sorry,Japanese only

通信

       Vol. 1 

                   97.11.27 

 運動会のあとで

 岡山県自閉症児をもつ母親の会

 視点を変えよう の 巻

 お兄ちゃんを育てよう の 巻

 大江健三郎の講演会 の 巻

 父のひとりごと

 愛と闘いの日々

 オメンーコワイヨ

 名札をつけよう の 巻

                                               タイトル  似顔絵 : 土井 比登美さん
                                                      題 字 : 国正 恵美子さん

 

             てっちゃん通信ホームページへ    てっちゃん通信2号へ                                

 運動会のあとで

山から吹き降ろす風に枯れ葉が舞います。今日は寒いです。お元気ですか?
いや〜それにしても、サッカーの試合見応えありましたね。
途中で何度もドーハの悲劇が再びか・・・とドキドキしながら見ていました。
最後の岡野のシュートの決まった瞬間 ・・・  ・・・ ジーンとしました。
途中日の丸を振っての応援では、思わずサポーターといっしょになって、ニッポン、ニッポンと叫びたくなりました。

   (少々古い話題ですみません。97年当時を思い出しながら読んで下さい。)

 日頃、愛国心とか、日本人としての誇りとか言ったものは持ち合わせていないと思っている私が、(もちろん日本は好きですヨ)世界は一つ、勝ち負けなんて関係ない、参加することにこそ意義がある、なんて言っている私が、なぜなのか、民族の血が騒ぐというのか、『勝ちたい、勝ってほしい』 とひたすら願っていました。


 それに関連して思い出すのが運動会。
てっちゃんが参加すると勝てないですね。リレーもみんなと平等で一緒に走ります。
みんなは必死で走ります。『勝ちたい!!』 ってみんな必死です。

 けれど哲平の番になると、急にマイペースにペースダウンです。トップで受けたバトンも次の人に渡すまでに、いつのまにかはるか最下位に転落です。見ている親もつらいけれど、“勝ちたい!” チームメイトのみんなはもっとつらい。でも皆は最下位から脱出するぐらい頑張ってくれるのです。

 実はてっちゃんの入っているチームは学年の最強チームなのです。先生の配慮でてっちゃん以外の子は速い子ばかりで揃えています。だからいくら哲平がマイペースでのんびり走っても、他のチームとなんとか競争になるのです。でも本当はてっちゃんがいなかったら、メンバーに入っていなかったら絶対優勝できるんです。

だからこそ、ここで 「哲っちゃんさえいなければ・・・ 」 と、思う子もいるでしょう・・。『勝ちたい! 勝って!』 と日本のイレブンを必死で応援していた私には、いちがいにその思いを責める気持ちにはなれません。


 子ども達も年々大きくなって、思春期に近づくにつれ、1年2年の頃あんなに可愛らしかった子達が最近結構きついんです。面と向かって言ってくれる子はいませんが、そっと聞いてみると、時々つねられたり、叩かれたりしている事もある、と教えてくれました。
 みんなが次第に大人に近づいていく中で、たったひとり哲平だけがノホホーンと生きてるみたいで・・・。でもつねられるのは痛いでしょう。いじわるされるのは悲しいでしょう。おしゃべりできない子なので、学校の様子は本人からは聞けません。

 健常児達も皆、ストレスをかかえ、厳しい現実を生きている子が多いようです。今の世の中、子どもにとってもつらい事が多く、自分を守ることだけで精一杯 ・・ らしいのです。
 思いやりとか愛情とかは、それを自らにいっぱいかけられて育った子でないと、自らもはぐくんでいけないのかもしれません。

 私は言いたい!! 「健常児のお母さん、お父さん、もっと子どもを見てやって。愛情をそそいでやって!」 って。
本当に寂しい子が多いんです。家へ帰っても誰もいなくて、お母さんは7時頃にならないと帰ってこないそう。帰ってきても、ゆっくり話なんか聞いてくれない ・・・ そんな子が多いようです。

 哲平のまわりをとりまいていてくれる子ども達が幸せでなければ、哲平も幸せにはなれないでしょう。
まわりの子の幸せの為には私たちには何ができるのか? そんな子のお母さんやお父さんも、決して幸せ一杯にはみえないんですよね。だからまわりの親も社会も、みんなみんな幸せになれなければ、哲平も幸せでないって事になるんでしょうか。
 私は無力だなーって、つくづく思っちゃうんです。
 哲平がいじめられてるかもしれない、ていうだけでこんなに辛いんです。

 ・・・・運動会前後にはちょっとめげてたトバさんでした。


 今は再び元気ですよ。 相変わらずとっても楽しそうに暮らしている哲っちゃんに励まされて、今日も元気なトバさんです。
子ども達も根っこのところでは、みんな優しい気持ちをもって、哲っちゃんに関わってくれているんです・・・

 

                                    

 岡山県自閉症児をもつ母親の会

 話は変わってトバさんは『岡山県自閉症児をもつ母親の会』という会を、岡山の仲間たちと作ったって話をしましょう。

私の自閉仲間(何か変な言い方ですね)は、兵庫県の自閉症協会の方や、朝日新聞の自閉症セミナーで一緒に勉強したお母さんたちで作った「ミルクの会」の方たちが主で、大半が大阪や兵庫県の近畿圏の人達なんです。岡山でこれからもずーっと暮らしていこうというのに、助け合ったり、将来のことを語ったりする人がまわりにあまりに少ないのが気になっていました。
 「今やらなければいけないのは仲間づくりですよ。」
 「子どもが小さいうちに、しっかり手をつなげる人を作っておくべきですよ。」
そう、尊敬する兵庫県の自閉症協会の先輩のお母さんに言われました。それもずーっと前の事です。

 それから、それなりに頑張ってきました。地元(岡山県の山陽町)で障害児の親子遊びの会を作ったり、「手をつなぐ親の会」に入ったりもして、結構頑張っているつもりではいるんです。でもそれぞれ障害が違うせいか、お互いぴったりこないこともあるんです。同じ障害児を持つ親同士、わかりあって協力はできるのですが、そのわかりあえる範囲での「協力」で終わってしまう事も多いのです。

 自閉症の親の気持ち、この子たちの行動の大変さ、思春期や大人になるにつれての不安・心配などは、ダウン症の方や軽い知的障害の方の親御さんたちにはわかってもらいづらく、将来のグループホ−ムや就労の場の事などを話していても、ピンときていただけないようで、あーやっぱり自閉症児の親って孤独って感じなんですよね。

 同じ障害児の親だといっても、自閉症自体が誤解されやすく、なかなか理解してもらえないせいか、自閉の親は自閉の親同士でないと話が合いにくいところがあるみたいですね。もちろん、別の障害をお持ちの方も同じように、ダウンの方にはダウンの方々なりといった、他の障害をもった子を持つ親にはわかりづらい悩みもお持ちのはずです。その時本当に共感しあえる“となるのは、同じ障害の子をもつ親同士のような気がします。
 そしてその核同士がおたがい結びあって協力して進んでいけたらな、というのが今の正直な気持ちです。

(これは97年当時の「正直な気持ち」です。今は障害児の親子遊びの会も月1回の活動を続けていくうちに、障害の種別を超えた共感の輪が広がってきました。「継続は力なり」です。共に行動する中から本当の理解が生まれてくるようです。このかざぐるまの会の事も、機会がありましたらまた紹介していきたいと思っています。)

 それも、その核となるのはできれば子ども達の歳が同じぐらいの人達同士がいいですね。
成人を前にした大きいお子さんをお持ちの親御さんの中には、もう切実な問題として、子どもに合った入所施設を捜すのに必死、という方もいらっしゃいます。もういまさらグループホームや通所の作業所を作っていくなんて、時間的に無理無理って感じです。(岡山県の財政赤字のためか、障害者プランとやらが、地元までなかなか浸透してこないせいでもあるのですが・・・)

 このまま毎日アンノンとしていると、我が家もすぐに同じようになっちゃう。早く、早くなんとかしなくっちゃ、・・・・でも、だあれも何にもやってくれない。

 ならばと、「この指とまれ!」をしてみました。5人の友達が集まって「岡山県自閉症児をもつ母親の会」ってのができました。頭に「岡山県」ってつけたのは、私を含め5人のうち4人までが郡部に住んでいたので、名前としては「岡山県」なのです。(いっそのこと「全日本」にすれば ・・ という声もあったのですが ・・ さすがに恥ずかしいので ・・ 却下となりました。)

 この会が主催して、(平成9年)11月16日に、伊部小学校ことばの教室の青山先生に講演をしていただきました。
 

 その講演会でのお話。

 講演の後で『何か一つでも、家に帰って頑張れる事を宿題に欲しい』と、先生への質問状に書きました。
答えは「もし何か言うと、誤解してとんでもない事になるといけないので、言えません。」 でした。
 そこで私は考えた。講演の中で、
「なんでもいいからやらせきる。暮らしの中で100%やらせきるものを見つける。」
 と、先生は言われました。また、
「子ども達は、“やってみたけれどうまくいかなかった。” そんな苦い体験をつんできて、その結果 “自分でやれた”という実感を持たないで育ってきた子が多い。」とも言われました。

 だから、『どんなことでもいいから自分でやれた、やりきれた、という実感を積ませてやりたい。そして親もやらせきれた、という実感を積んでいこう。』 これを自分で勝手に次回の講演会までの宿題に決ーめたっと。これなら、そんなに『とんでもない事』にはならないでしょう。

 それにしても、この講演会のおかげで、知っている、分かっているつもりだった、先生のお話ややり方が、またもう少しスッキリした形で私の中へ入ってきた気がしました。準備の段階ではいろいろ忙しかったこともあったけれど、また大勢の人達と知り合えたり、刺激をもらい、明日からまた哲平との生活を頑張ろう!! と元気をつけてもらった気がしています。

 ともあれ、今日は講演会が終わって(50人近くの人が来てくれました)、忙しさからはやっと開放されて、今度は我が家の新聞でも作ってみようか、とこの原稿を書いている所です。

 

                                  


 では、話は変わって・・・

 視点を変えよう の 巻

 昨日、家族5人そろって「くるくる寿司」へ行きました。(講演会の準備と進行で疲れちゃって、“晩御飯パスッ”って感じだったんです) 日曜日の6時過ぎで、店内は混みに混んで、順番待ちの人がズラリ。30〜40分待ちという状態です。待っている人達もみんなイライラしています。
 待合の椅子に5人座って黙ってジーッと待つのもつらいので(なにしろ哲平が一緒です)、エーイこの場で家族団欒やっちゃえと、おしゃべりを始めました。要するに「待って」いなけりゃつらくもないんだ、とお隣の人達にも話しかけたりもして、結構楽しい時間でした。順番を呼ばれた人たちから「お先に」と会釈して立っていかれ、あっという間に時間が過ぎて、ちっとも長く感じませんでした。

 何でも楽しんじゃお〜〜っていうのが、最近の我が家のモットーなんです。前から自閉症児の親をこころならずも楽しんでいる哲平くんの両親と、プラスお姉ちゃんとお兄ちゃん、それになにより哲平くん。何だって楽しめちゃうのですよ。

 

                                  


 再び、話は変わって・・・

 お兄ちゃんを育てよう の 巻

 その講演会の時、お兄ちゃん(97年現在:中1)にVTRカメラの撮影を頼みました。いつの間にか勝手に画面が消えちゃうこともある、少し調子の悪くなったカメラです。
 「お兄ちゃんでなくっちゃ」とおだてて、バイト代も払うからと、頼みこんでカメラマンをやってもらいました。

 自閉症についての講演も自然に聞いてもらえるわけで、まさに一石二鳥なんですよね。
哲平の障害についても理解してくれたり、親たちの真剣さも分かってくれたら好都合・・なんちゃって・・。お兄ちゃんには内緒です。
でも、みんなから「エライわねー」と褒めちぎられて、まんざらでもなさそうなお兄ちゃんでした。

 

                                    


 またまた、話は変わって・・・

 大江健三郎の講演会 の 巻

 私の生まれ育ったところは、兵庫県の西脇市という小さな町です。播州のカラッ風がトバさんを、小さいけれどピリッと辛い、こんな性格に形づくりました。(ちなみに、高校駅伝で有名になった「西脇工業高校」が私の母校です。女生徒が少なかったので結構モテました。)

 西脇市は『日本のヘソ』と自分勝手に名乗っているズーズーしい町です。(どこかこの考え方ってトバさんに通じているかな? なんて言ってるのは誰じゃ) でも、根拠は一応あるのです。日本の標準時を決める東経135度線と、日本の南北の中心ぐらいにある北緯35度線が西脇市で交差しているのです。それを根拠に何もない田舎の町が、日本国中に宣言したんです。「ここが日本の真ん中だぞー!」 って。

 けれど他の理由をつけて「我こそが日本の真ん中だー」という町が、これまたいっぱい現れて、それで『第1回 ヘソサミット』なる催しが開かれました。そしてその記念講演に、大江健三郎氏と息子の光さんが招かれたって訳です・・・・。


 ここからやっと本題です。
大江健三郎氏は講演があまり上手とはいえません。けれどもトツトツと語る話しぶりの中に人の心をうつものがあって、トバさんには結構グッときたんです。
 その話しがしたくて書きます。

 光さんには弟さんがいます。弟さんも小さい頃から、兄さんの光さんと同じように言葉を連ねる事は少ないお子さんだったそうです。
例えば 「いままで遊びに行った所で一番楽しかったのは?」 なんて聞くと、おもむろにポケットから 『ディズニーランドの写真』 を取り出して見せるような子だったそうです。
 だからポケットにはいろんな大切な宝物がつまっていて、それを時に応じて出すのだそうでした。

 さて、小学校の入学試験の時の事です。先生が家族の事をたずねられたそうです。
「お兄さんて、どんな人ですか?」
 彼は障害があっても、兄さんの光さんがとっても好きで、尊敬もしていました。
『障害があります。』
 そんな言葉で表現したくはなかったのでしょう。それにそんな言葉では表せないほどの思いを兄さんに対していだいていたのでしょう。
「僕の兄はこれです。」
 と、プラモデルの部品である 『 Y 』の字の形をしたジョイントをポケットから取り出して先生に見せたそうです。面接していた先生は意味が分からず困られたようです。
 『兄はジョイントのようなもの。なくてはならない存在で、兄がいる為に愉快だったり、私達は家族なんです。皆、家族です。』
 そう、弟は言いたかったのだと思う、と大江健三郎さんは話されました。
 「家族のきずな」です。一人ひとりをつなぐきずな、まさにジョイントの役割を光さんがになっていると言われました。弟は兄を誇りに思っています。小さい時から変わらずそうでした、と・・・・。

 私とっても感動しました。
前から我が家にとっての哲っちゃんの役割や位置を、「とっても大切な宝のような子です。」 とか、「哲平がいるから元気だし、哲平がいてくれるからみんな仲良くやれるのよ。」とか言っていました。
 けれどこれからは私もポケットの中からジョイントを取り出しましょう。「哲平はこれです!」 って。
哲平は私達にはなくてはならない、私達夫婦を、親子を、そして兄弟をつなぐ大切な大切な家族のジョイントです。


 講演会の後、光さんの音楽会が、CDの録音の演奏もされたフルートの小泉浩さんと、ピアノの荻野千里さんにより行なわれました。

 最初のフルートの音が流れ出した途端に我知らず胸がキューッとなり、目頭があつくなりました。いいんです。きれいなんです。音楽が透明で純なんです。
 私にも音楽にこんなに感動できる感性がまだ残っているなんて・・・それを思うとまたうれしくなり感謝の気持ちがあふれてきます。

 最後に光さんが、「こんなにたくさん演奏して聴かせてくれてありがとう。」と挨拶されました。
とってもいい感じで、会場もみな一つになったようでした。光さんがまるっきり知らない同士をつないでくれました。本当に皆をつなぐジョイントなんです。ステキな一日でした。ありがとう光さん。

 我が家の哲平もどこかで、家族だけでなく人と人とをつなぐジョイントの働きをになっているのかも知れないですよね。

 

                               

 さて、ここで我が家のダンナが投稿してきたコラムです。
少々かたいのですが、お許し下さい。

 父のひとりごと

 先日行なわれた(97年10月)、『全国自閉症者施設協議会大会』に参加させていただきました。
旭川荘バンビの家の父親の会の仲間達と、将来の岡山での自閉症施設をつくっていくための参考になればと、保護者の立場からの参加でした。その時の感想からひとこと。

 『暮らしの豊かさについて』 というテーマの第2分科会に出席したのですが、やはり最近の 「施設から地域へ」 という流れの中にあって、ここでも自閉症者にとっても本当の豊かさは地域の 「普通の生活」 にあるのではないか、というのが大半の方の意見でした。
 それはある意味では施設(入所施設)としての自己否定ににつながりかねない意見でしたが、それには
 「施設には施設としての役割があり、今、現に施設を必要としている人がいるかぎり、それに応えていく義務がある。」 という意見や、
 「自閉症者が地域生活をおくっていくためにも、それをバックアップしていくシステムが必要であり、これからは施設がその地域で暮らしている人を支える『地域センター』としての役目もになっていかなければならないのではないか。」 という声が答えていました。

 その中で、では施設の中で実際に暮らしている自閉症の人たちへの豊かさを、いかに保証していくか、という議論になり、「個々のニーズに応じて、選択肢をいくらたくさん用意してあげられるか。」 という実務的な話になりました。限られた予算と人的配置のなかで、いかに工夫して入所者のニーズに応えているか、というような具体的発表もあいつぎました。

 そんな発表を保護者の立場から聴いていて、施設職員の方々の情熱、努力には本当に頭の下がる思いなのですが、なぜか心の中を一抹の『寂しさ』が吹きぬけて行きました。

 朝起きて、「今日の作業は何をやりたいか」、という選択肢は用意されていても、
今日は作業はやめて、家に帰ります。」という選択肢が見当たらないためかもしれません。
 聞けば、高機能の人でも自ら選んで施設に入所してきた人は皆無で、また一度グループホームや生活寮などに出た人で、もう一度施設に戻りたいという人もいないそうです。
 ですから、いかに施設で豊富に選択肢を用意しようとも、もともと施設に入所するということ自体が彼の選択肢には入っていなくて、それはあくまで親や周囲の選択の結果でしかなかったのでしょう。そのための『寂しさ』だったように思います。

憲法22条『何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。』
 障害者にとっては日本国民として生まれながら、「措置」という名のもと、その基本的人権が認められない事がまだまだ多いようです。
父として、親として、息子の本当の意味での豊かさを獲得し、守ってやるためには、今後も課題は山積している事を実感させられた一日でした。

 施設職員の方の努力には本当に敬服しながらも、できれば我が子には
「自閉症者のための通所施設・作業所」 + 「地域の中でのグループホーム」 + 「それを支える支援センター」
というような組み合わせの選択肢も用意しておいてやりたい。そう感じながらの三次市からの帰路でした。

 

                                 

 ひき続きまして、この前兵庫県の自閉症協会に出したトバさんの原稿です。文集にのるそうです。
最近の我が家をうつしていておもしろいので読んでください。

 愛と闘いの日々

鳥羽 美千子                           

 先日の事、またまたつまらない事でダンナとケンカをしてしまいました。
『自閉症とアスペルガー症候群』などという本を、「わりとおもしろかったヨ」などとホザく夫に思わずムカッ。
なんでも高機能な自閉症によく似た障害らしいのだが、本の裏の定価を見て眉毛が我知らずピクピクッ。またも4千なにがしものお金をよくも使ってくれましたね。
 「あんたの子はアスペルガー症候群やのうて、れっきとした自閉症や!」
 「何勉強しとんの! 勉強より実践や! 親は評論家になんかならんでええのヨ!」
きつい言葉がポンポン、アーすっきりした。

 「子育てで悩んでいる事は別にない。」などと平然とノタマう夫には現実がちっともわかってないように思えてしょうがない。
最近、少しずつ息子の様子に変化が感じられる。ひとりごとが止まりにくくなったり、一時おさまっていたソファーのピョンピョン跳びがまた復活の兆しをみせはじめている。すわ、いよいよ思春期の前段階か? と、まあ母は悩み始めているのです。

 そんな時に「同じ問題行動の事例に、石井哲夫から石井聖、はてはTEACCHから抱っこ法まで、いろんな対処療法を並べて書かせて、結構この本もおもしろいヨ。」などと、また別の本を片手にコリもせず、全く気楽そうに喋る夫を持った私ってなんて不幸なんでしょう。 皆さん同情してくださいネ。

 さて、息子は明後日から林間学校です。困った事がある。『夜は体操服で寝る』、これが今回の林間学校でのきまりです。
ところが、生まれた時から 「寝る時はパジャマ」 と決まっている。息子はこんな理不尽な予定変更に応じられるだろうか? もちろんこのままではパニックをひきおこすこと必定。

 そこで三日前から体操服で寝る予行演習です。
初日、「話せばわかるよ」 と楽観していた例のダンナは息子のパニックに大慌て。一生懸命説得している様子につい笑ってしまう。それでもなんとか寝かせつけてくれて、息子もパニックを克服。二日目からは我慢して体操服で寝ている。
 大騒ぎしたが「話せばわかる」って事は確かでした。これはまあいい。でも頭デッカチなだけでは、実際の役には立たないと実感した事でしょう。

 それとひきかえ、私は実践の人となりたい、と思っています。もう本を読みあさる時期は過ぎた。良い本もあるにはあるが、それを机上の空論で終わらせたくない。子どもとつきあう中からより良い道を見つけて行きたい。
 どんな良い本にも哲平自身の事は書いていません。我が子にとっての最良の方向を自分なりに捜して行きたい。
『書を捨てよ! 我が子と向き合え!』 と、まあ母は、最近少々カゲキなんです。

 とは言っても、私達二人とも哲平がとっても気にいっている。哲平が大好きで、哲平といると楽しいのは同じ。そこの所は共通しているので、これからも夫婦仲良くやれたらナと思っています。

 

                               

 

 オメンーコワイヨ

 

西脇市の私の実家には、アフリカみやげの原住民のお面が飾ってあります。高さ50〜60cmもある、本物です。
去年までは怖がって、応接間の前を通る時、目をつむって走って通っていたほどです。
それが今年、大江健三郎氏の講演を聴きに帰った時、上の絵を書きました。
そして、自ら 『オメンーコワイヨ』 と書くことで、怖さを克服できたようです。
その後は、お面を抱えて笑いながら家じゅうを走りまわって、おじいちゃんにおこられていました。

       

                           

 では、最後に最近の我が家のエピソードから、もうひとつ・・・

 名札をつけよう の 巻

 「この本をお父さんに渡して」 と頼んだ時、哲平は手近な人に渡そうとしてしまいました。
 「お父さんよ! お父さん!」 お兄ちゃんに渡そうとしていたのをやめ、お姉ちゃんにわたしてしまう哲平。
 もしかしたら哲平はお父さんが分かってないのかしらと、大発見をした気になって、「この人だあれ?」 と私を指さして聞いてみます。
 「この人だあれ。」 とオウム返しです。ガーン、四年生にもなって、お母さんも分かっていなかったのか・・ ショック! ショック!
 そこで一考。哲平は耳から入る情報には弱いけれど、目からはすんなりはいります。家族全員に名札をつける事にしました。  

 それぞれの胸につけました。
 「この人だあれ?」 哲平は「おかあさん。」 と名札を見ながら答えます。家族全員をそれぞれ名札を見ながら答えます。
 「この本をお父さんに渡して。」 さっと名札をつけたお父さんを確認して、今度は正しく渡せました。
 二日目も少しわかりづらいようなので、ひきつづき名札をつけて過ごしました。
 三日目、「私はだあれ?」 胸のあたりを捜すけれど、今日は名札はありません。けれどもう覚えています。「おかあさん。」
 「じゃ、この人だあれ?」と哲平を指さすと、「とばてっぺい。」と答えられました。

 前にはちゃんと答えられていたのに、いつの間にか自分の名前も答えられなくなっていた哲平でした。自分が名前を持った一人の人間と、改めて初めて知ったのかもしれません。自他の認識がはっきりした形をとって分かったという事なのかな? なあーんて思ったりして。
 それにしても名札をつけるアイデアをすぐ思いつくとは、トバさんてさすがエライ!・・・

 障害を持った子との毎日は、とてもむずかしいものです。その場その場で即対応をせまられる事柄が多いのです。ゆっくり考えてから対応していたのでは間に合いません。後で言っても分からない事が多いからです。
 怒るのも、ほめるのも、パニックも、前後の状態を見て、即判断する事が要求されるのです。
かしこい親になりたい、とつくづく思います。

 

 トバ家から、友人や知り合いの方へ、哲平の事を少しでも分かってもらいたいので新聞を発行する事にしました。
これはとりあえずその第1号です。これからも書きたい事がたまったら発行する、という調子でやって行きたいと思っています。
感想や意見などお便り下さい。待ってます。                   鳥羽 美千子


 そんな思いで発行した「てっちゃん通信 1号」でした。名刺がわりにアチコチに手渡ししているうちに(もう1000枚ぐらい配ったでしょうか)、おかげで哲平のことを知っていてくれる人がまわりに少しずつ増えてきました。
 また、改めてこのホームページでも哲平のこと、自閉症のこと、を分かってもらえる方が、更に一人でも・・・と、願っています。

        お便り待ってます。  teppey@mx3.tiki.ne.jp     トチタロ

 

1号目次へ     てっちゃん通信ホームページへ   てっちゃん通信2号へ