吉田 英生
ずっとずっと前に書いた私の「自己像」がノートの隅から見つかりました。
僕は,口を凛凛しく結んで 背筋を伸ばし 胸を張って生きている。 やさしく 人を大切にし、 困っている人のそばにいよう。 僕の前を歩いてきた人を尊敬し、 僕の後ろを歩こうとする人に尊敬されたい。 さわやかな汗を流し、 温かな笑顔で,人を包む人になる。 |
汗顔の至りです。
さて、子どもの話。
小学5年生になると、多くの学校で海事研修がおこなわれます。海事研修では,いつも一緒にいる学校の友達のほかに,初めていっしょに過ごす他校の子どもたちも大勢います。そこでの開所式が始まろうとしているときに、担任していたひとりの子どもが、体をユラユラと揺らし続けているのに気がつきました。
(しまったー。開所式の前に,これから始まる開所式の心構えをきちんと伝えていなかった。)と、私が思ったときには、もう研修所の先生方が,次々に体育館に入ってこられていました。
(周りの張りつめた空気を感じ取ったら、あの揺れは止まるだろうか。)
しかし,期待ははかなくも裏切られました。所長のお話,学校紹介、歓迎の歌とすすむ式の間,天井を見つめて揺れつづける体。
これから始まることが,何なのかはわかっていても,その場に自分がどのような気持ちで向かうのかまでは,本人は気づいていなかったのでしょう。
その場は、それとして。彼を、開所式の後で、叱るのもひとつの方法。そばにいた友達に、注意をしてくれるように頼んでおくのもひとつの方法。さて、どうしたものか。
その子は、学校では、解くのが難しい問題であっても、眉間にシワを寄せ、頭を左右に振りながら、一生懸命考える子どもです。
わからないまま終わらせたくない、僕はバカじゃないと、勉強に必死で取り組む子どもです。
プライドがあり、僕はかっこ悪いことをしない子どもなんだと自分で思っている子どもです。
自己像とは、自分が自分のことをどう思うかということです。できないことの積み重なりは、僕はダメなんだという自己像を育ててしまうことがあります。
できないことが多くても、できることを認めてくれる人がいて、自信がつけば、「僕、やれる」という自己像が育ちます。
「僕は(私は)、こうなりたい。」と思う気持ちを引き出すのが、私たち大人の仕事です。
さて、閉所式です。
「ユラユラしていると、おかしいなーって思われちゃうよ。」と一声かけておきました。
その途端に、うつろな視線は定まり、背中を伸ばし、気持ちに張りをもって15分間の式にのぞんでいまいした。
その姿勢を支えたのは、叱られるからではなく、言われたからではなく、子ども自身のプライドです。
その後、彼はにこやかな笑顔で、嬉しそうに荷物を背負ってバスに乗り込みました。
みんなよい自己像をもっていたいはずです。自己像は、一朝一夕にできるものではありません。叱られ、我慢し、耐えることもあり、ほめられ、できることを増やし、認められることで作られます。
家で、「○ちゃんの仕事」をひとつ作って、させることの中ででもできることです。
但し書き:「おかしいよー。」と私は言っても、周りの子には聞こえないように言う。
周りの子には、「アイツ、おかしい。」とは、言わせない。
もしも、言ったら、話を聞いてから、言って聞かせる。
それでも、バカにしたら、コラらしめる。