森永告発の市民たち Morinaga-Kokuhatsu
─公害・環境破壊と闘い続ける草の根市民運動。43年の歴史─

NEWS/2012.11.8
「森永告発」代表・谷川正彦氏、岡山大学の授業で特別講演。
昨年を上回る数の学生、熱心に聴講。


 2012年11月8日、岡山大学大講義室で、森永告発代表・谷川正彦氏(岡山草の根市民センター代表)の第二回目となる特別講義が開催され、昨年を上回る多くの学生が、この半世紀、岡山の市民運動を継続的に牽引してきた同氏の体験に耳を傾けた。
 同氏の今年のテーマは、福島の原発事故から、障がい者問題、ネット情報への警戒、など多岐にわたり、特に障がい者をめぐる冤罪事件についての岡山での事例や、学生がよく利用する「ウィキペディア」で、公害事件についての何者かによる歴史改ざん行為などが現在進行形で試みられている事実などを静かな語りで淡々と披露し、バーチャルな情報を鵜呑みにするのではなく、生の現場・現実から出発して事物を考えることの大切さを訴えた。同氏は、「わたくしの長い市民運動の体験のなかで確信していることが一つある。それは、普通の暮らしをしている市民の中にこそ、当事者感覚が生まれたとき、巨大な力を発揮するエネルギーが秘められていることだ。学生の皆さんもこれから社会に旅立って、様々な壁に直面するだろうが、なにか一つでも自分自身のテーマを大切にして取り組み続けてほしい」と締めくくった。


2011年11月
「森永告発」代表・谷川正彦氏、岡山大学の授業で特別講演。230名の学生、熱心に聴講。

森永告発代表・谷川正彦氏の岡山大学での講演風景(パノラマ)

 2011年、岡山大学の大講義室で、「岡山 草の根市民センター」代表で、「森永告発」代表でもある谷川正彦氏の講義が行われ、夜間部を含めて230名以上の学生が熱心に聞き入った。
 谷川氏は、自営業者からみた現在の日本経済の現実と矛盾をテーマに、下町から観察した金融経済の問題点や市民の目線から感じる社会の矛盾などについて学生に分かりやすい言葉で語りかけた。
 特に、原発事故をはじ
講演する谷川正彦氏
めとする環境問題において、市民からみて信頼に足る専門家が日本社会にはごくわずかしか存在しない現実に警鐘を鳴らした。引き続いて、岡山における市民運動の貴重な歴史を紹介したのち、自らの市民活動の原点ともいえる「森永告発」の活動について触れた。「事件当時、被害者がまだ子どもだったころ、被害者救済運動の中心人物の親たちから、市民運動を立ち上げてほしいと要請され、森永告発の運動に没頭することになり、人生を変えられてしまった」と語った。当時の森永の被害者を、一人ひとり丁寧に訪問し、社会参加を促す教室を展開したというエピソードでは、引きこもりの重度の被害者がみるみるうちに外の空気を吸って元気になる様子を紹介。一方、それを喜ばない一部の人々の考え方を紹介し、全国的に専門家からも大きな注目を集めた意欲的な教室活動への支援が、救済基金の判断で短期間のうちに打ち切られた事実を、無念な表情で語った。講義の最後では、京大原子炉研究所の小出氏の論文を紹介しつつ、“公害の矛盾は形をかえて原発事故に転移し、人類の存続の危機を生み出している。ぜひ被害の現場へ行って、そこの空気や音、現場を見て、五感でものを考える経験をつみ、社会的な問題意識をもった人間になってほしい”と訴えた。
 学生は、本や新聞でもほとんど紹介されることのない、地域の反骨の市民運動家が語る歴史に静かに耳を傾けていた。講義終了後、谷川氏に質問をよせてくる学生の姿がみられた。
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戦後の市民運動の出発点、告発型市民運動
「森永告発」を知っていますか?
 「森永告発」は「水俣告発」をモデルに、自由な発想で形成された市民運動である。
 学生から、サラリーマン、自営業者、大学教授、医師、名だたる国立大学病院関係者まで実に多くの人材が、上下の隔てなく、一市民の目線で集い、全国にその活動を展開していった。

 「森永告発」が最初に手がけたのは、重要文献『砒素ミルク』(1)から(3)までの出版であった。被害者ままだ子どもで、ほとんど何もなすすべもなく、親も運動を継続しておらず、岡山を中心に数家族が運動の灯火を守っているだけであった。そのようなわずかな灯火を、燎原の火のように全国に広げる中心を担ったのは、森永告発の市民である。

 かれらは、ほとんどが学生や社会人であり、その貴重な時間をさき、不眠不休で膨大な労力をかけて同書を出版し、全国に森永事件の悪徳性を訴えてまわった。同書シリーズは、厳密で膨大な量の事実をもとに書かれ、医療関係者から学識経験者、ジャーナリスト、市民に広く読まれた。被害者支援の世論が形成されたのは、これらを読んだメディア報道の力だけによるものではない。多くの人々が、この文献を熟読し、自らの姿勢を内省し、被害者救済への行動を起こしたからである。単純な被害者への同情ではなく、公害被害を圧殺してきた社会全体のシステムと不透明性、社会的無関心などといった人間をとりまく多くの悪徳や不条理を、市民が自らの生活のなかで内省したのである。
 その理論的影響力は計り知れない。「告発」に一時席を置いた人々も今は70歳近いが、まだまだ元気で、各分野の一線で活躍中である。しかも、現「守る会」と現「ひかり協会」の現状を深く憂慮している。当然であろう。

 かつて多くの良心的市民が拠り所とした「森永告発」は現在も存在している。創設者は、現在「岡山草の根市民センター」を主宰する谷川正彦氏である。同氏は、岡山での歴史的な環境保護、原発反対運動、障害者解放運動、放射性物質不法投棄告発活動、ハンセン病訴訟などに惜しみない支援を行ってきた人物である。

 「森永告発」には、入会資格などはなかった。広く一般市民に開かれたネットワークであった。
 そして、そもそも、「森永告発」は被害者団体のリーダー
(現在は除名されているが)から依頼されて結成されたものである。

森永告発の歴史

(つづく…)
書き下ろしのためしばらくお待ちください。
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「歴史を後世に」
【 能瀬英太郎氏近況 】
ルポ『紙のいしぶみ』で、雑誌 『週刊 金曜日』 ルポルタージュ大賞-報告文学賞-を受賞した能瀬英太郎氏。(岡山市内での執筆風景) 
 《報道1》 《報道2》

 同氏は上掲 『森永砒素ミルク闘争二十年史』 編纂委員であり、森永事件の変遷をもっとも良く知り、当時、社会人として仕事を持ちながらも、多大な時間と労力を費やして献身的に被害者救済運動を支えた人物の一人である。
能瀬英太郎 著/月刊誌 「むすぶ」 掲載記事

 森永ヒ素ミルク中毒事件が発生してから、今年で五十六年になる。被害を受けた年齢が一、二歳の時期であり、この事件の特徴は同年齢の人間が集団的に被害者であることをあげなければならない。
 この事件については、関係者の間では被害の状況を後世に残すことについては、それほど熱心な取組みはなかった。事件から半世紀も経ち若い世代に事件の実態を伝えたいと願っても、資料は時間の経過とともに散逸するのが、運命である。
 被害者団体である「森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会」や被害者救済機関である「財団法人ひかり協会」は資料の収集はおろか、公表して歴史を後世に伝える努力をしなかった。そのことが、この重大な事件が社会から忘れ去られている原因の一つといっても過言ではない。
 公害については、水俣病をはじめ多くの事件が日本の高度成長期に集中しているが、被害者は高齢に達して、多くの人はすでに死亡しているのが現状である。公害の歴史を後世に残すために、資料を収集して資料館として公開することは、公害と其の被害の実態をつたえるのに不可欠である。
 『中国新聞』(広島市)の平成十三年十一月十五日付け朝刊によれば
 《公害資料館》四大公害訴訟では、水俣病について熊本県水俣市に被害者支援団体設立の「水俣病歴史考証館」市立の「水俣病資料館」とがある。ほかに新潟水俣病では新潟県立、富山イタイイタイ病では被害者団体設立の資料館がある。四日市ぜんそくでも市民団体が資料館建設運動を進めている。
 との記事がある。これでわかるように、多くの被害者を出した森永ヒ素ミルク中毒事件については、今までまるでその動きさえなかったのである。
 ようやく、昨年八月二十四日に岡山市内に「森永ヒ素ミルク中毒事件資料館」が開館した。これは一個人の力によるものであり、どこからも援助はなかった。
開館日の八月二十四日は森永ヒ素ミルク中毒事件にとって深い意味をもっている。一九五五年(昭和三十年)岡山県衛生部から、いままで奇病といわれていた赤ちゃんの病気は「森永乳業徳島工場で製造された粉ミルクにヒ素が混入していたことによる」と発表されたのが八月二十四日である。
 この日より一月以上前から、岡山大学医学部小児科や、日赤岡山病院小児科には原因不明の病気で大勢の赤ちゃんが入院していた。それらの乳幼児が共通して飲んでいたのは、森永粉ミルクであった。日赤病院では「森永ミルク」の飲用をやめ、他のメーカーに変えたところ病状は回復したが、原因はわからなかった。とにかく「奇病」で外部へは発表されていた。
 岡山大学小児科に入院していた赤ちゃんには死亡者もでていた。原因究明に向けて研究が続けられていたが、「森永ミルク」の飲用を止めるようにという発表はされなかった。「森永ミルクが原因だ」という日赤病院の説に、森永は抗議にやってきている。それに対して、岡大小児科教授は「原因がわからないのに、森永説を流すのは問題だと」森永の肩をもっている。それから二十日も何もしらない親たちは、ヒ素のはいったミルクを赤ちゃんに飲ませつづけていた。このことが被害を大きくさせた。八月二十三日に解剖した赤ちゃんの臓器からヒ素が検出され、そこで翌日に発表されることになった。
 資料館を個人の力で開館した岡崎久弥さんの姉ゆり子さんは被害者であり、父親の哲夫さんは長年被害者団体のリーダーとして活躍したが、お二人とも十一年前鬼籍に入った。事件発生時にゆり子さんは日赤病院に入院していた。森永ヒ素ミルクが原因だと発表された二日後から、哲夫さんは動き出した。「森永ドライミルクに依る被災家族中毒対策同盟主意書」を夜のうちに書きあげ、翌日岡山日赤病院に入院している他の親達に配った。入院患者の親達は趣旨に賛同して同盟に加盟して闘うことを決意した。
 岡崎哲夫さんは前記「主意書」を第一号として、運動に関する資料をすべて土蔵に保存している。被災者同盟は翌年四月に解散、岡山県だけが後継機関として「岡山県森永ミルク中毒の子供を守る会」を結成して、岡崎さんを中心に戦いを継続することになる。被災者同盟の活動期間は一年にも満たないが、その間の文書は一冊約四百頁のファイルが七冊ある。その後の「守る会」のファイルは約六十冊あり、一冊五百頁から八百頁がおさめられている。その他附属文書、手紙、写真、新聞記事切り抜き、掲載誌、論文など、全部で約三十万頁になると久弥さんは言う。
 岡崎哲夫さんは事務局長として、この事件が再浮上するきっかけとなった「十四年目の訪問」の基礎固めをし、救済機関「ひかり協会」設立の主導的役目を果たした。この事件を語る上で岡崎哲夫さんを抜きにしては、語れない存在である。
 昨年資料館設立の計画がもちあがったとき、保存資料の内容調査の必要性が提議され、私が調査し目録作成をすることになった。ファイル中のメモ一枚にいたるまで、目録に表示することになった。目録は、巻番号別に通し番号で頁を表し、見出し、出版年、種類、出所、注釈の項目からなる。注釈では、文書の内容の要約又は注釈を記入するので、文書は全部読まなくてはならない。
 昨年四月から作業を開始したが、文書十枚の目録作成に一時間を要するので、遅々として進まない。今迄に終了したのは被災者同盟関係七冊と守る会文書二十一冊である。時期にして三者会談と民事訴訟取下げ、ひかり協会設立までである。私は森永ヒ素ミルク事件年表に記述されている項目を生々しい関係資料を読むことにより、追体験している。
 興味があっても目録すべてに目を通すことの困難を思い、重要項目を選り出して目次的索引を巻ごとにつけ、特に注意を要する文書には私が偏見的に※印をつけている。私はこの作業をしながら、徒労に終わることを恐れている。森永ヒ素ミルク事件から得られるものがあれば、摂取してほしいと私は願い、資料を残した岡崎哲夫さんの意図も同じだと思っているが、それは後世の人次第である。


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【補稿】
近代社会で市民が果たす歴史的役割を記録し、理解するために…。
被害者集団にとって多大なる恩人であるはずの市民団体・森永告発を未だに攻撃する「被害者」団体上層部のねらいにふれておきます。


森永告発の先見性
 「森永ミルク中毒のこどもを守る会」の被害者救済運動に多大かつ、決定的な貢献をした市民ネットワーク。被害者団体と一時期意見を異にしたこともあったが、かなしいかな、その指摘は現実となっていることが被害者家族自身の告発から明るみとなっている。

 本来なら、「森永告発」は、今日もある程度の認識をもって社会的に語り継がれていて然るべき、大仕事を日本社会で成し遂げた市民運動組織である。
 だが、ここでわざわざ、「森永告発」市民ネットワークの歴史的意義を説明しなくてはならないのはナゼか? それは、この市民運動の果たした役割に対して、たえず感謝して、歴史に刻印していくべきところの、“市民から多大な恩恵をこうむったはずの”公害被害者団体が、それとは真逆の行動を取り続けているからである。

市民の支援なくして公害反対運動などありえない
 もともと「守る会」運動は、それ自身が市民運動として、一般市民・国民と共に歩んでいた。だから一般市民が今も森永事件被害者の救済の現状に関心を持ち、意見を持ち、問題提起するのは当然のことであり、批判された側は、当然それに説明責任を果たしていく義務があろう。
 健全な組織運営をしていれば、事件後半世紀以上たっても、この問題に関心を持ってくれる市民の存在はありがたいはずであるし、それへの回答の作業は、むしろ本質的な喜びであるはずである。知られてはまずいこと、公開されてはまずいことがうず高く詰まっているから、「市民への噛み付き」が始まるのである。

「最初に井戸を掘った人」を平然と放逐する集団
 今の日本社会には、“最初に井戸を掘った人々”を、平然とほうり捨て、歴史上から抹殺しても、平然と涼しい顔をしている人間が多すぎる。国民に助けられて、かろうじて独り立ちできたに過ぎない被害者団体が、自らの経済的利益を獲得するやいなや、一般社会への感謝の気持ちを忘れ去る…。そして、その運営上の闇や傲慢さを国民から諭されると、一転「被害者団体」の名札を振り回して、市民に「噛み付き」はじめる…。公然と、ためらいも一切見せずに、である。こんな非道義的な向きに対しては、もはや、隠蔽された内部事情を徹底的に情報公開しつつ、厳しく叱っていくしか対処・是正の方法はないだろう。
 わが国は、道徳というものを、他国に誇れるような国には、未だなり得ていない。公害対策にしてもしかりである。

(写真)
「砒素ミルク」(著者:谷川正彦・能瀬英太郎 「森永告発」出版)の必読を呼びかける、前「こどもを守る会」機関紙「ひかり」19号1面記事。これ一つをみても運動が極めて苦しい時期に「森永告発」の果たした意義の大きさは明白である。

利権を隠蔽する表向きの美辞麗句
 このような、市民からの支援という重要な事実を、歴史上から抹殺しようとしている勢力が日本にはまだ根深く存在している。当然、それは市民社会とは異なる思考方法という意味で、「偏狭なイデオロギー」の影響を受けている(或いはウラの不正義を隠すために、イデオロギー的色彩をカムフラージュとして利用している)と指摘することもできるだろう。

市民を「よそ者」と言う、被害者団体。
 現「被害者団体」上層部は、多大な支援を与えてくれた「森永告発」の市民たちを、未だに口汚くののしるばかりか、そこに集っていた市民個人までをも(いまや70〜80歳近い人生の大先輩にあたる市民を)攻撃し続けている。しかし、森永告発とは、前述のように、かれらが内輪で語るようなちんけなネットワークではない。彼らから、「よそ者」などと言われる筋合いの市民でもない。知性あふれる、日本人の良識を代表する人々である。このような一般国民を「よそ者」と表現した時点で、そのものたちの閉鎖性と品性は「押して知るべし」である。

「被害者」は「フリーハンド」の代名詞ではない。
 悲しむべきことに、重度の被害者を差別する軽度の被害者も世の中には、いる。それは森永事件でも被害者自身が指摘している事実である。被害者を公然と愚弄する「救済基金」職員もいる。それはすでに裁判にも証拠で提出されているおぞましい発言集だ。被害者団体という名札をぶら下げていれば何を言っても許されるというのはもはや通用しない。道義的良識に反する行為を行えば、無条件に、誰からも批判されるだけだ。憲法の精神を守らねば、罰せられるだけである。
 「森永告発」には、学生から、サラリーマン、自営業者、大学教授、医師、名だたる国立大学病院関係者まで実に多くの人材が、上下の隔てなく、一市民の資格で集い、全国にその活動を展開していた。
 そもそも、森永告発の市民を攻撃する現「被害者団体」上層部は、前々から運営の改善を求める被害者家族を陰湿にいじめ、加害企業との協調を叫び、そして組織内に言論の自由を認めていない。新聞取材に対してさえ、「意見の異なるものが会合に来ると混乱するから辞退してもらう」といった内容のことを平然とコメントしているのである。(いまどき、不祥事を起こす企業さえ、このようなことを公言したりはしないものであるが…。)

各種の「被害者」を食いものにするイデオロギー勢力
 このように、上部組織から抑圧された被害者家族を助けた市民を、個人攻撃するような団体が闊歩する社会状況を許していれば、イデオロギー勢力が利権目当てで支援と称して大衆団体に近づき、それを乗っ取り支配し、一般市民から切り離して自由に利権をあさるといった事態を繰り返しかねない。森永告発の存在を歴史的に評価することは、近代においての市民の役割というものをしっかりと認識し、成熟した市民社会を形成する人格の成長を促す上で重要なテーマである。
 同時に、それと対極にあるところの、社会問題やその改善を「階級闘争」史観でしか捉えられないイデオロギーは、組織の専制的コントロールを最優先する一方で、自党内部の独裁をはびこらせ、腐敗した社会をマッチポンプで連鎖させることをひそかに願望し、それに手を貸し、時には社会悪とこっそり、或いは公然と手を結むことにもためらいを見せない。

カネに汚れる人間の悪しき本性を隠蔽するイデオロギー
 実は、組織利権と権力を手に入れたとき、人間がほとんど例外なく陥る悪徳がこれである。そして、それをイデオロギーで偽装する勢力が冷戦時代を生き残ってきている。その嘘を見抜くには、特定のイデオロギーに支配されて動く必要性のない市民的素質が不可欠である。そろそろそういうことに気付いても良い時期だろう。このような一般国民からの無償の愛情と支援の事実を否定し、歴史の全体像を歪曲してはばからない勢力は、その種類を問わず、批判されるべきである。

市民を排撃する「戦術」の真の目的は、自組織構成員への「各個撃破」?

 現世の利益や見返りを一切求めず支援に徹した「森永告発」の市民を、意見が異なるからといって「破壊者」などと言い続ける向きがあるとすれば、表向きの主張とは異なり、何らかの経済的権益を守るために、被害者であることを「資格化」して言論を封殺し、それを補強するために政治イデオロギーを利用しているのではないかと疑われても仕方ないだろう。
 能瀬訴訟においても、もの言う被害者家族には陰湿ないじめを潜行させ、一方で、被害者家族を助けたに過ぎない一市民を「黒幕」のように演出して機関紙一面を使って攻撃するという奇妙な「使い分け」(一般人からすると本末転倒だが)をするのは、“「被害者以外」は余計な口を出するな”、といって一般市民を異様に排撃することで、市民を近寄りがたくし、被害者と市民の連携を断ちつつ、意見を異にするする被害者家族を一般社会から孤立させ、各個撃破しやすい状態におくという、非常に巧妙な戦術に見える。

森永告発は自由市民の集まり
 「森永告発」は個人の集合体であり、規約など存在しない。規約や規則で会員をがんじがらめに縛って、実は、それを言論の自由を認めない口実や道具として乱用する組織・集団には、居心地のよい支配体制を揺るがす許しがたい存在として「市民」が映るのだろう。
 だが、もともと「守る会」の救済運動は党派運動ではない。市民運動である。だから、共闘関係同士で、やり方が異なるとき、批判しあうことはあっても、そこに参加する個人を否定してはいなかった。だからこそ、「森永告発」と意見が異なっても、個人をさすものではないとわざわざ注釈をつけていたのである。一方、集団と個人の区別がつかないのが、全体主義的イデオロギーというものである。

市民と切り離される被害者集団を歓迎するのは公害企業だけ
 公害被害は被害者団体だけの力で救済されるわけではない。市民運動を意見が違うから、と攻撃し続ける被害者団体上層部の姿をみて喜ぶのは、おそらく加害企業だけではないか。正当な批判行為が、内輪もめのように演出され、被害者団体が自ら「閉じた世界」へ入っていき、自ら一般市民社会との接点を排除していくのであるから。加害企業の側の発言権と影響力が増すのは当然だ。

「粛清型・自己純化型党派」はなぜ進歩しないか?
 被害者にもいろいろいる。大半の被害者は別にして、一部には被害者であることを売り物に、外界からの批判を排撃して、利己的利益を追求するものもいる。森永事件の数十年の歴史のなかでは、この傾向は幾度も登場している。被害者である前に、市民的良識を有する人間であることが問われている。人間としての礼節や、無償の支援を頂いた幾多の市民への謙虚な姿勢を忘れれば、そもそも「人としていかがなものか?」 と問われるだけである。
 「森永告発」は、巨大な支援者であった。一時的に意見の違いから衝突することはあった。しかし、それは大いに結構であり、意見をぶつけ合って、切磋琢磨を経験しながら共に成長していくのが民主主義というものだ。それが理解できず、「かつて意見がぶつかったから、そこに集った市民個人もすべて敵だ」、となるのが、全体主義であり、「人民の敵」的な思考方法を尊ぶスターリン主義である。
 “「Aといったらかには、絶対にBだ」という思考方法がスターリン主義とナチズムの基礎にある”、と看破した、アーレントの箴言を思い起こす方もいらっしゃるかもしれない。
 「あの時、意見が違ったから、そこに居た市民は今でも敵だ」などと未だに機関紙で書きなぐる姿に、旧ソ連圏や、旧東ドイツのイデオロギーを思い起こす人は多いだろう。

集団と個人の境界が理解できないのが全体主義思想
 「当時」まだ、かろうじて健全さを保とうと「もがいていた」頃までの「守る会」にリーダーは、例えば森永告発の市民との意見の相違があるときは明確に主張しながらも、その後も「森永告発」の個々人の市民とはまことに円満に仕事をしていた。1977年においても、能瀬英太郎氏は、「守る会」の「20年史編纂委員」であるし、その後も友好的関係である。彼は、被害者家族への機関紙発送作業を一手に引き受けていたが、被害者自身にそれを引き継ぐ際に、被害者があまり熱心にそれをしないことを嘆いていたぐらいである。
 個人の意見や存在は、組織とはいつも食い違うものであり、組織内民主主義が保障されることとあいまって、組織は改善され、一般市民社会との整合性を取り戻す。

市民社会との整合性を持たない組織は必ず独裁に走る。
その逆も真なり。

朝日新聞社刊 『日本共産党』 昭和43年(1973年)
古本屋で見つけた同書には「偽善の巣窟」「詭弁の天国」と記されていた。胸が悪くなるような実態を知ってしまったのだろうか。
現在はもっと醜悪になっているのだろうか。
同書には、水俣病をめぐって、ある党派が「支援」というマヌーバーで市民運動を排撃していくというドロドロが、記者らしい「クールな視点」からさりげなく描かれている。住民運動への党派支配の醜悪さを垣間見させる。

 事件発生から16年目くらいまでの被害者団体「守る会」は、意見の違うものを除名し、歴史上から抹殺したがるようなスターリン主義的思考方法とは無縁であった。内部に特定党派の関係者も浸透していたが、運動のリーダーの民主主義の理念を封殺するにまでは至っていなかった。たとえ森永告発と意見が食い違う場合も、市民一人ひとりは別であることを肝に銘じた上での連携であった。当然である。被害者団体が依頼して、市民が立ち上がったのであるから。

 一方、それと対極にあるのは全体主義的価値観である。粛清したがるものは、自党を批判する者をいつも「十把一絡(じゅっぱひとからげ)」にして、はばかることがない…。
 自分たちと違う意見をもつ人々がおとなしく黙らなければ、「意見の違い」を、千も万もの屁理屈・詭弁でもって拡大解釈し、やれ「破壊活動」だの、「破壊分子」だのと、十年、いや「百年一日」のおきまりのフレーズで徹底攻撃し続ける。 はたからは、その思考方法がどの類のものか明白なのに、そのような行いをいつまでたっても恥ずべき行為だと自覚できない。人間性を深く追求し、自己内省を深めたり、人間同士の信頼関係や絆、真の歴史観察能力の研鑽などには重きを置かない思考方法である。自己完結的集団のなかで定式化された、「下部構造と上部構造」や「唯物史観的発展法則」にすべての物事を当てはめ、敵を外部に作って独裁的統制を正当化し、自らの問題点を隠蔽・合理化してご都合主義的安心感を得ながら、外側に対しては高邁なる演説をして悦に浸る。こういうスタイルは、歴史的な旧式帝国主義者と非常に似通った思考方法であり、「必要に応じて適宜連携をためらわなくなる」のは歴史が明瞭に示すところである。

 ところで、上掲の記事は1974年第59号の機関紙「ひかり」の同じ面に同時に掲載された二つの記事である。
 本当に闘いというものを一から経験した者なら、この記事を読み比べれば、「森永告発」等の市民運動の支援がなければ、被害者は、国民の共感も、基金の設立さえもままならなかったことは一目瞭然だ。
 この読み比べで、なぜ、この二つの記事が同時に掲載されているか、その意味が分からなければ、産業公害の本質を理解することはできないだろう。

 ※「森永告発」の正式名称は、「砒素ミルク製造会社『森永』とその犯罪を支えた一切を告発する会」である。現在の原子力ムラとまったく通じる話ではないか。

日本社会は戦後、占領軍から憲法の条文は入手したが、その精神を十分に理解できる状態には、いまだ達していない。ましてや、1970年代まで、人権などがまともに擁護される社会ではなかった。なにせ、小児科学会の「権威」が、公害を生じさせた企業と公然と癒着し、「赤ちゃんが砒素を飲んでも後遺症など存在しない」と言い張る状態であったのだ。当時、その学会改革に尽力し、現在は、福島現地で小児被曝の防止と対応に奮闘する森永告発の医師たちは、最近、資料館のインタビューに対しこう述べている。
「その後、小児科学会をはじめ、医学界の改革は進み、当時よりマシになっていると期待してもよいか?」
「いいえ、医学界の現実は、森永事件以前にもどっている。むしろ、それより悪くなっているかもしれない」
彼らは驚くべき現実を紹介した…。(※)

(※)森永ヒ素ミルク中毒事件資料館制作ドキュメンタリービデオ 「福島の子ども達と森永事件の教訓」より








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