短編・人生の

少年期

  昭和23年誕生寺村(現久米南町)北庄の農家の長男として誕生。兄弟は姉(若くして他界)、妹、弟の4人。誕生寺小学校、弓削中学校(現久米南中学校)へと進み、まじめな少年期を送る。小学校就学時に鉄瓶の熱湯を浴び、脇腹から太股にかけ、大やけどをしたことがある。風呂上がりの裸体が水泡と赤むけになり、家族にかかえられて近くの医者に駆け込んだ。以来、学校〜医者〜自宅ルートの毎日が続いた。その後、小学校まで約1.5qの道程は、自然の遊び場。時には暗くなるまで遊んだ。それもそのはず、テレビさえなかった。やっと白黒のテレビが登場したのは今の天皇陛下がご成婚なさった頃。定かでないが、力道山の登場するレスリングやとんま天狗などの番組が懐かしい。
 中学校へは砂利道の4.5qを自転車通学、新しい自転車に乗るのが嬉しかった。結構悪ガキもいたが、現代のような陰湿ないじめはなかった。

青年期

 弓削中学校から岡山県立福渡高等学校へ進学。今となってはもっと勉学に励むべきであったと思う次第。友達にも恵まれ、結構楽しく過ごした。授業をさぼって、裏山で遊ぶ事も多かった。旭川の長い鉄橋を歩いて渡ったこともある。思えばぞっとする話だ。というのは、地元の短い鉄橋だが、列車に警笛を鳴らされ、機関手に怒鳴られながら駆け抜けたこともあるからだ。しかし、当時の国鉄に善行もある。通学列車から降り立って、線路伝いに自宅へ向かう途中、目の前で崖崩れが起きた。次の駅では対向列車がこちらに向かう手はずになっている。列車事故を防がねば…。当然駅に向かって走った。このときは、岡山鉄道管理局から数名が我が家にやってきた。人生唯一の善行表彰だった。 この時代、歌謡界では舟木一夫の学園ものが流行っていた。「高校3年生」、「修学旅行」など結構口ずさんだものだ。
 楽しいだけの高校生活もあっという間に過ぎ去り、岡山駅前の地元企業に就職した。本当は大学に進みたかったが、自業自得の面も否めず、あきらめた。結局は親の強力な勧めによって、1年で現在の職についてしまった。
 田舎には青年団というのがある。いやいや事務局長というのを引き受けさせられたのが因果で、それなりにはまっていった。会議ではヒロポン(あだ名)というのがいていつも私と衝突していた。余談になるが、いまでも、彼との関係は続いている。世間では、口ひげを蓄えた厳つい風貌に恐れをなすのが当たり前となっている。

壮年期
 
 自分で自分がいやになることもある。どうしようもないごく普通の凡夫として、人生の折り返し地点もとっくに通過した。
 冒頭に述べたとおり、気分は若いが、二男は結婚し1999年7月15日、孫も生まれた。母親「三知衣(みちえ)」の「知」と、父親「日出樹」の「日」を組み合わせ「智樹」と命名した。おじいさんである。長男と三男はこれからだ。まだまだ安気にはさせてくれそうにない。生きるということは苦しいことでもある。(笑)
 幸いにして、両親は健在だ。子供の親離れもあって、10年位前から夫婦で旅に出るようになった。北海道へは一週間以上の時間を割いた。日光、尾瀬、伊豆大島、信州、白山、紀伊、北陸…。アルバムが増えていく。子育ての時期では、考えられなかったことだ。壮年期から老年期へ、まだまだ気ままな旅に出たいものだ。
 介護保険とやらの制度ができたが、できればご厄介になりたくない。定年まで二桁を切った。錦秋とはいえぬままの秋冬期にさしかかったが、白髪に恥じぬよう、肩の力を抜いて生きていこう。「智者のふるまひをせずしてただ一向に念佛すべし」の精神である。合掌。


                                

                 '94乗鞍岳へ向かうバイクを拝借(左)。'96会津磐梯山を背景に五色沼の夕暮れ(中央)。
                  琵琶
湖ミシガン船上の若き北星。(右)
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来 世
 いずれは、西方浄土の阿弥陀如来様の元にるおすがりをするしかない。阿弥陀のお力によっていかされている現世をよく生きる事が来世につながる。親に頂戴した最初のプレゼントは名前だが、俗名に過ぎない。戒名は自分を戒めるの目標となるものであり、本当は早く命名されたい。
 『花言葉 問えば静かに 花ひらく』は私の川柳であり、日常の生活の中でいつも花と語りたいと思っている。雅号は「北星」である。したがって、私は、花のように物静かではあるが、星のように煌めく人生を送りたい。来世への始動をはじめてもおかしくない齢となった。合掌。