『 姿 』

吉田 英生

今日、学校関係の勉強会がありました。「今年、自閉症の子がおって、奇声を出したり、突然、服を脱ぎだしたりして大変なんじゃ。」とどこかの先生が話している声が聞こえました。勉強会で知り合いの先生に会い、今年かかわっている子どものようすを話し合っているようでした。

学校の先生は、「人を見た目で判断してはいけません」とは言いますが、「見た目の印象」は絶対ありますよね。出会ったときの「第1印象」って結構大切です。私などは、「暖かそうな人」とか、「まじめそう」とか言われることもあるのですが、本当のところどうでしょう?
それはさておき。

その先生にとっては、口にした「奇声」とか、「服を脱ぐ」ということが、その子を語るときにまず頭にうかぶ姿なのでしょう。先生の悩みの種でもあるようです。

「そのままの姿」
「あるがままの姿」
「見せかけの姿」
「本来の姿」
「あるべき姿」

姿にもいろいろあるものです。

さて、「奇声を上げる」というその子どもの姿は、どの姿にあたるのでしょうね。

奇声だろうがなんだろうが、「君らしくていいんだよ」と「そのままの姿」が絶対的なものだと考える、それもひとつの考え方でしょう。また、もし先生が、「自閉症の子どもはそういうものだから」と考えれば、その奇声は、「本来の姿」ということになってしまいます。
しかし、気になるのは、そのような考え方だけだと、
「やりたくてやっているんじゃないだろう」とか「わからなくてつらいのかな」という見方が生まれないことです。

子どもの姿をあらわす言葉は、キーワードとなって、かかわる人の心をしばります。
しかし、キーワードが変わるだけで、見える世界が変わるということはしばしばあることです。

 

私がずっと以前に経験したことです。
ケンちゃんは、よくパニックをおこす子で、耳に指をつっこみ、「ウォー、ウォー」と声を出しながら歩いていました。
ことばは全く話しませんが、日常言われることは、だいたいわかっていました。

でも、お母さんの心をこめた一生懸命なはたらきかけがいつも素通りしているように見えました。
「親のことも意識していないんだ」と思っていた私です。

秋になって、保護者会の日帰りバス旅行がありました。私は夕刻まで教室にケンちゃんやクラスのみんなを預かっていました。
バスは、号車ごとに到着する時間が大分違ったので、帰着した親ごさんに連れられて友達は、ひとり帰り、ふたり帰りしていきます。
けれど、ケンちゃんのお母さんが乗っているバスはなかなか到着しません。それでもケンちゃんは、いつものとおり、耳に指をつっこんで「ウォー、ウォー」と教室を歩き回って、表情ひとつ変えません。
私は、「さみしくもないんだな」と思いながら、最後のバスがまだかと、教室の外へ見に行きました。

まだ到着しそうにもないと、戻ってきて教室のドアを開けた音に、ケンちゃんがパッと振り向きました。私と目が合い、その後、突然の猛烈なパニックをおこしました。

きっと、無表情に見えた顔の奥に、いつもと同じように見えた歩みの中に、「お母さんまだかな、まだかな。」という気持ちがつのっていたのでしょう。
みんなが家路についた後、ガラガラッと開いたドアの音が、ぴったりと耳に入ったのでしょう。

でも、「お母さんだ」と思ったそこにいたのは私でした。
彼が、ガラスに突進しないよう、机に激突しないようにと押さえ込んだ私は、この子の本当の心を初めて垣間見たような気持ちで、ジーンとなりました。

見せている姿と、本来の姿のギャップ。

今でも子どものパニックを目の当たりにするとやはりドキドキします。困るし、混乱するときもあります。
でも、うまく表現できない姿(「見せかけの姿」「うわべの姿」)だからこそ、
「本来の姿」を引き出すために止めたり、「あるべき姿」を語りかけたりしようと心がけています。

Just the way you are」(素顔のままで)
 私と同じくらいの年齢の方は、昔ヒットしたビリージョエルのこの曲が好きだったという方も多いのでは?
 素顔は、とってもまわりのことに敏感で、かわいい子どもでしょう。
でも、あるがままの姿では、それがなかなか見えてこないという子どもが多いのではないでしょうか。

さて、冒頭の場面。あの先生に、「学校で勉強することを整理して、見えるかたちにして伝えて、声や動きはきちんと止めることから始めたらどうでしょうか。」と、見ず知らずの私が会話に入っていったら、(なんな、このおっさん、知ったようなことを言うて。)と思われるだけでしょうね。だから、何も言ってないのですが。

「人を見た目で判断してはいけません。」と私は言いたい。


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