|
最初は1,000トン台の小さな船で開始されましたが,1850年頃には3,000総トンくらいの船が現れるようになりました。 |
1845年 に初めてスクリュー船が出現し,1850年代に次第に外輪船からスクリュー船へと比重が移っていきました。
ホワイト・スター・ラインの創業 1867年 トーマス・ヘンリー・イズメイ (映画タイタニックに登場するブルース・イズメイ社長の父 )が,それまで帆船を運航していたホワイト・スター・ラインの支配権を獲得。 1871年 ホワイト・スター・ライン,汽船運航を開始。 1873年 ホワイト・スター・ライン客船の重大事故 ホワイト・スター・ラインの客船アトランティック号(3,707総トン)は嵐の深夜,カナダ・ノバスコシア半島の海岸に激突,死者562人を数えました。 当時,航海の途中で燃料の石炭が足らなくなることが時々ありました。 アトランティック号は3月20日リバプールを出航,ニューヨークを目指しましたが,途中嵐のため石炭の消費がかさみ,ニューヨークまで持たない心配が生じました。 そこで途中のハリファックスへ寄港して石炭を補充することにしたのですが,あたりの地理に不案内なこともあり,4月1日午前3時ハリファックス南方の海岸に衝突しました。
1880年頃 | 電灯と冷凍庫が客船に導入され始めました。 それまで照明は,油ランプやロウソクだったのですが,不便な上に火災の危険もあったので,電灯は大歓迎されました。 また当時は大西洋横断にまだ1週間以上掛かり,その航海中の食料を持っていく上で冷凍設備も待ち望まれていました。 そのためこれらの設備は,陸上よりも早く取り入れられました。 |
帆装? | 蒸気船が登場して50年近く経つこの時期になっても,まだ帆が装備されていることにご注目ください。 もう帆船時代の名残のようになり,走るのにあまり役には立たなかったようですが,時たま起こった動力装置の故障に備えて装備されていました。 というのは当時はスクリューが1つだけだったため,エンジンやスクリューなどのどこかが故障すると,船は動けなくなったのです。 その上当時は,まだ無線が無かったため,故障すると別の船に出会うまで,何日でも洋上を漂っていなければなりませんでした。 |
この頃からスクリューが2つ装備されるようになり,片方が故障しても走れるようになって,帆の設備は完全に廃止されました。ホワイト・スター・ラインは,この船までは世界最速レベルの客船を新造してきましたが,以後はスピード競争から撤退します。 |
そして1912年,タイタニックが・・ | |
1910年代,タイタニック級(正しくはオリンピック級)を始めとする客船群が登場して,客船は一気に5万総トンクラスにまで大きくなります。 スピードも1907年に登場したルシタニアとモレタニアが,25ノット以上を出しており,この両船は大西洋を5日以内で横断するようになります。 |
タイタニックの時代の客船については,【タイタニックのライバルたち】のページをご参照ください。 |
1911年に就航したオリンピック 45,324総トン |
しかし間もなく第1次大戦となり,客船の発展は一時中断してしまいます。
第1次大戦が終わって・・・ 1920年代,ホワイト・スター・ラインは,6万総トンの大型高速船を1隻計画しますが,資金の調達の目処が付かず,残念ながら実現しませんでした。
その後1934年にキュナード社と合併して,事実上ホワイト・スター・ラインは消えるのですが,タイタニックの事故が結局,いろいろな意味で尾を引いたように思われます。
1920年代末 〜1930年代 | 戦後の混乱も落ち着き、タイタニックの次の世代の客船が登場してきます。 客船はさらに大きくなり,ついに8万総トンの客船が3隻出現します。 スピードも20ノット台の後半からついには30ノットを超えるようになり,4日で大西洋を横断できるようになります。 |
画像をクリックすると船のデータの画面が出ます |
クイーン・メリー |
客船の最高峰のうちの1隻。
1936年就航。80,774総トン。航海速力29ノット。 大西洋横断スピード記録達成時の平均速力 31.7ノット。 キュナード社が建造を開始したのですが,あの大恐慌で資金の目処が付かなくなって工事が中断してしまい,ホワイト・スター・ラインを合併するという条件で英国政府が援助して完成した巨大客船です。 その意味でホワイト・スター・ラインの歴史に幕を引いた船と言えます。 就航した時の会社名は,キュナード・ホワイト・スターでした。 |
第2次大戦までの3年間,フランスのノルマンディー号(83,423総トン)との間に繰り広げられたスピード競争は,伝説のごとく今に語り伝えられています。 |
1939年,第2次大戦勃発 | |
大戦中は旅客輸送どころではなく,多くの客船が軍用に使われました。 中でも上掲のクイーン・メリーと準姉妹船のクイーン・エリザベス(83,673総トン)は,一度に最大1万5千人以上の兵士をアメリカやオーストラリアからヨーロッパの戦場へと繰返し運び,時の英国首相ウインストン・チャーチルをして,「クイーン両船の活躍が戦争の終結を少なくとも1年早めた」と,言わしめたほどでした。 30ノットの高速で洋上を疾走し,ドイツの潜水艦Uボートも捕捉できなかったのでした。 |
第2次大戦の後・・・ | |
復員輸送の役目を解かれた船から順次改装工事を施され,再び客船として復帰していったのですが,戦時中に失われた船も多数ありました。 フランスのノルマンディー号(83,423総トン),ドイツのブレーメン号(51,656総トン),イタリアのレックス号(51,062総トン)・・・など,航路に帰ってきませんでした。 |
北大西洋で活躍した主だった客船は,ずっとヨーロッパの船ばかりでした。 このユナイテッド・ステーツ号は,アメリカ人の造船技師がついに実現させたアメリカ製のスーパー客船です。 |
第2次大戦が終わってしばらく経つとジェット旅客機が進出し始め,客船は輸送機関としての役割を次第に明渡していきました。 そしてオイルショック(1973年)で燃料が高騰したことがとどめとなって,北大西洋航路の定期客船は事実上終焉を迎えました。 1969年に就航したクイーン・エリザベス2は,北大西洋航路の定期客船として最後に建造された船でした。 クルーズへの転用を,始めから視野に入れて造られていました。