民主集中制という麻薬的党派性向
森永ヒ素ミルク中毒事件と水俣病闘争から観察する─

1.民主主義を語りながら民主主義を否定し、住民運動団体から言論の自由を奪い、もの言う被害者家族を最終的に追い出す際に使われる邪悪なロジックの分析

【論考・記事】
■被害者団体 乗っ取りの技術 vol.1-PDF(1.61MB)

2.民主集中制についての考察

■民主集中制=独裁を正当化する原理教典 「外部注入」 論 (PDF:199KB)

3.組織ジャック防止マニュアル-1-
2012.7.25に ひかり協会救済事業監視塔公開掲示板に興味深い書き込みが行われたので、以下紹介する。

最近、広島高裁へ提出された文書を事前にご覧になっておくとわかりやすいかもしれない。
隠されて来た驚くべき癒着
PDF:313KB 
10-12pに注目 加害企業と被害者団体幹部が結託し、運動創設のリーダーを排除。その後、企業側弁護士へ内部情報を供与し、進行中の被害者の訴訟を背後から弾圧することを決定。


腐敗した、或いは独善独裁的「橋頭堡(非党員)」を利活用して、組織のイニシアティブを奪取する民主集中制の手法の一例
 ─彼らの「溶け込み、結びつく」浸透戦術─


No.468 組織ジャック防止マニュアル -1- by うみがめ
ドルフィン様
歴史的な意義ある論稿を発見されましたねえ。講評も概ね当たっていると思います。(※以下に掲載
ただ、大きなお世話を覚悟で、もう一歩踏み込んでおきましょう。
これは市民活動の運営者が知っておいたほうが良いと思うので。

森永告発の厳しい提言は、カウンターオピニオンとして有効だったのですが、当時は、親たちが救済基金の発足にぬか喜びしてしまい、森永が「あきらめない」企業であること、その後も「作戦」をもっていることを見抜けかなったという問題があります。
ここで、「見抜けなかった親」をAとしましょう。

加えて、森永と癒着する親まで生まれてきた。意味もなくうまれたのではなく、基金組織が発足してから金に目がくらんで生まれた。これをBとしましょう。

そういう一部の腐敗した親Bは、政治的判断能力の乏しい親Aを動員して、森永告発を排除する運動(というより村八分合戦)を展開したのです。
Bの目的は森永に取り入って、個人的私服を肥やすこと。

で、これを橋頭堡にしたのが、支援と称して、ある程度団体内に要員を送り込んでいた、党派Cです。

Cは、救済をまじめに実行することなど優先順位では二の次です。自党派の成果とイメージアップの広告塔、そして産官学への人脈の注入と、次なる既得権の拡大への戦術展開です。だから、被害者への支援金の供出を削ってまで、取り巻きが絡む「調査・研究費」に多額の金を出させている。

かれらは、被害者家族が血のにじむ努力で、国民からの支援を得て勝ち取った、「原因企業から継続的に支出される多額の基金」に目をつけた「だけ」です。

しかし、彼らCは、団体内部にあるCへの警戒感から、それを直接掌中に納めることができない。
それで彼らのお得意の浸透戦術です。これはよく理解しておいてください。

Cは、B(A)を橋頭堡としたのです。B(A)は、森永告発の問題提起が勘にさわるので、だんだん閉じた精神世界に入っていく。もちろん、Bは確信犯ですが、Bは金の私物化という目的を果たすため、Aへプロパガンダ手法を使いはじめ(つまり、民主集中制的統制の開始)Aを取り込もうとする。そのうち全体が(Bに扇動されたAを含めて)民主集中制的党派性向を持ち始め、民主主義を実行しようとする親や被害者への排除に動くのです。

つまりCの思う壺なのです。Cはプロパガンダのプロですから、橋頭堡を確保したら、あっという間に、進攻して上陸してしまいます。主導権を握ったら、その後、使えないと判断された橋頭堡は、使い捨てられますし、継続使用可能な場合は、徹底活用され続けます。
(橋頭堡は元々軍事用語でわかりにくいですが、上陸作戦や渡河作戦の際の足場で、その後の進攻作戦の拠点となる重要なものです。陣地占拠の場合、河は自然の防波堤ですが、それを乗り越える際の橋梁などを防衛する重要拠点です)

 で、Cの最大の目的は、団体を、C独自の拡大戦略の橋頭堡にする事です。もちろん専従の天下りの確保は前提です。団体の全員をCにしなくても、司令塔をCが確保していれば十分。百年近くのボルシェビズムと詭弁の訓練で鍛え上げられたプロパガンダのスキルで黙らせます。そして、利権をすこし投げ与えれば飛びつくから、コントロールは簡単。末端はワーキングプアでもかまわない。半世紀前から社会変革や革命はしないと決めているので、この方式を他の団体に売り込んでフランチャイズ展開することが最大の戦略です。

そのCを歓迎して30年間、安心感に浸ってきたのが背後にいる原因企業です。

それが、能瀬裁判で、控訴審第1回準備書面で暴露されてしまった。被告4者がパンドラの箱を開けさせたのです。

この構図は知っておかないといけません。Cが名札ぶら下げて来ようが、隠れてこようが、このB(A)が存在する限り、Cはなくなりません。甘い汁を吸い続けます。
このことは現実の運動で、もまれた経験のある人にはわかる話ですが、熾烈な闘いを経験したことの無い人には、さっぱりでしょうから、あえて、お知らせしておきます。頭の隅にしっかり入れておいてください。

 ■ドルフィン氏の紹介した1978年6月30日発行の岡山大学新聞(抜粋

井上周次さんの死に寄せて

森永告発
 五月二五日未明、森永ヒ素ミルク中毒の被害者、井上周次さんが二四年の生涯を閉じた。
 お母さんの断片的な話を拾うと、小さい時は軽い脳性マヒで大人になれば働くこともできるだろうと医者に言われていた。ところが森永のヒ素ミルクの為に、彼の一生は大きく狂った。
六才になってやっと歩けるようになるが、その喜びも束の間、徐々に足が萎え、立てなくなり、いざるようになった。そしてとうとう十七・八才頃には寝たっきりの生活となった。七五年床ずれの治療の為に川崎病院に入院するが、ますます症状は悪化、植物状態となったまま五月二五日を迎える。ヒ素は真綿で首をしめるごとく、じわじわと周次さんの生命をうばっていった。
 長い長い家族ぐるみでの闘病の一生、
「あの子に楽しかった時なんかありゃあせん]とお母さんは言われる。
 森永ヒ素ルクの被害者の中で、彼は決して特別な存在ではない。事件後二三年日の今日でも、全国で多くの人々がヒ素ミルクの後遺症に苦しんでおり、毎年何人かの被害者が亡くなっている。
 五年前の徳島地裁での判決と財団法人ひかり協会の設立により一応終心符が打たれたかにみえる森永問題であるが、今なお被害者の根本的「救済」は放置され続けている。
 ここで、彼の死に際し、再度森永事件の本質を明らかにし、我々にとって、森永事件とは何であったのかを考えてみよう。

森永事件は起こるべくして起こった
 二三年前の夏、岡山県を中心にして西日本に「乳児の奇病」が発生。黒い皮フ、腹部の腫れ、高熱、下痢などがその共通した症状だった。結局、森永乳業徳島工場で生産された紛乳に混入するヒ素が原因とされた。
 ヒ素は粉乳の添加物である第二リン酸ソーダに含まれていた。第二リン酸ソーダは本来ボイラ・機関車などの清罐剤に使われる。食品に使ったのは森永が初めてであろう。しかも精製された純粋なものでなく、不純物が多すぎて清罐剤としても不適当と返品されたものが巡り巡ってミルクに使われるという全く信じ難い経過である。
 この事件は森永にとってもひとつの災難であったとする見方もあるが、運悪くたまたま起こった事件では決してない。企業森永のなりふりかまわぬ利潤追求が起こるべくして引き起こした当然の結果なのである。

公害の発生を前提とした公基法体制
 森永の責任のがれと被害事実の抹殺策動に対し被害者の親たちは断固立ち上がった。その闘いは終いに事件を闇に葬り去ることを許さなかった。しかし、七三年の徳島地裁での判決、七四年の財団法人ひかり協会の設立は、犯罪企業森永の責任を問うにはあまりにも不充分であったし、森永が三〇億の基金を出して設立したひかり協会が、被害者(重軽症あわせて二万人以上と推定される)を救済しし切る具体的展望は何ら無かった。
 同年制定された公害健康被害補償法は、公害による人体被害を想定し、企業と国がその救済の為の金をあらかじめプールしておこうというものである。これは年々激化複雑化する公害を金で「補償」しはするが発生源への追求をそらすもので、体制として公害の存在を容認し、公害企業をかばうものである。そういった意味で、ひかり協会の設立を斡旋し和解=「解決」以後の公害に対する国の「解決」方針をよくあらわしている。

岡大も加害者
 事件発生時忘れてはならないのは岡大の果した役割りである。岡大病院の小児科は、資金面でのバックアップを受けていた森永への気がねと、手柄争いのために、「乳児の奇病」の原因発表を二〇日近くも遅らせた。その間にいたいけな乳呑み児たちは毒を飲まされ続け、幾人かは死に追い込まれたのである。
 以上のように森永事件は本質においても、事件後の処理、「収拾」の過程においても、また、国や大学の関与のし方においても、日本の公害問題を象徴的に物語っているのである。
今後の森永斗争
 裁判による決着は決着でこはなかった。後遺症に苦しこむ被害者の生活は、社会の中でみんなと共に生きる権利は依然としてうばわれたままである。施設に封じ込められた人、家庭内にこもらされている人。就職差別・結婚差別を受けている人。様々である。
 森永斗争の本当の勝利は事件を起こした森永の体質(利潤追求第一主義)を打倒し、すべての被害者が人間として生きる権利を取り戻すことにある。

井上さん、萩原さんのたたかいに支援、連帯を
 井上さんの家族は「死亡者は一律四〇万の香典及び葬祭料で森永と縁が切れる」制度=(被害者が死ねば死ぬはど森永はますます安泰)に断固抗議し、森永の責任をあくまで追求してゆく決意を固められた。
 また徳島では森永に娘さんを奪われ、自身もヒ素ミルクの被害者である萩原さんが森永.国に対して損害賠償のうったえを起こしている。
 二家族の決意は、被害者が取り込まれている不充分な「救済」体制−ひかり協会体制を批判し、森永・国の責任を追及し、被害者解放の未来を目指すものである。二家族のたたかいを断固支援し、共にたたかってゆこう。更に企業森永の犯罪を許さない意志表示として、森永全製品の不買をうったえる。

(以下、ドルフィン 評)ひかり協会へのカウンター・オピニオンは、創設当時としては、手厳しいものであるが、結果的に当たってしまったと言う意味で、先見性が認められる。気に入らないからと言って、異論を物理的に排除すると、回りまわって警告どおりになってしまうのは、世の常だ。

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■参考資料 No.458 水俣における市民の闘い(残りは本を買って読んでください) by ドルフィン

石牟礼道子編「 水俣病闘争 わが死民 」
創土社刊 「私説自主交渉闘争」 渡辺京二 より引用


…(前略)…
定型がありえないということは、たんに自主交渉闘争のみならず、全水俣病闘争を一貫する性格である。それは何にもとづくのかというと、水俣病闘争が一定社会の基本的法体制の中で権利を保障されない、さらにまた政治組織の一定政治プランによる指導を受けない、生活民それ自体の自立した闘争である、あるいはあるべきであるという事実に基礎をおいている。そのような性格の生活民大衆自身の蜂起が、政治的諸党派のプランや指導を一挙に吹き飛ばす非定型なものであった、いや、そうでしかありえなかったということは、史上の諸事実によって検証することができる。水俣病闘争は生活民大衆の蜂起というにはほど遠い闘争であるけれども、生活民自身が党派的指導をはねつけて手探りで闘いを提起する時に生じる非定型的性格を、深く刻印されている。
 チッソ本社坐りこみ闘争は、けっして公害闘争における有効な新戦術として考案され、提起されたのではない。いわゆる一株運動との決定的な差はそこにある。それは川本輝夫さんをはじめとする新認定水俣病患者が、意識を包む闇の中から、自分自身をひきずり上げるようにして行きついた行動の形態であり、彼らが存在の深みから全身をうち顫わせるようにして発したことば″の具象態である。
水俣病闘争は、水俣病に罹患した患者という、具体的存在規定を欠いた抽象的な集団によって担われた闘争ではけっしてない。

…(中略)…

水俣病患者を悲惨な公害病患者としてとらえ、それに対する人間的責任というふうに問題を立てる良心主義的立場は、誠実さという点で敬意を払うべきものであることに異存はない。しかしその立場に立つかぎり、水俣病闘争は成り立ちえない。なぜなら、それは人間の一定水準の自覚された良心を前提としており、その良心の自覚態が一定水準の知的操作の所産である以上、その視点からする運動は必然的に知識人運動たらざるをえないからである。水俣病闘争を公害闘争としてとらえる視点についても、同様なことがいいうる。公害闘争は、全国から公害をなくしましょう式のふぬけた体制補完闘争になり下る危険を宿命的に孕んでいる

…(中略)…

戦後日本市民社会の体制は、けっして単純にいわゆる「逆コース」式の強権支配によって維持されたのではなく、平和憲法を基本法とする戦後法体系によって市民権を得たいわゆる反体制運動を媒介とすることによって、支配のバランスを保持して来たのである。革新系諸運動は戦後型支配に構造的に組みこまれた不可欠の反対項であって、それが諸闘争を提起し、行政権力と角遂を演ずることによって、結果的には、戦後型支配にとって最も合理的なラインが引かれて来たといってよい。公害闘争またしかりである。

…(中略)…

日共水俣市委員会は三日「全市民のみなさんに訴えます」と題するビラを折りこんだ。これは、新潟では水俣病問題は解決されつつあるのに、水俣ではいまなお「市民に不安をあたえ暗い『水俣の町』というイメージからぬけだすことができない」とか、「明るい水俣をとりもどそう″という市民の悲願」などという恐るべき認識を真正直に吐露した文章で、その中でふれられているチッソの責任追及など申し訳にすぎず、彼らの水俣病問題に対する基本的認識が水俣病と安賃争議のために水俣はさびれた、これをなんとかしなくてはならぬ″という、チッソが陰に陽に流し続けた、患者と水俣工場第一労組の労働者を圧殺するためのイデオロギーの完全なとりこになっていることを、白日の下にさらすものであった。したがって、彼らの主張が「現在、最も重要なことは、患者、家族を救済しよう″明るい水俣をとりもどそう″という市民の悲願を達成するためには、思想、信条のちがいをのりこえ人道的立場にたち、意見の不一致点については忍耐づよく話し合い、一致点にもとづいて全市民が一つに力をあわせ、水俣病問題の真の解決に全力をあげて、とりくむことではないでしょうか」という形に収束されるのは、理の当然であった。彼らが何をおそれ、何につきあげられているのかということは、次の一句に明らかであった。「そうでないと水俣病問題は(中略)市民間のミゾをふかめ、ひいては水俣病の真の解決をおくらせる結果になりかねません」

 日共の数々の愚行はいまさら問題にするのも沙汰の限りではあるが、この声明は愚行などという生易しいしろものではなく、決死の闘いに立った十八家族への背後からの一刀であり、政治的犯罪の極北を示すものである。「現在、最も重要なこと」は、自民党支部長と新日本化学重役を筆頭代表とするふたつの署名運動がチッソサイドの運動であり、自主交渉を要求する患者の闘いを孤立させ封殺しようとするものであることを徹底的に暴露し、十八家族の坐りこみを明確に支持することである。ところが彼らは「最近、水俣病問題の解決をめぐって、署名運動やまたいろんな見解がビラでだされ、活発な論争が行なわれています。このことについてわが党は、『ねた子をおこすな』といわれていた数年間の状況とはことなって一日も早く患者、家族を救済し、明るい水俣をとりもどそう″そのためには水俣病の真の解決が重要だ″ということが、市民の多数の悲願となってきていること、そして市の『有力者』たちも、そのことを無視できなくなっていることの反映だと考えます」というふうに署名運動の本質を進んで隠蔽し、このような運動と一致点を探らないと「市民間のミゾをふかめ」ることになると、坐りこみ患者を脅迫したのである。
 同じ日、彼ら日共市委員会は、患者、自民党、社会党、公明党に「一堂にあつまり、話し合いを開催すること」を申入れた。川本輝夫さんはこの申入れ書中に「小異をすてて大同につき」とあるのを読み、「ハハン。わしたちの言い分は小異ちゅうこつじゃな」と破顔一笑した。このような、現実に存在する思想上、利害上の対立を無視した空想的な会談が実現するはずはなかった。申入れ劇は、ただ、患者坐りこみを何とか解消しなければならぬ社会不安としてとらえ、水俣市のただ中における階級的戦闘の激発をおそれるあまり、無原則的階級協調によって平和裡に闘争を収拾しようという、彼らの中間主義的な立場をさらけ出すだけの、ひとり相撲に終った
…(後略)…

・ホワイト
もうこの党は水俣病闘争の時点で完全に終わってるじゃない。しかも同じ欺き方を続けているって、今もって反省ゼロだな。
この方の問題提起は今も新鮮だ。この本読んでみよう。

・市民けん
日共市委員会は、患者、自民党、社会党、公明党に「一堂にあつまり、話し合いを開催すること」を申入れた。川本輝夫さんはこの申入れ書中に「小異をすてて大同につき」とあるのを読み、「ハハン。わしたちの言い分は小異ちゅうこつじゃな」と破顔一笑した。

この一言、見抜いている。市民に必要なのは、市民だけ。党派じゃない。

■No.456 再購読検討者 Re:裸の家来 Re:[PDF] SPECIAL-岡山民医連…Re:投稿no,438府民さんへ返信  byホワイト
http://ww3.tiki.ne.jp/~jcn-o/morinaga-hiso-book-hisomilk1-1pdf.PDF
『砒素ミルク1』前編 6MB 9頁-23頁 + 71頁-74頁
http://ww3.tiki.ne.jp/~jcn-o/morinaga-hiso-book-hisomilk1-2pdf.PDF
『砒素ミルク1』後編 6MB 西沢委員会 173頁-186頁
を読んで ↓

名医の系譜U 第8回 森永ヒ素ミルク解明 浜本英次
治療法示し拡大防止
http://iryo.sanyo.oni.co.jp/rensai/d/c2010031714332622
を読んで ↓

さらに
SPECIAL-岡山民医連
http://www.okayama-min-iren.org/igakusei/pdf/medical_04.pdf
3ページの15行目のあたり「浜本英次教授の名講義」
を読むと ↓

原発が破裂する時代になった理由がわかりました。

※転載にあたって、若干文章を整理した。







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