sorry,Japanese only

  自閉ワールド

              ペンネーム はみがき・O


 最近心にのこっているものを挙げると

1つめ ・・・ 月刊「実践障害児教育」1月号に載っていた手記

 その「親子でアスペルガー症候群だから言いたいこと」というエッセイには、自閉症として生まれてきた人は基本的には自分のスタイルを変えることが出来ない。自分は宇宙人だと感じながらでも、どうにか折り合いをつけながら生きてきたというようなことが書かれていました。

 自閉の子どもをもつ親としては「やっぱりね、そうだろね」と読み進んでいるいるうちにフリーズしてしまいました。
「人類には2種類の人がいる。自閉症の人とそうでない人の2種類、でも、やはり人類の仲間。」

 う〜ん、絶望的。でもこの基本的な認識から出発すれば、お互い楽になるかも。

我が子のことを保育所の頃から知っている教育委員会の先生に昨年末にお会いした時の会話を思い出します。
「Sちゃんはとても繊細で、私たちには見えないものが見え、聞こえないものが聞こえているんでしょね。」
とてもやさしい懐かしむような目でそうおっしゃって下さいました。

がさつな母(私)は「感じ方が違うだけだと思います」と照れをごまかしてしまいましたが・・・。
みんながそういうふうにSのことを受け止めてくれたらいいな〜。

 

 2つめ・・・1月中旬にNHKで放送されたドキュメンタリー「音のない世界から」(だったかな?)(^_^;)

それは聴覚障害児に人工内耳の手術を受けさせるかどうか、二つの家族の物語(実話)でした。いろんな意見の衝突や葛藤を経て、その親たちは別々の選択をしました。
そしてその結果の受けとめ方も親自身が聞こえるか聞こえないかで違っていました。

 ろうあの両親は人工内耳をつけた子ども達と接するうちに、違和感を抱いたようでした。
人工内耳を取りつけて聞こえるようになった子ども達が聾唖の自覚を持たないまま成長して、ろうあの仲間たちの文化を引き継いでいかなくなるのは残念なことだと思い至り、手術を受けさせませんでした。

 これをみて感じたのは違う人の気持ちに寄り添うというのは、言葉ほど単純じゃないだなあってこと。

 

 3つめ・・・ドナ・ウィリアムズの「自閉症だったわたしへ U」原題“SOMEBODY SOMEWHER”

第一作目の“NOBODY NOWHERE”の不可解な世界は、今回の本を読み進めるうちに少しずつ謎が解けていき、つぎはぎだらけのモザイク模様で浮かびあがってきました。

この高機能の彼女の言葉から印象的だったのは
 「わたしの世界というのは、わたしの心の中の世界のこと。それはわたしの家であり、自己であり、わたしの生そのものだった。世の中という名のいまいましい場所と、なんとか折り合いをつけていくための、ひとつのシステムでもあった。」

 「わたしにとって世の中のものは、何もかもがあざやかすぎ、身に迫ってきすぎ、変化し続けすぎている。だからわたしは、自分の感情と自己そのもののスイッチを、切ってしまいたくなる。」

 とにかく何かが違うんだなあ。目には見えないけれども、自閉症の人と世の中との間には透明なガラス板のようなものがあって壊せない。どこかすっぽりとアクリル樹脂に包まれていて、触れているのに触れられない、わかっているのにわからない・・・そんな時間を我が子と重ねてきました。

 「普通にしなさい!」「何でそんなことするの〜。」を連発してきた私なのに、いつのまにか彼女の世界の魅力に気がついてきたようです。
でもこの世界は自閉症でない私にとってはパーツの多すぎるジグソーパズルのようで手におえない。そんな世界を自由にとびはねている我が子に戸惑いながら、時に泣かせてもらったり笑わせてもらったりしている。いつかこころのチャンネルを合わせて耳を澄ませてみたい。

 でも、もし自閉症が治り、世の中に適応できるようになるアダプター(?)が発明されたとしたら、私はどうするだろうか?
 その手術をして普通になった子どもによろこび、自閉の世界を忘れ去ろうとするのだろうか?

 その時あの子にきいてみたい。「どちらのほうが好きですか?」


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