗談だよねぇ、はっはっは。」
「明日のワイドショーで昔の試合が流れるんじゃない?」
こんな感じの不毛な会話が、おそらくは10分くらい延々と続いていたと思う。

わたしは疲れていた。
早く眠りたかった。
そうだ。
寝て起きたら、やはりそれは夢だったとわかるだろう。
ニュースを見たのも、電話したのもすべて夢。
卒論書き終わって、何事もなく家に帰って翌日まで寝ていたことを、起きたときに知るだろう。

だが、起きたときに知ったのは、それが夢ではなかったことだった・・・。
近年ではまったくプロレスの試合記事が載ることのなかった新聞。
たまに載るのはプロレスラーの死亡記事ばかり。
その新聞の、しかも一面に「ジャイアント馬場」の文字、そして写真があった・・・。

しかしそれでも信じられなかった。
5月の東京ドームの試合からまたリングに上がるんじゃないか・・・。
ここ数年は確かに一線から退いて、前座の試合がほとんどだった。
次にわたしが全日の試合を観に行くとき、そこに馬場がいないことがまったく想像できない。

わたしが初めてプロレスの試合を観に行ったのが、岡山武道館の全日本プロレスの興行だった。
高校2年のときだっただろうか。
グッズ売り場に、その姿があった。
ジャージ姿で足を組んでパイプ椅子に座っていた。
初めてこの目で見たジャイアント馬場は大きかった。
「おぉすげぇ、馬場だぁ!」
まさにそういう感じの光景だった。
それが全日会場の日常・・・。
その光景ももう見ることはできない。
次に会場に行ったときに、それを思い知らされることになるだろう。

馬場さんは生涯現役だった。
本人も生涯現役を考えていたという。
そうだ。
生涯現役なのだから、これは「引退」なのだ。
ジャイアント馬場というプロレスラーが「引退」したのだ。
わたしはそう考えることにした。
引退したのだから、会場に姿を見せることもない。
馬場さんにすれば、たぶんそれは至極当然のことに過ぎないのだろう。

馬場さん、長い間お疲れ様でした。
だけどわたしの中ではぽっかりと大きな穴が開いたままだ・・・。


平成11年3月1日(月) 晴れ

どうやら日記が1ヶ月ペースになってきているので、ここらで気合入れて再開しよう。
わたしの場合、期間があくと途端に興ざめするので、マジでそろそろ書かないと永遠に更新しないような気がする。
とは言ってみたものの、もはや卒論の調査行や執筆のへんのできごとなどほとんど記憶のかなたに去ってしまっている。
というわけなので、去年の暮れからのことについては、思い出し次第、あいだに差し込んでいくことにする。
であるからして、冒頭に書いた「どうやら日記が1ヶ月ペースになってきている」という記述はそのうち正しくなくなるであろう。
今日書いた直前の「日々のできごと」は2月2日であるから、今日の時点では正しいのだ。
あと1ヶ月後にまた同じことを書くようなことのないようにしたいものだ。

で、肝心の今日のできごとを書いておかねばなるまい。
(今日のは内輪ネタオンリーやけど、これってワシの日記やから、んなことカンケーねぇんだよな・・・。)

さて、今日は昼前に原付で研究室にやってくる。
確か今日は2・3回生が鴨方レポートの印刷をしに集まるはずである。
わたしが来たときには3回生の某H氏がいただけだった。
院生室でネットやってると、昼を過ぎてから2・3回生が三々五々集まってきたらしく、作業も始まったようだ。

(この間13行は問題ありとみなし、3/3に削除。)

あ、ひとつ書き忘れた。
今日知ったのだが、今日は成績表の交付があったのだ。
それを知ったのが4時ごろで、まだ窓口は開いていたのでとりあえず教務に行ってみる。
最後の2単位も無事でていた。
どうやら旧制度の学生は卒論の単位が成績表に載ってないらしく、口頭で「可」と告げられた。
これで、卒業要件単位はわたしの計算が正しければすべて取り終わったことになる。
しかしまだ今年度9月分+後期分学費を払ってないので、卒業できるかどうかはまだわからない。
すでに卒業できないことになってたらいやだな・・・。


平成11年3月3日(水) 晴れ

今日は久しぶりにできごとじゃないことでも書いてみようか。
だいたい毎日1つはなにかふと考えることがあるのだが、今日はたまたまパソコンの前に座っていたので書いてみる。

でまぁ、いきなりだが「天職」とはいったいなんだろうか。
去年までは、わたしの「天職」は小中学校事務だと思っていた。
しかし、2年連続で小中学校事務の就職に失敗し、もはや年齢制限があって受験することはできない。
ではなぜ「小中学校事務」なのか。
第一義には、ラクだから、・・・といっては語弊があるか。
ならば「ほかの職と比較して仕事以外の時間を持ちやすい」と言い換えよう。
時間的にもそうだし、精神的な余裕もある。
出勤・退勤時間はきっちり決まっているし、たまにガキの相手してりゃ気分転換にもなる。
天気がよけりゃ校庭の草抜きもできる。
適当な枠にはまってのんびりと・・・。

はっきりいって自分は仕事をばりばり(?)やりたくはない。
民間大手に夢と希望を持って入るというような人間ではないのだ。
まぁ、悪く言えば「横着」なだけ。
そのぶん、野望とかそういうもんはほとんど持っていない。
その日その日に最低限メシが食えてぼーっとして好きなことやってタバコ吸えてりゃそれでいい。
今日日(きょうび)なかなかそういう職もなくなってきた。
給料が安かろうが高かろうが結局作業量的にはどこに行っても(少なくとも自分にとっては)大差はない。
安いとこは安いなりに忙しいだろうし、高いところも高いなりに忙しい。
そう、わたしのとって小中学校事務というものはまさにうってつけの天職になるはずだったのだ。
いまさらなぜ落ちたのか振り返る気はない。
落ちたものはしょうがない。
つまるところは自分の実力が足らんかっただけなのだ。
それ以上のものでも、それ以下のものでもない。

ことしも就職活動シーズンがやってくる。
公務員の試験も春過ぎから夏にかけて始まる。
だがしかし、公務員にこだわる気がなくなってきた。
わたしにとってもはや公務員は、「天職」ではないのである。

いまの自分にとっての「天職」なんて、あるのだろうか。
っていうか、職につくこと自体が目的なのか!?
自分一人がつつがなく食っていくくらい、定職につかなくてもできるんじゃないだろうか。
いまさら就職しても、スタートラインはすでに人より3年遅れることになる。
「無意味に生きてる人間はいない」なんてキレイごとを言うつもりはさらさらない。
お前といっしょにするなと言われるかも知れないが、「意義があって生きている」人間が果たして何人いることやら・・・。
わたしの場合、生まれた次の瞬間から惰性で生きてるようなもんである。

宇宙はビッグバンによって人間が言うところの「無」から発生し、その後、現在、さらには未来にわたって膨張を続けている。
ビッグバンによって「有」という状態が発生したことに意義はあったかもしれないが、その後の膨張は無意味である。
宇宙のいまある膨張の状態はビッグバンによる惰性以外の何物でもなく、そこになんらの意思は介入し得ない。

まさにわたしはここで言う「宇宙」みたいなものである。
惜しむらくは、宇宙には「意思」がないが、わたしには「意思」があるということ・・・。
「意思」とは、「惰性」と相反するものであり、完全なる「惰性」を否定するものでもある。
意思があるからこそ惰性の状態が規制され、ゆえにそこに葛藤が生じる。
宇宙を見ればいい。
宇宙は意思に規制されることなく完全なる惰性で膨張を続けている。
それがいつか膨張をやめ、収縮に向かってもそれは意思による制約ではない。

急に話がぶっ飛んできたので、ここらで元にもどそう。
とにかく、わたしはこのままのんべんだらりと惰性で生きていきたい。
しかし、食わないわけにはいかないし、好きなこともしたけりゃタバコも吸いたい。
いずれにせよ、そこで最低限の「妥協点」というものを見つけなくてはならない。
そうだ、わたしの「天職」とは、この「妥協点」を指していたのだ・・・。

(未完)


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