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ご由緒

厨神社は、口碑によると和銅6年(西暦713年)4月、美作国久米郡
弓削郷下弓削厨谷に鎮座され、同郷下神目村志呂神社、福渡村
八幡神社とともに『弓削郷三社』と崇められてきました。

『作陽誌』によると、山川部大菅山の條に「大菅山在二ヶ村古例毎年
正月十六日弓削七ヶ村の人猟此山獲鹿二頭献具中山神社今絶云々」
とあり、また『志呂神社文書』には「大菅山中央以上に鹿を獲れば此を
下弓削村厨神社に於いて屠割す、故に厨谷と称す厨神社あり云々」と
記されており、つまり当社は美作一宮中山神社の御饌神(食事を司る
神)として鎮座し、殊に料理調理の守護・五穀豊穣の守護神として崇敬
されました。

鎌倉時代、当社の名田開発により集落が形成され、開拓鎮護の神として村人の崇敬を受け、15座
30名の宮座による特殊神事が伝えられていましたが現存していません。

江戸時代初期、藩主森長嗣公は、弓削の大庄屋・河原善右衛門の建言で、洪水の危険がある厨谷
から現在の畑後成の丘上に遷座を命じ、延宝5年(西暦1677)9月3日、旧社地から現在地へ遷座し
ました。

明治2年(1869)社名を「厨谷神社」と称しましたが、同6年2月
「厨神社」と改称し、村社に列格され、更に同14年3月に郷社に
昇格されました。

厨神社の氏子区域は、古くは弓削庄27ヶ村(27部落)でしたが、
後に上7ヶ村(上弓削、下弓削、西山寺、上ニケ、下ニケ、松、仏
教寺)を正氏子と定め、明治2年には上弓削、下弓削、西山寺
地区を氏子とし、他を大氏子としましたが、明治29年にもとの7ヶ
村に復しました。

現在では久米南町下弓削、上弓削、西山寺の3地区を直氏子、他の4地区を大氏子と呼んでいます。

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