東洋最大の重火力戦要塞 Topページへ戻る
当時の虎頭要塞の機能を知るには、旧日本軍の兵器についての基礎的で正確な知識が不可欠である。そこで、虎頭要塞の武装について、虎頭要塞日中共同学術調査団・副団長兼調査班長で、当センター主席研究員の辻田文雄氏(軍装備専門家・軍事考古学)に分かりやすい解説をお願いした。
■試製 41センチ 榴弾砲 最大射程20km (Experimental 410mm Howitzer)
(写真:佐山二郎氏提供 詳細は文末 無断複製厳禁)
■90式 24センチ 長射程 列車加農砲 最大射程50.12km (Type90 240mm
Railway Cannon)
(写真:佐山二郎氏提供 詳細は文末、無断複製厳禁)
虎頭要塞の武装装備について その1
レポート 辻田文雄氏(軍事考古学 軍装備専門家)(Humio Tsujita)
虎頭要塞は、頭を東に向けた東西10キロメートル、南北4キロメートルの巨大な虎のような形をしている。頭が観測所があり現在虎頭要塞博物館がある虎東山、右腕が24糎(センチ)榴弾砲2門、30糎榴弾砲2門、左腕が15糎加農砲6門、左脇に41糎榴弾砲1門がある。それはまさしく、対岸のシベリア鉄道を守備しているソ連軍陣地に襲い掛かる巨大な虎の形をしていた。
試製 41糎榴弾砲
旅順要塞攻略で28糎(センチ)榴弾砲が驚異的な戦果を収めた帝国陸軍の、全ての集大成として作られた。岡崎哲夫氏は、闇の中に潜む巨大なドームに収められたこの巨砲を見て、戦後このことを書こうと決意された。又,この巨砲がなければ虎頭要塞守備隊は終戦直前に強化されなかったであろうし、8月26日まで戦わなかったであろう。その意味では、血に染まった巨砲である。
41糎榴弾砲は帝国陸軍が作った最大の巨砲で、ただ一門しか作られなかった。そのため、制式名称は「試製41糎榴弾砲」となっている。この大砲は海軍の戦艦主砲である16インチ砲弾を共通して使用するようになっている。従って正確な口径は、16インチ=40cm64mmである。戦艦陸奥、長門と同一口径である。この大砲が量産されなかったのは、完成できなかった土佐、赤城等の戦艦の主砲が提供されたからである。釜山港外張子砲台、長崎県壱岐黒崎砲台、対馬豊砲台に、40cm2連装砲塔のまま地面に埋め込まれた。
41糎榴弾砲が設計されたのは大正10年のことである。砲身だけで80トン、砲全体では318トンの巨大な大砲は、重さ1トンの砲弾を20キロメートル先の目標に正確に命中させることが出来た。大正15年8月完成した大砲は千葉県富津射撃試験場で発射テストが行なわれた。
事故は3発目でおきた。火薬の装填量を間違ったのか、異常な圧力で大砲の閉鎖器は動かなくなった。この閉鎖器のトラブルは昭和16年の試験でも起こっている。それはこの大砲の未来を象徴する様であった。この巨砲は試験場で16年放置されていた。旧満州への移動が企画されたが、移動費だけで100万円かかる。家一軒が2000円の時代である。
そこへ巨砲の運命を変える事が起きる。昭和16年夏の関東軍特別大演習である。この作戦は、虎頭要塞対岸のシベリア鉄道を破壊して、ソ連軍の軍事輸送を遮断する。そして満州東国境の東寧から一気にウラジオストックを攻撃、占領するものであった。
ソ連軍はシベリア鉄道への日本軍の砲撃を避けるため、大砲の射程外に迂回線を施設した。41糎榴弾砲ならこの迂回線のワーク川を砲撃できる。こうして昭和16年10月から移動が始まり、17年3月には大砲の備え付けが完了した。
18年には大砲に巨大なドーム状のコンクリート覆いがかけられた。それは基部で厚さ6メートル、天井でも2メートルの鉄筋コンクリートであった。
砲門は2箇所あり、一つはイマン河鉄橋、もうひとつはソ連軍が終結していたラゾ方面を狙っていた。
しかしながら、このコンクリートドームも多くの欠陥を持っていた。
まず、コンクリートが他の要塞コンクリートに対してやわらかい事、鉄筋が少量しか入っていない事、内張りを行なう予定が実行されなかったことなどが挙げられる。内張りは、現在も1メートル四方に数本の割合でボルトが残っており、10センチの内張りが施される予定であったことが想像される。この内張りがないと、敵の砲弾が命中して貫通しなくても、内側のコンクリートの剥離がおきて、内部の兵員の殺傷、砲の故障を引き起こす可能性がある。現実にこの巨砲は、中猛虎山山頂に引き上げられたソ連軍山砲で沈黙させられている。
昭和20年8月9日午前11時、41糎榴弾砲はワーク河迂回線鉄橋に砲撃を開始した。第11発目は鉄橋左側基礎と橋脚の一部を破壊した。その後百数十発(一説には74発)でこの大砲は沈黙した。ソ連軍は昭和22年この大砲の運び出しを意図したが、余りの重量に、イマン河で運搬船が座礁沈没した説がある。
しかしながら行方は今もはっきりしていない。終戦直後41糎榴弾砲の上に立つソ連軍将校の写真は残されている。
41糎榴弾砲のコンクリートドームは最高機密のためか、虎頭要塞守備隊の工兵隊と作業によって作られた。この作業指揮の一人の方は、終戦時731部隊の爆破総指揮者であった。
41糎榴弾砲の要塞内の秘匿呼称は「マル一(イチ)」である。昭和20年8月9日に41糎榴弾砲に配備された日本兵は153名であった。日本まで生還出来たのはわずか1名であった。
いま、41糎榴弾砲の砲座は、天井の大半を吹き飛ばされたコンクリートドームと弾薬室が残っている。
砲座まで道路が出来て、タクシーできた新婚旅行らしい中国人の若い男女が笑いながらお互いをカメラで写真を撮っていた。いま、ここは平和である。
この項目の大砲に関するデーターは、佐山二郎氏著作の「日本の大砲」「大砲入門」から佐山二郎氏の承諾を得て引用させていただいた。虎頭要塞に関するデータ−は虎頭要塞戦友会の「虎頭要塞の戦記」より引用させていただいた。又、虎頭要塞戦友会に出席させていただいて、エピソードを引用させて頂いている。佐山氏、戦友会の御好意に心よりお礼を申し上げる。
記載に誤り、誤解があれば御指摘ください。調査して修整していきます。
辻田文雄氏プロフィール
軍装備研究家
旧日本軍資料収集に関しての第一人者。辻田氏は、第二回虎頭要塞日中共同調査団で、岡崎哲夫氏に出会い、それ以降、自らの軍事知識を歴史研究の役に立てるべく、以後、虎頭要塞、ハイラル要塞、ノモンハン、旅順要塞、ロシア側各種要塞遺跡等、様々な国境要塞、軍事遺跡調査に参加。平和展の展示設計や、博物館に納入される旧軍の資料評価などを行っている。
90式 二十四糎 列車加農砲
大砲には大きく分けて榴弾砲と加農砲がある。
榴弾砲は低い弾速で山の様な弾道の砲弾を飛ばす。砲身は短くて、砲身の耐久性もある。製造原価は比較的安い。
加農砲は高い弾速で低い弾道の砲弾を飛ばす。砲身は長くて、砲身の耐久性は悪い。製造原価は比較的高い。榴弾砲と加農砲と、どちらの性能が良いかと言われたら、加農砲である。しかしながら値段が高く、重量も重くなる。戦争は経済のバランスの中にある。
24糎列車加農砲は、フランスのシュナイダー社製である。最大射程は50キロもあり本土防衛の列車砲として買い付けられたが、この一門だけで終わり、千葉県富津の試射場に、本土防衛用として配備された。
この大砲の特色は2つある。一つは列車砲といって、機関車に牽引されて鉄道のあるところなら自由に移動できることである。もうひとつは最大射程50キロメートルと言う長射程である。御自分の自宅から、車か列車で30分ほどかかる都市を思い浮かべて頂きたい。だいたいそこまでが、およそ50キロメートルである。その距離で着弾誤差が約100メートルと言われている。
砲身は口径240ミリ、長さ12.823メートルである。普通の大砲に比べ、口径に対して砲身が非常に長い。164.95キロの砲弾を、50,120メートルの距離に飛ばすことが出来る。砲全体の重量は、136トンある。
この列車砲全体の写真を見ると、列車砲の前に貨車が2両連結されている。
真中は弾薬車で、先頭は動力車である。つまり先頭の貨車に見えるのは機関車で、近距離の移動はこの機関車で行なうことが出来る。内部は電車の運転台と同様の運転席があり、ディーゼル発電機で発電し、この発電された電気でモーターを駆動して移動する。この構造により、動力伝達シャフトが省略でき、軽量化とコンパクト化を達成できる。第二次大戦中のナチスドイツの戦車でも実用化されている。この動力車では高速、長距離の移動は無理だが、近距離、緊急移動には充分な性能がある。
最初、列車砲の洞窟格納庫を見た時、どの様に移動させたか疑問があった。蒸気機関車を1両貼り付けておくには無駄が多いし、蒸気機関車はボイラーに火を入れて動くことが出来るまで最低数時間はかかる。
日本の大砲の権威である佐山二郎氏が「戦車マガジン」に掲載した記事から、その疑問が氷解した。この動力車と弾薬車は、日立製作所で製造された。
90式二十四糎列車砲は、41糎榴弾砲と同時に日本から移動した。開戦日である昭和16年12月8日に大連港に陸揚げされている。砲が巨大で通常の鉄道移動に無理があるので、分解移動された。ソ満国境から約20キロメートルにある水克と言う所に、本線から逆Z型に引込み線を作り、高さ5メートル、長さ25メートルの半地下洞窟に納められた。こうして日本にただ一つしかない巨砲と、長距離列車砲は虎頭要塞に配備された。
これらの特殊重火器が配備されたのは14個ある国境要塞でも、虎頭要塞だけである。
列車砲は一門だけなので、長射程を活用してソ連軍の後方攪乱用に使うつもりであった。
列車砲を発射するには列車砲をジャッキアップし、固定してないと、発射の反動で横転する恐れがある。列車砲の発射点は、要塞と水克の間にある月牙と虎頭要塞の軍用駅である完達駅にジャッキアップポイントがある。完達駅の西側に、2対のコンクリート基礎があり、それが発射点と推測されるが、確定的ではない。
虎頭要塞守備隊の方の話だと、夜間警備に立っていると、山のように大きな列車砲が通過するのを見たと語っていた。このときは蒸気機関車が牽引していた。
二十四糎列車加農砲の要塞砲の秘匿名は「マル四(ヨン)」と呼ばれた。
20年8月9日には列車砲場移動のための分解中で、一弾も発射することは出来なかった。終戦時列車砲隊には19名いたが、日本国内まで帰還出来たのは5名であった。分解中の大砲はソ連に運び込まれたといわれるが、その行方は今も不明である。
十五糎加農砲
十五糎加農砲と言う表現だけでなく、大砲の型式の調査にもこだわってみた。旧軍の十五糎加農砲は7−8種類あり、時代背景から2−3種類に限定される。どっちでも良いじゃないかと言う事を確定するのが学問だと思っている。
ロシア側に向かって中猛虎山の左手に6門配備されていた。2門はコンクリートで固められた穹窖(トーチカ)の中に、他の四門は穹窖砲塔から北に、約50mおきに1門ずつ、完全防備された回転砲塔が四門設置されていた。この重砲群が、虎頭要塞全滅の最後まで発砲を続けた。
穹窖に納められた15糎加農砲だが、昭和11年(1936)年制定された、九六式十五糎加農と思われる。陸軍省技術本部の「研究審査概況」(昭和15年発行)の「満砲」の部分によれば、
各種十五糎加農
1、 四五式十五糎加農砲塔
四五式十五糎加農ヲ防盾ニテ覆ヒタルモノ
2、 九六式十五糎加農穹窖砲架
九六式十五糎加農ヲ穹窖内ニテ覆ヒ装備シ得ルモノ
(佐山二郎氏資料による)
同じ陣地に於いて、異なった2種類の大砲を設置するのは非合理的に思える。弾薬の不足したときの融通、故障した時の部品調達を考えても型式の統一の方が合理的である。しかしながら一方は砲塔、一方は穹窖の配備が並んでいる点からみて、2種類の砲が配備された可能性がある。
四五式十五糎加農砲
「研究審査概況」には、「国境築城用火砲砲塔は、四五式十五糎加農用九六式砲塔と称する」とある。虎頭要塞は、何もかも特別製を使用していた様である。
四五式十五糎加農砲は明治45年制定の大砲だが、固定砲座の要塞砲として設計された高性能な大砲であった。50kgの砲弾を、20kmの距離まで飛ばすことが出来る。第二次大戦に入っても重砲兵の訓練は、ほとんどこの大砲で行われた。この大砲は薬莢薬嚢式と言って、真鍮の薬莢の中に、直径は鉛筆くらいで、長さ30センチの棒状火薬を束ねた物を、最大射程発射するときは、3個詰める。射程を縮める時は、火薬の量を減らす事によって調整する。この大砲の試製段階で、四〇式試製十五糎加農砲が作られ、愛知県伊良湖岬で試験をされるが、当時の薬莢が陸上自衛隊豊川駐屯地の三河資料館に展示してある。この薬莢の長さは122センチと長く、立てると大人の肩位ある。薬莢は四五式も同一の物が使われ、虎頭要塞の遺物からもこの長大な真鍮の薬莢は出土している。決定的な事は、発掘された火薬袋に、「四五式」と印刷されたものが発見されている。
虎頭要塞に配備された四五式十五糎加農砲は、本来前半部に防盾が付いているものを、砲塔全体に覆ったものである。本来、砲床をコンクリートで固定して、360度砲撃できるような大砲であるから、改造は容易であったと想像される。
軍艦に搭載されている大砲は、敵の砲撃に熱中する余り、自分の艦を撃つ恐れがある。したがって射角制限板が取り付けられて、味方を撃たないようになっている。虎頭要塞の8月9日からの戦闘では、味方の大砲が隣の大砲を撃って、砲員全員即死する事故が発生している。海軍の大砲では起こりえない事故だが、要塞設計者も射程20キロの大砲が90°横を発射するほどの混戦になるとは予想していなかったであろう。予想しなかったと言えば、8月18日頃には十五センチ加農砲の100メートルの位置まで、ソ連軍歩兵が接近してきた。十五センチ加農砲陣地の前方には東猛虎山の味方陣地がある。大砲に砲弾を装填せずに、火薬のみで射撃を行なった。火の付いた火薬は、火炎放射器の様に、砲口から100メートル程を焼き尽くしソ連兵を撃退した。
四五式十五糎加農砲の砲身は、初速が速いので約300発で磨耗し、交換が必要となる。帝国陸軍は、1回の作戦で100発の発射を想定していた。この消耗戦では、その想定はいかにも甘かったであろう。
15糎加農砲は、秘匿名「マルカ」と呼ばれていた。大砲2門に1箇所兵員待避所が西方約100メートルのところに残っている。待避所は戦闘後ソ連軍に爆破され、使われていた直径2.5センチの鉄筋も、大躍進時代の鉄の原料として剥ぎ取られている。
最後に十五糎砲塔から脱出した兵は、砲塔をソ連兵がドンドン叩くのを聞き、あきらめて立ち去るのを待って脱出したと聞く。
穹窖十五糎加農砲
この大砲は九六式十五糎加農砲と思われる。この穹窖(トーチカ)は厚さ1メートル以上の鉄筋コンクリートで覆われた巨大な部屋であった。前方に砲の格納した部屋、後方に弾薬室、兵員室が作られていた。
九六式十五糎加農砲は、要塞が建設された昭和15年当時は最新鋭の大砲で、射程は26キロメートルあり、世界の大砲と肩を並べる高性能なものであった。しかしながら穹窖に格納する事により、射撃方向は制限され、戦闘中に比較的広い穹窖の口からソ連軍の砲弾が飛び込んで沈黙することになる。さらにソ連兵に穹窖の口から手榴弾も投げ込まれたと聞く。
戦闘直後、ソ連軍の徹底した爆破で、今はコンクリートの小山が残るのみで、第二回調査の時は兵員室も、弾薬室も、判別がつかない状態であった。
射程が26キロもあれば、シベリア鉄道迂回線まで充分届く。50kgの砲弾の威力は、3階建ての鉄筋コンクリートの建物を土台からきれいに吹き飛ばす威力もある。しかしながら40cm榴弾砲は、砲弾重量で20倍、破壊火薬量では50倍位の威力があった。
一斉射撃と言う言葉がある。砲撃の場合は、全ての大砲がいっせいに打てば良いという物ではない。着弾までの時間差を計算し、バラバラに発射して、着弾は「ドカン」と1つの音で着弾することが、一番の効果がある。
ついでではあるが、現代の自衛隊が装備している15糎加農砲は1キロ離れたビルの窓に、正確に命中させることが出来る。
十糎榴弾砲
岡崎哲夫氏の守備された第三地区の虎嘯山へ登る谷は、十榴谷と呼ばれた。鉄の掩蓋で防備された十糎榴弾砲4門が谷を守っていたハズであったが、岡崎哲夫氏が虎嘯山の配備についたときは、はるか昔に南方に移動され、4個の穴だけが残っていた。
配備されていた大砲は、旧陸軍資料「国境築城用火砲砲塔」によれば、口径105ミリ、最大射程10キロの九一式十糎榴弾砲と推定される。この大砲が無くなった虎嘯山は、防衛していた大砲は、岡崎哲夫氏の速射砲のみであった。
深夜、虎嘯山を脱出する時、岡崎哲夫氏は十榴谷を振り返った。谷はソ連軍に打ち込まれて炸裂した迫撃砲の破片が、月光を受けて一面に銀色を敷き詰めた様に輝いていたと聞く。
第二回虎頭要塞学術調査のとき、この十榴谷の上部にある塹壕の上に、1足の軍靴が揃えて脱いであった。戦後50年、雨風にさらされて靴は腐ってはいたが、原型を保っていた。この谷は東に開けている。50年前、ある兵士が夜明けの塹壕の上に上がって靴をそろえて脱ぎ、東の日本の方向を見ながら自殺したのではないだろうかと想像してみた。中国側は、完全な形で残っていた片方だけを資料として保存するために採取した。私は中国調査チームが立ち去るのを待って、残された形の崩れた靴を大切にタオルで包んだ。計測器具や衣類を捨てて、密かに遺品を荷物に入れた。いま、この靴の片方は私の家にある。片方の靴だけだが、祖国日本に帰ることが出来た。
連隊砲
口径75ミリ、最大射程6300メートルの、旧陸軍が一般的に使用した大砲である。制式名称は41式山砲である。トーチカの中に設置されたが、穹窖内部への通路は穹窖側から鍵をかけられ、トーチカの兵員は穹窖内に脱出出来ない事を知って、ゾッとしたと聞く。8月9日の戦闘時には、大半が南方に送られて、残っていた砲は少なかったであろう。
大隊砲
口径70ミリ、最大射程2800メートルの九二式歩兵砲である。歩兵部隊が簡便に使用できるので良く使われた。虎頭要塞でも通常は穹窖内部に格納して、目標の接近と共に野戦陣地などに引き出して使用された。8月9日の戦闘にどの程度使用されたかは不明である。
速射砲
岡崎哲夫氏が砲手をしていた大砲である。型式は九四式三十七粍砲で、対戦車砲である。1000メートルの距離で゛20ミリの垂直鉄板を打ち抜く威力があったが、ノモンハン事件の時に、既にソ連軍戦車には威力不足であった。岡崎哲夫氏から自分が扱っていた大砲はどの様なものか聞かれた。私は砲の型式をお伝えすると共に、「失礼かも知れませんが、ソ連軍の最新鋭のT34に対しては、走って来るダンプカーを空気銃で撃つ様な物で、急所に当らなければとても阻止できないでしょう」岡崎哲夫氏は少し悔しそうな顔をされていた。私は申し訳無いことを言ったと後悔した。
平成14年10月16日長春の偽満皇宮博物院の展示室で、1門の大砲が展示してあった。どっしりと大きく、良い面構えの威力のありそうな大砲であった。副院長に許可を取って大砲の撮影を行なった。他にも撮影した大砲の写真と共に佐山二郎氏に送った。折り返し佐山氏から九十四式三十七粍砲と知らされた。耳学問と写真のみで、九四式三十七粍砲はたいした火砲でないと思っていたが、意外としっかりした大砲であった。百聞は一見にしかずということわざを思い知らされた。
この大砲の欠点は、握りこぶし位の砲弾を、同じくらいの火薬で発射している事である。少なくともこの3倍の火薬で発射していれば、ノモンハン事件では、楽にソ連戦車を破壊できたであろう。もっともT34に対しては、「ドアノッカー」程度の威力しか無い。大戦末期のソ連軍戦車に対しては、88ミリ以上の対戦車砲でしか破壊は難しい。岡崎哲夫氏は数十発の発射で、1両のソ連戦車を破壊している。執念の奇跡と言える。
偽満皇宮博物院で九四式三十七粍砲を撮影した数枚の写真を岡崎久弥氏にお送りし、機会があれば岡崎哲夫氏の御仏前に供えてくださいとお願いした。それが偶然にも、岡崎哲夫氏の法事の前日に届いた。写真は御仏前に供えられた。デジカメで撮影された写真に手を合わせた。岡崎様がご健在なら、写真を見せて速射砲の話を聞いたであろう。岡崎哲夫様、生意気を言って申しわけありませんでした。
岡崎哲夫氏は、本来、中猛虎穹窖の配備を命令されていた。しかし、いざ速射砲を穹窖入り口に持ち込もうとしたら、握りこぶしの幅で穹窖に入らなかった。やむなく別の命令を受けて、数キロ離れた虎頭要塞の後方を守る第三地区の虎嘯山に配備されることとなった。穹窖も小形で大砲も兵員も少なく、誰もが最初に全滅すると思われた。ソ連軍の攻撃は慎重であり、速射砲の砲弾が発射されている間は、戦車の突撃をひかえた。
第二回虎頭要塞調査団の時、私は日本から実物の九四式速射砲の照準機を持ち込んだ。照準機をのぞき、50年前の戦闘を思い起こした。虎頭要塞は、中国軍の国境守備隊防衛範囲にあり、一般市民の立ち入りは制限されていた様だ。草むらから当時の薬莢や機関銃の弾倉、ソ連軍の鉄兜がまだ出てきていた。
虎頭要塞の小火器 -信じがたい事実-
虎頭要塞から発掘された小銃の薬莢類を見て、一瞬、私は信じられなかった。
三八式歩兵銃、九九式歩兵銃、九二式銃機関銃の薬莢があった。ソ連軍は7.62×54R Russianで、小銃も機関銃も統一されている。それに対して日本軍は、6.5×50 Japanese Arisaka(三八式小銃用)7.7 Japanese Arisaka(九九式歩兵銃用)この二種類は弾の口径も形状も異なって、お互いに使用することは出来ない。更にややこしいのは九二式銃機関銃の薬莢は、排莢するときエキストラクターが引っかけるリムが九九式歩兵銃の薬莢より0.1ミリ大きく、お互いの相関性は無い。一つの防備する要塞で、銃弾だけで何種類もあって、相関性も無いとはどういった考えであろうか。恐らく砲兵は三八式騎兵銃、新規に増援された歩兵は九九式歩兵銃、機関銃は九二式重機関銃とそれぞれ異なっていたようだが、混戦となった場合、隣の兵士の銃弾を借りることも出来ない現象が発生する。
旧日本軍は海軍と陸軍で同一口径でありながら、銃弾の形状が異なって使用できない。同じ陸軍でも、同一口径でも用途が違えば簡単に形状を変えてしまっている。自国での兵器製造能力が無い後進国軍隊ならいざ知らず、この様な軍隊は世界でも珍しい部類に入ると思われる。
虎頭要塞の一般歩兵の装備は非常良かった。一般に通常歩兵中隊の3倍の重火器、自動火器を配備されていた。虎頭要塞から一般歩兵部隊に転属した兵士は、一般陸軍部隊の装備の悪さに驚いたと聞く。虎頭要塞歩兵中隊の中隊長の話では、一時期ではあったが、自分の部隊に九二式対空機関銃が40丁も配備されたことがあると聞いた。
虎頭要塞は最後まで重火器、小火器共に装備は充分残っていた数少ない要塞であった。しかしながら移動の容易な中口径火砲は南方に送られてしまったことや、兵員の減少、配備されて2週間で戦闘に入った増援部隊など条件としては非常に悪かった。これらの不完全さが、虎頭要塞の悲劇を生んだのであろう。
七年式 三十糎 長榴弾砲
大正7年に制定された本格的要塞砲である。短砲身と長砲身と二種類ある。口径は305ミリであり、398.7キログラムの砲弾を14,800メートルの距離に飛ばすことが出来る。41糎榴弾砲が配備されるまでは、虎頭要塞の主砲であった。要塞と虎頭の町の間にある猛虎原の南側にある、コンクリートドームの中に2門収められていた。一番南側に半地下弾薬庫があり、そこからトロッコで砲弾は輸送された。大砲のあった所の一帯は農地になっていて、耕作中の農民にトロッコのレールの有無を尋ねた。おおよそあることが判ったので、お礼にタバコを差し上げたら、自宅に急いで戻ってトロッコの枕木を謝礼だといって持ってきてくださった。当時の犬釘が残っており、軌道幅は600ミリであることが判った。
この大砲の砲兵は、ハルピン南東にある阿城で訓練を受けていた。この阿城の演習場には、最近まで七年式三十糎長榴弾砲が、ほぼ完全な形で残っていた。製造番号はNO20で、大阪陸軍造兵廠で昭和15年に製造されたものであった。50年以上雨ざらしであったが、良質の鉄を使っている為か、表面が薄く錆色に変化している位であった。日本の大砲の権威である佐山二郎氏の話だと、毎年1門位しか作ることが出来なかったそうである。7年式三十糎榴弾砲としては、世界でただ1門残っているものであろう。この大砲は北京の民兵博物館に展示のため移動されたと聞く。
七年式三十糎榴弾砲の価格は昭和20年頃に、1門332550円で、砲弾は1発328円であった。帝国陸軍の秘密兵器とされ、口径を過少に表現するために、「二十四糎特榴弾砲」と呼んだりした。虎頭要塞では「マル十(ト)」という秘匿名で呼ばれていた。
20年8月9日は兵員が配置され、活躍したと伝えられるが、全員戦死したので戦闘状況などは不明である。三十糎榴弾砲の側面を10糎榴弾砲4門が守っている配備になっていたが、10cm榴弾砲は南方に移動して、砲座はカラであった。わずかに野戦用の速射砲の砲座などが残っているが、どのような活躍をしたかはわからない。
四五式 二十四糎 榴弾砲
旅順要塞で28糎榴弾砲が大活躍した経験から、移動しやすい重砲の開発が急がれた。その結果最初に誕生したのが四五式二十四糎榴弾砲である.この大砲は明治45年に制式とされた。この大砲の口径は240ミリであり、砲全体の重量は33058キログラムであった。砲弾の重量は200キログラムで射程は10350メートルである。
この大砲と同型の大砲は、北京の軍事博物館に展示してある。防盾がオリジナルと多少変わっている。虎頭要塞の副砲として2門配備され、三十糎榴弾砲の猛虎山寄りに、三十榴よりはやや小さなコンクリートドームに収められていた。虎頭要塞では「マル二(ニ)」と秘密呼称されていた。
20年8月9日の戦闘では、兵員不足から砲兵の配置は無く、一発も砲弾を発射することなく敗戦を迎えた。ソ連軍の砲撃もしくは、戦後の爆破で、コンクリートドームは完全に破壊されている。この大して特徴の無い四五式二十四糎榴弾砲が、虎頭要塞で最も重要な大砲であると私は考えている。
第四国境守備隊(虎頭要塞)司令部兵器班の方の「虎頭の思い出」にこのような記述がある。
「○二(マルニ)火砲番号はNO1NO2で昭和6年奉天北大営砲撃との火砲歴史あり、つまり十五年戦争発祥の砲であり後に日本の運命を左右することになった。」(鎮魂 虎頭の灯を消すな 日中友好虎頭親善会から部分引用)
大砲には全て砲歴簿と言うものがあり、旧日本軍の大砲には、1門1門全てにその大砲の経歴を書いた帳簿があった。その砲歴簿には、その大砲が完成した時のデータ−からどこで何発発射したか、全ての記録が書かれていた。
昭和6年9月18日、中国軍の満鉄線路爆破を自作自演した関東軍は、北大営に四五式二十四糎榴弾砲2門の砲撃で戦闘を始めた。人数的に劣勢であった関東軍が、自信を持って開戦に踏み切れたのは、この2門の重砲があったおかげとも言える。
この大砲は東京造兵廠に格納されていたものを密かに分解して、棺おけとか建築資材と偽って奉天の日本軍兵舎内に運び込んだ。そして砲の据付は、プールを作ると称して、穴を掘り天幕をかけた。その下で大砲は密かに組み立てられて、9月18日に発砲された。
この大砲が廻りまわって虎頭要塞に配備された訳である。この大砲も戦後の行方は判っていない。もし残っていたら世界遺産的存在であろう。二十四糎榴弾砲の製造番号NO1、NO2を、ソ連のどこかの博物館で見かけたら、写真と共にぜひ御一報いただきたい。大砲の製造番号は、砲身の砲弾を込める砲尾の上に製造所、製造年月日と共に刻印されている。
写真解説:
上から
試製41センチ榴弾砲 全景(佐山二郎氏提供 佐山二郎著「大砲入門」光人社NF文庫より)
90式24センチ列車加農砲 全景(佐山二郎氏提供 佐山二郎著「大砲入門」光人社NF文庫より)
虎頭要塞俯瞰模型(岡崎久弥 制作)
虎頭要塞41糎榴弾砲ドーム型遺跡 24mm広角レンズ使用 砲塔架台部分 全周の25%程度
虎頭要塞41糎榴弾砲ドーム型遺跡 24mm広角レンズによる3枚合成パノラマ 黒線は往時のドームの推測形状 人物の大きさと比較されたい。
試製41センチ榴弾砲 全体後面図(後ろから前を見た図) 佐山二郎氏提供(佐山二郎著「日本の大砲」より)
(砲塔架台底辺の直径を上部のパノラマ写真に近づけてある。図面は地下部分まで詳細に記されているが、地上部分で、上下2枚の写真が重なった光景をご想像いただき往時の砲の規模を推測頂きたい)
現在のロシア領内シベリア鉄道イマン河迂回線(辻田文雄氏撮影 当研究センターの把握している限りにおいて、この部分の撮影は日本人で初めてであろう。当時の41糎榴弾砲は、この路線の撃破を目標にしていた。現在でも軍事的緊張を保っている場所である。)
虎頭要塞遺跡博物館内 41糎榴弾砲復元模型
90式24センチ列車加農運行姿勢右側図面 佐山二郎氏提供(佐山二郎著「日本の大砲」より)
虎頭要塞41糎榴弾砲ドーム型遺跡 内壁に規則的に配列された大量のボルト
現地撮影・文献複写 岡崎久弥
中華人民共和国、吉林省・長春、偽満皇宮博物院展示室の94式速射砲実物 撮影:辻田文雄氏
文章、図画いずれも無断流用厳禁
(おことわり)
佐山二郎氏による実際の図面は、ここに掲載させていただいた図面のおもむきより更に繊細であり、細い線で描かれた極めて精密な図面である。ここでは小さなパソコン画面で見やすいように、画像処理でわざと線や文字をつぶし、太くしてある。
実際の図面の緻密さは上記「大砲入門」(光人社NF文庫)でご覧頂きたい。