第9回 国境軍事要塞群 日中共同学術調査 調査報告




概要:

【名称】 第9回 国境軍事要塞群 日中共同学術調査団 
【渡航調査期間】 平成20年(2008年)4月16日(水)〜2008年4月24日(木)

【調査範囲】 旧満州国の東部国境要塞から西部国境要塞群まで、中国北部横断調査。

【調査箇所】 
■東部国境地帯
虎頭要塞(41p榴弾砲実弾の実測鑑定、遺棄弾処理方法指導、41p榴弾砲砲塔陣地精密計測、邦人遺体埋葬地確認、中猛虎山主陣地崩壊及び保存状況確認等) 
■西部国境地帯
南興安嶺 アルシャン要塞地帯 遺構群(五叉溝(うさこう)飛行場掩体及び滑走路の実測鑑定、白狼隧道大型トーチカ実測鑑定、砲台実測鑑定他)
ノモンハン戦場(将軍廟踏査・ノモンハン博物館旧館砲弾全数調査 及び新館収蔵遺物の日中共同鑑定作業) 
戦後初のハイラル要塞第二地区(一部エリア)の探査 ( 外国人への研究公開は今回が初めて )
ハイラル要塞博物館収蔵遺物の日中共同鑑定作業 
ハイラル南方 バエンハン化学・細菌兵器実験場及び野戦陣地踏査
大興安嶺要塞 遺構群の探査→発見→鑑定
ハイラル南方 哈南陣地の探査→発見→鑑定 
ハルピン市社会科学院にて「関東軍国境要塞問題シンポジウム」が開催され、今後の研究及び共同調査の方向性について協議
▲全行程9日間 ▲移動総距離 約12,000キロ

【参加者】 日本側研究者 7名(岡山〜大阪〜三重〜名古屋〜岐阜〜東京)

【専門分野】 軍事考古学者、戦史研究家、兵器鑑定家、歴史家、遺族、朝日新聞本社記者、朝日新聞本社写真部カメラマン、調査コーディネーター他

【派遣事務局】 JCR-KF虎頭要塞日本側研究センター(本部:岡山市 首都圏本部:東京都調布市 中部日本本部:岐阜県岐阜市) 
日本側団長:岡崎久弥 副団長兼調査班長:辻田文雄


【中国側共同研究パートナー】
中華人民共和国 ハルピン市社会科学院 及び 同科学院 関東軍国境要塞研究所 ノモンハン戦争研究所
黒龍江省政府 黒龍江省虎林市政府 虎林市文物管理所 虎頭要塞遺跡博物館
内モンゴル自治区他、調査地点各地方政府及び外事弁公室・公安局 他


【感謝】
在日本中国大使館 中国中央電視台(CCTV) ホロンバイル電視台 虎林電視台



上掲写真解説 
左から :1.ノモンハンの砂漠地帯を踏査中の調査団車両 2.五叉溝(うさこう)飛行場の航空機格納掩体をレーザー測距儀で実測中の調査班(手前は山本氏・奥は辻田文雄氏) 3.戦後初めて発見された旧陸軍最大口径砲41cm榴弾砲実弾を鑑定中の調査団 4.ノモンハン将軍廟で遺物鑑定中の同朋大学名誉教授・槻木瑞生氏(中央)、右はハルピン社会科学院の徐占江氏 中央は辻田氏  中央奥は朝日新聞社・永井靖二記者  5.バエンハン特殊実験場(陣地全体の一部)で説明をする主席研究員の辻田文雄氏(中央) 左は朝日新聞社・日吉健吾カメラマン 6.大興安嶺山脈で調査中の団車両 7.虎頭・ウスリー江岸の朝日新聞社・日吉健吾カメラマン 8.南興安嶺山脈で踏査中の共同学術調査団 9.大興安嶺要塞遺構 砲撃で崩壊したと思われる陣地 中央は取材中の朝日新聞社・永井靖二記者 10.国境要塞群の配置図(朝日新聞社 2008.6.29 報道5面特設紙面より) 11:中段右写真 当時の兵士の視点=大興安嶺山中に構築された孤立的構造のタコツボから少し頭を出し、ソ連軍進攻方向をみる

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新聞各社で渡航前 報道
山陽新聞では大興安嶺要塞調査の事前報道、朝日新聞全国版では虎頭要塞に関した特集記事が企画されました。


  
↑調査先行報道 山陽新聞 全県版記事2008.1.28  先行報道 朝日新聞 全国版 虎頭要塞特集記事 2008.3.9


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渡航後 朝日新聞 全国版での報道

異例の大型特設紙面で、数度にわたり全国版で報道されました。その紙面を紹介いたします。

第1弾-----ノモンハン特設紙面+不発弾被害記事 
朝日新聞 平成20年(2008)5月11日 朝刊32面及び34面に掲載されました。
 

  



第2弾-----1面「幻の大興安嶺要塞」 発見+本命調査報道【特設紙面】

朝日新聞 平成20年(2008)6月29日 朝刊 1面、及び 5面(特設紙面)に掲載されました。










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第9回調査団 主要調査ポイント報告(抄)

はじめに


 大陸における関東軍の軍事施設、とりわけ国内に類例のない大規模なソ満国境地下軍事要塞群は、すべてが最高機密扱いとされ、設計図面などの資料が一切残されておらず、構築に使役した中国人労工の問題も重なって、その解明作業自体が戦後長らくタブーとされてきた。
 1980年代に初めてソ満東部国境正面の虎頭要塞が学術研究の対象とされて以降、軍事要塞群に関しては、科学的な学術調査と日中共同という手法によって比較的冷静な視点から長期にわたって研究交流が取り組まれている。しかし、その巨大さゆえにイメージしづらいことに加え、これまで、軍事的緊張の存在する国境地域に集中していることから日本のメディアの取材もほとんど許可されることがなかった。それゆえ、多くの日本人には、認知しずらく、把握しづらいものとして存在してきた。これに加え日中関係の軋みが、秘密のベールに覆われた軍事施設への理解を遠ざける効果をもたらしていたことは否めない。

 しかし、旧満州における70万関東軍の大戦力が兵力供給基地として、南方作戦のほとんどを支えた事実は、戦史ならびに軍事専門家の間では良く知られている。太平洋戦争の背景を理解する上で、この事実はきわめて重要だ。しかし、その関東軍がどのような戦略のもとに、どういった作戦行動をしていたのか。そしてその最期にどのような事態が発生したのか。中国大陸での経験と事実を、ひたすら忘れようとつとめてきたわが国では、太平洋戦争の背景を理解する上で核となる最大の事象について、ほとんど認識の継承がなされていない。
 関東軍国境要塞群は、旧軍が作った世界最大級の固定的軍事構築物であり、このような規模の軍事施設群はわが国の国内には存在しない。今もなお中国国内に、その全貌のほとんどを隠したまま、静かに地下に眠っている。


 今回の共同学術調査と調査報道により、これまで「幻」とされ、確認されてこなかった巨大軍事要塞遺構群=大興安嶺要塞の存在とその規模、玉砕的戦闘状況が発掘、解明され、多くの国民に認知された。さらに、この発見は、20歳代から70歳代までの幅広い戦後世代の専門家によって担われた。手法に関しては、各種文献資料の解読、戦争体験者からのヒアリング作業に加え、人工衛星データと旧軍の精密測量図をコンピューター上で整合させ、戦史・軍事専門家のアセスメントを加えつつ、現地調査用の精密図面を書き起こすという、軍事考古学研究史上でも初となる斬新な方法が用いられた。事前調査に約1年をかけ、現地踏査では短時間の間に、未踏地域から目標物を確実に探し出すことができた。今後の調査精度の向上につながる貴重なノウハウを手にすることができた。
 このような中で、中国大陸、とりわけ本土から最も離れたソ満西部国境での無謀かつ悲惨な対ソ軍事作戦の実態が明らかになり、それが報道により、国民の記憶に後世への教訓として刻まれたことは、戦没者への何よりの供養になったと考えている。
 史学的意味においても、第二次世界大戦末期のわが国の対ソ戦略の動向、それに関わる歴史・軍事研究の両面に少なからず貢献できた。特に旧満州国・西部国境地域での激戦、邦人受難に関しては、東部国境地帯以上に大きな歴史の空白があった。今回の大規模な地下軍事施設群の発見によって、その一部を埋める作業の端緒についたと考えている。


 
















写真左)大興安嶺山脈の山岳地帯・旧戦闘地域に入る調査団車列(先頭部)  写真右)降雪のなか標高1,000mの大興安嶺山脈山中を踏査中の調査団副指揮車




1、試製四十一糎榴弾砲用の被帽徹甲弾(虎頭要塞)


 昨年8月に虎頭要塞で出土した試製四十一糎榴弾砲用弾丸の実測調査を行った。実測の結果、全長は1428.5o、最大径は410oであり、被帽を有することが分かった。炸薬と信管は未処理のようである。被帽部や弾底面には、附近で行われた爆破処理時に付いたと見られる窪みや陥没が多数見られる。弾丸下部に取り付けられていた弾帯は剥がされていたが、その下には弾帯(導環)を止める波状の線が剥き出しになっていた。現在は保管状態が悪く全て剥落してしまっているが、出土直後には白色塗装が残存し、被帽部には弾量標示と見られるアルファベットと数字が書かれていたという。波状の線と白色塗装、全体の形状から、海軍が製造し、陸軍へ保管転換された被帽徹甲弾であると見られる。この被帽徹甲弾は本来長門型戦艦用であるが、陸軍へ保管転換された砲塔四十五口径四十糎加農でも使用された。この他博物館入口に被帽徹甲弾弾体先端部破片が、虎林市内の公園に同じく弾体破片が各1点展示されている。

(写真左 戦後初めて完全な原型をとどめて発掘された、日本陸軍最大口径砲の実弾 右は、大型遺棄弾の安全化処理方法について中国側に指導する辻田副団長 右:被帽徹甲弾実測図及び復元図)

























2、バエンハン実験場の遺構群


 海拉爾南方のバエンハンには、関東軍が毒ガス・細菌の実験を行った跡とされる遺構が多数残存する。遺跡の中心部付近では馬用と思われる掩体を多数認めた。遺跡の縁辺部では野砲(又は十糎榴弾砲)掩体、対戦車壕が見られた。馬用や人用の掩体はともかく、砲座や対戦車壕は実験場遺構と考え難い。むしろ実験場施設を拡張して陣地に転用しようとしていたか、そもそも大部分が単なる陣地遺構であると考えたほうが理解しやすい。関東軍が当地で実験を行っていたのは各種史料や証言から疑う余地はないが、従来のように全ての遺構を一括して「実験場」とする見方は再考が必要であろう。

(写真 左上 バエンハンの掩体 左下 撮影中の朝日新聞社・日吉健吾カメラマン)

(なお、当遺構群は2000年5月に当研究センター主席研究員の辻田文雄氏が現地踏査の後に発見、中国側に共同発表を推薦したものである)



3、白狼隧道(興安南隧道)トーチカ


阿爾山市街の南東約8qに旧称「白狼隧道」、現在「興安南隧道」と呼ばれる鉄道用トンネルがある。中国側の説明によればトンネルは全長3218.5mで 1937年に開通したという。このトンネル東入口北側に施設防備の、地上4階地下2階構造のコンクリート造トーチカがある。西入口にはない。外壁は曲線を多用し、内部には多数の銃眼を持つ銃室の他、風呂場や貯水槽がある。遠目にも非常に目立つ大きな建物だが壁は薄く、要塞や野戦陣地では常識の擬装も全く考慮されていない。本格的な戦闘には長く耐えられないだろう。付近に分布する対ソ戦用の陣地群とは切り離して考えるべきである。なお、昭和7年に撮影された濱洲線興安隧道東入口の空撮写真にも同様なトーチカが写っており(現状未確認)、主要なトンネルの入口にはこうした施設が造られたようだ。

(写真左;白狼隧道東側入り口にある巨大なトーチカ)











4、ノモンハン博物館前展示の十五榴弾丸

ノモンハン博物館(旧館)の前には、「和平」の字になるように十五糎榴弾砲の弾丸が71発並べられている。これらは全て野戦重砲兵第一聯隊が九六式十五糎榴弾砲用として備蓄していた九二式榴弾である。信管は付いていないが全て炸薬が入った状態である。乾燥地帯のため、塗装が良好に残る個体や、備蓄弾薬の誘爆か敵の砲撃で破損した個体もある。この内製造年の刻印は36発で判読でき、昭和13年12月から昭和14年3月分まで確認した。いずれも大阪工廠製であった。弾帯は高値で取引される銅製であるため、全て地元民に剥がされて売られてしまったらしい。このため弾帯を固定するために刻まれていた「ローレット」や「駐帯」が観察できた。特に14年3月製の個体には駐帯の加工が雑なものが多く見られ、激増する弾薬消費に対応を迫られていた工廠の内情が垣間見える。

(写真左:ノモンハン博物館旧館前に集められている15センチ榴弾砲実弾   右:砲弾の全数鑑定調査をする山本主任研究員 これも戦後初めての調査 片方は信管孔に木栓が挿された弾頭部、もう片方は「−」状の駐帯が並んでいる弾帯溝の拡大写真。)



写真左)ノモンハン戦場跡地に向かう途中、内モンゴル自治区ホロンバイル平原に散在する「塩湖」 右)とにかく羊がいっぱい






5、ノモンハンの不発弾信管


ノモンハン付近では、現在でも不発弾に触れて爆発事故に巻き込まれる住民や家畜が後を絶たないという。写真のものは、今年爆発事故に遭った子供の体内から摘出されたもので、黄銅製の信管破片である。話を聞く限り爆弾に装着された信管が爆発したと思われる。爆発が信管部分だけで済んだのは、たまたま内部機構の一部が経年劣化していたか不良品であったため、信管の爆発が炸薬まで伝わらなかったものと考えられる。奇跡的な事例と言える。

(写真左: ノモンハン戦場付近の平原で発見された空中投下型の大型爆弾-不発弾- 珍しそうに不発弾に触れているが日本では考えられない光景 何かの衝撃で爆発すれば写真の全員が即死である  写真中:朝日新聞記事にある被害児童の体内から摘出された信管の破砕片 現地にて撮影   写真右:同じく現地の不発弾で、むき出しになり一触即発状態となっている信管  上掲の朝日新聞記事参照  写真左下:不発弾信管の暴発で人差し指が吹き飛んだ内モンゴル自治区遊牧民の子供の右手。腹部にも炸裂した信管の破片が多数突き刺さり摘出手術をした跡が残っていたが写真は控えたい。 /旧戦場の、それも地表部分にいまだに大量に散在している通常遺棄弾は、一般民間人が接触して被害にあう可能性がきわめて高い。)



6、大興安嶺の陣地




 ソ連進攻時、海拉爾(ハイラル)の東方約80qの牙克石から、さらにその東南約100qの博克図に至る街道沿いには大興安嶺陣地と総称される、三万人の兵力を収容できる大規模な陣地群が構築中であった。この陣地については、存在そのものは資料から知られてはいたが、日本の調査団が入ったのは初めてのことである。陣地群の中枢である烏諾爾(ウヌール)山には、山の頂上から尾根筋にかけて数多くのコンクリート製トーチカが残存する。中国側はこの山と周辺の陣地群を総称して「烏奴耳要塞」と称し、特に山頂の陣地を「二道梁子主陣地」と呼んでいる。付近には五叉溝飛行場より大規模な飛行場跡も存在する。
遺構の多くは、兵員棲息用の掩蔽部と、それから延びる地下通路、その先に設けられた銃座から成る。概ね厚さ1m前後のコンクリートで造られ、銃座のほか、観測所や砲座と思われるものもある。いくつかの施設は、戦後ソ連軍に爆破されたため、原型を留めていない。地元在住の王さんによれば、この山中にはこの種のトーチカが約300箇所存在するという。他に、山上であるため水の確保に腐心したらしく、貯水槽や多くの井戸が見られる。








(写真左:大興安嶺要塞遺構 写真左下:同要塞遺構群の対ソ前線に位置する機関銃座 写真左下 孤立的構造の地下陣地を調査する辻田副団長(左)と取材する朝日新聞社・永井靖二記者(右端)) (写真右下:ハイビジョン撮影する調査班)




7、哈南陣地(当センターが新しい手法で発見した巨大野戦陣地)


哈南陣地は海拉爾南方約40qにある、標高764mの丘陵上一帯に広がる陣地である。衛星画像と関東軍地形図をパソコン上で合成し、仔細に検討を加えつつ遺構図を描き起こす手法により、その全貌が明らかになった。衛星画像の検討だけでは陣地の発見とは言えないので、この遺構図を元に現地調査を行った。
まず、衛星画像の検討では、次のような内容が明らかになっていた。
陣地規模は、対戦車壕で断続的に囲まれた範囲だけでも東西約3000m、南北約3000mある。陣地の中央から北半にかけては約200基の車両用掩体があり、南縁には蜘蛛の巣状に交通壕が掘られた歩兵陣地が並ぶ。歩兵陣地には砲座(現地調査で速射砲掩体と断定)が多数見られる。この他に4門編成の砲兵陣地(1個中隊)が10箇所程度、タコツボは数百基以上存在する。歩兵陣地のまとまり(1個中隊規模)が3ないし4箇所認められることから、少なくとも歩兵1個大隊、砲兵一個大隊(全ての陣地に部隊は入らず、多くは陣地変換時に使用するものであろう)程度の陣地と思われる。重砲こそないが、陣地と部隊規模から見れば海拉爾要塞の一個地区に相当するものである。これらとは別に、更に北東約2qの丘陵トップにも小規模な陣地があるが、未完成のようである。
今回の調査では陣地南縁の中枢部周辺を調査し、陣地が確実に現地に存在することと、衛星画像による遺構図が十分有効であることを確認した。なお衛星画像では判読出来ない地下施設は確認されていない。

(写真左: 今回新たに発見された哈南陣地の対戦車壕 東洋最大規模の野戦陣地と考えられる。  中:哈南陣地の調査ポイントを探す調査班の山本主任研究員 砂漠地帯では目印がないので、旧軍測量地図座標とGPS測位データとの照合、そしてなにより地形を読み取る能力と勘がカナメとなる   右:衛星画像と関東軍測量地図から作成された哈南陣地遺構図 中部国際空港にて)

※)当該陣地は虎頭要塞日本側研究センターによる独自の調査手法で発見された。
具体的には、バエンハン地区周辺の衛星写真を精査している過程でチェックされ、その後、軍事考古学者らの手により、衛星写真の補正作業と並行して、約1年間をかけて精密作図作業が実施された。本年、そのデータをもって現地に入り、踏査の上、確認、鑑定した。これは軍事遺構の考古学調査としては、世界で初めて採用された手法であると考えている。












8、五叉溝飛行場

五叉溝(うさこう)飛行場は、五叉溝周辺に造られた陣地群の中心部、?(※1)爾河左岸の谷底平野に立地する飛行場である。中国側の説明によれば、ノモンハン戦に敗北した日本軍が、対蒙古戦略上の当地の有効性を認識し、1940年6月から1942年にかけて建設したものという。他にも何箇所かの飛行場が存在する。
中心となるのは全長1200m、幅100mの東西方向滑走路で、全面が4m四方で区切られたコンクリートで舗装されている。この滑走路とは別に、北西約2qの集落内にもほぼ同規模のコンクリート舗装の東西滑走路がある。滑走路の両端から、南側を蛇行するように1本の誘導路が付けられている。幅20mで、これも同じ舗装である。誘導路の南側には9基の飛行機用コンクリート製掩体がある。掩体の正面には中国側が「弾薬庫」と説明するコンクリート施設がある。これは9基全て同様である。掩体の開口方向は基本的に東向きと西向きのものが交互になっており、弾薬庫と相まって全体の防禦性を高める工夫がされている。実測した掩体は東から4基目のもので東向きに開口する。主要寸法は内法長さ18.6m(後部通路込み全長22.0m)、正面幅22.5m(翼通路部16.9m)、全高5.9mである。開口部の少し内側には左右の引き戸を設置したと見られる戸袋状の施設がある。内壁の観察から、本体は土饅頭を造った上にコンクリートを流して成形し、内部の土砂を掻き出して完成したことが分かる。外面は丁寧なモルタル仕上げの上、タール状の防水剤が塗られている。現在は大半が流失しているが、完成当初は、内部から掻き出された土砂が掩体を被うように盛られていた。
 いずれの特徴を見ても、内地のものより一段複雑かつ丁寧な造りで、類例がない。中国側の説明がなければ、日本軍のものではないと判断してしまいそうなものである。飛行場全体の保存状態も良好で、史跡としての価値は極めて大きい。

※さんずいに兆)

(写真右:五叉溝(うさこう)飛行場の航空機格納用の掩体 中) 掩体屋上でレーザー測定(辻田)、下でGPS測位(岡崎)をする調査班。大きさが多少ご想像頂けるだろうか)








9、ハイラル要塞第二地区(一部)初調査(執筆中)















これまで日本人はおろか一般の中国人にも公開されてこなかったハイラル要塞の第二地区の一部エリアが、今回初めて、当調査団に対して研究公開された。
(以下執筆中です)















写真左:ハイラル要塞地下穹窖で解説する辻田副団長 写真右:ハイラル要塞内部 左下:ハイラル要塞博物館収蔵遺物に関して科学的鑑定の支援を行う共同調査団の計測班



あとがき 大興安嶺要塞遺構群発見に寄せて

 ユーラシア大陸東部には大山脈が多い。カムチャツカ半島北部にはコリャーク山脈、コルイマ山脈、そしてロシア沿海州のシホテアリン山脈、その北部にはスタノボイ山脈、そして中国東北部の内モンゴル西部国境を貫く大興安嶺(大シンアンリン)山脈。旧満州国時代には、たぶん知らない人がいなかっただろう、この大興安嶺の名前も、わが国の記憶忘却の流れのなかで、何か異次元の響きをもつに至っている。
 大興安嶺山脈の総延長は日本列島の本州に匹敵する1200キロ。最高2000メートル、平均的な印象としては1000〜1400メートル級の尾根がなだらかに続く巨大山脈である。それは西のモンゴルと中国東北部を隔てる形で南北に伸びている。したがって、旧満州国にとって、西の防衛ラインに活用できるまたとない自然の城壁だったろう。その城壁の頂上地帯に、軍事施設をつくるのは、これまた、軍の発想としては普通である。

 ところで、大興安嶺要塞の構築時期を年表に挿入してみる。ノモンハン事件が1939年、そして大興安嶺要塞築城開始が1940年、真珠湾攻撃が1941年となる。A→B→Cというように単純な流れでみるだけでも、起承転と、当時の軍或いは帝国日本の戦略の変遷が見えてくる。
 一方、虎頭要塞は国境要塞の中でももっとも初期、1934年から構築が開始された。満州事変が1931年、1932年には満州国建国、1933年に国際連盟脱退、その年以降の軍の対ソ作戦計画は、「東部国境正面突破」であり、あまり認知されていない事項ではあるが、独ソ戦の戦況いかんでは、ソ連への先制的進攻も真剣に検討されていたようである。関東軍特別演習はそういった性格のものだ。虎頭陣地構築スタートの翌年には西部国境の大要塞・ハイラル陣地の構築も開始され、西部方面が防御として明確に位置づけられた。

 要塞関連で、ヨーロッパの独仏国境に目を転じると、フランス軍が総力を挙げて構築した要塞線・マジノラインが、虎頭要塞の構築が始まった2年後に完成、一方ドイツは、1938年からジークフリードラインの構築にかかっている。この両要塞ラインは、世界最大の軍事要塞群であるが、その全貌をイメージとして把握することは陸地に国境線を持たない日本人には困難かも知れない。
(まったくの余談になるが、リュックベッソン監督でジャンレノが主演する映画「クリムゾンリバー2 黙示録の天使たち」にはマジノラインと思われる施設が舞台として登場する。しかし、それもごく一部でしかない。)

 軍事施設、しかも、単なるトーチカや砲台ではなく、要塞陣地に関わるプランを紐解いていくと、当時の軍の戦略が明瞭に見えてくる。今回、多くの軍事専門家の協力と鑑定により、大興安嶺要塞が「退路なき玉砕前提の巨大陣地」として張り巡らされていたという、極めて重要な事実が判明した。兵士にとっては類例のあまりない、あまりに残酷な軍事施設である。あってはならない…。

 今でも鮮明に思い出す…。南興安嶺地帯のアルシャン調査から一日で200キロ北上して、大興安嶺山脈の山岳地帯に入った。前日は最高気温26度、当日は一気に最高気温氷点下5度へ低下している。砂漠地域の激しい気候変化に戸惑いながら、4輪駆動車5台ほどを連ねて、旧戦闘地帯に入った。探していた要塞遺構が数多く発見できた。確かに日本軍のものだ。凍える体に雪が降り注ぐ。二時間あまり降雪地帯を踏査して、山の頂上にある営林局の小屋にたどり着いた。
 標高1100mの三角点である。そしてその頂上にさらに高さ30m弱の営林局監視塔が立っていた。周囲の気温は氷点下。降雪量は多くないが、わずかに吹雪いている。手袋をはめないと、皮膚が鉄骨の手すりに貼りつく寒さだ。階段の角度は45度を越え、実際に登ると垂直壁のような印象。降りる動作は階段に向かって(後ろ向き)でないと怖くてできない。風でさえも簡単に揺れているその鉄塔の頂上に、危険を冒して新聞記者とカメラマン、そして計測班が上がり、写真を撮影した。

 写真をみた。少したって、背筋が寒くなった。
 数十名を越える兵士を地下に収容可能な鉄筋コンクリート製陣地が、山表に見える。ただ、見えるといっても、地表に開口している機関銃座や、観測所の穴というわずかな痕跡で判別できるのだが、当時と違って今は開口部が偽装されていないので、雪の中で、黒い円形状の穴が、さしずめ井戸が点在するように…見える。しかし、である。その内部構造にも外部構造にも陣地同士の連絡網が存在しないのである。個々が完全に分断される形で、転々と孤立的に散らばっているのである。一箇所でそれがなんと300箇所、そのグループが更に何箇所にも存在する。仮に一つの地下穹窖(きゅうこう:地下陣地の軍事呼称)に20人が立てこもったとして、単純計算すると1グループが6000人規模となる。それが5箇所あれば3万人だ。もちろん現実には、こんな計算ではいかないが。

 その事実を現代のわれわれがどう受け止めるかである。このような事実が判明するに比例して、これを「加害者“戦争遺跡”だ」と取り上げる日本人も一部に出てくるだろう。
 しかし、少なくとも今回の調査当事者の私たちとしては、そんな政治的スローガンより、もっと胸にこみ上げてくる感情はややこしく、本質的に異なっている。その思いを言葉で表現することは、なかなか難しい。

 感情的な評価は厳に差し控えたい。しかし、当時の満州国をめぐる埋もれた歴史を決して放置し、忘れ去ってはいけないという、強い思いを新たにした。そこは、今に続く日本人の運命をも大きく左右した巨大な「満州帝国」であった。ユーラシア大陸東縁部・極東の発火点であった。日本移民史上としても最初で最後、100万人に上る日本人が移り住んだ。日本国内にも類例のない巨大都市と巨大鉄道網、そして巨大軍事施設群を構築し、中国人との交流とつばぜり合いを展開した。そしてそれは同時に太平洋戦争の導火線であり、それを支える最大の兵站基地であった…。

 事実を先入観を交えず、しっかり認識する必要があるだろう。それと、これは他国のために為す作業ではない。今後激変していくアジア世界との協調や互恵関係には不可欠の認識であることはいうまでもないが、しかし、歴史の寸断は私たち日本人の歴史そのものの寸断であることを、まず考える必要がある。そこに価値判断を加えず、適正なバランス感覚をもって、ありのままを直視することができるのは、むしろ私たち戦後世代であり、これからの若い世代ではないか。必要なのは能力や経験ではなく、意志であり、感じ取る心である。そんなことを今回の調査で感じた。

以上

今次調査では質・量とも膨大な成果が得られたため、サイト上ですべては公表しきれません。詳報は学術論文として随時発表して参りますので、しばらくお待ち下さい。



中国側との学術交流(友好、協議、議論、協働)




















ハルピン市社会科学院主催の「関東軍要塞問題シンポジウム」での会談。
両国研究機関の基本スタンスが忌憚なく表明され、今後の共同研究についての方針が活発に議論された。
2008年4月17日 ハルピン市社会科学院ビル 大会議室にて













「関東軍要塞問題シンポジウム」で発言する辻田主席研究員













中)ハルピン市社会科学院の李副院長(中央)、731研究所・金成民所長(左)













ノモンハンで朝日新聞の取材に応える、ハルピン市社会科学院国境要塞研究所及びノモンハン戦争研究所の徐占江所長















写真解説:
左)懇談会で交流する槻木教授(左)と辻田主席研究員(中)、徐占江所長(右)
右)調査活動の重要なコーディネートをして頂いた、ホロンバイル市委員会の書誌編集部の副編集長・趙玉霞研究員





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■当センター、ハルピン市社会科学院の特別名誉研究員に。(外国人として初)

中国政府直轄のシンクタンクである、ハルピン市社会科学院・要塞研究所及びノモンハン戦争研究所の二つの研究機関は、今後の共同研究の重要パートナーとして、当センターの辻田文雄(主席研究員)および岡崎久弥、他1名に、外国人初となる特別名誉研究員の称号を送りました。不偏不党を原則とする当センターを、あえてパートナーとして選んだ背景には、先の胡錦濤国家主席と福田総理の会談に見られるところの、中国政府の未来志向の姿勢が明確に現れていると考えられます。
今回の出来事は、専門的かつ科学的な実証研究を旨とし、誠実な友好交流をベースに、事実関係の精査に関しては、学術的見地から一貫して忌憚のないメッセージを伝えてきた当センターの姿勢への評価の表れであると受け止めています。
いずれにしても、中国は日々、大きく変わり続けているということです。
 

中国社会科学院→ 『フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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軍装備研究 専門誌 『軍装操典』 で 今回調査報告が掲載

辻田文雄氏が主宰する全日本軍装研究会(会員300名)の機関研究誌『軍装操典』で、
今次調査での研究論文、行程記録を兼ねた紀行文がいち早く掲載され反響を呼んでいます。




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(上左)東部国境の街、虎林駅 (上右)西部国境の街、ホロンバイル市街地  

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