森永告発の市民たち Morinaga-Kokuhatsu ─公害・環境破壊と闘い続ける草の根市民運動。43年の歴史─ NEWS/2012.11.8 「森永告発」代表・谷川正彦氏、岡山大学の授業で特別講演。 昨年を上回る数の学生、熱心に聴講。 2012年11月8日、岡山大学大講義室で、森永告発代表・谷川正彦氏(岡山草の根市民センター代表)の第二回目となる特別講義が開催され、昨年を上回る多くの学生が、この半世紀、岡山の市民運動を継続的に牽引してきた同氏の体験に耳を傾けた。 同氏の今年のテーマは、福島の原発事故から、障がい者問題、ネット情報への警戒、など多岐にわたり、特に障がい者をめぐる冤罪事件についての岡山での事例や、学生がよく利用する「ウィキペディア」で、公害事件についての何者かによる歴史改ざん行為などが現在進行形で試みられている事実などを静かな語りで淡々と披露し、バーチャルな情報を鵜呑みにするのではなく、生の現場・現実から出発して事物を考えることの大切さを訴えた。同氏は、「わたくしの長い市民運動の体験のなかで確信していることが一つある。それは、普通の暮らしをしている市民の中にこそ、当事者感覚が生まれたとき、巨大な力を発揮するエネルギーが秘められていることだ。学生の皆さんもこれから社会に旅立って、様々な壁に直面するだろうが、なにか一つでも自分自身のテーマを大切にして取り組み続けてほしい」と締めくくった。 2011年11月 「森永告発」代表・谷川正彦氏、岡山大学の授業で特別講演。230名の学生、熱心に聴講。 2011年、岡山大学の大講義室で、「岡山 草の根市民センター」代表で、「森永告発」代表でもある谷川正彦氏の講義が行われ、夜間部を含めて230名以上の学生が熱心に聞き入った。 谷川氏は、自営業者からみた現在の日本経済の現実と矛盾をテーマに、下町から観察した金融経済の問題点や市民の目線から感じる社会の矛盾などについて学生に分かりやすい言葉で語りかけた。 特に、原発事故をはじ
学生は、本や新聞でもほとんど紹介されることのない、地域の反骨の市民運動家が語る歴史に静かに耳を傾けていた。講義終了後、谷川氏に質問をよせてくる学生の姿がみられた。 ……………………………………………………………………………………………… 戦後の市民運動の出発点、告発型市民運動 「森永告発」を知っていますか? 「森永告発」は「水俣告発」をモデルに、自由な発想で形成された市民運動である。 学生から、サラリーマン、自営業者、大学教授、医師、名だたる国立大学病院関係者まで実に多くの人材が、上下の隔てなく、一市民の目線で集い、全国にその活動を展開していった。 「森永告発」が最初に手がけたのは、重要文献『砒素ミルク』(1)から(3)までの出版であった。被害者ままだ子どもで、ほとんど何もなすすべもなく、親も運動を継続しておらず、岡山を中心に数家族が運動の灯火を守っているだけであった。そのようなわずかな灯火を、燎原の火のように全国に広げる中心を担ったのは、森永告発の市民である。 かれらは、ほとんどが学生や社会人であり、その貴重な時間をさき、不眠不休で膨大な労力をかけて同書を出版し、全国に森永事件の悪徳性を訴えてまわった。同書シリーズは、厳密で膨大な量の事実をもとに書かれ、医療関係者から学識経験者、ジャーナリスト、市民に広く読まれた。被害者支援の世論が形成されたのは、これらを読んだメディア報道の力だけによるものではない。多くの人々が、この文献を熟読し、自らの姿勢を内省し、被害者救済への行動を起こしたからである。単純な被害者への同情ではなく、公害被害を圧殺してきた社会全体のシステムと不透明性、社会的無関心などといった人間をとりまく多くの悪徳や不条理を、市民が自らの生活のなかで内省したのである。 その理論的影響力は計り知れない。「告発」に一時席を置いた人々も今は70歳近いが、まだまだ元気で、各分野の一線で活躍中である。しかも、現「守る会」と現「ひかり協会」の現状を深く憂慮している。当然であろう。 かつて多くの良心的市民が拠り所とした「森永告発」は現在も存在している。創設者は、現在「岡山草の根市民センター」を主宰する谷川正彦氏である。同氏は、岡山での歴史的な環境保護、原発反対運動、障害者解放運動、放射性物質不法投棄告発活動、ハンセン病訴訟などに惜しみない支援を行ってきた人物である。 「森永告発」には、入会資格などはなかった。広く一般市民に開かれたネットワークであった。 そして、そもそも、「森永告発」は被害者団体のリーダー(現在は除名されているが)から依頼されて結成されたものである。 森永告発の歴史 (つづく…) 書き下ろしのためしばらくお待ちください。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ------------------------------------------------------------------------ 「歴史を後世に」
森永ヒ素ミルク中毒事件が発生してから、今年で五十六年になる。被害を受けた年齢が一、二歳の時期であり、この事件の特徴は同年齢の人間が集団的に被害者であることをあげなければならない。 この事件については、関係者の間では被害の状況を後世に残すことについては、それほど熱心な取組みはなかった。事件から半世紀も経ち若い世代に事件の実態を伝えたいと願っても、資料は時間の経過とともに散逸するのが、運命である。 被害者団体である「森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会」や被害者救済機関である「財団法人ひかり協会」は資料の収集はおろか、公表して歴史を後世に伝える努力をしなかった。そのことが、この重大な事件が社会から忘れ去られている原因の一つといっても過言ではない。 公害については、水俣病をはじめ多くの事件が日本の高度成長期に集中しているが、被害者は高齢に達して、多くの人はすでに死亡しているのが現状である。公害の歴史を後世に残すために、資料を収集して資料館として公開することは、公害と其の被害の実態をつたえるのに不可欠である。 『中国新聞』(広島市)の平成十三年十一月十五日付け朝刊によれば 《公害資料館》四大公害訴訟では、水俣病について熊本県水俣市に被害者支援団体設立の「水俣病歴史考証館」市立の「水俣病資料館」とがある。ほかに新潟水俣病では新潟県立、富山イタイイタイ病では被害者団体設立の資料館がある。四日市ぜんそくでも市民団体が資料館建設運動を進めている。 との記事がある。これでわかるように、多くの被害者を出した森永ヒ素ミルク中毒事件については、今までまるでその動きさえなかったのである。 ようやく、昨年八月二十四日に岡山市内に「森永ヒ素ミルク中毒事件資料館」が開館した。これは一個人の力によるものであり、どこからも援助はなかった。 開館日の八月二十四日は森永ヒ素ミルク中毒事件にとって深い意味をもっている。一九五五年(昭和三十年)岡山県衛生部から、いままで奇病といわれていた赤ちゃんの病気は「森永乳業徳島工場で製造された粉ミルクにヒ素が混入していたことによる」と発表されたのが八月二十四日である。 この日より一月以上前から、岡山大学医学部小児科や、日赤岡山病院小児科には原因不明の病気で大勢の赤ちゃんが入院していた。それらの乳幼児が共通して飲んでいたのは、森永粉ミルクであった。日赤病院では「森永ミルク」の飲用をやめ、他のメーカーに変えたところ病状は回復したが、原因はわからなかった。とにかく「奇病」で外部へは発表されていた。 岡山大学小児科に入院していた赤ちゃんには死亡者もでていた。原因究明に向けて研究が続けられていたが、「森永ミルク」の飲用を止めるようにという発表はされなかった。「森永ミルクが原因だ」という日赤病院の説に、森永は抗議にやってきている。それに対して、岡大小児科教授は「原因がわからないのに、森永説を流すのは問題だと」森永の肩をもっている。それから二十日も何もしらない親たちは、ヒ素のはいったミルクを赤ちゃんに飲ませつづけていた。このことが被害を大きくさせた。八月二十三日に解剖した赤ちゃんの臓器からヒ素が検出され、そこで翌日に発表されることになった。 資料館を個人の力で開館した岡崎久弥さんの姉ゆり子さんは被害者であり、父親の哲夫さんは長年被害者団体のリーダーとして活躍したが、お二人とも十一年前鬼籍に入った。事件発生時にゆり子さんは日赤病院に入院していた。森永ヒ素ミルクが原因だと発表された二日後から、哲夫さんは動き出した。「森永ドライミルクに依る被災家族中毒対策同盟主意書」を夜のうちに書きあげ、翌日岡山日赤病院に入院している他の親達に配った。入院患者の親達は趣旨に賛同して同盟に加盟して闘うことを決意した。 岡崎哲夫さんは前記「主意書」を第一号として、運動に関する資料をすべて土蔵に保存している。被災者同盟は翌年四月に解散、岡山県だけが後継機関として「岡山県森永ミルク中毒の子供を守る会」を結成して、岡崎さんを中心に戦いを継続することになる。被災者同盟の活動期間は一年にも満たないが、その間の文書は一冊約四百頁のファイルが七冊ある。その後の「守る会」のファイルは約六十冊あり、一冊五百頁から八百頁がおさめられている。その他附属文書、手紙、写真、新聞記事切り抜き、掲載誌、論文など、全部で約三十万頁になると久弥さんは言う。 岡崎哲夫さんは事務局長として、この事件が再浮上するきっかけとなった「十四年目の訪問」の基礎固めをし、救済機関「ひかり協会」設立の主導的役目を果たした。この事件を語る上で岡崎哲夫さんを抜きにしては、語れない存在である。 昨年資料館設立の計画がもちあがったとき、保存資料の内容調査の必要性が提議され、私が調査し目録作成をすることになった。ファイル中のメモ一枚にいたるまで、目録に表示することになった。目録は、巻番号別に通し番号で頁を表し、見出し、出版年、種類、出所、注釈の項目からなる。注釈では、文書の内容の要約又は注釈を記入するので、文書は全部読まなくてはならない。 昨年四月から作業を開始したが、文書十枚の目録作成に一時間を要するので、遅々として進まない。今迄に終了したのは被災者同盟関係七冊と守る会文書二十一冊である。時期にして三者会談と民事訴訟取下げ、ひかり協会設立までである。私は森永ヒ素ミルク事件年表に記述されている項目を生々しい関係資料を読むことにより、追体験している。 興味があっても目録すべてに目を通すことの困難を思い、重要項目を選り出して目次的索引を巻ごとにつけ、特に注意を要する文書には私が偏見的に※印をつけている。私はこの作業をしながら、徒労に終わることを恐れている。森永ヒ素ミルク事件から得られるものがあれば、摂取してほしいと私は願い、資料を残した岡崎哲夫さんの意図も同じだと思っているが、それは後世の人次第である。 ………………………………………………………………………………………………
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