山本 五十六

             1884 − 1943







  日本の連合艦隊司令長官、山本五十六大将が、真珠湾攻撃の衝撃的な余波の中で、すぐさま「アメリカ大衆の1番の敵」という汚名を着せられたのは、避けられなかった。避けられなかったが、深い意味で皮肉な事であった。彼ほど、日本がアメリカとの戦争に流されることに反対した日本の陸海軍司令官はいなかったし、山本は戦争が長引けば決して日本が勝てない相手だと、アメリカを高く評価していた。真珠湾攻撃を案出し、その後もアメリカの太平洋艦隊を潰そうと企てたのは、まさにこの信念からだった。

  彼は高野五十六として1884年に、侍の血統を持つ村の校長の息子として生まれた。そして明治時代の混乱した、しかし刺激的な興隆期 (日本の伝統的な孤立主義を捨て、近代的な世界列強へのエネルギッシュな変革) の中で成長した。この変革の最も重要な事柄が、ヨーロッパの最高のレベルに則った近代海軍を創り上げることだった。

  五十六は1900年に海軍兵学校に入学した。1904年に日露戦争が起こったとき、少尉候補生に任命されて巡洋艦日進に乗り組み、日本海海戦 (対馬海戦) に参加した。このとき脚を負傷し、手の指を2本失った。1914年、郷里で尊敬される人物となっていた五十六は、山本家に迎えられ、山本の姓となった。

  山本のアメリカとの関係は、1917年に日本海軍が彼をハーバード大学へ、2年間の大学課程で送り込んだ時に始まる。彼は航空機に熱中し、1923年に霞ヶ浦に新しくできた海軍航空学校の副校長となった。これは彼の経歴の中で最も決定的な任命の1つであった。山本は自分自身飛ぶことを学びながら、戦闘艦隊の打撃力を革新的に拡張するものとして、航空母艦の発展を擁護した。

  山本の昇進は早かった。2年間ワシントンで大使館付海軍武官の任務を果たした後、1930年に少将に昇進した。ロンドン軍縮会議に代表団員として出席してから、第一航空艦隊司令官に任命された。 1934年の第二回ロンドン軍縮会議には、中将の身分で日本代表団を率いて行った。そして自分たちの艦隊が条約でさらに制限されるのを日本が拒否するのを支持して、一番の発議者となった。
 
  山本は1938年に日本が枢軸国勢力と軍事同盟へ傾くのに反対し、そのアメリカびいきの傾向は、強力で非常に恐れられていた黒龍会 (Black Dragon Society :※1901年に設立された国家主義右翼団体) から嫌悪されるところとなった。1939年8月に彼が連合艦隊司令長官に任命されたことは、至極当然のことであったが、ある意味では彼を暗殺から救う意味合いもあった。

  アメリカとの戦争が避けられない事態に直面して、山本の予想は暗かった。「最初の6か月間は存分に暴れてみせる。しかし2年目、3年目となると全く自信がない。」と彼は言った。山本は、日本に平和をもたらす唯一のチャンスは、できるだけ早期にアメリカ太平洋艦隊を壊滅させることだと考えていたが、真珠湾攻撃でそれを成し遂げることに失敗した(山本五十六司令長官の真珠湾攻撃の意図は「真珠湾攻撃」の節に補足)。

  1942年4月のドゥーリトル空母発艦機による東京空襲に衝撃を受けて、山本はミッドウェー島を占領し、残っているアメリカ太平洋艦隊と勝敗を決する作戦を計画した。しかしアメリカ艦隊が想定通りの反応行動をするだろうという彼の憶測は危険であり、日本軍が完全な奇襲を行えるだろうという彼の確信は致命的であった(ミッドウェー海戦でのアメリカ側の動きは「ミッドウェー海戦」の節に詳述)。ミッドウェー海戦での空母4隻の喪失を覆し、状況を回復してアメリカ艦隊の撃滅に向かうことを、もはや不可能にしたのは、山本自身が連合艦隊を広範囲に展開させた結果であった。

  山本はガダルカナル作戦を勝ち抜くことで、ミッドウェーで失った日本艦隊に回復のチャンスがあると期待した。しかしこのガダルカナルの極めて困難な消耗戦は、連合艦隊の力をそぎ落とし続けただけだった。最も深刻だったのは、日本海軍の強さを支えてきた熟練の航空隊員たちを次々と失っていったことだった。

  ニューギニアとソロモン諸島での地上戦の敗北の後、山本は太平洋西部での連合軍の進撃を阻止するため、海軍航空隊による大規模な反撃を行った。「い号作戦」であった。しかし今回も、日本の航空兵力の損失は許容限度を超えていた。山本は「い号作戦」は目的を達成したと主張して、自分自身を欺くしかなかった。

  山本の命は、自分の失敗を悟るのに十分なほど長くなかった。1943年4月、アメリカの情報部は、山本がラバウルからブーゲンヴィルへ向かおうとしている飛行予定の詳細を掴んだ。彼が乗った海軍機はアメリカの戦闘機に待ち伏せされて襲われ、撃墜された。山本はかけがえのない戦争指揮官であった。山本の死は、大きくなりつつある日本の敗北を決して減らしなどしなかった。そして連合軍の太平洋における指揮官たちを、最も手ごわい敵から解放した。





 (「世界の海軍史 近代海軍の発達と海戦」より抜粋)



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