(2000/06/07 毎日新聞ニュース速報)

<暮らしどこへ>医師会「金」と「票」で圧力 医療改革先送り



 「医療・福祉・年金の充実」「高齢者・障害者介護など福祉の充実」――昨年12月の国民生活に関する世論調査(総理府)でこの2項目が政府への要望の1位、3位となった。高齢化社会の進行は将来への不安をかきたてる。総選挙を機に、政治の社会保障への取り組みが問われている。「明日」に向けた医療・年金・介護などの現実と課題を追った。

 5月下旬、兵庫県姫路市医師会は、総選挙に向けて一つの決定をした。

 地元・衆院兵庫11区で前職の戸井田徹氏(自民)を推薦しない――。戸井田氏は1996年の前回総選挙で、厚生族の大物だった父三郎氏急逝により後を継いだ。前回選挙は日本医師会(坪井栄孝会長、会員14万人)の重点候補になり、幹部が応援した実績もある。

 ことの発端は「医師の賃上げ交渉」ともいえる昨年12月の診療報酬改定問題だった。厚相の諮問機関の中央社会保険医療協議会(中医協)を舞台に、3・6%引き上げを求める医師会と、財政悪化を理由に逆に引き下げを要求する健康保険組合連合会(健保連)や連合、日経連の保険料支払い側が激しく対立した。この時期、戸井田氏は、自民党の医療基本問題調査会で「中小企業が次々に倒産するなか、私たちの保険料から収入を得る医師だけが収入を増やすのは通らない」と発言した。

 衆院当選後、若手議員らと医療の勉強を重ねていた戸井田氏は、「反医師会というわけではない。しかし、世の中が不景気ななかの診療報酬引き上げは国民の理解を得られないと言いたかっただけ」と振り返るが、事務所には医師会側から抗議の電話が殺到した。医師会からの政治献金もストップしたという。

 「推薦しないことは地元の決定だが、日本医師会や兵庫県医師会は前々から戸井田さんを問題視していた。あの発言さえなかったら、今回も推薦したはずだが」。姫路に住む医師は、いきさつをこう解説した。

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 医師会は「金(政治資金)と票」を持つ。地域の名士の集まりであり、選挙では「敵に回したくない存在」(閣僚経験者)という。今回の総選挙も300小選挙区ごとの担当者を置く。

 この力をバックに自民党に圧力をかけて医療保険改革で自らの主張を通してきたいうのが医療保険関係者の共通した見方だ。

 医師会が主張を通してきた足跡は、節目ごとに自民党と交わしてきた「覚書」でたどることができる。その内容は改革先送りの歴史とも重なる。

 97年8月。橋本内閣当時の自民、社民、さきがけの与党医療保険制度改革協議会は、医療費膨張に歯止めをかけるため(1)「出来高払い」中心の診療報酬体系の見直し(2)薬漬け医療を助長する薬価基準制度の改善(3)高齢者医療制度の再構築――を柱とする医療保険制度の抜本改革案をまとめ、2000年実施を目指した。

 翌98年から医師会側の本格的な反撃が始まった。同年8月27日、坪井会長は自民党の池田行彦政調会長(当時)と覚書を取り交わした。その中には「薬剤の一部(別途)負担については、早急に再検討する」との文章が盛り込まれた。別途負担は受け取る薬の種類・数に応じ、患者が1日30〜100円を窓口負担する制度。医師会の主張は、「高齢者が医者にかかりにくくなる」=医師の収入が減る、という論理。坪井会長は念を入れて森喜朗幹事長(当時)とも、池田政調会長との覚書の内容を尊重する趣旨の覚書を取り交わした。 この覚書は実現する。昨年7月から70歳以上の高齢者の薬剤費の別途負担は特例措置として廃止された。昨年12月の診療報酬改定は、自民党が間に入り実質0・2%アップで政治決着したが、この際も「70歳未満の薬剤費の別途負担廃止延期と02年度実施」という坪井会長と亀井静香政調会長の覚書がかわされた。

 前国会では、与党の都合による先送りも行われた。70歳以上の高齢者に窓口での1割負担を求める医療保険制度改正関連法案が解散で廃案となった。選挙前に国民に負担増を求めるのはまずいと判断したためだった。一方、4月から診療報酬はアップしており、毎月140億円の財源が不足する。衆院解散直前、税金で「補填」する議員立法が成立した。

 1997年12月にも日本医師会の体質が問われる出来事があった。橋本内閣当時の財政改革路線の下、医療費削減が至上命題とされる中で、診療報酬改定を巡って医師会と支払い側が対立していた。

 当時与党だった社民党の及川一夫政審会長(当時)の参院議員会館の部屋に2人の医師会関係者が初めて訪れた。あいさつ後、秘書に封筒を手渡そうとした。

 「何ですか」と尋ねた秘書への答えは、「社会的儀礼の範囲のものです」。小切手などが入っているのではと考えた秘書が受け取りを拒否したため、2人は持ち去った。封筒の中身の説明はなかった。

 医師会で政治対策を担当する石川高明副会長は「時期や場所の記憶はないが、後から秘書の方から『立場上取れませんませんから』という話はあったかな……。返されることはなんぼでもある」と語り、正当な行為だったことを強調した。

 医師会の政治団体、日本医師連盟の政治資金収支報告書によると、政党や政治家などへの寄付・交付金は1996年20億円、97年10億円、98年16億円。96年は衆院選、98年は参院選の年だ。また自民党の政治資金団体である国民政治協会への献金も96年3億円、97年1億8000万円、98年3億円と推移した。いずれもトップクラスの献金額だ。報告書には自民党議員の政治団体もずらりと並ぶ。

 「政治献金は盆と暮れ、選挙の時に差し上げる。一生懸命働いてくれる人に政治献金は当たり前。全員にあげたいが、金がそんなにないから重点的になる。自民一本というわけではないが、政権与党だから」。これも石川副会長の説明だ。

 医療保険改革では薬価も大きな焦点だが、この5月中旬、製薬会社110社により、製薬産業政治連盟(会長・鈴木正第一製薬会長)の設立総会が開かれた。設立趣意書には「薬剤費抑制策が一段と強化され、製薬会社の経営基盤を失わせるような事態となるのは国民の利益にならない。政治の場によき理解者を求め、その政治活動を支援していく」と記されていた。新「圧力団体」が誕生した。

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 医療保険制度の危機はもちろん医師会だけの責任ではない。日本の高齢化が世界一のスピードで進展している以上、医療費の膨張は不可避でもある。99年度でみると、対前年度比の医療費増加分のうち、3分の2を70歳以上の老人医療費が占める見通しだ。1人当たりの老人医療費は現役世代の約5倍。高齢者は毎年60万人以上も増え続ける。

 老人医療費対策が97年の抜本改革案の狙いであり、これからも改革の焦点となる。新たな高齢者医療制度については、厚生省の医療保険福祉審議会が(1)高齢者だけの独立した保険制度を創設する(2)現役時代に入っていた健保組合などに生涯加入し続ける――の2案に絞って結論を急いだが、昨年議論が打ち切られた。関係者が負担の押し付け合いに終始する中で、政府・与党が調整能力を発揮できず、混迷に拍車をかけている。 

 <数字でみる医療保険危機>1999年度の国民医療費は30兆1000億円。うち11兆2000億円が70歳以上の高齢者に使われている。同年度の経済成長率が0・1%と見込まれるのに対して、医療費全体の伸びは3・0%、老人医療費の伸びは6・2%にも上る。

 現在の医療保険制度では、中小企業に勤める人が中心の政府管掌健康保険(政管健保)、大企業サラリーマンが加入する組合健保から70歳以上の老人の医療費を賄う老人保健制度に拠出する仕組みだ。政管健保は、97年度は6兆7500億円の収入から1兆9000億円を拠出し、単年度収支は約950億円の赤字。組合健保も97年度は5兆9000億円の収入から1兆6000億円を拠出した。この結果、全組合の約55%、1001組合が赤字。自営業者などが加入する国民健康保険(国保)も、被保険者の高齢化が進み97年度には47・5%に当たる1543市町村が赤字に陥っている。保険料不足を補うため政管健保には約9000億円、国保には約2兆8400億円(いずれも97年度決算)の税金が投入された。 厚生省は国民の4人に1人が70歳以上の高齢者になる2025年には国民医療費は104兆円、うち老人医療費が56兆円と推計している。


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