障害者年から家族年へ

高月幼稚園 PTA  トチタロ

「お名前は?」
『トバテッペイ クン デス』
「お年は?」
『ゴサイ』

 今のところ、我が家で他人からみて “会話らしく” 聞こえるやりとりは、やっとこれぐらいです。
それでいて我が家の家の中がいつも明るいのは何故なのか? 我が事ながらちょっと不思議に思える時もあります。
それは多分、家族のみんなが哲平のことを本当にかわいいと思い、哲平も今は言葉に表せなくても、そんな家族の中で安心して暮らしていられるからせはないかな・・・と思います。

 思いおこせば、哲平の障害に初めて気がついたのは今から3年ほど前の平成3年頃。まだ日本中が好景気で、会社では労使をあげてQC(生産性向上)活動などがもてはやされていた時代でした。そこで目指していた目標とは、人当生産性を上げ、いかに効率よく仕事を進めてていけるか、という方法論した。

 人の価値を “人当効率” という数値のみではかっていこうとする流れに、我が子の将来の姿を重ね合わせた時、思わず背筋がゾクッとしたのを思い出します。(・・会社人として顔には出せませんでしたが・・)
 息子の哲平は成人後もはたして就労できるかどうかさえ覚束なく、もし就労できたとしても 「利潤追求のための効率化」 というテーマよりははるか遠く離れたところにいることでしょう。

 では哲平にとって 『働く』という行為は意味のない事なのでしょうか?
そもそも人として生まれてきた意味、生きていく価値というものは、そんな功利的な事だけにあるのでしょうか?

 確かに知的障害を持って生まれた我が子が、この社会に作り出せる、つけ加えることのできる “経済的成果” は、健常者に比べはるかに小さい事は言うまでもありません。
 けれど家族の中で愛されて育っている哲平が、その “「愛する」「愛せるものがいる」 という喜びを家族に与えること” その事だけでも生まれてきた意味は充分に、充分過ぎるほどあると思います。
 それはもちろん、哲平の姉兄にしても同じではあるんですが、その愛する喜びを一番意識させらられるのは、やはり障害を持ちながらも、結構苦労しながらも・・明るく生きている、哲平に接している時のようです。

 もし哲平に障害がなかったとしたら・・・ 今ごろ私は、帰宅後にはビール片手に一人でナイターを見たり、休日には家族を置いて同僚とゴルフや釣りに行ったりと、それなりに楽しんで、特に何を考えるということもなく・・・なんとなく毎日を、人生を過ごしていたような気がします。
 それを思うと、哲平が家族の中心にいて、家中が少しでも哲平の成長に役立つことはないかナ? とワイワイ話しあっている現在の生活の方が、我が家にとって本当の意味での家庭生活と言えるように思えます。
 私自身にとっても、本当に負け惜しみでなく、親として、父として、この子の為になんとかしてやろうと頑張る今の生活の方が、はるかに張りと生きがいが持て、逆に息子に感謝することもある日々です。

 今後の我が家の望みは、哲平がこれからも人に愛され続け、そして願わくば人を愛することの出来る人にまでなってくれれば・・という事です。
 知的障害を伴う自閉症の、コミュニケーションを一番苦手とする障害の、我が子には難問であるのは承知していますが、あせらず一生をかけて “愛する” ということの意味を教え続けてやりたいと思っています。
 それができれば、哲平にとって人生がより幸せなものになると思えるからです。

 でも考えてみると、愛し、愛されて暮らしていく生活とは、私達にとっても、誰にとっても理想の生活と言っていいでしょう。そう思うと障害者と健常者、目指すところは結局同じなのではないでしょうか。
 国際障害者年から国際家族年へ、呼び名は変わっても、我が家の目標は、今年も、そしてこれからも変わらず同じものになりそうです。

 

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