ミッドウェー海戦

   
情報戦誤認と無レーダーから生じた大敗北



  1942年6月4日(日本時間6月5日)、アメリカ海軍は数で勝る相手に対して希望の持てない、しかし放棄することのできない戦いを強いられ、海戦史の中でその後の趨勢を左右する最も決定的な戦いの1つと言える戦いを勝った。すなわちミッドウェー海戦である。たった1日でアメリカ軍は、日本海軍の空母の圧倒的優勢を覆し、太平洋の戦いを消耗戦へと変えた。そしてそこでは、造船能力に勝るアメリカが勝利をものにするのは必然であった。

  日本にとって「丘の中腹」であるミッドウェー島攻略は、アメリカ海軍の最後の大型艦をおびき寄せ、撃滅する意図を伴った攻撃目標だった。ミッドウェー環礁はハワイ諸島に連なる一連の島々の西の端に位置し、それが日本の手に落ちれば日本の優位を確実にし、ハワイ諸島の敏速な征服をも可能にする重要な目標地点だった。ハワイの基地が無くなれば、アメリカは本土の西海岸に押し戻され、日本は太平洋の北部及び中央部を保有することになり、オーストラリア、ニュージーランド、および太平洋南部の島々が孤立することになる。それゆえミッドウェーはアメリカにとって絶対に落とせない重要な地点であり、アメリカはその防御のためには最後の1艦まで投入するであろう。日本の連合艦隊司令長官山本五十六大将はそう読んでいた。しかし彼はアメリカの暗号解読者が、日本のミッドウェー攻撃準備を察知する可能性を否定していた。また日本の作戦計画は、珊瑚海海戦を賄ったあおりで、空母の攻撃勢力が6隻から4隻に減少した。一方ミッドウェーで迎え撃つアメリカ側は3隻の空母を残していた。

  真珠湾ではロシュフォート中佐と彼の暗号解読チームが、ポート・モレスビー攻略作戦(珊瑚海海戦の原因となった作戦)に続いて、日本軍が太平洋中央部で大規模な作戦を用意していると、うすうす気付いていた。日本の無電通信で表現されている目標地点は「AF」であったが、これがどこなのか正確な位置がわかったのは5月15日(珊瑚海にレキシントンが沈んで1週間後)のことだった。アメリカ太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツ大将は、彼の最後の3隻の空母を南西太平洋から呼び戻した。フレッチャー提督のヨークタウン(珊瑚海海戦後、緊急の修理を必要とした)と、ハルゼー提督のエンタープライズ、ホーネットであった。ハルゼーの機動部隊(TF16)が北方の真珠湾へ向かう前に、幸運にも日本軍機に見つけられ、その日本機は海軍情報部に米軍機動部隊はまだ南部太平洋にいると、適切に報告した。この報告はミッドウェー攻撃に取り組む日本軍の、自信過剰という危険な傾向をさらに増長することとなった。

  5月25日、ロシュフォートのチームはこの戦争で最も重要な、思わぬ授かりものを傍受した。それは日本軍のほとんどすべての詳細な計画を含んだ長い暗号通信であり、その中には6月3〜5日のミッドウェー作戦計画も含まれていた。それからの10日間、あらゆる利用できる大砲、武器弾薬、有刺鉄線、そして攻撃機がミッドウェーへ急送された。ホーネットとエンタープライズは真珠湾へ5月26日に到着し、ヨークタウンは27日に着いた。真珠湾の海軍造船所の作業員たちは、全力を挙げて昼夜兼行で作業して、ヨークタウンを信じられない3日間で作戦行動できる状態まで修理し、この艦の最後の戦いへと送り出した。完全に修理するには通常なら3か月掛かるところであった(※ここで真珠湾攻撃の時、南雲忠一長官が第3波攻撃隊を出さず、造船所を破壊しなかったことが禍根となってくる。真珠湾攻撃の節参照)。




アメリカ空母ヨークタウンは、珊瑚海海戦でひどい損傷を被った後、必死の修理でミッドウェー海戦に間に合った。



  こうして5月29日までには、アメリカ軍は日本軍の2番目の侵攻、すなわち西アリューシャンへの侵攻が、ミッドウェー攻撃と同時に予定された唯一の牽制行動であることまで知っていた。また南雲提督の少なくとも空母4隻からなる第一航空艦隊によって、ミッドウェー島が前もって攻撃されること、ミッドウェー島侵攻部隊の前方に戦艦と巡洋艦が配置されて、空母の後方から支援に付くことも米軍は知っていた。さらに南雲の空母部隊がミッドウェーへ北西からやって来ること、また主力戦艦部隊と侵攻部隊は西方から来ることまで知っていた。しかしこれだけ日本軍の計画を知られていても、アメリカ軍に対する優劣の差は十分であった。ミッドウェーを救い、完全な敗北をかろうじて免れるために、アメリカ太平洋艦隊が委ねられる戦力は空母3隻、巡洋艦8隻、駆逐艦14隻に過ぎなかった。

  手ごわい海上艦隊のほかに、12隻の日本の潜水艦が、真珠湾の西方に円弧状に哨戒ラインを描くように派遣されることになっていた。これはミッドウェー島への攻撃に反応して、真珠湾から西方へ突進するアメリカ太平洋艦隊を特定するためであった。しかしロシュフォートの時機を得た暗号解読作業によって、エンタープライズとホーネットは5月28日に真珠湾から出航し、ヨークタウンも真珠湾海軍造船所の作業員たちの英雄的な努力に感謝しつつ、29日に後を追って出航した。こうして日本の潜水艦が巡視の円弧位置に就いたのは、アメリカの空母を見つけるのに1日遅すぎた。そして6月3日までにはヨークタウン、エンタープライズ、ホーネットは待ち伏せ態勢に入っていたが、それは日本軍には思いもよらないことであった。

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  4日午前4時30分までに、南雲の4隻の空母、加賀、赤城、蒼龍、飛龍は、ミッドウェー島の防御力を弱めるための攻撃隊発進準備ができていた。南雲はアメリカ軍艦が付近に現れた場合の攻撃に備えて、半数の航空機に魚雷と徹甲爆弾を装備して残しておいた。そのような慎重さは堅実であった。そして南雲が4隻すべてをミッドウェー島攻撃に参加させるのではなく、2隻をそのように残しておいたなら、さらに堅実だったろう。そして彼は用心のため加賀、赤城と巡洋艦筑摩、利根の偵察機に海上探索を命じた。しかし利根の偵察機は、カタパルトのトラブルのため、(午前5時まで)発進が30分遅れた。この遅れが、この時はささいなことであったが、間もなく致命的なことだったと判明する。

  ミッドウェー島からのPBY飛行艇が5時30分に南雲の空母を発見し、やって來る攻撃機隊を5時40分に視認した。ミッドウェー島からすべての攻撃機が、日本空母攻撃に出撃した。その結果、日本軍の攻撃が続いている間(6時30分〜7時30分)に、地上で破壊された航空機は無かった。日本軍の攻撃隊長は無電で南雲に、再度の攻撃が必要と打電した。南雲が2度目の攻撃のために残っていた機の兵装を爆弾に換装するよう命令した直後、利根の遅れていた偵察機がフレッチャーの巡洋艦/駆逐艦を発見した(7時28分)。しかし南雲がアメリカ艦隊に少なくとも1隻の空母が含まれると聞くまでには、さらに1時間を要した。その時点までにはミッドウェー島を攻撃した全機が母艦に戻り、それから燃料の補給と対艦用兵器への換装を始めていた(9時17分)。

  6時30分に南雲の空母部隊発見がフレッチャーに報告されて1時間後に、エンタープライズとホーネットは攻撃機隊の発艦を始めた。一方ヨークタウンは索敵機の回収を待っていた。スプルーアンスは長すぎる距離で攻撃隊を発進させるという賭けに出た。一方南雲はまだミッドウェー島攻撃に関わっていた。アメリカ雷撃機隊が日本空母群に対して行った勇敢ながら未熟な攻撃は、ひどい犠牲を払うこととなった。41機の雷撃機のうち、帰還したのは6機だけだった。しかし9時18分から10時15分までの間に行われたアメリカ雷撃機隊の3度の攻撃は、南雲部隊のアメリカ空母への攻撃隊発進を遅らせることとなった。その遅れはミッドウェー基地からの5回もの航空攻撃で既に遅らされていたのを、さらに遅らせるものであった。

  10時20分、それまでアメリカ機の8回にも及ぶ攻撃を1発の命中弾もなく撃退していた南雲の空母群は、攻撃機隊を発艦させるために風上に向きを変えた。ちょうどこの時、日本軍はレーダーを持っていなかったため気付かなかったのだが、エンタープライズとホーネットの急降下爆撃機隊が上空にやって来た(※艦隊直掩の零戦隊は米雷撃機隊を迎撃するために低空にいた)。南雲の空母群は最も脆弱な状態になっていた。飛行甲板には発艦直前の機がぎっしり並んでおり、給油車やホースが散乱していて、さらにミッドウェー島への2回目の攻撃用から取り外した爆弾が並んでいた。
  南雲は10時25分には歴戦の艦隊を指揮していた。それが5分後には、アメリカの航空攻撃の犠牲となり、赤城、加賀、蒼龍は激しく燃える残骸と化していた。ただ1隻、飛龍のみが戦闘できる状態で無傷で残っていた。



ミッドウェー海戦での両国空母艦隊の行動は、この図に見るように、両国の艦隊が交わることのない異常なものだった。


  
  10時54分、飛龍は最初のアメリカ艦隊への反撃のための攻撃隊を発進させた。しかし見つけたのはヨークタウンだけで、正午過ぎに3発の爆弾命中を与え、消火されるまで一時的に機能を奪った。しかし2時間後には蒸気圧も上がって走行できるようになった。雷撃機による2回目の飛龍攻撃隊の攻撃で14時45分、ヨークタウンは再び行動不能になった。今度は永久に。しかし無傷のエンタープライズとホーネットが2度目の攻撃隊を発進させ、17時過ぎに飛龍を破壊した。南雲の最後の空母は一晩中燃え続け、翌朝午前9時10分頃沈没した(※飛龍で指揮を執っていた山口多聞第二航空戦隊司令官が、飛龍と運命を共にしたのは誠に悔やまれます。米空母発見の直後、「直チニ攻撃隊発進ノ要アリト認ム」と適切に具申し、真珠湾攻撃の時にも第3波攻撃の必要を考えていたと伝えられる山口多聞少将にこそ、開戦当初から機動部隊を率いてほしかったと思うのは訳者だけでしょうか。アメリカ海軍がニミッツ太平洋艦隊司令長官の一存で、スプルーアンス少将を空母任務部隊の指揮官に抜擢した事実を顧みるとき、その思いを強くします。
レイモンド・エイムズ・スプルーアンスの節参照)。

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 (「世界の海軍史 近代海軍の発達と海戦」より抜粋)



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