岡崎哲夫 略歴

朝日新聞社刊 『現代人物事典』 (1977年刊)より
岡崎 哲夫 おかざき ・ てつお
森永ミルク中毒のこどもを守る会全国本部事務局長。(※1 1977年時点)
1920(大正9年)年1月18日岡山市生まれ。41年軍事教練を拒否して早大を中退した岡崎は、応召後の45年、当時のソ満国境に構築された虎頭要塞に懲罰的に配属され、ソ連軍と激戦、部隊はほとんど全滅したがからくも生き残った。ソ連に抑留され、民主分子として日本新聞社に入ったが、スターリン主義の狂信と相容れず、追放されて48年に帰国し、商業を営む。55年に発生した森永砒素ミルク中毒事件の被災児の父親として、岡崎はその後20年にわたり企業、行政、学会、世論の厚い壁を前に苦闘するが、運動のねばり強い舵とり役としての岡崎を支えたものに、前半生の過酷な人生体験とそこから得た信念があるようだ。とくに事件発生後の55,56年、岡崎は森永ミルク被災者同盟全国協議会の初代委員長の任にあったが、このまれにみる食品汚染事件の被災者が味わった苦悩に対する世間の理解は浅く、被害者の運動は企業と行政の巨大なブロックによって翻弄された。56年森永との屈辱的な妥協ののちに全国協議会を解散した岡山の被災者は、「守る会」を結成し、岡崎をその事務局長に任じた。69年、丸山博阪大教授が日本公衆衛生学界で発表した被災児の追跡調査に関する報告は、14年ぶりに被災者の孤独な運動に曙光をもたらした。運動の戦列を立てなおし強化した守る会は、72年公害被害者の要求としては画期的な恒久救済対策を定め、国と森永を相手どった民事訴訟と森永製品不買を提起しつつ、恒久対策の実現を迫った。74年5月3者が合意に達し、救済事業のための財団法人ひかり協会が発足した。ここで守る会は、訴訟の取り下げと不買運動の中止を声明した。岡崎はひかり協会の理事の1人である。森永告発刊『砒素ミルク2』所収の『森永ミルク事件史』は、全協の苦闘時代を克明に伝える。(松岡信夫)


※1:ご注意 
 森永砒素ミルク中毒事件の被害児救済運動の原告であり牽引者であった故岡崎哲夫氏は、救済組織「ひかり協会」設立以降、その組織運営に登場してきたある傾向に基づく問題点を指摘。不偏不党・透明性と公開の原則を主張する過程で、まもなく、言論を封殺される等の迫害を受けはじめ、最終的に「除名」され、排除されました。
 これを、毎年十数億単位で拠出される巨額な救済資金との関係から解き明かし、明らかに謀略的な仕掛けであると指弾する雑誌論文も公式に発表されています。
 いずれにしても、彼が創案した恒久救済対策と現在の「被害者救済」をうたい文句とする組織の云々する方針(実質的方針)との間には、理念及び精神性において共通性が見当たりません。

 また、一般論ではございますが、彼は、運動期間中にはいかなる政党政派の支援も拒まないものの、市民運動への党派勢力の介入、乗っ取りと私物化、さらに、それによる言論封殺と独裁体制・腐敗化現象に関しては当然のことながら不寛容の立場を取っておりましたので、ここで明らかにさせていただきます。
 被害者自身が、親の世代にもあたる運動の功労者達たちを迫害・追放して、なおかつ良心の呵責に耐えられるという背景には、相当強力なイデオロギーの力があるという見方があります。
 故岡崎哲夫氏は「救済組織」に浸透する、「救済資金の不可解な流れ」と、「民主集中制としか思えない独裁的言論封殺行為の拡大」(本人談)を厳しく指摘していました。


写真:上から順に
    生前の岡崎哲夫執筆風景
    「被災者同盟全国協議会」と「こどもを守る会」の拠点を示す事務所看板
    現代人物事典初版本
    (いずれも資料館所蔵)


追悼 岡崎哲夫(1920-2000)  (2000年12月16日 岡崎久弥 弔辞)
ご挨拶の言葉

 ---岡崎哲夫 辞世の句「我が人生に悔いなし」---


父・岡崎哲夫は1920年という、今世紀の初頭に生まれ、第二次世界大戦の真っ只中に青春期を送りました。
父は、早稲田大学政治経済学部から学徒動員されました。それ以降、旧関東軍第15国境守備隊でのソ「満」国境・虎頭要塞の全滅戦、ソ連・シベリアでの抑留生活を経て(*1)、奇跡的に帰国致しました。
ところが、その直後、森永砒素ミルク中毒事件で長女・ゆり子が被害者となりました。それを契機に、「森永砒素ミルク中毒の子供を守る会」全国本部事務局長として被害児救済運動の先頭にたちました。(*2)また、それと並行して、岡山市社会福祉協議会の幹部として戦後黎明期における社会福祉事業の発展に尽くしました。(*3)
またライフワークとして、第二次世界大戦最後の戦闘となった「満州」とソ連の(現、ロシア・中国)国境地域における虎頭軍事要塞の全滅戦の歴史的事実を「文芸春秋」等6冊の書籍に書き、悲惨な戦争の秘話を歴史に刻印する作業を一貫して続けました。(*4)それはここ10年の間に日中両国の報道機関と考古学者等学識経験者による公式の日中共同学術調査と日中友好事業へ発展しました。大きな反響と共に、父の著作の中国での完訳出版、中国中央電視台の取材、ドキュメンタリービデオの発刊、戦跡博物館の建設等に結実し、わが国においても虎頭要塞全滅戦の史実は、TBS「報道特集」、NHKラジオ特番、及び、本年のNHKテレビ特番「その時歴史は動いた」で全国民に認知され、大きな共感を得るに至りました。日本全国民が、NHKテレビ全国特集番組を見て、虎頭要塞での激戦が、第二次世界大戦最後の戦いであったことを知ったのです。それはNHKの正式な出版物にもなり、虎頭の地名と虎頭軍事要塞の戦いの記録は永久に歴史に記録されました。そして、その後も日本を代表する著名人が虎頭の問題を取り上げ始めました。
とりわけ、中国側では、中華人民共和国中央政府のもと、黒龍江省人民政府と黒龍江省文化局・東北烈士記念館・黒龍江省革命博物館・虎林市文化局・虎林市文物管理所が一体となり、総力を結集して、科学的な調査を行ないました。両国の志ある多くの方々の努力が両国で実を結び、開花したのです。父は、中国最大級の戦跡博物館の完成を、心から喜んでいることでしょう。
父・哲夫は、多くの皆様のご支援とご理解のもと、歴史に新たなページを書き加える仕事をいくつも果たし、今世紀最後の時に逝きました。2000年12月15日午前9時45分、享年80歳でした。

太平洋戦争
父の辞世の句「わが人生に悔いなし」は、本人が青春時代に到達した信念、「人生とは自由と光明とを求める一つの真剣な実験である」
(秋田書店「秘録 北満永久要塞」)を見事に実践した結果だと思います。
父の人生の原点はまさに、若い戦友と諸国民の命を奪ったあの悲惨な太平洋戦争であり、暗黒の時代における青春でした。だからこそ、父の後半生は軍国主義・ファシズムの復活につながる諸々の不正義との闘いの歴史でありました。父は多くの人々に支えられて国民と祖国、そして周辺諸国と世界に二度と戦争のない世界を実現したいと願い続け、人間と社会への限りない尊敬と愛情の念を、そのすべての活動分野で実践しました。

森永砒素ミルク中毒事件
父は文芸をこよなく愛しました。特に世界の文学と西欧古典音楽・絵画です。日本・中国・ロシアの古典文学、漢詩・漢文は特に好きでした。父はよく文学をはじめ哲学・歴史学・地理学・科学の話を通じて、私たちに、諸国民の恒久の平和と幸福のためには、お互いが相手の国々をよく理解し、尊敬しあい、いたわりあうこと、冷静かつ論理的で科学的で客観的な見方の大切さを教えてくれました。  
父はその学問的見識を過酷な体験のなかで深く咀嚼し、真に実践的な知性に昇華し、それを、戦後日本の再建過程で発生した負の問題(=国民生活にとって大変深刻な問題)を解決するために燃焼し尽くしました。
それは父が、森永砒素ミルク中毒事件において、世界初の政策「恒久救済対策案」を創案し、実現に導いたことに端的に現れています。
父は、1万2000人の乳児を傷つけ、128人の罪のない赤ちゃんの命を奪った人類史上最悪の食品中毒事件の重大性を誰よりもよく理解しておりました。父は被害児救済の灯を燈し続け、恒久救済の理想の実現まで、どんなにどん底の時もがんばりました。そして事件発生後14年目に岡山大学衛生学教室の青山英康先生(現:岡山大学医学部名誉教授)、丸山博先生(元大阪大学名誉教授)などの諸先生方、そして、「森永告発」などの市民運動を牽引した谷川正彦氏や能瀬英太郎氏をはじめとする全国の市民の皆様が、父の救済への理想を理解していただき、子供たちを助けよ、と声をあげて下さったのです。
1980年代初頭までに限定された部分の「恒久救済対策案」の理念は、今日、市民運動・消費者運動・薬害問題等の救済運動にしっかりと活かされております。また企業と消費者の切磋琢磨を通じた戦後資本主義・民主主義の近代化に貢献してきたと確信しています。

同時に父は、経済社会と民主主義をもっとも支持した人間でもありました。父は、青春時代、文学の道をめざし、早稲田大学在学中から出版社の起業を考えていました。しかし、戦争と徴兵で断念せざるをえなかったのです。戦後は一時的には、公害事件の被害者の親として大企業と対立しつつ、しかし、同時期には社会福祉事業の発展のために卓越したマネジメント能力を発揮し、岡山の都市開発への貢献にチャレンジし、地域の経済・文化の発展をこよなく願っておりました。自らも法人企業を興し、企業会計原則の秀逸性について、また、岡崎嘉平太氏(*5)など、父の母校・「旧制岡山第一中学」(*6)の諸先輩経済人と、明治から大正期の大実業家である叔父の秋守常太郎(*7)(大阪・秋守商店)への尊敬の気持ちを語り、日本経済の健全な発展や国際友好交流について熱弁をふるう側面をもっておりました。

父の病室のなかで
父が病室で昏睡に入る直前の夜にこんなことがありました。
この11月に、亡き姉の親友であった松崎真智子氏をテーマとした、NHK特別番組「人間ドキュメント」が、野村優夫ディレクターをはじめとするスタッフの皆様のご尽力で全国放映されました。
放映後、大きな反響とともに、出版大手数社から刊行の要請があったことを聞かされた時のことです。父はわがことのように歓喜の声を上げたのです。その後も昏睡に陥るまで父は、「他に何かいい知らせはないか」とか、「真智子ちゃんの本の出版」について、うわごとのように言い続けていました。「真智子ちゃんの本が出版されるのをこの目で見られないのが一番悲しい」と最後に申しました。戦争の地獄から奇跡的に生還して以来、野に散った若い戦友と諸国の民衆・兵士の魂の成就を願い、砒素中毒で苦しんだ多くの子供たちの魂をいたみ、世の人々の幸せを願い続けた一生でした。

緩和ケア病棟について
さて、このたびの父の闘病に関してですが、父を末期ガンの苦痛からお救い頂いたことに関しまして、中村内科医院院長・中村善一先生と岡山中央奉還町病院院長・入江伸先生、同院緩和ケア科・医長の山本洋先生、及びナース・介護福祉士・ソーシャルワーカーの皆様の温かく思いやりある献身的介護に、そしてすべての関係者の皆様に、衷心より感謝申し上げます。父が姉のあとを追うように自ら緩和ケアに入ることを選択したのは、皆様への全幅の信頼があったからです。父は緩和ケアで片時も離さずノートに記録を綴っていました。その最後のページに緩和ケアに関して「諸先生のご健闘によって医療の新しい分野=幸せのための分野が確立されることを祈念しております」と自書しております。

父は岡山医大への献体(死後に自分の遺体を医学の発展のため医学生の解剖標本として提供すること)に際して母によく言っておりました。
―「自分たちの年代はみんな戦争のために死んでしまった。自分は生きて帰るための全知全能の努力を試みた。だが、それだけでは帰れなかったのだ。一瞬の運がめぐっただけなのだ。だから自分の体は、医学の向上のために捧げたい」「どんな病気になっても、行き届いた設備の病院で、優秀な若い先生と優しい看護婦さん・介護士さんに親切にしてもらって、こんな幸せなことはない」「戦場で死んでいった兵士・諸国の民衆は本当に哀れだ。手当も受けられずに、50年もたった今も、野に放置されている。それが痛ましい」―
これが父自身の人生の歌です。「社会や困った人たちのために役に立ちたい」との父の信念の原点でした。

母・幸子とすべての皆様へ
最後に、父を50年に渡り支えてくれた母・幸子のことに触れておきます。母・幸子は、父の最大の理解者であり、父の身体の一部になっていたとさえ言えます。父が思う存分活躍できたのも、安らかに逝けたのも母の献身があったからこそでした。そして、父の両親・二人の妹・親戚・友人・知人・同僚・地域のすべての皆様が、父の実践を理解していただき、励まして頂きました。ここまでこれたのも、皆さまのおかげです。

「わが人生に悔いなし」
こう言い切って、激動の20世紀を駆け抜けた父・哲夫が、皆様の記憶の中に永遠のよき想い出として残りますように。
残された家族は仲良くがんばって努力するように、と父から病室で叱咤激励されました。そのように実践していく所存です。今後とも皆様のご指導ご鞭撻を心よりお願い申し上げ、御礼のご挨拶に代えさせていただきます。本当にありがとうございました。

2000年12月16日  喪主・岡崎久弥
(一部後年に加筆修正)


注 解説
(*1 哲夫はシベリアに抑留され、他の捕虜と同様に強制労働を経験しました。
数十万人の日本軍捕虜は零下40℃の極寒の地で凍傷と病苦に苦しみ、多くの死者を出しました。
父もまた他の捕虜同様に病苦に苦しみました。父の隣のベッドで多くの捕虜が病死していきました。父が生き残ったのは奇跡です。
もしこの奇跡に理由があるとすれば、父の「生きて帰り、この異常で理不尽な体験を同胞と世界に伝えなければならない」という心の底からの叫び、精神力が、死をはねのけたのでしょう。
父は強制労働の後、ソ連の判断で、ハバロフスクの「日本新聞社」に配属となりました。
「日本新聞」とは、ソ連極東軍司令部直轄の、日本人捕虜向け新聞です。
発行部数30万部といわれ、捕虜向け機関紙としては世界でも例のない大規模なものでした。
父は、日本の知識人として、「日本新聞社」の編集局員となり、日本人捕虜に対して、軍国主義思想の改造と民主主義の思想を伝えるために働きました。
しかし、「日本新聞社」にも奇妙な勢力が発生しました。その勢力は「軍国主義思想を改造できていないのに、表面だけソ連指導部の方針に阿諛追従し、利己的派閥をつくる」というものでした。
その勢力が、「日本新聞社」の自由主義的で民主的な人士の排除を開始しました。父はそういう勢力に対して、来るべき日本の民主主義は、見かけ倒しのいいかげんなものではだめだと主張し、日本新聞社に台頭するスターリン主義を批判したため、日本へ「追放」されました。
運命のいたずらでしょうか? それが結果的に父が生きて日本に帰ることになったのです。
(「日本新聞」は幻の新聞と言われていましたが、朝日新聞社が旧ソ連で「日本新聞」を発見しました。朝日新聞社は「日本新聞」のすべてのページをマイクロフィルムに撮影し、日本で大型豪華本(全2巻)として発行しました。当時の日本軍捕虜の実態を知る上での重要な資料です。復刻本の中には、父の書いた記事も読み取ることができます。)

(*2 「森永砒素ミルク中毒事件」に関する父の直接の著作は7冊にのぼり、雑誌への寄稿を含めると数十冊となります。父が編集していた、「森永ミルク中毒のこどもを守る会」全国本部機関紙は100号を越えます。父が事務局長をしていた「守る会」の救済運動を報道した新聞記事、テレビ・ラジオ番組は、膨大な量であり、もはや、数えることは不可能です。
私の家の書庫(二階建ての蔵)には、「森永砒素ミルク中毒事件」に関する原本資料が、A4用紙に換算して約30万枚近い膨大な資料として厳重に保管されています。
これは、戦後日本の経済発展の一方で発生した公害問題を知るうえでの第一級の資料です。
「虎頭要塞」の資料の重要なものは、ほとんど中国に寄贈されていますが、元資料もまた大量に存在します。

(*3 父は本業の「社会福祉協議会」局次長として、日本の社会福祉の発展にも全力を注ぎました。今では、「社会福祉協議会」は日本の社会福祉を勧める最大の協議会組織に成長し、知らない人はいないほどです。しかし、父が活動を始めた頃は「弱者救済」に対して、世間はきわめて冷淡でした。軍国主義思想の残骸と、民主主義の未成熟、そして、国民の困窮、どさくさにまぎれて金儲けのみを考える戦後直後の風潮は、「人を助ける」なんて愚か者のすることだ、というものでした。
「社会福祉協議会」の組織もまた弱体でした。父は、組織の強化のために、「中国ブロック社会福祉協議会連絡協議会」の事務局長として、奮闘しました。
関連の機関紙や政府の新聞にも社会福祉の発展を求める文章をいくつも執筆しました。
今日日本全国の定例行事となっている「赤い羽根 共同募金」の創設期のメンバーです。

(*4 父が「虎頭要塞」について書いた本は復刻版・翻訳版を含めると約6冊にのぼります。これに自家製の配布用写真集や、「虎頭訪問」についての新聞の連載小説、シベリア抑留についての新聞連載小説、関東軍についての自家版を含めると、12冊にのぼります。
父の「虎頭要塞」調査活動を報道したテレビ、ラジオ番組、新聞記事は、多くが全国放送、全国版記事ですが、地方局の特別番組を含めると、日本だけでも10以上あります。もちろん多くの関係者の方のご支援で成長していった事業です。改めて父に代わり皆様に感謝申し上げます。

(*5 岡崎嘉平太氏=「全日空=ANA」〜All Nippon Airways〜元社長・元日本中国友好協会顧問・元日本中国経済協力会顧問

(*6 「旧制岡山第一中学」=「第六高等学校」の前身。「第六高等学校」は中国の偉大な文人革命家である郭沫若先生が日本留学中に学んだ学校。現在の岡山県立岡山朝日高等学校。 

(*7 秋守常太郎=当時(明治時代)の日本の重要燃料(木炭)供給の大手企業の創業者。父・哲夫の叔父にあたる。彼は、戦前の大地主制度の混在した資本主義制度のもとで、貧農が苦しむのを見てとても悲しんだ。彼は当時の日本では革新的で、かつ、理想主義的内容を盛り込んだ、「土地国有化論」を世間に公表した。今から見ると、彼は、多少の極論か理想主義的提言でもって、旧式の戦前資本主義制度の近代資本主義制度への変革を提言したのであった。書籍をいくつも書き、世界の国家制度を見て回り、その見聞録を多くの書籍として出版した。
彼は、当時の実業家であり、政財界の重鎮であった。彼は第一次憲政擁護運動を支持する進歩的資本家として、政友会・尾崎行雄や、石橋湛山らとも親交をあたため、資金的援助も行なったといわれる。革新的な提言を続けたため、政府・警察の監視下に置かれたこともあった。日本の戦前国家体制の抱える深刻な問題点(大地主制を包含した前近代的資本主体制)について、死ぬまで警鐘を鳴らし続けた。彼はまた、「同志社大学」の創設期の学生でもあり、英語を始めとした各外国語に精通し、知識人と実業家の両面で優れた業績を残した。
残念ながら日本社会には、彼の提言を受け止める自浄能力はなかった。日本社会はその後ファシズムの台頭を許し、侵略戦争へ突き進んでいく。



父はだいたい、三つの方面、「虎頭要塞」「森永砒素ミルク中毒事件」「社会福祉協議会事業」の各方面において、血のにじむような実践とともに、膨大な著作を残しました。
父はこれらの活動のなかで、多くの幅広い支援者の方々と共に活動しました。これらの活動に私財を投げ打ち、命を捧げたのです。これほど多くの仕事ができる父のエネルギーの源は、やはり、第二次世界大戦における悲惨な戦争体験です。父の気持ちの奥底には、「自分は一度死んだ人間だ。自分の命はおびただしい戦争の犠牲者達から託された命だ」との信念がありました。
死者の心からの叫び、とはいったい何か?
それは「歴史の真実を知りたい。自分達はいかに生き、そして死んでいったのか、なぜ死ななければならなかったのかを知りたい。それを後世の人々に伝えて欲しい。そして二度と戦争がなく、世界の人々が心身共に幸せに仲良く暮らせる社会を作って欲しい」です。
これは、狂信的な軍隊生活のなか、死臭立ち込める激戦のなか、厳寒の抑留地…、おびただしい屍の中から生還した人間でなければ到底理解できない心境でしょう。いわんや、戦争で犠牲になった、中国や韓国・朝鮮をはじめとするアジアの人々の気持ちは、想像を絶するものです。
きわめて複雑で激しく、かつ繊細な心情だと思います。

父は、子供の命を救済すること、歴史を記録することに関して、核心の部分では、頑固なまでに、不純な妥協を排し、誤り・不正・偽善に対して、容赦なく自己の信念を主張しました。摩擦や排除を恐れず、必要ならば、自らが心血を注いだ組織に箴言を呈し、自ら組織を去ることさえいとわなかったのです。
父は絶えず、死者たちの魂の叫びに耳を傾けていました。だから自ら名誉や地位や功績を求めず、ひたすら頑固なまでにあるべき姿を主張し続けました。
私はこういう姿勢が、多くの子供達の命を救い、歴史の真実を永久に残す事業に繋がったのだと確信しています。そしてそれによって、良識ある多くの人々の支援が集まり、事業が発展していったのだと思っています。

以上、私の父のことを長く語りましたが、重要なことは、父の残した足跡は実は多くの方々のご支援の賜物であることです。確かに歴史を作る過程では個人の力が大きな役割を果たします。そして闘いや運動は時に大きな果実を手にします。しかし、一時的に得られた評価や名声や待遇に安住し、それに陶酔すれば、それは傲慢と退廃と、歴史への裏切りに行き着くことを、父は戦争と森永事件の実体験に基づいて痛感していたようです。
父はよく言っていました。「これまで多くの国民に支えられてきた、これらは、すべて、国民にお返ししなければならない。」
各国の民族の文化を何よりも尊重していた父にとって、この「国民」とは、世界中の「国民」という意味です。

残された私を含め、若い世代の責任は重いです。ドイツのヴァイツゼッカー大統領の有名な言葉、「戦争責任は若い世代こそが受け継がなくてはならない。過去に目を閉ざすものは現在にも盲目となる」。
中国の周恩来首相の「前事を忘れず後世の師とする」という言葉も同じ精神です。

今後、じっくり、父の声、多くの良識ある人々の声に耳を傾けながら、意義のある事業継承をしていきたいと考えています。今後とも宜しくお願い申し上げます。
ありがとうございました。

2000年12月16日
喪主 岡崎久弥


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