通信
Vol. 2
98.2.11
● 父との思い出
● 哲平と小さな旅
● 朝日新聞 タイトル 似顔絵 : 土井
比登美
題 字 : 国正
恵美子
( 写真は告知を受けてまもないころの哲平くんです)
● 父との思い出
阪神・淡路の大震災から3年という月日が流れました。テレビに写し出される当時の映像を見ながら、あの震災の前日に逝った義父の事を思いだします。
父との暮らしの中で、今でも心の中で懐かしく、そして感謝をこめて思い出す事があります。それはホロ苦い記憶にもつながるのですが・・・・。
哲平の障害を告げられた日・・・ 児童相談所からの紹介で大学病院を受診したのは、哲平が2才と8ケ月の頃でした。
その前に町の巡回療育相談で旭川荘の先生から「自閉的傾向があります。」と、告げられてはいました。
けれど出来れば間違いであることを期待して、大学病院の診察室の扉をノックしました。
『お子さんは自閉症です。』
なんのためらいもなく、当時大学病院に勤務していた
I 医師は、全く感情を含まぬ声でその病名を告げました。
「治るんでしょうか?」 震える声の私の質問に
『自閉症は脳の中の機能障害ですから、一生治るという事はありません。育て方にもよりますが、知恵遅れのような大人になります。』
2才までは普通の赤ちゃんと同じように言葉も出たし、字も少しは読めました。上の二人を育てた私の目には、この子の方が頭が良いのではと写っていたほどでした。 それを話すと、
『こういうお子さんは折れ線型といって、自閉症の中でも特に予後が悪いのです。 しっかり遊んでやってください。』
「児童相談所では、何かことばの訓練とかあると聞いたんですが・・。」
重ねて問う私に、
『ことばの訓練は無駄です。 それよりしっかり遊んであげてください。
私は折れ線型の研究をしているので、また半年ほどしたら見せに来てください。』
これが、これだけが、哲平の障害の告知の全てでした。
あれから7年以上もたった今でも、このような告知の仕方をした医師を赦す気持ちになれない私です。
いくら治らないといっても 「半年後にまた来なさい。折れ線型の研究をしているから。」はないと思うんです。
医師にとっては “折れ線型サンプル一例獲得” かも知れませんが・・、 親にとってはかけがえのない我が子です。
確かに医師は真実を語るべきで、ごまかしや故意の曖昧さは許されないと思うし、親は真実を知る権利があると思います。その意味でくやしいけれど、その I 医師の言った 「一生治ることのない障害」 というのは事実でした。
けれど人として、専門家として、告知をするからには、その患者や家族に救いと、そしてたとえ一筋でもいいから希望となる光を与えるような言い方があると思うのです。
明日からも頑張ってこの子と生きて行こうとおもわせる力を与える告知でないといけないと思うのです。
「お子さんはガンです。治る見込みはありません。治療もムダです。半年たったら経過を見せに来てください。私は小児ガンの経過の研究をしているので。」
そんな事を言う内科医がいるでしょうか。またそれに耐えられるお母さんがいるでしょうか。
確かにその I 医師は、岡山では自閉症「研究」では有名らしく、他の病院に移ってからもしばしば岡山のマスコミに登場しています。私としてはその評判をうっかり信じて、私と同じような告知をされるお母さんのいない事を祈るばかりです。
思わず本題から離れたところで、ウラミツラミを書き綴ってしまいました。いつもながらこの事になるとつい興奮して、八つ当たり的に話してしまいます。でも後からやってきて、つらいけれども障害の告知を受ける身になるであろうお母さんの事を思うと、・・・・こんな告知だけは絶対に許せないと思うのです。
私もその後は親身になって相談にのっていただける先生 (ここまで “先生” という言葉を意地でも使わなかった事、気がつかれました?) にも巡り合い、医者不信もやっと解消しました。
また当の I 医師にも、別の会合で出会った時、立ち直ったトバさんが、面と向かってその事を指摘しておきましたので、今は告知のやり方も少しは考えていただけていると信じております。
さて、気をとりなおして本題の「父との思い出」に帰って、障害の告知を受けた日から話を再開します。
そんなつらーい告知を受け、涙ながらに車を運転してやっと帰りついた我が家。哲平と二人、庭でボーッと何を考えるでもなく、何をするでもなく、ただ虚脱状態で・・・ ・・ ・・ ・・・どれくらいたっていたのでしょうか。心配していた義母には、結果だけは電話で知らせてありました。
ふと気がつくと、門を開け庭にそっと入ってきた父が、私に何かいいたげな様子で佇んでいます。
涙ではれた目をしていた私は、突然の義父の訪問に恥ずかしくて顔も上げられなかったのを覚えています。
日頃、無口な父で、我が家へも何か特別な用事でもなかったら訪ねてくるというような方ではなかったのです。 その父が、優しい口調で、いたわるように
「しっかり育てていかにゃぁな」
「あんたも頑張って、皆で育てていかにゃぁいけん」
そう言ってくれたのです。その言葉が、その情景がいまでもまるで昨日の事のように思い出されます。
つらいつらい、真っ暗闇だった、これまでの一生の中で一番つらかったあの日。けれど初めて父と心と心がふれあったと思えたあの日。私はうれしかった。
幸せだと思っていた私のそれまでの人生が、その告知の瞬間暗転し、真っ暗闇の人生に変わったように思えました。 “不憫な” 子を抱えた、「障害児の母」という “呪われた” (その時は、正直言って、そう感じられたんです)人生が私の人生だったのか――‐ と、どんどん暗い方へ行ってしまいそうな私の思考をひき止めてくれたのは、家族の優しさでした。
日頃、親しく話すこともなく、他人行儀のまま過ごしていた父でした。私はこの通り、おしゃべりで、でしゃばりで、「上品」とはとても言えない嫁です。もの静かな父には気にいられていないんじゃないかと案じておりました。そんな感じで、父は私にとってちょっぴり苦手な感じだったのです。でもそんな父との関係があの日を境に変わりました。
私たちは家族なんだ。私はひとりじゃない、と強く感じました。
悲しむ私を何とか励まそうと父は来てくれたのでした。能弁ではないけれど、その暖かさは現実逃避しそうな私の気持ちを、その悲しみのままに包み込んでくれたのでした。
喪って3年、あの日の事が何度も思い出されます。これからも阪神大震災の当時の様子がテレビで流される度、私はその震災の前日に逝ってしまった優しかった義父を思い出す事でしょう。
そしていつの日か、もし哲平がもう少しわかるようになる日が来たとしたら、哲平にもこんな暖かなおじいちゃんが、哲平の事を本当に愛していたおじいちゃんがいた事を伝えてやりたいのです。
先日、朝日新聞の取材を受けました。
「岡山県自閉症児を育てる会」 (旧名:岡山県自閉症児をもつ母親の会)で、青山新吾先生の第2回目の講演会を行うので、会と催し案内の欄にでも日時・場所などを掲載してもらえれば・・・と新聞社へお願いの手紙を書きました。
嬉しいことに朝日新聞社が記事にしたいと言ってくださり、取材の運びとなりました。
会のメンバーにも何人か集まってもらい、「自閉症児を育てる会」を作った動機やいきさつ、子どもの日常や苦労話など問われるままに答えていました。
そのうちに記者の方からこんな質問がありました。
『自閉症ってどういう障害ですか?』
集まっていたお母さんたち、もちろん私を含めて、口々に
・・ 「コミュニケーションに障害があります」 ・・・ 「言葉に遅れがある」 ・・・ 「こだわりがあって」 ・・・
・・・ 「常同行動がある」 ・・・ 「多動なんです」 ・・・ 「認知に問題が」 ・・・
と、いう風に、私たち自閉の子を持つ親には聞き慣れた言葉なのですが、全く自閉症をご存知ない記者の方にはチンプンカンプン、何のこっちゃー? って感じです。
口々に「自閉症」の説明をするというよりも、我が子の現在の状態だけをしゃべり続ける私たちでした。
自閉症にもいろいろタイプがあって、その状態は様々、まるで反対のトコもあって、皆であせって話せば話すほど、自閉症児の像は寄せ集めでちぐはぐなモザイク状態です。
記者の方、大学ノートにメモを10ページぐらいも書かれたでしょうか。けれど具体的には自閉症児の実際の姿は全然わかってもらえてないな、と思えるのでした。
一生懸命知ろう、分かろうとされる記者の方と、一生懸命分かってほしいと話す私たちなのに・・・これこそコミュニケーション障害。
日頃私たち自閉症児の親は、社会が、学校が、周囲の人達が、障害を理解してくれないとよく言います。それなのに新聞社の方が、「さあー、読者の皆さんに知ってもらう為に報道しましょう」 とわざわざ来てくれているのに、適切な言葉を持たないのです。
あせりと自分自身の勉強不足、言葉の足りなさにガク然としてしまう私たちでした。
本当にまわりに理解してもらうには、自分が適切な言葉を持たなくてはなりません。
自閉症というものを全く知らない人にでも分かるような言葉で話さなければなりません。
そして具体的に今困っていること、どんな援助が必要で、どんな事を周りに期待しているかを、分かってもらえる言葉で訴えていかなければなりません。
私ってただのおしゃべりなだけの人でした。反省、反省。少し勉強をやり直します。
これからは周りの誰にでも分かるように、自閉症の説明文、哲平の説明文みたいなものを考えて作ってみたい、と主人とも話しています。
取材のおかげで気付かされた事が多く、良い経験ができました。
結局、はずかしながら記者の方にはお帰りの際に、自閉症協会発行の「自閉症の手引き (あなたは隣のレインマンを知っていますか)」 のパンフをさしあげ、参考にしてもらうことにしました。
それでも、記者の方はさすがにプロ。上手にまとめられ、とても自閉症に理解ある記事に書いていただきました。巻末にその記事を載せています。
朝日新聞の O記者さん、本当にありがとうございました。
記事が載ってから、「朝日新聞読みました」 お母さん方からお電話をいただきます。
「おーっ、あなたもですか。 おたがい大変ねー。」 一緒に泣いたり、笑ったり。
3才・4才の頃の哲平をかかえた私が電話の向こうにいるみたい。とても他人事とは思えません。
「“今が一番大変な時” と考えたら頑張れるよ〜。」と励ます私。
本当にあの頃は大変だったっけ、と思い出されます。何かというと (いまだにその原因はわかりませんが)すぐパニックになって、大声で泣いて、ところかまわず寝ころんで動かない哲平でした。
通り過ぎる人は「なんてしつけの悪い子」と、さめた視線で行き過ぎます。その刺すような視線がつらい、その頃の私でした。
そんな私が今も電話の向こうで受話器を握っています。
力になってあげたい! つくづく思います。まだまだ自分自身の悩みも多い私たちですが、少なくとも療育機関の紹介や、就学前の良かった事や悪かった事(自責の思いも込めて)などの体験は披露できます。
そして何より同じ障害を持つ親同士として語り合えます。
やっぱり自閉症の親の会を作って良かった、同じ悩みを持つ人がこんなにいる。仲間を求めている。
そう思うと力がみなぎってくるような気がするのです。頑張りましょう、お母さんたち。いっしょにやりましょう。
皆で力を合わせたら、イバラの道もきっと開けるに違いない。そう信じられるのです。
前回のてっちゃん通信で紹介した『自閉症児をもつ母親の会』という名称は、「俺も入れてくれ」という父親や、「私も入りたい」という療育関係者の方の声におされて、『岡山県自閉症児を育てる会』に衣替えしました。
会費をはらってまで参加くださっているボランティアの方や先生方には、本当に頭の下がる思いです。
これからもこの子たちの育ち行く道筋を見守りながら、末長くよろしくお願いします。
ここで恒例の我が家の旦那からの投稿のページです。
前回の文章はあまりに固すぎる、というのがもっぱらの評判。
「申し訳ないけど、あそこを読んでてねちゃったワ」という方まで現れて、さすがに旦那も反省。
今度は少しは柔らかく書いたようです。
どうか今回は寝ないで読んでやって下さい。題は 「兄弟の日、夫婦の日」 だそうです。
先日、自閉症協会岡山県支部の会長をされている今田恒子さんとお会いする機会がありました。
とても参考になるお話が多く、私ひとりで独占しておくのはもったいないので、ここでその中からいくつか紹介させていただきます。
まずは、私がお叱りを受けた話。
この子たちは感覚が独特で、痛みもあまり感じないし、暑さ寒さも気にしませんね、という話題になった時、私が 「そうそう、うちの子(哲平の事)も日中暑くなろうと、寒くなろうと朝着せた服のまま。ほっといたらいくら暑くなっても、セーターを自分からは脱ごうとしないんで、親の方でこまめに気をつけてやってないと・・」と言いかけると、
「お父さん、そんな育て方をしててはダメですよ。うちの子も昔は真冬でも半袖でしたが、口出しをしないでいると、そのうち自分で
『これではさすがに寒い』
と思って、冬の服を着て行くようになりましたヨ。」
「将来、自立を考えるなら、誰に言われなくとも自分の着る服ぐらい、自分で選べるようにしておかないと・・。
親がいつまでも一緒におられる訳でもないし、今少々風邪ぐらいひいたっていいじゃないですか。」
そう、将来の生活を考えるなら、今からその時を見通した子育てをしておくべきでした、反省、反省。
それにしてもさすがに長年自閉症児を育ててこられた先輩の話は含蓄がありました。ほかの話も全く納得できるものばかり、貴重な経験でした。
それでは、その中からもう一つ。
「自閉症の子をずっと育ててこられたお母さん方は、他の自閉症児の扱いもみんな上手。だから県支部でのバス旅行の時などは、お母さん方には必ずよその子の隣の席に座ってもらいます。もちろん一番キツい子の隣には私が座ります。最初はこう (このあたりは、肩をすくめ、顔をゆがめるジェスチャー入り) やって嫌がっていますが、バスの旅は嫌でも長いんです。そのうち本人達も疲れてきて、力が抜けてきます。そうやって他人を受け入れられるようになり、いっしょに社会生活をおくれる練習にもなるんですよ。」
本当にその通りだと思います。生活体験のためには、自家用車よりも公共機関の方が良いと考え、我が家でもバスなどの利用を心掛けてはいますが、やはりその車中では他人に迷惑をかけないよう、パニックをおこさせない事だけに終始していたと思いました。
自閉症児達だけの旅行の時などは、こんな工夫も素晴らしいなと感心しました。
それにヒントをもらって考えた事を一つ。
確かに我が家の奥様も、よそのお宅の自閉症児のあつかいは上手。他のお母さんも、こと自閉症児への接し方については分かっていらっしゃる方ばかり。
そこで近頃よく話題になる、兄弟姉妹へのへのお話。
ともすれば手がかかるこの子(我が家では哲平)たちに気をとられ、ついおざなりになりがちな兄弟たち。たまには遊びに連れて行って、ヒイキする機会を作ってやろうとしても、残される自閉症の兄弟の事を考えると、結局父か母かどちらか残ってその子の世話をせざるをえない、というのが現実ではないでしょうか。
そこで提案! 『兄弟の日』
交替で自閉症のお子さん本人のほうを預かりあって、その日は兄弟にとっての 「特別な日」。
お父さん、お母さんを独占できる、「君だけの特別の日」。
たまにはそういう日があってもいいんじゃないでしょうか。
病気やケガ、あるいは冠婚葬祭のおりには、一時的にお願いできるレスパイトケアなどの制度も少しずつできつつはありますが、それ以外の目的での利用はまず無理というのが日本の現状でしょう。
それを制度外でやれるのは、私たち親同士だけだと思います。
日頃、口には出さなくとも色々我慢や忍耐を強いられているであろう兄弟たち。
成長するにつれ、両親の苦労を見ているうち、 「自分の方は仕方ないナ」 と身を引くことを覚えてしまう兄弟も多いようです。
せめて、年に何度かはおもいっきり両親に甘えられる日を作ってやりましょう。
もちろん、ギブ アンド テイク、一人っ子の家の方には、替わりに 『夫婦の日』 を提供。
御夫婦だけで、新婚時代にかえって甘い一日を過ごしてください。
この「てっちゃん通信」を目に止められた方で、趣旨に賛同される方がおられましたら、ぜひひと声かけてください。
二家族からでも始められるのが、制度外のいいところです。
( ・・・などと、勝手な提案をしましたが、実際のところは我が家ではこの話は奥様頼り。情けないことながら父親である私としては、よそ様のお子さんを預かっても、おそらくオロオロするばかり。
せいぜい 「今日は哲平のほうはまかせといて!」 と言うぐらいなのが関の山。
まずは、この話、我が家の賛同から・・・ ・・・ 奥様、いかがでしょうか・・・ )
上の暗号文(?)を読んで、すぐわかった人はえらい! ではヒント・・・
『哲平がこれを書いた時は、歌を口ずさみながらゴキゲンな様子でした・・ 』
そう、これは昨年の秋、哲平が四年生の時、学習発表会でクラスのみんなと合唱した「もののけ姫」の歌詞です。
< はりつめた弓の ふるえる弦(つる)よ 月の光にざわめく おまえの心
とぎすまされた刃(やいば)の美しい そのきっさきによくにた そなたの横顔> (詞 : 宮崎 駿)
まがりなりにもみんなと合わせて歌う事ができて良かったと思っていた歌ですが、実は哲平にはこんな風に聞こえていたんですね。
耳からの聞き取りが難しいといわれるこの障害を、改めて実感させられた文です。 (初めて見た時は、家族中で笑っちゃいましたけど)
でも、こんな理解不能な、それこそ暗号文のような世界の中で・・、それでも皆と合わせて生きようとしている・・・ そんな哲平がいじらしくて、愛しくて、思わず抱きしめてしまいました。
● 哲平と小さな旅
哲平により良い社会体験を、と思い、大学1回生の姉と三人で1泊2日の旅を計画しました。
若いi頃、ユースホステルを利用して旅をよくした私です。 (実は我が家の旦那とも、学生時代ユースホステルのサークル交流会で知り合った私です。)
まかせてちょうだい! と大見得をきって2人を引き連れ、いざ出発!!
目的地は「鷲羽山ユースホステル」
昔は若い青少年であふれていたユースも、今は “昔の” 若い人(30代〜40代?)や家族連れの利用する宿に変わっていました。家族3人、一部屋を使わせてもらえてラッキーでした。
昔なら 「男女は別々の部屋」 というのが鉄則でしたネ。障害児連れにはありがたいユースの様変わりです。
親切なペアレントさんともすっかり仲良くなって、「てっちゃん通信」でユースの宣伝をする約束しちゃいました。
『鷲羽山YHはとっても良い宿です。各部屋から瀬戸大橋が目の前に見渡せます。大橋ごしに沈む夕陽はまさに絶景で、きっと貴方の旅情を誘うことでしょう。』
(ちなみに哲平とお姉ちゃんは二人で夕陽を見たそうです。疲れた母は、その時高いびき。)
約束とおり宣伝したので、鳥羽さんの名を出すとおかずが一品増えるとか・・・ よろしくごひいきのほど。
<実際に次の年の夏、「育てる会」の研修旅行の際、貸切で利用させてもらいました。ペアレントの奥様が学生時代 「自閉症の研究・援助サークル」に所属(・・まったくの偶然)されていたそうで、本当に安心して泊まれる宿です。お世辞ぬきに、ぜひどうぞ>)
遊覧船に乗ったり、バス・電車に乗っての社会体験を広げる旅行です。キップを買ったり、お釣りをもらったり、JRのホームで長い間待ったり、と忍耐も必要な旅でした。
この旅で感じた事は、哲平もずいぶんいろんな事が出来るようになったなーって事です。
騒がない、我慢できる少年に育ってきたなーっとうれしく思える事でした。
「とても哲平をつれて旅館なんかには泊まれないよー」と思ったのは3才の頃。その頃は多動とパニックのオンパレード。それ以来 「ドライブ&オートキャンプ」 というのが我が家の旅の定番でした。
でも、ある友人(自閉の女の子のお母さん)のハワイ旅行の話を聞いて、一念発起したのです。
彼女は毎年家族でハワイへ出かけるそうです。 「困る事なんか、別に何もないヨ」 と言うのです。
なあーんだ、もしかしたら哲ちゃんの旅も、案ずるより生むが易し、かもしれない・・・。
それが、こんどの小さな旅のきっかけでした。
では、旅のエピソードを二つほど。
旅のエピソード T
ユースへ向かう電車の中の出来事。
初めはとってもおとなしく座っていた哲平くん。後ろの席の女の人が、降ろしていたブラインドをパッと手ではずして上げるのを見た瞬間、 「パシーン」 という音に刺激されたのか、やにわに立ちあがり自分も 「パシーン」。
「いけません!!」 お姉ちゃんと二人で声をそろえ、手を押さえてジーッとにらみつけます。
ニヤニヤとごまかし笑い、テレ笑いの哲平に思わずプッと吹き出してしまう私。なおもにらもうとするけれど、一度吹いてしまったらもうダメです。おかしくておかしくて、母はたまらず大笑いです。
「ダメでしょ、笑ったら! しっかり怒っておかないと、またやるよ。」 と、お姉ちゃんに叱られてしまう、ダメなお母さんです。
「だって、おかしいんだもん。」 哲平の幸せそうな顔が笑っています。
笑っているけど、わかってるよネ、哲平くん。 もうやらないよネー。
旅のエピソード U
次の日はJRに乗って瀬戸大橋を往復。なんと先頭の車両からは、パノラマ式に前方が見えるのです。
瀬戸大橋ってすごいんです。鉄の屋根 (上は高速道路です) が延々と続いていて、それが波打ちながら、前へ前へとつづいているんです。そしてまわりは全部、海。 異様な美しさに満ちていて、なんだかこわいようで、それでいておもしろいんです。
「オオーッ !」 と叫んだきり、哲平は言葉もなく、じーっと見入っておりました。
「ええもん、見てっぞーー !」 って感じ。 目をきらきらさせて、実にイキイキした表情です。
いい旅、ほんとにいい旅でした。
● 朝日新聞
上の記事とてもうれしかったのですが、あえて少しつけ加えさせていただきます。
まず、なにより「写真うつりが悪い」「もうちょっとかわいく写ってる写真はなかったのか! まるでおばあさんやないか」
・・・誰です、年のせいとかつぶやいてるのは・・・
もうひとつ、記事の中で『運動会』と紹介されているのは、『リズム運動などの会』と話した言葉の略で、リレーや綱引き、騎馬戦などとだいそれたことは考えておりませんので・・・
前回の「てっちゃん通信」を出してから、たくさんの方から暖かいお便りや励ましのお手紙をいただきました。
ほんとにありがとうございます。お返事を書かなければ、と思ってはいるんですが、「次も読ませて下さいネ」という声に甘えて、この号をお返事がわりにお届けさせていただきます。
また、感想なんかありましたら送ってください。本当にジーンとくるお便りが多く、作って良かったなーって感じです。
その中に、「私も出してるのヨ」って、通信を送ってくださる方もいらっしゃいました。みなさんもドンドン作って「交換通信」しましょう。
お便り待ってます。
鳥羽
美千子
メールも待ってます。 リンクも待ってます。 teppey@mx3.tiki.ne.jp トチタロ