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権利の上に眠る者は保護されない─
【能瀬訴訟 since.2009

平成21()249号損害賠償等請求事件
原告 能瀬英太郎
被告 森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会
  最新トピック 一括印刷用PDF
2012.3/26 能瀬訴訟 判決下る。
 
岡山地裁、被告主張の大前提を却下。
名誉毀損(不法行為)認定!
損害賠償の支払いを命令
判決文公開 能瀬裁判(被告「森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会」の姿勢に対し有罪判決下る) PDF:755KB
公正議論へ最低限のモラルを要求。被告はこれも不服で控訴。
 不法行為を認定された被告は控訴へ。と・こ・ろ・が…
 
控訴審、1回で終了【能瀬訴訟 控訴審】
 
The district court of Okayama passed judgment on the justice.
The justice was accomplished.
NEWS 公判終盤で重大事実 発覚!
 
3月26日岡山地裁判決を前に、
 原告:能瀬英太郎氏が重要物証を公表。

 
↓ダブルクリック/PDF:277KB                   2012年3月23日
PDFファイル 公益財団法人ひかり協会の支給基準が初公開、数十年にわたる説明の嘘
←【最新情報】
公益法人が被害者に対して、
数十年にわたり虚偽の説明。

原告:能瀬英太郎氏談話「重大な出典と証拠の開示に成功」 PDF
↑「公益財団法人 ひかり協会」は、重症被害者への生活手当を、26年間にわたって過少に計算・支給していた。(2012年現在) その巧妙なトリックを、原告の追跡調査結果を添えて、一挙公開。

【一方では、公益法人改革を揺るがしかねない事案が…】

 
“「公益財団法人 ひかり協会」は被害者を救っていない” と前々から批判してきた岡山県・倉敷市の重症被害者家族に対して、同「公益法人」が、毎月支給してきた「生活保障額」を、巨額な規模で返還せよと請求していたことが、同家族が開設した告発サイトから明らかとなった。
 法人側の説明では、過払いがあった、との理由だが、時効も、あえて考慮に入れず、数十年遡った形で被害者に請求している。 しかも段階的に請求額が増額するというやりかた、とのこと。 そして、不審に思った被害者家族が計算しなおすと、「公益財団法人」が対外的に説明してきた重症被害者への「生活手当」の支給基準に、巧妙な情報操作があることがわかった。一転、正反対の「逆転状況」=過少支給が、莫大な規模で存在することが判明。被害者からは、「詐欺的」とも指弾されかねない手法での「事業」が、「公益」と称してまかり通る一方で、そこには、公的な障害年金、つまり国民の税金も活用されている。美名で語られてきた「救済」の看板の裏で、“公益法人改革”の土台を揺るがしかねない問題が明るみになってきた。同時に、公的年金が流用されていることから、運営内容の妥当性、公序良俗について、広く国民的監視が求められる問題となっている。

     
コーナー【公害被害者の救済事業に大きな闇】
       
被害者への差別・暴言、被害者の父親への素行調査記録、公務員、議員の不可解な動き、マスコミ・学術研究者への恫喝など驚くべき不当行為の数々。
原告側準備書面(岡山地裁への提出文書)
 3  5  6  7  11  12

■意見言うと暴言浴びせられる被害者
■意見言うと監視される被害者家族1
■意見言うと監視される被害者家族2
■異なる意見はダメと公言する組織

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未曾有の震災と原発事故…。 聖域なき透明性が問われている。
【能瀬訴訟 since.2009解説】

市民が「森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会」を名誉毀損で告訴。
(岡山地裁)
能瀬訴訟で、被告、「嘘」を大筋認める最新情報 一括印刷用PDF

■裁判情報へ(判決までの上記以外の動き)
被告、機関紙への虚偽記載を大筋認める
─和解勧告を流産に追い込んだ被告─

(原告談話)



          
▲被告、機関紙への虚偽記載を大筋認める▼
                             
                                 ↑このページのトップへ戻る   

岡山地裁は、両者に和解勧告を呼びかた。だが終始、寛容の精神で対応してきた原告と裁判官を尻目に被告は高慢に拍車がかかり、ついに2012年
1月10日(※)和解は流れた。和解協議室内で機関紙記事が虚偽だと認めておきながら、交渉を決裂に持ち込む(能瀬氏談話)とは、まことに反省がなく、順序も反対だ。右列は原告の談話。

(※ちなみに2012年1月12日からはじまった、ウィキペディア日本版「森永ヒ素ミルク中毒事件」ページへのウソを含む改ざんと大量追加。だが、3月1日には全文消去、差し戻され、改ざん者の目論見は失敗、改ざん記録は永久に公開されるとともに、サイバー空間でも監視下に置かれている)
【能瀬訴訟 最新情報】

被告、和解協議中に機関紙の虚偽記載を大筋認める。
嘘を認めるのに2年半…

ところが一転、謝罪(損害賠償)は拒否。裁判官の和解勧告を流産に追い込む。

平成21()249号損害賠償等請求事件の和解交渉
原告 能瀬英太郎
被告 森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会

【原告・能瀬英太郎氏の談話】

和解協議の中で嘘を認めた被告
 岡山地方裁判所で進行中の上記事件は証人尋問も終わり20118月で結審した。判決を前にして裁判官は、できれば和解で訴訟を終結したいと、和解協議を開始した。20119月のことである。

 以後約5カ月の間に月1回の協議を続け、5回にわたり双方から意見を聞き、和解による終結を探ったが、被告側の非常識な対応により協議は決裂した。

 そのなかで明らかとなったことは、被告が2009年、機関紙「ひかり」460号の第一面全面を使って原告の実名をあげつらって個人攻撃した記事内容が事実に基づいていなかったことを、未だ一部限定ながら、被告自身が認めたことである。

証人喚問でも嘘が露呈
 それは証人尋問での被告側証人の言動をみても、もはや避け難い事態であった。そもそも法廷では嘘を言ってはいけないのに、見てもないことを事実であるかのように自信満々で証言した直後、今度は、原告から事実を突きつけられた証人は、なんと原告に「質問」を返すありさまとなった。

和解そのものが原告側の妥協
 そもそも提訴は裁判所で判決を下すよう求めるものである。

 それを和解に切り替えることに同意したのは、機関紙の嘘が公判でも明確に判明したからには、被告も何がしかの反省をしていると期待し、原告側としても、出来る限りの寛容と妥協の精神を発揮すべき時と考えたからである。
 なお、原告の要求は訂正文の掲載と損害賠償の二点セットで、二つは相互関係にあり、一つだけ切り離しては意味をなさない、という前提である。

 逆に、被告に対して裁判所と原告のどちらか一方でも寛容の精神を発揮しなければ、和解勧告すらないだけである。裁判官の被告へのせめてもの温情であろう。

和解勧告を混乱させる被告
 当初、被告は、裁判官に対して、謝罪文ではなく訂正文を自分の機関紙に掲載する旨、受け入れるそぶりをみせていたようである。

 裁判官は和解を実現するため、「訂正文」を「やわらかく」することに関して、心を砕き、原告の理解をもとめてこられた。

 2011年916日、岡山地裁の和解協議室で、裁判官が「被告の記事が一部事実に反することが、証人尋問で明らかになったので、被告に和解案を受け入れるように話したが、どうか。」と原告に伝えてきた。
 原告は「それに異存はない。少しのことなら、こちらも歩み寄る」と答えた。
(原告側妥協その1 和解協議応諾)

 裁判官は「『ひかり』へ載せる文章も“問題の記事は誤りだったので訂正する” くらいのことにして、そのかわりに賠償金額を増額するということも考えられる」と原告に伝えた。
(原告側妥協その2 訂正文柔軟化と賠償増額)

 そのあと、原告と入れ替わりで、部屋に被告側代理人が呼ばれ、被告側は、返事を次回にもってくることになった。

“原告が「勝った勝った」というから和解しない”???
 
1011日の和解協議には、被告側から前野、平松両氏も出席した。理事長の小畑氏は来ることにしていたらしいが、体調不良とのことで現れなかった。

この日の協議で被告は唐突に、以下のような奇異な主張をした。

曰く、「和解してもいいが、そうすると、原告が裁判に勝った、勝ったとホームページなどに書かれるのがイヤだから、できない」…

意味不明な発言。だいたい、原告はホームページなど運営していない。それは被告も承知しているはず。

つまり、「(原告が運営していないどこかの誰かのホームページに)書かれるから嫌だ」というのは、「世間に知られるとまずいからイヤだ」と同義である。
 では、原告は、国家的密約を隠す担当大臣のごとく、和解内容を、妻にも子どもにも伏せて、墓場の中にまで持っていかねばならないのか。
 原告の和解内容を他人がどう解釈しようが、原告の関知外である。加えて、和解結果をどう見るかは人それぞれの自由だ。
 被告は事実に反すること、つまり「嘘」を書いたことを認めておきながら、それを国民誰一人にも知られたくない、に等しいことを和解協議の裁判官に公言したことになる。

ちなみに、「“勝った”と言われるからイヤ」といわれても、原告も裁判官も、とまどうばかりだ。なぜなら、自分から「負けた」と言っているのと同じではないか。判決は、法的に処罰を下す場であり、それをさけようと、裁判官が心を砕いているのに、である。理解に苦しむ。

機関紙のウソが公判でも明るみになり、その公判も傍聴者が詳細にメモをとっていて、すでに一般市民に記録されてしまっているのに、この先、どうやって取り繕うつもりだろうか。
 公判のやり取りと和解内容を知った国民がどう判断しようが、情報公開と言論・表現の自由が保障されている民主主義社会では、事実に基づく他人の論評を止めることなどできない。そんな要求をしたら戦前の言論弾圧の時代と同じになってしまう。

これは、ひょっとして、和解拒否の口実? との疑いも生まれた。

原告への「要求」が一気に3倍に
 111日にも前野、平松両氏が出廷した。先に被告側が前回への回答をもって、裁判官に説明したらしい。  入れかわりに、原告が部屋に入ると、被告が持参した文書を示された。
 それによると

 「(1)神戸で開催された全国大会で、原告が『妨害行動』をしたことは削除する。 (2)年1回の協議を原告との間で5年間を限り実施する。(3)裁判の結果を自己宣伝に使わないとの約束。(4)被告が『ひかり460号』を発行するに至ったような行動を原告は今後慎むこと。」

 
というものであった。

 この被告持参「案」での、被告の反省は(1)だけで、残りの3項目はすべて被告から原告への要求(しかも、今後の行動を慎め、などという内容…)ばかりである。

 原告は、その他被告が機関紙に書いた「『恨みを募らせ救済事業を破壊云々』も、被告は何らその事実を証明するに足る挙証責任を果たしていないので、その文章も削除しないと和解案はうけいれられない」と主張した。

 裁判官はこの件について、さらに「訂正文」の中の表現を「能瀬氏の真意とは違う表現をした」という「玉虫色」の表現にする掲載でどうか?(※)と原告に提案した。

 原告は、被告の一定の反省につながるのならそれでもよいと考え、裁判官のさらなる「玉虫色」化提案に関して、それを受け入れた。
(原告側妥協その3 訂正文第二次柔軟化)

(※裁判官は、被告への訂正指示にあたり「事実と違う」という明確な文言の記載を求めた場合、被告が嫌がるので、訂正時の表現を“玉虫色の表現にしてはどうか”と原告に提案してきた。その表現とは、“能瀬氏の真意とは違う”という記述で、これを「訂正」の代替用語として被告に許可するという提案である。

 原告としては、「真意とは違う」の表現は極めてあいまいで、そもそも読者に訂正文として伝わるだろうか?と思ったが、原告は和解勧告を尊重する立場から、被告が心から反省するのなら、被告のメンツを保ちたい気持ちも許容し、これに同意した。




























「定期的に会え」との要求は何を意図する?
 ところで前記の被告持参文書中の(2)で、被告は、唐突に別の条件を持ち出してきた。それは、「原告は被告と5年を区切って年1回の協議をすること」というものである。

 原告に対して、「話し合いを持て」と要求する…。原告の批判に正々堂々と答えない被告が、「定期的に会え」を、和解の条件として要求する。勘の良い読者は、これがなにを意味しているかおわかりだろう。でも、原告は、これに対しても、勧告を尊重する立場から忍耐強く承諾した。(原告側妥協その4 なぜか被告と定期的に会合をもたされる)

 ここまで来ると、もう原告としてはほとんど譲歩する余地がない状態だった。

和解協議で益々傲慢になる被告
 12
6日の期日にも平松、前野両氏が大阪からわざわざやってきた。

 だが、今回も小畑氏はきていなかった…。ところで、このお二人のご出張経費はどこから支出されているのだろうか? まさか、ご両人の自腹?だろうか。









被告側がもってきた文章は、前回、原告が要請したものとはまったくかけ離れていた。

「公判でばれた嘘」 しか認めない不誠実な態度。
 被告機関紙の記事→「(森永告発を支援者でなく妨害者と決定した守る会に対して恨みを募らせ、あわよくば守る会を混乱させ、ひかり協会事業を破壊しようとねらっている。」という部分が、原告へのそもそもの誹謗中傷である。
 原告は、まず、その部分を訂正すべきであると主張し、裁判官も、被告に対して「能瀬氏の真意とは違う」(※意味)記述であったという“柔らかい表現”での訂正を求めていた。

 ところが、被告の文章は、(被告総会会場前での原告の)「妨害行動」(虚偽)だけが「能瀬氏の真意とは違う」と受け取れるように、巧妙に文章を操作してあった。

「能瀬氏の真意と違うこと」(つまり虚偽記載)は、あたかも「妨害行動」をしたとの記述に限定されているとしか受け取れない内容…。つまり、法廷でバレた虚偽の部分しか認めようとせず、他のあまた書きつらねた誹謗記事の内容は「なんとか生き残らせよう」としている、極めて不誠実な内容であった。

原告は「この内容では受け入れられない」と回答すると、裁判官も「私もそのように指摘したところだ」と発言した。次回期日を110日と決めて終了した。

意味不明の「ちゃぶ台返し」
 そして最終日である2012年1月10日、被告は突然、「機関紙の記事の訂正はするが賠償金は支払わない」という内容を告げてきた。

この日も、前野、平松両氏と弁護人が出廷したが、こちらは一人だけである。裁判官が被告側の協議の結果を聞くと、前野氏が発言を求めて「一昨日の四役会議で(8人出席したらしい)前回だされた原告の要求を討議した結果、訂正文には裁判官の提案を受け入れたものを載せる(※)ことは合意したが、賠償金の支払いは応じられない」というものであった。

※つまり被告は自身の機関紙に書いたことが、大筋、事実とは異なることを、認めたことになる。ところが、謝罪に相当する(損賠)はしないという。








 その理由はこうである。
 「『ひかり』の読者は会員と僅かな部外者に読まれているにすぎない。これまで原告がたびたび『ひかり協会』救済事業に攻撃(※)を加えたので、それにたいする自己防衛のために書いた」という主張であった。

(※)「批判」という言葉を使わない。ホメられない文章はすべて「攻撃」と形容するようだ。






 約5ヶ月にわたる、和解協議の積み重ねを一方的かつ根本からひっくりかえす「ちゃぶ台返し」である。しかし、いくら考えても、被告は「ちゃぶ台返し」をする側ではないと思うのだが。

 もうすでに、和解協議の場ではあるが、機関紙の記載が大筋嘘であることを明確に認めたのである。謝罪に相当するものを提出するのが当たり前であり、判決を回避する場合の必須条件、つまり和解の前提である。

 協議を重ねるごとに、寛容ではなく、傲慢が頭をもたげ、裁判官が必須だとしてきた賠償金の支払いさえも拒否することで、実は記事の訂正をするという大前提を一気に反故にしたのであろう。和解協議の無意味化を一方的に断行したわけである。
 嘘をついても謝らないのが被告の常識なら、そこに法治は無い。

 今からこの5ヶ月を振り返ると、要するに被告は、はなから、一片の反省もするつもりではなかったのかしら、と思えてくる。

 しかしながら、裁判官の和解勧告を受けるふりをして、原告と裁判長を翻弄し続け、和解勧告に努力した二者を最後に足蹴にした事実は残った。

実はこれは、2度目の和解交渉   原告はこれまで、なんとか和解を成立させたいと尽力される裁判官に敬意を表して、譲歩すべきことは、出来るだけ譲歩した。

 その一つが、証人尋問の前になされた和解勧告である。

 その際、『ひかり460号』に対する反論文の掲載を裁判官が提示したことがあった。原告は1面全部を要求したが、裁判官が1面半分の分量の反論文掲載ではどうか、と勧めたので、譲歩した。
(原告側妥協その5 第一回目の和解勧告の受諾)
(原告側妥協その6 第一回目の和解勧告での反論文の短縮化)

 被告はもともとこの裁判の内容自体を会員に隠したいのであろう。

 原告が提出した「名誉毀損裁判の経緯」という極めて控え目な内容の文章を読んで、それにさえ恐れをなしたのか。被告は、掲載を拒否し、最初の和解勧告はあっけなく流れた。

機関紙を利用した無法の継続は許されない
 縷々述べたが、被告の態度が許容されれば、今後も被告は、機関紙に明らかな嘘を書き連ねて市民や被害者を個人攻撃しても、攻撃された側は何年も自費で裁判をしなくてはいけなくなる。

 無法機関紙の登場である。そして、名誉毀損された被害者が裁判を起こしても、一片の謝罪も訂正もしなくてよくなる。被告の無法が許容される判決が出れば、そして、もし仮に、原告がそれに対しておとなしく引き下がれば、判例は定着し、日本中の権力組織や、その他の無法集団に適用され、隠蔽工作のための圧力行為・違法行為にフリーハンドを与えることになるだろう。日本の言論を後退させる契機となったと、後世に刻まれることになろう。

 原告は、被告の賠償支払い拒否は認められない旨を告げたが、被告は態度を変えず、和解は流れた。原告は計6回も妥協したにもかかわらず、被告はどんな努力をしたのか?アンフェアである。

 判決は3月26日岡山地裁にて下される。

追記------------

原告は2002年8月2日号の『週刊金曜日』で「森永ヒ素ミルク事件・後退する被害者救済」との題名でひかり協会の救済事業を批判した。 
 原告は、これに対する反論を求める手紙を、わざわざ「ひかり協会」岡山事務所に送付した。

 それに応じて、被告理事長の前野直道氏が「手当支給だけがひかり協会の仕事ではない」を投稿した。

 であるならば、被告は自らの機関紙(「ひかり」第460号)に原告への「批判」を書いたのなら、原告の主張を「反論」として受け入れるのが筋であろう。それが最低限のルールである。

 批判とそれに対する反論の保障は民主主義の根本であるが、それを正々堂々と受け入れない被告は、自身で民主的な団体ではないことを証明しているようなものだ。
 また、民主的かどうかは、口先から出てくるものではない。実際に行っている態度で第三者から判断されるものである。
 そして、自ら情報公開をしなければ、第三者は判断できないから、反論を封殺したり、言論を制限したり、批判に正面から応えようとしない、対話と公開に消極的な団体は本来の意味で民主的とは言えない。

被告が、この裁判の真相を覆い隠そうとする理由は、救済事業への批判の存在を会員に知られたくないからであろう。
 一方、被告団体の会員は、大半の者が、救済が何故行われているかという理由さえ、よくは知らないのではないか。
 仮にそれが恒久対策案というものによるものであることを知っていたとしても、読んだことがある会員がどれほどいるのだろうか。
 また、読んだとしても、救済案の本来の意味・本質がわかるだろうか? 金が出始めると、とたんに苦難の14年間を歩んだ不屈の運動の指導者を真っ先に組織から追放して、被害が抹殺された長年月の痛苦の歴史を実感する努力を放棄し、森永乳業の深謀の歴史への警戒を怠っておいて、恒久救済対策案にこめられた先人の思いが多少なりとも理解できるだろうか。

 まして、救済事業の批判をどのような基準で展開したらいいか、争点も思いつかないのが現状ではないか。
 被害者自身もなんとなく不満を心にくゆらせても、時々カネを払ってくれる有難いお上のように思わされている団体上層部への批判意識は表面に出てこないのかもしれない。

しかしこのゴマカシがいつまでも続くとは思われない。

大きくなって、惑いの年を過ぎてもなお、迷い、迷わされ続ける被害者をみて、原告の脳裏には、往時の被害者家族の声が生々しくよみがえってくる。

「森永のあくどい本性は変わらない。森永が憎い。心の底から憎い。憎んでも憎んでも憎みきれない。 絶対に許せない。 どんなに森永が償おうが、どんなに金をだそうが、この罪は終生消えることはない。 私たちの心の傷も消えることはない。 この体をみて、毎日それを思い出すだけだ。 子どもたちの健康を返せ。人間の尊厳を返せ…。」

欺瞞という名の暗雲が、今も苦しみ続ける被害者の頭上に覆いかぶさって離れない現状を見るとき、また、“森永への感謝”を要求する被告団体の一部の者の言動が、多くの物言えない被害者の、人としての尊厳を確実に蝕み、あたかも“施しものをもらうかのような存在”に落としめられている哀しみを見るとき、原告は、時計が1955年にもどってしまったかのような、わが国の現状を心底から憂う。
 だが原告は、一方で、弱き国民の一人にすぎない自らをみて、愕然として立ちすくんでしまうのである。この虚しさが原告の心を離れる時が、果たして来るのだろうか…。そして、再び道を誤ることのない未来を子孫に、果たして遺せるのかどうかと…。この10年の体験で、底が見えない程の暗闇をみて、言い知れぬ未来への不安を感じるのである。

判決は 3月26日 岡山地裁








【能瀬裁判 経過】
 
原告提出証拠から「被害者団体」及び「救済基金」の驚くべき内部実態が明るみに。差別暴言(被害者自身の記録)と、被害者家族への素行調査記録(被害者家族自身の告発) などから判明する基金職員の「思惑」


■運営の改善を求める被害者家族と一般市民に、徹底的な個人攻撃を加える「被害者団体」上層部
 2009年2月18日、岡山市米倉在住の自営業・能瀬英太郎氏は、「公害被害者団体」の機関紙上で著しく名誉を傷つけられたとして、機関紙の発行元である「森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会」を相手取り、名誉毀損の損害賠償請求訴訟を起こした。同氏は、記事の内容は嘘の羅列であり、“事実無根の記事で著しく名誉を毀損された”、として、名誉回復(機関紙上での謝罪記事の掲載)と損害賠償を求め、岡山地方裁判所民事部(写真)に訴状を提出、即日受理された。

 能瀬氏は、かつて、同事件の被害者救済運動を支えた市民ボランティアの一人だが、最近、“現救済団体は、運動の創始者や改善の為にもの言う被害者とその家族を敵視・除名排除し続ける一方で、本来の恒久救済をほとんど実施しておらず、運営にも大きな闇がある”として、詳細な事実を元に数々の論文を発表していた。また、被害者の親からの要望で、被害者家族の支援を行っていた。

 ところが、2007年8月20日、現「守る会」は機関紙「ひかり」(第460号)の第1面を全面使って、「被害者運動の変質と救済事業の破壊をねらう能瀬英太郎氏(元「森永告発」)の動き2007.7.29守る会常任理事会声明」などと大見出しで同氏の名前をあげつらって個人攻撃をおこなった。
 これに対して能瀬氏は、紙面内容そのものが事実無根の羅列であり、財務面を含めた深刻な問題を指摘する国民を、嘘で塗り固めた記事を使って人身攻撃する「被害者団体指導部」の実態は、もの言えない立場に置かれている重症被害者救済の視点からみても看過できない、との立場から名誉回復の訴訟に踏み切った。
 ところで、能瀬氏は、機関紙第460号の内容が嘘であることをもって告訴したのだが、被告は、該当機関紙に書いた記事の真実性の立証責任(挙証責任)を事実上放棄している。他方で被告は、争点はずしのため、過去の能瀬氏の批判への「反論」ばかり行っている。しかし、そこから、はからずも被告・「被害者団体指導部」の異常な支配の実態が明るみになっていることは注目に値する。

■「和解後」20年間にわたり批判者を排除し続け、組織を掌握。
 以下、今裁判の争点とは直接関係がないが、その背景にある「“救済”開始後」の問題について触れたい。
 かつて、「守る会」では、スターリン主義的な独裁手法を好む勢力が主に外側から入り込み、次第に幅をきかせるようになった。これに対し、組織の変質傾向を是正しようとした創設期の指導者を、今回と同じように、機関紙1面を使って徹底攻撃し、しかも反論は絶対に許さないという手法で除名排除を強行した。その後、傘下の会員被害者家族から批判の自由を奪い、現状組織の実権を完全に掌握するに至っている。

 その上で毎年拠出される、森永乳業からの10億円をゆうに越える資金が、深刻な被害を抱える重症被害者には十分補償されず、高齢の親の抗議(法的措置に基づく人権救済申し立ても含む)を封殺しながら「自在に活用」されている。2級相当被害者への年金額の方が、より重症な1級被害者への年金額より多い、(被害が重症化すると生活手当てが減額される)などという驚くべき逆転支給の実態…。また国の障害者年金をゲタ履きさせ合算させて、2級と、より重症者の1級の被害者の受取額をほぼ同額に「そろえて」(頭を切って)いる実態…。
 一方で、本来、被害者救済事業として活用されるべき多額の「救済資金」が、「専従者集団」への手厚い給与として消耗されているという主客転倒…。しかもその「専従者集団」がもの言う被害者に対しては差別的な暴言で抑圧し、その実態を外部に秘匿するために画策を巡らせている実態…。このような驚くべき事実は、能瀬英太郎氏の実証レポートとして初めて表に出た。
 また、このような実態に対し、国と森永乳業は、現団体(「公益法人」である財団法人含む)と定期的に接触をしているが、運営実体は正されることなく、依然として奇妙な沈黙が保たれている。この沈黙も20年を越えるとなると、「救済事業の後退」=「加害企業の都合優先」という思考を優先するシステム構築と、その動きへ抵抗する被害者への分断支配が行われているという見方もうまれてこよう。
 それは森永ヒ素ミルク中毒事件に潜むあまりにおぞましい弾圧と懐柔のDNAをあからさまにしている。それは、公害事件としてまったく「未解決」事件であり、被害者への再度の抑圧的支配が新しい手法で再開されている、という点で、公害問題の決して終わることのない、おぞましい闇を再提起するものになっている。
 更にまた「未解決」の現状を無原則的に礼賛し、公害問題の現実、その深刻な被害を矮小化し、軽視する言説を意図的に流布する集団の存在が、第二の公害を準備することにつながると認識されても、それはまた、仕方のないことだろう。

原告側準備書面を公開

(以下、新着順に掲載しています。古いものは最後尾のアーカイブに入れました。)

最終提出(最新版)の準備書面

市民・能瀬英太郎氏、総括的主張を発表。
特定集団に支配された被告・被害者団体組織の異常を指摘。被害者家族と一般国民、メディア、研究者への抑圧行為を中止するよう被告に要求。
原告側第12回準備書面(PDF:135KB)
 
2011年8月31日岡山地裁提出。

害被害者団体内部の腐敗とそのあり方に異議を唱えたわが国最初の原告・能瀬英太郎氏(岡山市)による、総括的主張。全国民が読まれ、産業公害のその後と、金銭を通じて幾重にも抑圧管理される被害者の現状を考えてほしい。たとえ幾らかカネが支給されたとしても、被害という事実に加え、被害者の不安や憤りが清算されるわけではない。金と引き換えにヒトとして決して忘れてはいけないもっとも大切なものは何なのか? ましてや公害問題や被害者の救済のあり方を語ることは被害者と加害者の間の秘密の専売特許なのか? NOである。被害者家族自身がそう言うし、それは公の問題である。公害被害者は金を出しはじめた加害企業に一転、「感謝」の姿勢を見せる義務があるのか? NOである。そんな思考方法を先進国では聞いたことがない。同じ感謝をいうなら、被害者は、市民が異なる意見を提示したり、批判したりしてくれることにこそ感謝しなければいけない。被害者は、市民・国民の一員である。市民・国民の支援によって、はじめて受け取ることができた成果ばかりであるにもかかわらず、「批判的言辞を提示する一般国民や支援者はよそ者」であるかのような論理を平然と展開する感覚は、全被害者の存在を道徳的に貶めかねない悪徳であろう。加えて、これらの問題を「被害者団体という部分社会構成員の自己責任論」として傍観する視座も、第二の公害・人災を間違いなく引き寄せる。
瀬氏は、一市民にもかかわらず、被害者家族を若いころから知る稀有な支援者として、親の苦悩や物言えない被害者家族の痛みを深く理解している。彼の文書では、それらの痛みへの共有に加え、カネを扱う上での公明正大さと合理的説明責任…など多くの、世間では当たり前の常識が一貫して語られ諭されている。逆に、この程度のことが理解できなければ、産業公害の教訓の継承など無いにも等しい。それは日本社会が経済的には拡大しても、文化的にはなんら成長していないということにも繋がる。それはひとつの国民国家のあり方において、なんと不幸なことだろうか…。
日の日本における異常事態とそれを招いた裏側にある要因、公害の真の教訓が現代に活かされない原因のひとつが、意外にも「被害者の問題を自己責任として捨象する歴史的意識」と、それを逆手にとってはびこる「支援という甘い言葉で国民の味方をよそおう偽装された政治集団」に潜んでいることも、そろそろ成熟社会・日本では公に指摘・議論されるべきテーマとなってよいはずだ。福島でさえも、低線量被曝に怯える母親への風圧は、この上なく強いという。それは日本人が福島全体をなにやら自己責任で対処せよという空気へ追いやっているからではないか。先般の「自主避難」とはまさにそれを表した「指示」だ。当然、その孤立感に、内心喜び勇んで付け込む役割分担化された勢力もでてくるだろう。
徳は悪徳ゆえに、人々には比較的識別がしやすい。だが、この、冷戦構造、或いは55年体制の残滓ともいえる問題は、いまだに、日本の市民意識の成長の前に絶えず立ちはだかり、垢のようにへばりついて日本社会の改善の努力が必要なときに、必ず、「支援」の旗を振りながら邪魔を始める。このテーマは、いかに評論家の関心事にはなりにくくとも、何事かを成し遂げようとする人々には避けて通れない課題である。主体的意志をもつ市民にとって、組織の名によって独裁と抑圧を正当化するイデオロギーとの決別と、新しい価値観に基づく活動スタイルの構築は今後の歴史的課題となるだろう。もだえ苦しむ人々に、この問題がへばりついて来る不幸はいい加減止めさせなければならない。
の問題を能瀬氏は事実から冷静に解き明かしている。だが、彼の告発は政治的告発ではない。あくまで現状の改善でしかなかった。苦しむ被害者家族を助けただけである。日本は、それが許されない社会になっていくのか? これは一重に勇気の問題だ。勇気がなければ、常識も、良識も、その先の正義もあり得ない。そして、これは本質的に全国民にとってのテーマであり、一人ひとりの市民のテーマでもある。
織の力でカナリアの声を抹殺し、是正と浄化の機能を無視する愚かしい習慣が、思想の左右の如何を問わず憲法の精神を踏みにじり、約束の精神という民主社会の基本理念をホゴにし、カネでヒトの魂を支配する悪しき手法を普及している。人間のつくった組織やシステムは10年もたたないうちに腐敗をはじめるのは悲しいかな多くの人が知るところだ。そういった組織・システムは、すでに十分、腐敗腐臭をまきちらし、異常を指摘する市民を抑圧し、環境と街と人を破壊し続けている。人間の弱さとおろかさを直視し、それと格闘する少数の人間の存在を尊重できなければ、健全で活力ある未来は到底望むべくもない。
て、わが国は、新幹線の墜落や埋立を、テレビ画面を指差して笑えるほど立派な国なのか? 「被害者をカネで買収している」となじっても、足元で同じことをしているようでは、他国から笑われるだけだ。裁判所でも公開され、当サイトでも一部を追加公開している「ひかり協会職員の暴言の数々」の記録を読むと、まるで鬼畜の発言・所業である。あまりに尾篭で、全文公開がためらわれるほどである。「新幹線を埋めた輩」から「そうだとしても、日本の“ひかり”ってのよりは、よっぽどマシだと思うがねぇ」と言われて、さて、反論できるだろうか。おとなりの共産党指導部から、「日本だって、共産党派と一部大企業はしっかり手をつないで被害者を独裁管理してるんじゃないの? 一皮むけば日本も同じ程度じゃないの?」といわれたら、どう反論すればいいのだろうか? わが国が、戦後60年以上たって、他国に誇れるほどの民主国家に成長したのかどうか、この岡山にて、しっかりと見届けたい。

以下、争点が簡潔に整理されている能瀬氏の総括的準備書面の全文を公開する。
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【能瀬英太郎氏の第12回準備書面】<原文>

平成21年(ワ)第249号損害賠償等請求事件
 原告 能瀬 英太郎
 被告 森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会
         準 備 書 面
          (第12回)
                         平成23年8月31日
岡山地方裁判所第2民事部2A1係 御中
                          原告 能瀬 英太郎
第一、被告の責任の法的根拠について

 1、被告は民法709条、710条、723条に基づいて、原告に対して損害賠償の責任を負うものである。
 そして、本件不法行為は被告組織の執行機関である常任理事会の声明という、偶発的になされたものではなく、極めて意図的になされたものである。被告の準備書面、または証人平松正夫、前野直道両氏の証言からも明らかな通り、本件記事の真実性、または、真実と信ずるについての相当の理由の存在等についても、被告は何ら積極的に挙証義務を果たそうとしていないのである。被告の主張はすべて伝聞によるものか、または原告の著書等から得た知識による憶測によって書かれたものである。それらの意図するところは、原告による被告に対する批判を意図的に封じる目的で本件記事は作成されたものである。

第二、まとめ

 1、本件記事とそれに付けられた見出しは、記事全体として、それを読む会員や不特定の読者に、原告があたかもひかり協会を破壊する目的で言論活動を行っているかのように理解されるもので、それにより原告の社会的評価を低下させるものであり、原告の名誉を重大に毀損するものであることは明らかである。
 したがって、被告が名誉毀損に基づく賠償責任を免れるためには、自ら記事の内容が真実であること、またはそれが真実であると信じるについての相当の理由が存在したことを立証しなければならない。
 しかるに被告は、これまでの書面においても、また証人二人の証言においても、ともに何らの挙証もしていないのである。
 本件記事は、前野直道証人が「だれからも取材しておりません」(証人前野直道の証言調書28頁)と述べているように、原告の著述したものからのみ入手した情報を勝手な憶測を交えて作成したものである。そして自分の書いた記事が事実であるかどうかは、何一つとして、具体的事実によって証明されなかったのである。
 しかも、これまでの原告の準備書面において再三にわたって求めた「求釈明」事項にも、どれ一つとして釈明をしていないのである。
 つまり被告は、その挙証責任のどれ一つも果たしていないのである。
 ましてや、原告本人にも取材していないどころか、原告が以前所属していた「森永告発」の関係者にも取材をしていないのである。原告が現在もまだ「森永告発」の運動を引継いで展開しているかのように書きながら、肝心の「森永告発」関係者に対しては取材もせずに憶測で書いた記事が甲1号証である。

 2、文章@で原告が「系統的に守る会や協会の批判をE氏に吹き込み煽動してきたと言える」(甲1号証)と被告は書いているが、当のE氏(榎原伊織氏)は証人尋問では、そのことを否定し「全く逆です。私があんたに吹き込んだんです、こういう内容じゃいうことを」(榎原伊織証人の証言調書16頁)と述べている。
 さらに文章Aについても被告の主張する原告による「妨害行動」は、まったく存在しないことが、前記榎原伊織証人の証言でも明らかになった。本件記事について執筆したという前野直道氏は、何ら裏付けのない事実を随所で一方的に勝手な思い込みで断定して書いている。
 さらに文章Bで、原告が批判をしているのはひかり協会の救済事業が「恒久対策案」の規程より低い実施状況であることを、ひかり協会が発表した資料をもとに展開しているのである。ひかり協会は公益法人として国から認可され、税制上も優遇されている社会的存在である。救済事業の成果については、多くの国民が関心を示している。とりわけひかり協会成立までには、「恒久対策案実現のため」をスローガンにして国民に支援を要請しているのである。当時支援活動をした原告には、被告が支援活動の要請をした「恒久対策案実現のため」が、その後どのような状態であるかに重大な関心を持つことは、理の当然である。
「恒久対策案の実現」がなされないことは、国民にたいする被告の約束違反である。原告がひかり協会の約束違反を批判する文章をもっとも多く発表したのは、被害者の親である榎原伊織氏が開設したホームページである。このホームページについて被告は準備書面の各所で、原告が中心になって作成しているように書いている。それはまったく裏付けのないことで、榎原伊織証人の証言(榎原伊織証言調書8頁)で明らかになった。これらは原告が榎原伊織氏を操り人形のように使い、原告の思い通りに操作したという被告が描いた構図が破綻したことを示している。
 文章Cについても、原告が「親族や被害者に近づき、その不満や不信を守る会や協会に対する体系的な批判に強化発展させ」る理由は何もないのであり、原告は親族に頼まれて支援活動をしただけのことである。それについても榎原伊織証人の証言(榎原伊織証言調書13頁から15頁)でも明らかである。
 文章Dについては原告の証言(能瀬英太郎本人調書1頁から4頁)のとおりであり、それを否定する事実は、これまでの被告の準備書面や書証で示されていない。即ち文章@から文章Dまで被告は一切の挙証もできないのである。本件記事の真実性、または真実と信ずるについての相当の理由の存在等についても被告は何ら積極的に挙証義務を果たそうとしていないのである。本件記事は極めて意図的に、原告の批判活動を委縮させる目的で作成されたと思わざるを得ないのである。
 それは原告の言論活動のみに限らず、ひかり協会の救済事業について評価せず批判的な言辞が僅かでもあれば、「被害者の会」を名乗って圧力を加えてきたことは、周知の事実である。その例として上げられるのが、『森永ヒ素ミルク中毒事件50年目の課題』の著者中島貴子氏と、独立行政法人科学技術振興機構社会技術研究開発センター長の市川惇信氏に対するもの(甲31、32号)である。さらに山陽新聞の記事(甲47号)が不満であることを理由に、不買運動をちらつかせての脅しである。記事を書いた記者を被告大阪事務所まで呼び出し、2時間にも及ぶ糾弾的追究を加えて別記事(甲48号)の執筆を強要している。これらは、言論の自由に対する重大なる挑戦である。
 被告は組織の内外からひかり協会の救済事業について批判があることを、認めたくないのである。組織内からの批判については、外部からの煽動や工作がないと起こり得ないと堅く信じたいのである。だから内部からの批判に対しては、榎原伊織氏に行ったような「誤支給問題」(甲82号〜84号)をつくり、山田一之氏の場合は「山田氏の主な経過」(甲45号)を流布させ報復的行動にでるのである。

 3、被告による、本件記事の掲載・頒布で原告が今まで、被告の運動に対して長年自分の仕事も顧みず、無私な態度で支援活動を行ってきたことを意図的に歪曲し、精神的にも回復困難な程の打撃を与えた。又現在も被告を支援している、原告の知人との信頼関係を損なう結果を与えてしまった。それらは原告に精神的な苦痛を与えたことは元より、生活面にも甚大な影響を与えたのである。
 これら被告の行動から次のことが読み取れる。ひかり協会への批判内容を、被告は機関紙「ひかり」には1行も紹介せず、批判はすべて「誹謗中傷」であり、それは「救済事業の破壊」であるとして1面全体を使って原告への人身攻撃を展開した。甲1号はひかり協会批判に対する「みせしめ」であり、救済批判の抑制作用を狙ったものである。今後救済事業がどちらの方向に舵を切っても、後難をおそれて批判が行われなくなるだろう。これこそ言論の自由に対する委縮効果が目的だったと言わざるを得ない。それらのことから甲1号には公共性も公益性もない。

 4、このように自己の保身のためならば、人の人権を侵害して憚らない被告の悪質性は、今に始まったことではなく、これまでにも繰り返されてきたことである。組織の主導権を握ったグループが、異論を排除するために機関紙「ひかり」を利用して人身攻撃(甲28号)をしても「部分社会の法理」で違法とされなかった。それをいいことに、部外者である原告にまでも同じ手法を用いたのが本件の特徴である。このような悪辣な手法は損害倍償金の算定にあたっては深く考慮に入れなければならない。そうでなければ、違法行為のやり得となってしまい、その横行を容認することになりかねないからである。原告以外にもそれを受けた者には、計りしれない怒り苦しみがあったであろうが、ほとんどの場合、泣き寝入りをするか見過ごされてきた。原告自身も一時は訴訟をあきらめかけたのであった。
 また法律事務所を訪ねて相談しても、大部分の弁護士が「名誉毀損事件」と聞くと二の足を踏み、引き受けてもらえないのが現状である。事務員が相談内容を聞き、弁護士に会う前に断られることだってある。それは解決まで長期間かかりながら損害賠償額が低額なことで、それに見合う報酬には程遠く割に合わない仕事だからである。よほどの正義感の持ち主か、もの好きでないかぎり見向きもしない。「岡山では名誉毀損事件は少ないので、あまり手掛けたことがない」ので自信がないとも言って断わる理由にされる。
 北方ジャーナル事件最高裁判決において大橋進裁判官が『「生命、身体ともに極めて重大な保護法益であ」る名誉を侵害された者に対する救済が、事後的な形によるものであるにせよ十分なものでなければ、権衡を失することとなる点が強く指摘されなければならない。我が国においても、しばしば名目的な低額に失するとの非難を受けているのが実情と考えられるのであるが、これが本来表現の自由の保障の範囲外ともいうべき言論の横行を許す結果となっているのであって、この点は関係者の深く思いを致すべきところと考えられるのである』と補足意見を述べている。
 以上、縷々述べた通り、被告らの本件行為の違法性は、また非人間性、被告らの悪質性および被害の甚大性、深刻性は明らかである。
 本件記事の掲載により原告のうけた被害の大きさに対して、金200万円の賠償金の請求は決して過大ではなく、むしろ過少な請求ともいえるものである。
 また、賠償金のみにより原告が被った損害が回復されるわけでもないことは、明らかである。
 よって損害賠償および謝罪広告の請求は全て容認されるべきである。

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「言論活動を破壊活動と表現する」被告団体の実態。
公害被害者団体の本来あるべき姿に関して市民が直言。
原告側第11回準備書面(PDF:306KB)
 
2011年5月16日岡山地裁提出。

準備書面は被告側代理人が積み上げる争点はずしの弁護書面への反論であるため、若干分かりづらい箇所もある。被告は、能瀬氏を名指しで攻撃した理由が「同氏の違法な抗議活動」だといい続けている。これに対して、原告・能瀬氏は、弁護士会が設置している人権擁護委員会や行政への問題提起がなぜ違法なのかとシンプルに問いかけている。被害者団体のあり方を問い、問題点を事実に基づいて指摘する市民への攻撃がいかに異様なものかが、浮かび上がっている。
なみに、能瀬氏が厳密な事実に基づいてペンで行った批判・問題提起を「違法」であると公文書に書き連ねるのなら、被告代理人の行う弁護という仕事も、もしかしたら違法行為なのだろうか? 弁護士会への訴えが違法行為だというのなら、弁護士会自体が違法行為を斡旋していることになるのだろうか? 行政への訴えが違法行為なのなら、行政の市民窓口は違法行為の斡旋行為をしているということになるのだろうか? 少なくとも素人にはそう言われているとしか映らない…。いかに弁護士でも文書に書いていいことと悪いことがあるのではないか? 弁護士会への訴えを違法だとダイレクトに書き連ねる思考の中に、弁護士法第1条及び第2条の精神は存在するのだろうか?

【被告団体の主張が仮に岡山地裁で一部でも認められれば、
以下のような、恐るべき全体主義の監視弾圧社会が登場】                                                     2011.5.12分(再掲)


被害者家族は近所の友人とオチオチ話もできない…。
 運悪く、Aさんの子供が毒ミルクを飲まされて、Aさんが被害者の親の立場になったら、近所の友人Bさんとお茶を飲みに行き、そこで、被害児である我が子の将来への不安を訴えたり、厚労省から財団法人の認可を受けている救済基金団体Xのあり方(救済資金の半分近くが、X財団専従職員の給与と管理間接費に消えていたり、被害者に対してものすごい差別的言動をおこなったりしている理不尽など)への疑問を口にすることは絶対に御法度となる。親であるAさんは被害者団体Yの会員だが、、「被害者団体Yの外部に団体Yの機密を漏らした」重大な規律違反として、また、「他の被害者に迷惑をかけた」として、財団法人からではなく、Y被害者団体のほうから攻撃と処分を受けても仕方がない社会となる。被害者団体上層部が、ものいう被害者家族の親の行動を、逐一尾行して監視したかのような「行動記録」を作成して世間にばら撒いても、人権侵害とは認定されないというナチス・ゲシュタポまがいの社会が生まれる。

被害者団体の改善に努力する被害者家族は、被害者団体から脅されても泣き寝入りしなくてはならない…。
 さらに、その親Aさんが、実態を聞いた友人Bさんから「それは本末転倒だ、どうみてもおかしい」と励まされ、意を強くして財団法人Xや、被害者団体Yへの改善・改革を試みた場合、厚労省から財団法人の認可を受けているXはAさんに「数十年前からあなたに支給していた金は多すぎていた、すべてAの責任だから返せ」として数十年前にさかのぼって百万円単位以上の金を返せと嫌がらせを始めることができるし、それがなぜか、段階を追って増額されるということも合法となる。さらに加えて、被害者団体Yは、Aさんを「“外部”の市民から煽動された罪」で処断してもかまわないことになる。

被害者家族を励ます近所の友人知人は、なぜか、被害者団体から猛烈にパッシングされる…。
 同時に、その、励ました近所の友人Bさんも、被害者団体の全国機関紙で、実名を大見出しで掲載され(しかも「氏」はわざと小文字にし、事実上「呼び捨て」。品性の低さを露呈しているがまったく恥という概念とは無縁のようである)、事実無根の内容で名指しで攻撃されても、名誉毀損罪の適用は免れ、超法規的処置が適用され、全国の広範囲(被害者会員以外にも)に発送されている機関紙上で侮辱されても法的手段に訴えることができないという世にも珍しい判例が生まれることになる。「当会の会員Aに、余計な知恵を吹き込んだ近所の友人Bは、我が組織を破壊する危険分子だ。Bは若いころ、こんなこと、あんなことをしていた」などと身上調査までされて、事実無根の内容で徹底攻撃されても、それは正当な行為とみなされることになる。

被害者家族を助ける市民は、被害者団体が発行する機関紙の大見出しで名指しで呼び捨てにされ、社会的信用を汚され、人権を侵害されても泣き寝入りを余儀なくされる。
 さらに、その友人Bさんが、過去にその被害者団体の救済運動を支援していたとしたら、それは、感謝や敬意の対象ではなく、逆に「攻撃のネタ」に使われても仕方なくなる。Bさんは元々の(今は除名された)被害者団体のリーダーから依頼されて支援したのに、今では名誉も人権も剥奪されて当然だということとなる。「ものいう被害者家族」を励ましたという一点で、一市民にすぎない友人Bさんは、事実と異なる内容で口汚くののしられても、ののしり元が公害被害者団体の看板を掲げていれば運が悪いとあきらめるしかない、特殊な社会が登場する。
 一般市民は被害者家族とみだりに話をすることも遠慮すべき時代となる。なぜなら、話相手の被害者家族が、いつ「ものいう被害者」になり、被害者団体の攻撃対象にされるかわからないからだ。それと話をした市民が、いつ「吹き込み煽動」という聞いたこともない罪状で嫌がらせをうけるか、わかったもんじゃないからだ。

そして、「公害被害者への市民の支援」という言葉は日本社会から消える…。
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被告「守る会」の第10回準備書面の問題点PDF:185KB

ジャーナリスト個人への嘘にまみれた人身攻撃を正当化し、
報道・学問研究の自由まで制限を加えようとする被告。


 平成22年9月3日に被告から第10回準備書面が提出された。

 最近、被告は、“能瀬氏こそ、守る会を誹謗中傷しているのだ”と書きたて、あまりの劣勢をなんとか「喧嘩両成敗」にしてもらおうと、争点とは関係のない、しかも、すでに反論されている内容を、お構いなしに繰り返し書き連ね、書類の山を裁判官の前に積み重ねる戦術に出ているようだ。
 被告が最近にわかに主張する“能瀬氏が行った誹謗中傷”なるものを被告の主張から要約すると、“恒久対策案を一割ほどしか実施していないといって悪く言う”というのである。 「一割実施」との指摘が、情けないかな、象徴的な意味を持つ指摘であるのは、能瀬氏のレポートを読めばおおむねわかることである。というよりも、そもそも、それは被告の会員である被害者家族自身が憤慨して批判したことを、被告はお忘れのようだ。被告は、能瀬氏が「誹謗中傷」しているというのなら、まず、もっと以前から批判している自らの会員を訴えなくてはいけなくなる。まあ、実際に会員家族の言論を封殺し、除名や、無期限の権利停止などの「処分」を歴史的に連発してきたが、結果、弁護士会での人権救済申し立てや、裁判で訴えられたのは被告のほうである。被告はこの、ごく基本的な疑問に対していったいどう答えるつもりなのだろう。

事態の背景事情
 能瀬氏は仕事の傍ら、フリージャーナリストとして、森永事件に限らず、様々なテーマでドキュメンタリーを雑誌に発表してきたが、今回に関しては、批判対象がかなり異様である。能瀬氏は、一貫して、現・救済基金「(財)ひかり協会」の闇を告発し続けているにもかかわらず、批判されているはずの当の基金「(財)ひかり協会」は押し黙ったままである。そして、なぜかそれとは別組織である被害者団体が横から出てきて、能瀬氏へ攻撃的にかみつき、被害者団体が、自身の全国機関紙一面全面をつかって事実無根の主観的誹謗記事を掲載し、第三者機関への外部からの批判を封じ込めようとしたのである。本来なら、加害企業から橋頭堡化され、企業側に取り込まれる危険性をもった救済基金を厳しく監視し、被害者本意の機能を発揮させるように牽制しなければならないはずの被害者団体が、救済基金のあり方を問題視する市民ジャーナリストへ攻撃を加え、一種の親衛隊として救済機関の大賛美にエネルギーを注ぎ、足元の被害者家族の抗議にも処分を乱発しながら被害者を黙らせるために跳梁しているという姿である。

正当な批判と言論・報道の自由が「不当な手段」で脅かされても良いのかという問題
 ある組織のありようを、事実をもとに指摘すると、指摘者こそが誹謗中傷の実行行為者だ、と被批判者が逆切れしてみせることはよくあることだ。だが、批判された者が全国に広く発送している機関紙で、一批判者を根拠も無く大々的に攻撃すれば、それは名誉毀損となる。今係争は、被告が機関紙に書いたことは事実か嘘か、という、子供でも分かる話である。「嘘をついて広報紙まで使って人をイジメれば、罰せられるんだよ」と小学生に大人が堂々と語れるかどうかという単純な話だ。ことは報道の自由の問題である。すでに、裁判所には被告が地方紙記者や学術研究者や研究機関に対して実際に行った圧力行動の証拠が何点も報告されている。

 よもやそんなことはないだろう。だが、もし、弁護士をつけない市民の足元をみて争点はずしの書類積み上げを行う行為を裁判所が叱らず、「正当な批判行為」に対する「不当な攻撃」を、「お互い言論の自由があるよね」という感覚で取り扱ったならば、「批判」と「人身攻撃」を同義語に扱う司法の姿が出現することになり、後世の物笑いになるだろう。日本からは、ジャーナリズムの報道の自由も、学問の自由も言論表現の自由も徐々に後退するだろう。被害者でない一市民が自らリスクをとって行動を起こしている厳正な事実を傍観者的姿勢から過少評価すると、この国からは、自分の経済的利害に関係がないことにリスクをとる市民はいなくなる。独立市民の精神は後退していくことになろう。

余談:「言論の自由」に対して、「風邪と水虫」が登場
 ちなみに、以下、争点とは無関係だが、被告は「後遺症の関係なく
補償している」などという主張をし「風邪でも、水虫でも補償される」と書いた。さらに、調子に乗るあまり「被害者…(中略・個人名)…は…(中略)…ひ素ミルク中毒になってよかった、といっている」とまで書き連ねている。これらの主張に、一番びっくりしているのは被害者自身だろう。このお調子に心底から憤る遺家族もいるだろう。この点に関しては、能瀬氏の第5回準備書面(10p-11p)を読めばそのカラクリはすぐにわかる。
 被告は、“1994年以降、医療費の支出に「制度的線引き」をした”ことを指摘した能瀬氏の文書に対し、正面から反論をせず、結局出てきたのが「水虫」である。賢明な国民には、これがなんであるか一目瞭然だ。被告は、「能瀬氏とは議論がかみ合わない」と述べたが、争点に関する能瀬氏の求釈明に対しては全く答えない被告の姿をみると、議論をかみ合わせたくないのは被告側のように見える。
 とにもかくにも、“水虫も風邪も”“写真の笑顔のとおり…(中略)…協会によって守られている”(本来なら守る会は、協会から守られない被害者のためにもあるんだろうが)などと裁判官へ語るのなら、詳細な母集団を基礎とした統計的データをセットで出すべきだろう。こんな文書を考慮する司法の姿はみたくないものだ。
 ただ、しかし、これは被告が言うところの「よそ者」能瀬氏の問題提起が被害者にもたらした大きな成果かもしれない。なぜなら、とりあえず、すべての被害者は、「後遺症とは関係なく、医療費は支払われる」し、とりわけ風邪と水虫は手厚く補償されるらしい。リハビリテーションなどもどんどん要求すれば良いらしい。なにせ裁判所の公文書で書いて約束したのだから。約束した相手は森永乳業でもなく、厚生労働省でもなく、偽証罪で防衛された司法機関であるからだ。ただし、今回約束したのは、ひかり協会ではなく、守る会だから、そこに被告のやりくりのミソがありそうだが、とりあえず行動は起こせる。当然の要求である。これまであきらめていた被害者家族は、いますぐ岡山地裁へいって、被告第10回準備書面の閲覧を要求し、その4頁以降にかかれている手厚い補償の一切を要求してもかまわないのだ。それらを「ひかり協会」に要求してみればいいのだ。その上で、救済資金から手厚い給与を得ている彼らが、被害者に対してなんというかを詳細に世間に公開すればいい。苦しい身体と付き合う毎日を送る被害者には、「ひかり協会」には、もちろん、なんら遠慮も我慢もする必要はないのだから。
被害者の気持ちを傷つける発言

 裁判資料
能瀬訴訟ページ印刷用pdf
原告側準備書面原文
■原告側 第3回準備書面 全文紹介-pdf file
■原告側 第5回準備書面 全文紹介-pdf file
■原告側 第6回準備書面 全文紹介-pdf file

原告側 第7回準備書面 全文紹介-pdf file
原告側 第11回準備書面 全文紹介-pdf file
原告側 第12回準備書面 全文紹介-pdf file
被告側準備書面への分析
■被告側提出第3回準備書面の分析-pdf file
■被告側提出第4回準備書面の分析(総評)-pdf file
■被告側提出第6回準備書面の分析-pdf file

■被告側提出第10回準備書面の分析-pdf file


「(財)ひかり協会」職員による重症被害者への驚くべき発言記録 
財団法人ひかり協会の職員による重症被害者への差別暴言記録
↓改善を求める被害者家族の動向への異様な監視記録
もの言う被害者家族への素行調査


■被告「守る会」の第8回準備書面の実態


報道の自由さえ問われている今次訴訟。
 
平成22年5月21日に被告から第8回準備書面が提出された。
 3月29日の第7回書面に引き続き2ヶ月もしないうちに出してくるという調子の良さである。だが内容には見るべきものがなく書類を積み上げて争点をすり替えることに全力を注いでいるように見える。

1.今回の訴訟に関しては、その争点は、被告とは異なる組織である「救済基金」が実施する「事業」の内容が、被害者にとって妥当かどうか、を争うものではない。〈被告が争点はずしのため、基金の礼賛をするから、結果的に基金や被告体質の問題点が争点とは関係なく原告側から指弾され続けているだけである)

2.この訴訟は、事実とは異なる内容=「嘘」をもって、自らの気に入らない人物への人身攻撃を全国規模で発行される機関紙媒体を使って実行した被告が、日本社会においては違法か合法かという、子供でもわかる単純な争いである。被告が、いくら紙数を費やして、能瀬氏を「嫌いだ」「考え方が違う」「迷惑だ」と繰り返してみても、この争点は揺るがないし、本係争のジャッジには、なんの意味も持ちえない。

3.争点に関して、被告の展開した嘘が、「嘘ではなく事実である」という論証は、7回も書面を出しておきながら一度も成功していない。この係争では、被告側に挙証責任があるにもかかわらず、被告はそれを事実上無視している。これでは、被告の有罪は論理的に明らかである。それとも、無意味な大量の文書を提出することで、裁判(官?)の心身を疲労させ、その心象に影響力を行使し、ミスジャッジの誘発を期待しているのなら、司法というものをなめた行為である。


 原告である能瀬氏は弁護士を雇わず、本人訴訟で闘っている。
 一方、被告である「守る会」は、弁護士を立てている。
 しかしながら、いくら弁護士を使おうとも、クロをシロには出来ないし、信念をもった一人の市民を黙らせることはできない。 義憤に駆られて困難にあえぐ公害被害者家族に対し支援をした一市民である能瀬氏を、機関紙1面全面を使って、しかも大見出しの実名の名指しで罵倒するという常識はずれな振る舞いをしたことへの反省の気持ちが微塵もみられないのは、恐るべき部分社会のありようというしかない。被害者への献身的支援を行った能瀬英太郎氏に対しては頭を地面に擦り付けて謝罪すべきであろう。

 今回のような単純な裁判で、もし被告が免罪されるようなことがあれば、例えば環境汚染の実態を報道するジャーナリストは、公害患者の黒幕だということになる。「ことを表ざたにした記者を叩け」と、加害企業や政府から私生活上のあること無いこと嘘八百を全国にばら撒かれても、記者は、泣き寝入りするしかないということになる。加害企業や国は、御用雑誌でばら撒いた記者のスキャンダルの真偽は一切証明できなくても、言い分を一方的に書いただけの陳述書を山のように出せば、裁判官から、「お互い言い争ったのだから仕方がないね」という意味不明の手打ちで免罪されることになる。そして、いつも、いじめられた市民の方が、割をくうことになる。


【原告・能瀬英太郎氏提出の第7回準備書面】 PDF:213KB

平成21年(ワ)第249号損害賠償等請求事件

 原告 能瀬 英太郎

 被告 森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会

           準 備 書 面

            (第 7 回)
                             平成22年7月5日

岡山地方裁判所第2民事部2A1係 御中

                              原告 能瀬 英太郎

1、被告が準備書面(8)の1で主張する「社会常識を逸脱して」とは原告が榎原氏、横田氏それに山田氏に依頼されて、岡山県弁護士会、広島県弁護士会の人権擁護委員会に人権救済の申立書を書いた事を指し、また国会議員に質問主意書の提出を間接的に依頼したことを指している。その他岡山県に公害調停について問い合わせたこともさしている。

弁護士会人権擁護委員会はこれまでにも様々な人権侵害事件について審議し、解決の方策を示してきたことは、被告代理人が最も良く知るところである。又国会に質問主意書を提出することは、政府の政策について質問することである。特に森永ヒ素ミルク中毒事件の救済開始は裁判の判決によったものではなく、厚生省、森永、被告の三者会談で政治決着されて発足した。被害者救済事業に対する政府の意向については、三者会談以来表明されたことはない。政府の責任は果たして行政協力だけに限られるのか、第5回三者会談確認書に盛られている内容と、現在の救済状況との整合性を質すことは、被害者全体にとっても有意義なことである。岡山県衛生部の部長は事件発生当時に、被災者同盟との会見で『法律の不備による事件であり、国の責任は重大である』と発言している。

 現在、事件の責任を森永だけに背負わしているが、厚生省は事件後、後遺症治療に対する被害者の度重なる要請に対して、常に森永を擁護し続け適切な指導をしてこなかったため、治療に14年間の空白が生じ、後遺症を悪化させた責任もある。

 水俣病に対しての国の責任と、森永ヒ素ミルク中毒事件についての国の責任の軽重は、軽々しく論ずることはできない。今水俣病については社会の注目が集まり、それに比べて森永ヒ素ミルク中毒事件は、解決済みの印象を与えている。そのような中で政府の責任を再度確認することは、被害者全体にとって意味あることである。被害者の僅か4分の1(ひかり協会との連絡希望者6,000名、事件発生当時厚生省発表被害児12,131名、被害者被告会員1,600=甲第21号で前野氏記述)しか纏めているに過ぎない被告が、被害者全体を代表するが如き態度で反対することこそ「社会常識」に反することである。

 そもそも被告は、原告が国会議員に依頼したという、「質問主意書の内容」を問題にしているのか、それとも「質問主意書提出依頼」そのものが「社会常識を逸脱」していると云いたいのかが、明確ではない。もし内容に対するものであるなら、それのどこに「社会常識を逸脱」したものがあるのかを指摘すべきである。「提出依頼」そのものが「社会常識を逸脱」しているとは到底思えないが、もしそうだとすれば、被告は反対する理由を詳細に述べ、今後国会議員以外の国民からの「質問主意書依頼」は断るよう、そのための立法措置を講じるべく国会へ請願運動をしたらどうだろう。

 被告は準備書面(7)の16頁1行目で「公害調停申立は、被告が甲1の対策を講じなくてはならなくなった原因の一つ」と主張しているが、原告は申立てなどしていない。架空の理由を作りあげ、自己の行為を正当化していると云わざるを得ない。

被告が「社会常識」を逸脱しているとして指摘する、以上3点の原告の行為は極めて正当なものであり、何等普通の方法に反してはいない。被告は自分に都合の悪いことはすべて排斥するという、視野狭窄的な思考方法から産み出された虚構を現実と取り違えているに過ぎない。

2、これまでの原告と被告の準備書面について要約すれば、以下のような経過をたどってきている。

(1)原告は準備書面(第1回)では、これまで森永ヒ素ミルク中毒事件にかかわってきた自身の経緯を記述して、甲1が如何に真実と乖離した記事であるかを論述した。それに対して、被告は準備書面(1)では森永ヒ素ミルク中毒事件の発生から被告の組織設立、「十四年目の訪問」の発表とそれによる被害者の全国的組織化、対森永民事訴訟提起、恒久対策案の作成、第5回三者会談確認書による救済機関ひかり協会の設立等について述べた。

 (2)原告は準備書面(第2回)で、被告準備書面(1)に書かれている事実の中に、きわめてあいまいで、事実を歪曲した部分があるのを批判した。それは特に恒久対策案についての記述であり、救済について恒久対策案の実施が不十分であることを原告は具体的に指摘した。

(3)被告は原告の批判に対して反論をすることもなく、準備書面(2)ではひかり協会の救済事業について、争点とは関係のない記述を長々と展開した。またこの中での抗弁では、ひかり協会の行う救済事業には公共性と公益性があり、それに協力する被告の行動は従って「公共性と公益性」があるというものであった。

(4)被告準備書面(2)で展開される「公共性と公益性」の主張は、甲1の記事に「公共性と公益性」があるかどうかを問題にせず、ひかり協会の事業に「公共性と公益性」があり、それに協力しているから被告には「公益性と公共性」があるとの主張で、問題の所在を取り違えていて失当であることを原告は批判した。これは端的に言うと「金魚のフンが金魚にくっついているから、フンは魚である」と言うに等しいものである。

(5)これまでの被告の準備書面に特徴的なことは、本件の争点より逸脱した主張が繰り返されて来たことである。そこで裁判官は書記官に命じ「争点整理メモ」を作成し、それに基づいた準備書面の提出を被告に要請した。争点整理メモに基づいて提出されたのが、被告準備書面(3)である。これに対する認否は色分けにより提出するようにとの裁判官の指示で、原告は被告準備書面(3)をそのまま使用し、否認は「赤」文字で、認は「青」文字で、不知は「緑」文字で識別して提出したのが原告準備書面(第4回)である。

(6)被告準備書面(4)は「原告は、損害賠償方式をお考えではないのか」という質問形式で尋ねるものであった。原告は、森永と被告の関係は「加害と被害」の関係であり、被害を償うために森永は賠償責任を果たしているのであり、その他の何ものでもないと反論した。それ以外に森永が善意で奉仕する理由はなく、「損害賠償制度」を認める主張は被告発行の文書、ひかり協会発行の文書にも掲載されているのである。即ち書証甲第63号証の1から3においてひかり協会が「新しいパターンの損害賠償制度である」と述べていることでも明白になっている。

(7)裁判官は原告に対して、原告提出の「書証」と原告準備書面との対応関係につき明らかにした文書の提出を命じ、原告は準備書面(第5回)第一でそれに応じた。更に原告は第二に於いて、被告準備書面(4)の質問に対する回答をすると共に、原告は被告に原告準備書面(第5回)に対する反論を要請し、もし反論がない場合には原告の主張を認めるものと認識すると、記述をしている。

(8)被告準備書面(5)は原告の反論要請を実行せず、被告が発した質問に答えた原告の主張に一言半句の反論もなされなかった。これは原告が「反論なき場合は認めたものと理解する」との主張を暗に認めたことである。そして被告が準備書面(5)で記述したことは、ひかり協会の救済事業に費用のかかることの説明である。これまた争点とは何等関係のない、単なる遅延行為である。

(9)被告準備書面(6)はひかり協会の救済事業の内、恒久対策案の実行状況についての説明であり、特に「具体的対策6イ年金」についての説明に多くの紙数を費やして、支給月額が低額なことを弁解しているのである。裁判官は被告準備書面(5)並びに(6)について、「争点とは関係ないこと」を理由に原告に反論する必要はないとの指示を出し、それにより原告はこの事実誤認の多い準備書面への反論を思いとどまったのである。

原告は裁判官の裁判指揮に誠実に対応しているのに反し、被告はいたずらに争点とは何等関係のない書面を連発し遅延を意図しているのは、誠実な訴訟行為とはいえない。被告はまた裁判官の指定した準備書面提出期限を再度厳守せず、甚だしきは約1週間も過ぎた後に提出するという杜撰ぶりである。原告は裁判の当事者になるのは生まれてはじめての経験であるが、提訴以前に抱いていた裁判に対する予断は「厳正」というものである。それがこの度当事者になって実感したのは、それとは懸隔したものである。被告代理人は原告が素人であることを理由に侮り、故意に遅延行為を繰返しているなら残念としか言いようがない。

(10)被告の準備書面(7)の主張の大要は今迄提出されて、既に原告の反論によって破綻したにもかかわらずそれを繰返しているのである。議論を深めようと思えば反論には再反論で応じ、真実に到達するよう努力するのが誠実な対応と思う。しかし残念ながら被告はあえて、議論がすれ違うことを望んでいるとしか思えない。原告は準備書面(第6回)において被告の準備書面(7)に直接反論せず、争点整理メモに従いこれまでの被告の主張を総合的に批判してきた。今回の原告準備書面(7)でも、争点整理メモに従い被告のこれまでの主張の変遷に重点を置いた批判をする。

3、(1)甲1によれば、文章Dの動機を達成するために、原告が文章@を手段として利用したと被告は主張していると理解できる。文章Dが事実無根であることは、甲第6号証から甲第18号証までの書証で証明されている。そこで被告は「恨みを募らせて」いる事実がないことに気付いたのか、「森永告発の人たちと同じ立場」(被告準備書面(7)13頁)とか、元森永告発・代表谷川氏の34年前に発表した文書(被告準備書面(8)28頁)と、原告が榎原氏のホームページ掲示板に書き込んだ内容が、似ているということに主張が変わって来た。それ故、谷川氏や当時森永告発の一部の人達と「同じ目標実現」のために闘っていると、強引に結びつけようとしている。そのようにしないと文章@、A、B、Cの主張が矛盾してしまうからである。そこで小さな矛盾に眼をつむり文章@の「榎原氏を煽動した」と云う虚偽の事実を訂正して矛盾は隠蔽したまま押し通そうとしている。

(2)榎原氏が原告から煽動されて行動したことにするには、榎原氏を「守る会運動やひかり協会の行動にかかわらず、そのため、守る会の方針やひかり協会の救済事業について理解や知識がなかった人である。守る会の方針やひかり協会の救済事業について、広く議論がなされ、積み上げられていくことに関心のなかった人である。その殆ど何も知らない」(被告準備書面(3)6頁)人にしておく必要があったのである。しかし、原告の提出した甲第48号証から甲第59号証により榎原氏が被告の運動に熱心にかかわっていて、役員まで務めたことが明らかになった。

そのことにより被告の筋書きは破綻し、彌縫策として出したのが「榎原らの名前を借りての原告の運動」「原告の運動」(被告準備書面(7)3頁)に変わり、さらに榎原氏が設立し運営するホームページを「原告の運営する」(同上7頁)にしてしまった。さらに榎原氏が書いた文章まで原告が書いた(被告準備書面(8)6頁、乙4)ことにし、事実を歪曲しなくては辻褄が合わなくなった。

原告は榎原氏のホームページに数多くの投稿をしているが、何れも実名を使用して匿名では一切書いてはいない。よりによって榎原氏の名前を使って掲示版に書き込まねばならない理由が、どこに存在するのであろうか。

(3)文章Aについては、再三述べてきたように原告と榎原氏は別行動をとったのであり、妨害行動を行った事実はない。争点整理メモの2.(1)、イについても「原告は具体的にどのような行動をしたのか」についての釈明はされていない。苦肉の策として「原告が現場へ来ていること自体が指導者として来ている」から妨害(被告準備書面(7)8頁)との記述をしている。

(4)文章Bについては、榎原氏のホームページ掲示板に書き込みをした原告の文章は、すべて真実に基づいて書いたものである。この掲示版は誰でも書き込めるもので、開かれた意見の交換の場である。言論の自由を保証された民主的なものであり、異論を排除するものではない。原告が批判をしたのが事実誤認であれば、被告やひかり協会は当然に反論すべきである。甲第20号証で明らかなように、ひかり協会の救済事業を批判する文章を原告は「週刊金曜日」に投稿した。これを書くに当たり原告は山田氏とひかり協会東中国地区センター事務所センター長平松邦夫氏に取材した。原告は掲載された「週刊金曜日」を平松氏に送り、反論があれば「週刊金曜日」に送るように要請する文書も同封した。これに対する反論は、甲第21号証にみるように被告理事長前野直道氏が書き投稿された。原告のなした前野氏への反論が甲第22号証である。

前野氏は原告の反論に対して再反論をしないので、該ホームページ掲示板へ「再反論なき場合は原告の反論を認めた」ことになると再反論を要請する投稿をしたが、前野氏はこれに応じることはなかった。

原告が榎原氏のホームページへ書き込んだ文章のうち、被告が誹謗中傷だとして提出した書証を、番号順に示せば乙5、11、12、21、22、23、24、29、70、71、72、である。この中で被告に言及したのは乙7、8、9、11であり、その他はひかり協会批判である。原告のひかり協会の救済に対する批判に、事実誤認や見解の相違があれば、先ずひかり協会が反論すべきである。お互いに議論を闘わせて理解を深めるのが、言論の自由を掲げる民主的社会の要諦である。原告は具体的事実を示して批判を展開しているのだから、反論は具体的事実に則りなされるべきである。被告は反論行為を全く放棄して今になって感情的、あるいは情緒的に「誹謗中傷」と声高にさけび、果ては原告がひかり協会を批判したことまで取り上げて、被告に対する「誹謗中傷」であると主張している。これは反論の余地が無い場合、感情的に対応する以外に為すべき手段の尽きた者がなせる典型的な幼児的反応である。

例えば原告が主張する「恒久対策案1割実施」について、被告は否定するが具体的事実の提示はない。原告は甲第29号証の52頁の第4表で、実施状況を具体的に提示しているのであるから、それを材料にすれば事は簡単であるが、被告は否定するが具体的ではなく、感情的にわめくだけである。被告に対する批判は、即誹謗中傷にされてしまう。被告は勘違いをしているのではないだろうか。被害者団体はどのような発言や行動をしても、外部から批判をされない「聖域」であると。

(5)文章Cについての被告の釈明は真実ではない。「協会事業に対し何らかの不満や不信を持っている親族や被害者に」近づいていった動機が、文章Dの目的達成のためと被告は主張する。原告には、自分から山田氏や横田氏に近づいていく理由は存在しない。当時すでに山田氏と横田氏は90歳近くになり、榎原氏でさえも80歳前であった。これらの人達を煽動して被告の言う「原告の運動」に参加させて、どのような利点があるというのだろう。これらの高齢者を引き込むことは原告の負担になりこそすれ、なんの得にもならない。三氏は高齢に達していて、精神的にも身体的にも次第に不自由な域に達している。これらの人達に原告が近づいて行き、「不信や不満を増幅させ」るなどということは、常人の為し得ないことである。高齢者は常識的に言って、理解力が下降線をたどることはあっても、上昇することはない。原告が説得して「不満や不信を増幅」させることについての、被告の主張は合理的ではなく、苦し紛れの詭弁としかいいようがない。

言論の自由がない被告組織では、「不満や不信」は機関紙「ひかり」にも全く掲載されることはない。別組織であるひかり協会にたいする批判も、御法度である。全国大会で意見を述べるにも、事前に質問要旨を提出しなくてはならない。これは完全なる事前検閲制度である。会員に批判を許さず、外部からの批判も許さない、一種の閉鎖集団であるから、それをいいことに批判は存在しないと暗に強弁(被告準備書面(6)17頁)しているのだ。だから榎原氏のような人が現れると、途端に弾圧をはじめる。(甲第29号証55〜56頁)

内部からも外部からも、ひかり協会と被告に対する批判は存在しないと思い続けているので、被告の気に入らない言辞が僅かでもあると、学者の論文にさえ横やりをいれることを平気でやるのである。甲第30号証の中島貴子氏の論文『森永ヒ素ミルク中毒事件50年目の課題』に対して、被告は「能瀬英太郎氏の主張を引用」していることと、「人権擁護委員会への申立てをしているケースがあると述べるにとどまっている」と、インターネットに掲載された「論文の内容に危惧する被害者からの連絡」(甲第31号証)があったので、真摯な対応をせよというのである。

中島氏が所属する「独立行政法人科学技術振興機構社会技術研究開発センター長」市川敦信氏にも「要請」文を送りつけて、中島氏の論文内容に「認識に誤りがあり、社会的にも大きな誤解を与える内容」「マイナスの影響も出ている」「事実確認の正確な把握」(甲第32号証)を要請している。

それほど「社会的に大きな誤解を与える内容」についてならば、その内容の「誤解をあたえる」部分と「マイナスの影響の出ている」の内容を明らかにすることが必要であるが、それは明示していないのである。被害者が「危惧」するほど重要なことなら「ひかり」紙上に「能瀬英太郎の主張」を掲載して、「誤解を与えないように」具体的に批判をすることが先決問題である。さらに「人権擁護委員会への申立てをしているケースがある」だけの事実記述では、なぜ不満なのかを明らかにしなくてはならない。著作に対して申入れをする場合、事実誤認であれば「取消し」か「訂正」を求めるのが普通である。「真摯な対応」とはどのような対応をすれば被告が納得するのか理解に苦しむことである。

被告の要請に対し市川敦信氏は「今回のご指摘が「学術研究の推進における事実誤認」と言う性格のものであるとすれば、「編集者への手紙」を下記論文審査委員長宛にお送り頂き、学術論文誌という公開の場において議論して頂くことがもっとも適正な方法であると考えます。」(甲第33号証)として、手紙の送付先を明示して公開の場での討論を提案している。

これに対して被告は沈黙をしたままである。「認識に誤りがあり、社会的にも大きな誤解を与える内容」が事実であるならなぜ沈黙してしまうのか。被告の要請が事実に基づいているなら相手が学者であろうと、誰であろうと堂々と主張すべきは主張すべきではないだろうか。それを為さないことは、論文にまで介入をして批判を封殺する意図があったとしか思えない。結局は中島氏が論文で引用した原告のレポートには「認識に誤り」がないことを、被告自身が沈黙することによって認めたことになる。

(6)文章Dについて「森永告発」を「支援者でなく妨害者」との決定に「恨みを募らせ」たとする動機の設定は合理的ではない。被告の声明は昭和50年(1975年)に出されたもので、原告が山田氏の現状をルポで発表した時から27年も遡るのである。その時点で既に「森永告発」は解散しているし、それほど長期にわたって恨みを持続することなどあり得ないことである。個人対個人の恨みならそれは理解できないことはないし、講談にも「敵討物語」は格好な演目になっている。しかしこれは団体対団体の問題であり、しかも片方は自然に消滅して久しく、その中の個人が相手に対して27年間も「恨みを抱く」などということが、現実問題としてあり得るだろうか。忠臣蔵でもあるまいし、原告が森永告発にそれほど忠義立てする理由はない。

次に疑問なのが、27年も経過した後、という時期の設定である。そのように長く恨みを抱き続けることは、結局はそれだけ原告も年齢を重ねることでもあり、身体的にも精神的にも老化することである。若くて行動力のある時期を選ばずにそれまで待っていたことは、被告の説明では「親族活動家がいなくなる時期」(甲第1号証)をまっていたということなる。親族活動家、即ち親たちが死ぬのをまっていたということらしい。大体親族活動家達の死去情報をどうして入手できるのか。「ひかり」には岡崎氏は勿論のこと親族活動家の訃報などは掲載しない。原告には、ジェームス・ボンドのような情報収集能力は持ち合わせていない。

以上のように甲第1号証の記事は、矛盾だらけで合理的ではない。これは根拠のない事実を羅列したため原告の反論により各所に論理的破綻をきたしていることからも明白で、妄想が生み出した産物としかいいようがない。

4、被告は原告が今までに要求した求釈明に誠実に答えるべきである。答えられないとすれば、原告が要求した求釈明事項は事実無根のことを被告は述べていると断定せざるを得ない。

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被告第8回準備書面の特異部分の指摘

被告第8回目の準備書面「証拠証明書」の「立証事項」冒頭にある内容 評価
「原告が、共産党にメールを送った事を榎原のホームページの掲示板に書き込んだ。このメールを送ったことやメールの内容からして、原告は共産党嫌いである。原告が森永告発の思想の持ち主であることが伺われる。原告は、協会は加害者寄り、反被害者的だと中傷している。国会議員による追及をこのころから考えている。…(後略)…」
まさに戯画的だ。自ら進んで「党派性」を丸出しにする組織も珍しい。

 しかし、…こういったことを唐突に持ち出す感性は理解に苦しむ。まさに、KYを超えている。真意を被告に聞きたいものだ。想像するに、およそ裁判で勝ち目のない所業を共産党の「ご印籠」でなんとかしようとする意図だろうか? いやいや、そんなことでは説明がつかない公文書だ。

 それに「森永告発の思想の持ち主」って何だろう?
 森永告発は考え方など十人十色の、自由市民ネットワークであった。
 「共産党嫌いが森永告発の思想」と断定するのなら、被告は「日本国民は共産党嫌いである」と国民に噛み付いていることになる。

 それとも、被告は、「公害被害者は思想改造教育を受けて共産党支持者にならなければいけない」とでも言いたいのだろうか?
 「加害企業との協調」を掲げ、一方で運営に批判的な被害者家族へ暴言を吐き、いじめ抜くという奇妙な「被害者団体指導部」が、「原告は共産党嫌いだ」と主張するのなら、日本共産党中央委員会宛に質問したくなるのは、国民として当然の感情ではないか。
 準備書面本文  
 P.1
山田一之氏(以下山田という)

榎原伊織氏(以下単に榎原という)
 業務契約書じゃあるまいし、そこまで省きたいなら、甲乙丙丁と記号にすべきだろう。
 山田氏、榎原氏と書けばいいものを、たった一文字の「氏」を省いてまで、被害者の親をまるで犯罪者であるかのように呼び捨てにし、見せしめにしたがっているとしか思えない。
 榎原氏にいたっては「単に」がオマケでついている。高齢の被害者家族の親の尊厳をおおっぴらに否定し、意に沿わない被害者家族を平然と貶めて良心の呵責すら感じないこの姿は、映画「クロッシング」の某国党員のえげつない姿と思わずダブってしまうのは多少センチにすぎるだろうか。こういうところに体質が現われている。
 こんな感覚や「風習」で構成員が何十年間も教育され続けているとすれば、ただ、あきれるばかりである。
 【参考資料】
 争点とはまったく関係ないが、被告が調子にのって言い募るので、最小限の事実紹介として、原文を紹介しよう。
 能瀬氏が被害者家族の運営するウエブサイトの掲示板へ書き込んだ内容のうち、日本共産党に関係するものはごくわずかであるが、その内容は以下のとおりである。これが被告の気に障っているのだろうか?(青字は能瀬氏の質問、赤字は日本共産党の回答)
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 「40日本共産党への質問 投稿者:能瀬英太郎 2003年9月9日(火)11:40」
 8/23に日本共産党中央委員会へメールを送りました。下記のようなないようです。
 ひかり協会へ就職したところ日本共産党への入党を強く勧誘され、いやになって退職したという話しをききました。直接ではないにしてもかなり貴党の影響が強いような噂は,森永砒素ミルク中毒の被害者を守る会の会員間ではよく知られています。
 もしそうでも、被害者の味方になって働いてくれれば、誰も異存はないのですが、自分たち職員の待遇ばかり気をつかって、肝心の被害者の救済には不熱心で困ります。被害者救済の憲法ともいえる「恒久対策案」からは後退ばかりして、加害者森永寄りの政策は目にあまります。貴党の政策とはかれ離れ、大企業「森永」を救済するような現在のひかり協会は反被害者的ともいえます。もし貴党と無関係ならば、このひかり協会の運営ぶりを国会で追及してもらいたい。もし関係があるなら早急に被害者寄りの政策をとるよう指導してもらいたい。
 以上のようなメールをおくりました。するとすぐに返事がありました。

能瀬氏は、以上のようなメールを日本共産党中央委員会へ送ったとのことである。するとすぐに下記のような返事があったらしい。

メール受け取りました。
日本共産党中央委員会メール室
8/23,14.34

能瀬氏は、日本共産党の無回答に対し、さらに催促をした。

No.41 日本共産党からの回答が来ました 投稿者:能瀬英太郎 2003年9月10日(水) 10:55
 私の8/23日の質問にたいする回答がないので、9/2日に催促をしました。そのおり質問と回答はこの掲示板に載せることをつけくわえました。そして当ホーム・ページのアドレスも知らせておきました。それらのことを念頭にいれて、回答をお読みください。

 
   すると日本共産党からようやく回答がきた。

 私たちは、森永ヒ素ミルク中毒の被害者のみなさんが、1973年の三者会談確認書にもとづく被害者救済の恒久対策を実施・拡充させるため、苦難をのりこえ頑張っておられることに敬意を表します。「ひかり協会」は、救済事業をになうという公的役割をもつ法人であり私たち政党とは特別の関係をもちませんが、被害者の意見を尊重し「守る会」と協力して三者会談にもとづく事業を実施しているものと考えます。
 日本共産党質問回答係

 03/09/09 11.37

これが日本共産党の、「ひかり協会」や被告団体の現状への「評価」である。
気に食わない被害者家族を徹底的に抑圧し、言論を封殺しても、日本共産党からは「褒めてもらえる」被告。ならば、能瀬氏の質問に感謝すべきではないか?なぜって、能瀬氏はコメントを付けずに、日本共産党の回答をそのまま掲載してくれているのであるから…。卑しくも公党が、被告の現状に敬意を表していることは、なかなか注目に値する内容だ。もっと被告は喜んでいいはずだ。
能瀬氏に対して、何をわんわんと噛み付いているのだろうか?
記憶の風化が招く公害の再発

■中身が変質・転倒した「恒久救済」
 
他の賠償金一時支給方式の公害事件と比較すると、現状の森永事件の被害者は、救済基金が当初約束した救済事業をほとんど実施しないことにより、実質的に金銭支給に矮小化され、一時賠償打ち切り方式より、さらに低俗な制度と化している。
 その現状であるところの、恒久救済ではない打ち切り賠償方式化した現状を素直にみた場合、森永事件の被害者は、当然受け取る権利のある補償額のごく一部を「恒久」という名の下に、長期分割払いで受け取っているに過ぎないという構図が明確になる。

 しかも死亡と共に早期に支給が打ち切られると、総支給額は著しく低下する。打ち切り方式よりたちが悪いのは、高額の給与を手中にする専従者集団が、被害者へ流れる救済資金を多額に浪費している事実である。「恒久救済」は、彼らの存在理由を自己弁護する単なる口実・表向きの看板に堕している。

 恒久救済対策は、被害者に健常者と同様の人間らしい幸せを実現するためにあらゆる努力を投入する、との理念を実現し、約束された救済事業内容が発足当時の精神で、誠実かつ完全に実施されれば、その時点ではじめて評価されうるものである。
 ところが、「恒久」という外形だけが看板とともに悪用されると、単純機械的な「長期」となり、「長期」のなかで金銭支給に集中傾斜すると、今度は一時金賠償方式より俗悪なものに成り下がる。しかも賠償総額の圧縮が可能となるトリックも可能となる。
 さらに恒久救済が形骸化すると、その美名の看板は、実際には行わない「救済事業」を「推進するため」と称した専従者集団が、恒久的に巣食う格好の口実となる。
 多くの資金が人件費などの固定費と彼らが被害者支配の都合で配置する取り組みに消費され、一部の者の利益を優先する集団の根城へと変貌する。これらの相乗効果により、逆に「加害者への負担軽減」と「被害者への非道で差別的な抑圧的管理支配」が徹底されるといった現象が起きる。

 「基金方式」を「救済案」として他の団体へしきりと「お勧め」する動きには更に注意が必要だ。一時金賠償支払い方式では、職業的政治集団が入り込む余地がないが、「基金」組織が誕生した場合、そこへ政治集団が入り込みそれにタカって前述のように根城とし、恒久的にピンはねを続けることが可能となる。「性善説」でそれを防止することは不可能だ。最初は天使の顔をして近づいてくるからだ。10年くらいたって、組織の中枢にシンパが送り込まれた頃に、突然浮上が始まり、市民的良識への牙がむかれる。おかしいと思う被害者家族には、奴隷になるか、追放に甘んじるかの二者択一が迫られる。一歩間違えると、金の力と「被害者組織」という「看板」を最大限活用して、外部からの批判を封殺し、長期に亘って不正常な運営が可能になるという、諸刃の剣的要素があることに大きな注意が必要だ。

 (詳しくは下記掲載、能瀬英太郎氏のレポート 「森永ヒ素ミルク中毒事件 発生から50年」 を参照)

絵に描いた餅と化している、わが国の「食の安全」
 現在の同事件の重症被害者の抱える問題を直視すると、半世紀たっても変化しない公害問題の本質を見出さざるを得ない。 
 我が国において、食の安全にかかわる問題が何度も何度も懲りずに発生する起源の一つが、この戦後初の食品公害事件の和解後のあり方の異常性と、それを黙殺する広域かつ政党政派までが加担した共犯者ネットワークの存在に起因すると考える。
  「被害者救済に骨を折っている森永の元社員」といった「美談」が一部メディアで麗々しく「感動的に」展開される一方で、被害者家族が重苦しい現実に憤りを示し、それを発言することに対して「被害者団体」が弾圧を加えている事実、この二つの相矛盾する現状を直視するとき、第二の、しかも最高に巧妙な粉飾をもった巨大な犯罪が開始されていると推測するのは邪推にすぎないのだろうか? 
 公害事件のおびただしい死者たちは、真実の解明を天上から望んでいる。「
死人に口なし」と秘かに考え、己さえ良ければと、苦しむ者の現実に目を閉ざし、その上にたむろしてはばかることのない者たちを天が許すことはない。


■被告「守る会」の第7回準備書面の問題点
被告第7回準備書面批判 
平成22年3月29日に被告から第7回準備書面が提出された。

“恒久救済対策案の実現を基金に求めることは不可能”などと、間接話法で公式表明する奇怪な内容へ行き着いている。これでは、「今では被害者を守らん会になっている」という被害者家族からの批判も的を得ていることになりはしないか。

【第一次評価】

■争点はずしの無意味な書面を出し続ける被告
 裁判を冷静に監視している側には、能瀬氏や榎原氏の批判が当たりすぎていて、もはや有効な反論もできず、無意味な噛み付きを繰り返している姿としか映らない。しかしそれにしても「人の道に外れた」ともいうべき侮蔑的差別的言辞を被害者家族へためらいも無く投げつける姿には、ただただ驚くばかりである。(後半紹介)

 まずこの準備書面への指摘は、以下の短い内容で十分である。

1.今回の訴訟は、被告とは異なる「救済基金」が実施する「事業」の内容が被害者にとって妥当かどうか、を争う訴訟ではない。〈被告が争点はずしのため、自画自賛をもって原告を攻撃するから結果的に基金や被告の体質の問題点が明るみになってしまっているが…)

2.この訴訟は、事実とは異なる内容、つまり「嘘」をもって、自らの気に入らない人物への人身攻撃をした被告が日本社会においては違法か合法かという、子供でもわかるような、すこぶる単純な争いである。被告が、いくら紙数を費やして、能瀬氏を「嫌いだ」「考え方が違う」「迷惑だ」と繰り返してみても、この争点は揺るがないし、それには、なんの意味も持ちえない。

3.争点に関して、被告の展開した嘘が、「嘘ではなく事実である」という論証は、7回も書面を出しておきながら一度も成功していない。無意味な大量の文書を提出することで、裁判(官?)の心象に影響力を行使しようとしているのなら、真実というものと、それに基づいて厳正な判決を下す司法というものをなめた行為である。

 能瀬氏は、本人も覚えのない内容によって誹謗されたのであり、いくら被告があわててがんばってみても、存在しない事実をあとから作り上げることはできない。ちなみに、森永乳業が混入させた砒素も、あとから無かったことにはできないのだ。後遺症も54歳をすぎたら高齢化によって症状が分かりにくくなるかといえば、そんなことはないのだ。
 「嘘の上塗り」という戒めの日本語はこういう所業のために存在するのである。

 被告が能瀬氏と榎原氏を嫌うのは勝手だが、争点はずしのくだらない目的のために「嫌い」だと言えば言うほど、その「嫌い度」に比例して、徹底的かつ執拗に狙い撃ちの個人攻撃をしたことを言外で認める結果に終わるだけである。

これに加え、事実認識という裁判の大原則から観察すると、肝心の争点に関して一切の正当性を主張できない被告の実態、嘘の上塗りをするために徹底的に書き連ねる原告及びもの言う被害者家族への口汚い罵倒の言辞がほとばしる準備書面をみれば、被告が批判者へ抱く憎しみの強さ、即ち民主主義的言論への嫌悪がいかに強いかがよくわかる。それと同時に、被害者家族がこうむってきた精神的経済的苦しみを“文句をいうものは少数だ”などと露骨に愚弄しつつ、その心情を一顧だにしようとしない傲慢姿勢とその罪の重さをより鮮明にする結果になっている。

■事実認識をほっぽりだした奇怪な三段論法

 「こうに決まっている」→「だからこうしてやる」→「だから何が悪い」 
 さらに今回の準備書面の内容はひどいもので、そのほとんどは悪意に満ちた意図的な仮定・推論形式を使ったご都合主義的展開(=これを世間では「嘘つき」という)を前提として、能瀬氏への個人攻撃を正当化しようと四苦八苦するあげく、論理矛盾に満ちたものになっている。pdfファイル


■好戦的言辞が踊る被告の文書

 さらに、きわめて好戦的な言辞が踊る内容である。原告や被害者家族が、被告組織上層部のあり方への批判を行った単なる言論活動を、「破壊行為」や「妨害行為」などという煽動的言辞を多用して形容し、それをさらに「違法行為」と簡単に言い換えてしまっている。

さらには、被告の書面には「破壊」や「破壊行為」「混乱」「破壊活動」「破壊工作」という用語が氾濫しており、書面の第1ページ目だけでも「破壊」という言葉が、実に6回も登場する。さらには、勢いづいて、「反乱軍を作り」(p4)とか、「戦争開始」(p8)とか、「なにをしでかされるかわからない状態」(p6)「総会を混乱させられる恐れがあった」(p6)「原告は激しい闘争を繰り返している…」(p13)と放言を繰り返す。被告は、戦争・反乱・闘争・破壊といった種類の言葉の使用によほどためらいがないのだろう。被告文章からは、非常に濃い党派的政治色を感じるとしたら神経質にすぎるだろうか?
 このような言葉は、どこかの内戦中の国の対立部族ゲリラ部隊の軍事プロパガンダ文書で時々見かけるが、曲がりなりにも戦争をしていない平和な国家で、一市民へ投げつけると、ものすごく異様な言葉の暴力ともいえる人身攻撃となり、使う者の品性が一目瞭然となる。

原告がペンのみによってどうやって「違法妨害行為」や「反乱軍の創設」や「戦争を開始」できるのか、逆に詳細な説明を求めたいが、仮にそんなことが可能なら日本国中の新聞テレビ、出版会社の前には、警察や自衛隊が張りつくはずだ。
 ところが、被告は、なんと被害者家族が、丁寧に警察の道路使用許可まで得たうえで行った抗議行動をひとまとめに違法行為といってしまうのである。なんとも珍妙だ。しかも原告自身は、被告の総会会場前に抗議の幕などはっていないのに、証拠も示さず、だれもかれも十羽一からげにして“原告も会場に前にいたから張った”と嘘を放言している。その言い草が「能瀬氏=黒幕論」である。被告にかかると、傍を通る通行人Aも、すべて、同じグループのメンバーにされるらしい。昔の漫画本に出てくる少年探偵団レベルの推理ごっこならまだしも、ここまで来ると戦前の特高警察による一斉検挙の言い草を思い出す。
 被告の論理にかかると、道路使用許可を受けた春闘の街頭デモ行進や、公害問題に関する学術論文の発表といった言論活動も、国家への妨害と違法行為であるから、国家はいかようにも攻撃・摘発・弾圧してよいのだ、ということにもなるのだろう。「福祉」や、「幸せ」という言葉をいくら文面にちりばめても、「語るに落ちる」とはこのようなことを言うのである。
 
 ただ、このような支離滅裂の展開をする目的は一体何なのか?これは裁判官の心証形成に影響をあたえようという願望・意図なのか?「被害者団体」という看板には独裁や、違法行為を含めて無限のフリーハンドを保障すべきだとの新しい法解釈を裁判所へ要求しているのか? 仮にそうなのなら、裁判所もずいぶん舐められているということになる。
 加えて、被告は、会員に対して、「国民的合意」の説教をしながら、支給手当の抑制をしてきつつ、一方で、国民からの批判提言を「よそ者」「はた迷惑」と放言するところの矛盾姿勢に関して、どこでどうつじつま合わせをするつもりだろうか?
 いずれにしても、民主主義の守り手である司法に対して、これでは逆効果であろう。裁判は厳正な事実をよりどころにするものであり、思想を判断するところではない。

 被告は利己的な主張を通すために、自由な言論を弾圧した戦前のような法執行システムの適用を声高に要求するという驚くべき時代錯誤の論理をかき連ねており、これまでの7回の準備書面の内容は、公害問題やその救済の捉え方という高尚な議論の文書としてではなく、公害被害者団体指導部が被害者家族の言論を抑圧し、民主主義を公然と否定しまくる異様な事態のコンテクストとして、後世までの語り草となろう。

 ちなみに、歴史を紐解けば、表向き「福祉」をかたりつつ、自由な意見の主張を徹底的に弾圧するものは、「労働者の理想郷」をかたりつつ粛清を繰り返してきたどこかの国の体制を想起させるに十分である。

■公害被害者団体が民主主義の精神を真っ向否定
  日弁連の弁護士を頼る市民は奇抜な輩?!
  日弁連のサービスを頼るのは、弁護士でも思いつかない奇抜な所業?

被告=被害者団体指導部による民主主義の基本思想を蹂躙するかのような、意味不明かつ奇奇怪怪な発言を2つ紹介しておく。

準備書面9p

 「弁護士会人権擁護委員会への申立は、公害調停申立、国会を動かすなどの方法と共に、弁護士でも気付かぬと想われる奇抜な方法であるから、原告が考え出して、推進したものであろう。」

コメント→真偽を争う裁判の文章で「だろう」などと書く感覚は理解し難い。が、それ以上に、日弁連の人権擁護委員会を頼る市民を「奇抜」だと誹謗し、黒幕にあやつられる行為として二重に攻撃している。ならば、被告の第7回までの準備書面はのきなみ「奇抜な公文書」として永久に歴史に刻まれるだろう。日弁連の人権擁護委員会は、パブリックな市民サービスをここまで変人扱いされておいて、今後どうされるのだろうか?重大な決意をもって、この準備書面に反論或いは釘をさすべきだろう。でなければ、日弁連傘下の弁護士の諸サービスを利用する方はすべて「奇抜なお方」ということになり、「こんなサービスあるらしいよ」と、お勧めした方こそが、「黒幕」として誹謗中傷されても仕方がないことになる。
 しかし…、こんなヘンテコな公文書を提出することにタメライがないことのほうにあきれる。

準備書面18p 

「とりわけ」とわざわざ前置きして、
「原告は、被告やひかり協会の決定権の及ぶ範囲内に侵入してきて、原告の主張を展開するのであるから、その場合には、被告やひかり協会の確立したルールを尊重してもらわねばならない。このルールを無視して言論の自由を主張され、被告やひかり協会に迷惑や被害が発生した場合は、原告の行動は、違法な活動と評価されることとなる。」

コメント→「決定権」とか「侵入」とか「ルール」とかのもっともらしい言葉を並べているが、具体的イメージを想定すると途端に意味不明、無茶苦茶である。
 まず、近代の法治国家では、任意団体や「部分社会」がいかに勝手な規約をつくり、その規約を勝手に運用しようとも、憲法という最高位の上位法がそれを規制するという基本的認識もないらしい。このような、「我々のルール」を絶対命題のように一喝してはばからない態度と論理こそ、屁理屈をひねくり回して法治国家の基本原理を否定するとんでもない主張である。
 「…ルールを無視して言論の自由を主張され、被告やひかり協会に迷惑や被害が発生した場合は、原告の行動は、違法な活動と評価されることとなる…」???ルールとは被告の都合という意味のルールだ。これでは、この世から言論の自由は簡単になくなってしまう。憲法の授業をうけた中学生にも笑われる話だ。

 しかも、日本語の書きっぷりとして、「迷惑=違法行為」と安直に言い切るこの感覚、大丈夫だろうか? これが正当性を持ちうるのなら、戦前の「治安維持法」が再来することとなるだろう。誰かが相手の行動を「迷惑だ」と感じれば、それが即法律違反になるのなら、警察も裁判所も弁護士もまったく要らない。被告は、日本国での言論の自由そのものを、思いつきの理屈で一言で全面否定している。こんな無茶な文章を裁判所に出していいのだろうか。「迷惑」=「違法行為」と意味不明の断定に至っては法理と無縁の文書であるとしかいいようがない。

存在しない「違法行為」を裏付けもなく気ままに書き連ね、原告への人身攻撃をあたかも「正当防衛」であるかのように言えば言うほど、被告が行った能瀬氏個人への誹謗中傷行為が明確な違法行為であることを自ら認めることになる。
 能瀬氏への機関紙1面を全面使った名指しの誹謗中傷行為について、もしそれが違法行為でないという確信が被告にあれば、能瀬氏や榎原氏が従前に行った単なる言論表現活動を敢えて「違法行為」と強弁する「駄目もと」の展開は必要はないだろう。事実をもって言論活動を対置すれば済むことである。原告の言論活動に対して、別のところから引っ張ってきた「存在しない違法行為」を対置したがる被告の心境はまさに、真正の罪人の境地にも見える。

■意見を異にする被害者家族を、憎しみを込めて容赦なく叩く被告

 許し難く、異常なことに、被害者家族への人格毀損の個人攻撃は執拗に続けられており差別的言辞を露骨化させてまで一層エスカレートしている。

準備書面 p3

「●●の書く文章は、乙14、17がそうであるが、稚拙な文章で、時に何を言わんとされているのかすら、読み取り難い文章である。」(あまりに尾篭な表現なので名誉毀損行為に拍車をかけないため氏名は伏せた)

コメント→被害者家族が提出した提言書に誠実に対応するのではなく、その文章の「出来」が悪いと「証拠」にまであげつらって重症者の親のことを公然と馬鹿にして攻撃する。なんという所業だろうか?組織として、こんな文章を裁判所へ公表する被害者団体など聞いたことがない。
また、 “●●がちゃんとした文書を書いた裏には誰かがいる。それは原告に決まっている。だから原告が黒幕だ。だから、原告をどんなに攻撃してもかまわない”という驚くべき不可思議なロジックをあいもかわらず主張しているが、これはもはや「論理」ではなく創作物語の世界である。

 こんな勝手な決め付けの三段論法で、市民を大々的に攻撃できるのなら、被害者家族を励ます近所の親切な町内会長も原告と同じ目にあっても仕方ないことになる。物言う被害者を助ける一般市民は、それを不愉快に思うところの独裁的支配を平然と行う被害者団体から「破壊者」としてレッテルを貼られ、どんな人身攻撃をうけても仕方ないという、戦後の日本社会ではあまり聞かない政治的「粛正」の論理である。「粛清」の思想を熟知される賢明な市民には、このような所業の背景思想に思い当たる節のある方も少なくないだろう。

 自らが気に入らない意見をいわれれば誰でも不愉快になるのはわかるが、一市民を叩き潰すために組織がその機関紙媒体を用いて、私人である一般市民の名前をあげつらって(しかも半ば呼び捨て)糾弾するのは重大な政治的行為である。その場合は、厳正な事実に基づいた正確な内容でなければ名誉毀損というさらに明白な違法行為となり、国民全体を敵に回すことになる。過ちを潔く認め、深く反省して真摯な気持ちで出直すのではなく、自己弁護に狂奔し、攻撃の矢を乱射すればするほど、歴史上に恥ずべき記録として残るだけである。

■“恒久救済対策案の実現を基金に求めることは不可能”と公式表明

準備書面p11

 「森永告発の人達は、恒久救済対策案の内容の実現を、ひかり協会に求めることはできないことを知っている。」 

コメント→

これは、おどろきもののき…、耳を疑う発言である。「森永告発」という他人のふんどしを勝手に使って、自ら、「三者会談」の内容を公然と否定した発言である。しかも、係争途中から「森永告発の会員」とのレッテル張りを急遽変更し、「人達」と超あいまい表現に変更した。この「人達」は、何十人のことをさしているのか。それとも数千人か、それとも、森永告発の呼びかけた森永製品不売買運動に協力した、何十万、何百万、何千万人の国民のことなのか、無限の定義ができる。無限の「人達」を勝手に登場させて、「恒久救済対策案の内容の実現を、ひかり協会に求めることはできないことを知っている。」と、これまで表向き言わなかった見解を、間接話法であっさり公言してしまった。恐るべし、だ。(この表現の本質については下記掲載、原告側準備書面で簡単な解説がある)

三者会談の当事者のうち、厚生労働省と森永乳業は、この「新説」に対して、どういう見解を表明するのだろうか。注視していきたい。

準備書面p11-12

「原告は…(中略)…根拠として森永乳業株式会社が三者会談で全面補償をする約束をしていたかのように虚偽の主張をすることになり、これが実現しないのは、被告やひかり協会の役員が森永乳業株式会社の言いなりになっているという、最悪の偽りの上に偽りを重ねて言わねばならなくなっている。まともな状態ではない。そこで多くの人々は、原告の主張が正しくないことに気付き、原告にはついていかない。」

コメント1→「森永乳業株式会社が三者会談で全面補償をする約束をしていたかのように虚偽の主張」

→この公文書内容は良識ある会員が見れば、驚愕するだろうが、批判の自由が保障されていないから、反抗できないことを踏んだ上で、被告がたびたび引き合いに出す三者会談の内容を「いい機会」とばかりに公然と捻じ曲げて憚らない。つまり、批判の自由が否定されたところには、「なんでもあり」となる典型である。文中の「最悪の偽りの上に偽りを重ねて言わねばならなくなっている。まともな状態ではない。」はそっくり被告に跳ね返る言葉である。
この被告の主張をみて、一番喜んでいるのが誰なのかは市民には一目瞭然であろう。

コメント2→「そこで多くの人々は、原告の主張が正しくないことに気付き、原告にはついていかない。」

→被告は一方で、「原告の誤った宣伝にのせられ、原告の主張に同調する人が出かねない。●●などの原告の同調者が見本である」(p18)「原告に迷わされることがないように、宣伝活動を強めざるを得ない」(p19)などと同じ準備書面で、「恐くてしかたありません」的表現をしつこく展開する。いったいどっちが本当なのだろうか?たぶん同調者が増えるのが嫌なのだろう。

1.被告が、事実に基づいて原告への反論をしても、それでも会員に同調者が現れるばあい、それは、原告の主張がある程度正しいということが証明されたことであり、被告はそれを取りいれる義務がある。民主主義の掟である。

2.被告が、事実に基づかない原告への批判をして、同調者を抑制したならば、それは被告が公害被害者を機関紙という強力な媒体を悪用して、会員を騙して管理していることが証明されるのが民主主義の掟である。

被告は虚勢をはって「多くの人々は、…(中略)…原告にはついていかない」などと言うほど、その罪深さを自分で強調している。


【原告・能瀬氏提出の第6回準備書面】  pdfファイル

平成21年(ワ)第249号損害賠償等請求事件

 原告 能瀬 英太郎

 被告 森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会

           準 備 書 面
          (第 6 回)                   
                       平成22年4月28日

岡山地方裁判所第2民事部2A1係 御中

                原告 能瀬 英太郎

第一 以下被告準備書面(7)に対する原告の主張を述べるが、まず全体的な批判を第一項で述べ、第二項で「争点整理メモ」に従って@からDまでの被告の主張に反駁したい。

 被告の準備書面(7)においてなされている主張は、いままでの主張の焼き直しであり、なんら新しいものはない。これまでの被告の主張には具体的な根拠もなく、原告の反論によってことごとく崩壊している。原告に対する最も有効な反論は、確実な証拠をもってなされなければ無意味である。

 ところが元々根拠のない虚構の上にたって、原告を誹謗中傷してきたが、被告は準備書面を提出する度にそれらの矛盾が明らかになってきた。そこで被告が準備書面(7)でなしえたことは、好戦的で、感情的、刺激的であるが無内容な言辞を弄して、声高に叫ぶことであった。その特徴としてあげるならば、「破壊」を15回、「妨害」を5回、さらに「攪乱」、「戦争」、「工作」などの普通では使用されない言葉を多用していることである。それでも足りないとみえて、「反乱軍」や「戦争開始」などまで登場させている。被告はよほど戦争がお好きなようで、生来平和主義者の原告とは議論が噛み合わないはずである。

 さらに被告規約の前文1および6には「被害者や障害者の人格を尊重」を掲げているにもかかわらず、榎原氏の人格を無視して敬称を略し、「榎原の書く文章は、乙14、17がそうであるが、稚拙な文章で、時に何を言わんとされているのかすら、読み取り難い文章である。」(被告準備書面(7)3頁)とまで書く。榎原氏の文章は、読む者が真摯な気持ちで向かえば、よく理解できるものである。一方「ひかり」や「ふれあい」に掲載された編集者による文章は、あいまいで、理解不能なものが多い。榎原氏の文章からは真意が汲み取れるが、「ひかり」と「ふれあい」からは真意をわざと「はぐらかす」意図のみが顕著である。

 被告準備書面(7)も同様で、わざと「あいまい」な言葉を使って、実態をごまかそうとする意図が明白な箇所が多々ある。一例をひけば13頁(b)において「体制づくりに多額の費用を投入」や「多くの専門家を確保して人件費をかけて」というところなどである。「体制づくり」とは(a)を受けて「相談活動を重視して、総合的な対応」のことと推測できる。ひかり協会設立から35年もたって何を今更「体制づくり」かと、これは単なるゴマカシとしかきこえない。「専門家を確保して人件費をかけて」とは専門家による相談事業のことを指しているのなら、毎年の予算に「相談」項目は計上されている。被告はそこのところを、わざとあいまいにしている。

 これらは生活手当と比較して職員給与が高すぎるという、原告の批判に対する弁解と推測できる。この「人件費」は職員給与とは別なのか、含まれるものなのか、そのことをあいまいにすることで実態を覆い隠そうとしている。「専門家を確保して人件費をかけて」いるのが「相談事業」のことであれば、20年前から減少を続けている。1989年に全予算に占める割合が8%であったものが、2009年には2.9%になっている。20年前には協力員制度はなかったので、すべて専門家による相談であった。それが被告会員による「救済事業協力員制度」が発足し、専門家に代わって相談活動などを行うようになった。2.9%の中には協力員の費用(年額1万円と食事、交通費などの実費支給)も含まれているのである(甲第74号証)。だから余計に「相談活動を重視して」が空々しく響く。「専門家の確保」という「専門家」がどのような「専門家」を意味するものか、明らかにすることが求められる。

 第二、1 甲第1号証によれば、原告の動機を、「自分達「森永告発」を「支援者でなく妨害者」と決定した守る会に対し、恨みを募らせ、あわよくば守る会を変質させ、ひかり協会を破壊しようとねらっている」としている。(争点整理メモ「文章D」)その結果「文章@」から「文章C」の行動になったと断定している。原告が行動を起こす動機「文章D」が被告の憶測による、事実無根の妄想によって生み出された虚構であることが証明されれば、原告の目的と被告が断定する「救済事業の破壊」、原告がその手段として使った「文章@」から「文章C」の仮定はすべて崩壊することになる。

 上記の事実はすでに原告準備書面(第1回)の8頁以下で述べ、甲第6号証から甲第19号証までの書証によって証明されている。さらに付け加えるとすれば、原告は被告機関紙「ひかり」の発送名簿を管理し、入退会の会員名は直ちに原告に報告(甲第75号証)されていた。だから、もし原告が「恨みをもっていれば」宛名印刷機を利用して即座に森永告発の主張を、被告全会員に発送することは可能であった。

 原告から宛名印刷を被告に引き継ぐ折に、宛名カードも一緒に手渡したが、これは全部原告が作成したものである。被告においては、新たに原告と同型のアベアドレス製の宛名印刷機を購入した。原告の手元に宛名印刷機と被告全会員名簿(甲第76号証)はのこっている。原告がやらなくても森永告発の他の会員に貸して、森永告発の主張を被告会員におくることは簡単なことだ。しかし原告は被告に対し「恨みをもって」いなかったので、森永告発の運動に会員名簿は利用しなかった。

 被告会員による宛名印刷と「ひかり」発送作業は、その後暫くして実行不能になった。それはこの作業がそれほど安易なことではないことを物語っている。原告は長年にわたって、遅滞なく正確に被告機関紙「ひかり」を会員に届ける作業をしてきた。それは本心から恒久対策案の実現を望んだからに他ならない。

能瀬英太郎氏がかつて膨大な労力を費やしてまとめた被告の機関紙購読者名簿

←能瀬英太郎氏がかつて膨大な労力を費やしてまとめた被告の機関紙購読者名簿。(森永ヒ素ミルク中毒事件資料館所蔵)被告のなかで、このような重要な実務をこなした者がいるのだろうか?能瀬氏への攻撃が、いかに「恩を仇で返す」親不孝者の行為であるかは、歴史が一番良く知っている。もっとも恩義ある市民への暴虐非道な攻撃は、末代まで恥をさらす行為である。こういう市民への恩義を知る被害者会員をすでに除名してしまっている被告は、だからこそ、思う存分エゴイズムを全開できるのだろうが、因果は必ずめぐってくるだろう。

 森永告発が正確にはいつまで存在したかを、原告はしらない。原告準備書面(第1回)第1、7、10頁以下で述べたような事情で原告は運動から離れた。森永告発は多様な意見を持つ個人の集まりであることは、すでに述べているところである。ひかり協会を五人委員会の再版だという意見もあれば、設立間なしで評価するのは時期尚早だという意見もあった。それらの実態を調べもしないで、全部の会員を十把一絡げのようにとらえるのは、それは被告の実態と森永告発を同一視するにすぎない。森永告発が組織としての実体がなくなって久しいのに、30年も前に発行された機関紙の文言を引き合いに出して、原告が「森永告発の人」だから、30年前の森永告発と同一の行動をとるという仮定は牽強付会もはなはだしい。被告は原告を森永告発の会員だと言い続けてきたが、それが崩れて苦し紛れに「森永告発の人」を考えたものであろう。

2 「文章@」について

 被告は「争点整理メモ」による釈明を、準備書面(3)で展開したが、原告準備書面(第3回)での反論により、虚偽の事実であることが明白になった。そこで被告は準備書面(7)では「吹き込み煽動してきた」というのをやめ、「原告と榎原の2人だけ」とか「原告1人の運動であり、そのために榎原を利用している」に変わってきた。このことは、原告が煽動したという被告の憶測による仮定が、事実無根であることの表明であるといえよう。

3 「文章A」について

 原告は準備書面(第3回)において、妨害行為をしていない(甲第77号証)ことを主張し、被告に妨害活動をした証拠を示せと要求した。しかし被告は準備書面(7)で主張しているのは「現場に来ているということ自体、指導者として来ている」のだから妨害だという、珍妙な理論ともいえない詭弁を弄していることである。

 この理屈にしたがえば、もし原告が檸檬をもってひかり協会の事務所前を通行すれば、手投げ弾に似ているものを持っていることを理由に、ひかり協会を爆破するために通行したことになる。森永乳業の株主総会の会場前を偶然に通りかかれば、総会屋と組んで議事妨害に来たことになり、厚労省前を通りかかれば、テロを行うために来たといわれるだろう。それ以外に来る目的がないはずだとして。

 被告準備書面(7)37頁Cには榎原氏が「総会に参加する会員に働きかけた」とあり、榎原氏本人に確かめたところそのような事実はないと否定した。

4 「文章B」について

 原告が榎原氏のホームページ掲示板に書き込んだことは、すべて事実に基づいている。それらのほとんどはひかり協会の救済事業に対する批判である。ひかり協会への批判が被告を誹謗中傷したことになるというが、それが原告にはどうも理解できない。このことについては、すでに繰り返し反論しているが、納得のいく説明がなされたことはない。被告は準備書面(7)の10頁6行目に「恒久対策案と現在のひかり協会の救済とを、原告の主張のように、直接比較することは、そもそもできないことである」と述べている。しかし被告発行の『守る会運動の歴史から「三者会談方式」を学ぶ』においても『ひかり協会10年の歩み』、『ひかり協会30年の歩み』さらには、ひかり協会のホームページの中に設けられた「『守る会』紹介」にも恒久対策案の全文が掲載されている(甲第78号証)。これらは何を意味しているのであろうか。掲載された恒久対策案のどこにも「断り書き」で「これは実行できないものです」とは書いてはない。

 さらに被告準備書面(7)10頁8行目では「恒久対策案のごく一部とひかり協会の救済のごく一部だけを比較」というが、それは紙数の関係で特徴的な一部を比較しているにすぎない。

 お望みとあれば、別の一部である恒久対策案U具体的対策(5)(ト)?〜?「収容施設」についても比較を試みよう。甲第29号証46頁下から9行目に記した「太陽の村」について紹介しよう。これは被告会員、支援者からカンパを募り、1976年2月には原告も参加してプレハブの作業棟などを建設した。その後施設を増設して多数の被害者が利用するようになった。太陽の村には果樹園や農園が付属していて、農作業や陶芸を行いながら生活する、重症者の集団活動の場として重宝されていた。1979年1月には被告からひかり協会へ移譲されたが、88年2月には確たる理由もなく廃村になった。ここに通っていた重症者は無責任に放り出され、行き場を失ってしまった。その後宿泊施設(甲第79号証)として利用者も多かった一戸建ての家屋は、売却処分された。太陽の村建設運動として、支援者や被告の親達の善意の結晶は、ひかり協会によって弊履のごとく捨て去られてしまった。

 死者については恒久対策案Vの(1)に規定され「死者に対する補償 死亡者に対しては、死亡に伴って生じた一切の損害について補償すること」となっている。さらに被告は1975年12月14日に決議までして「死亡被害者の遺族の救済について」を発表している。そのなかには「死亡した被害者とその遺族、今後死亡する被害者とその遺族の救済について、森永は全面的に責任を負うべき義務があり」とまで述べている。恒久対策案に盛られ、さらにこれとは別に決議までしていながら、現実に実行されているのは40万円の葬祭料の支払いのみである。これが「森永は全面的に責任を負うべき義務」を果たしているといえるのだろうか。死者の補償について被告は沈黙を守っていることから考えると、被害者の命を被告は僅か40万円にしかすぎないと、みずから認めていることになる。(甲第80号証)

 「死亡被害者の遺族の救済について」が発表される約一月前に「『森永告発』に対する守る会の態度」という声明が発表されている。前者については沈黙をまもり、後者については喋々しく声高にしゃべりまくっている。これはきっと前者を覆い隠すための作戦かもしれない。

5 「文章C」について

 原告から「不満や不信をもっている親族や被害者に近づいていった」ことはない

ということを、これまでに何度も述べている。原告にとっては、近づいていく必要が無いからであり、「不満や不信をもっている親族や被害者」を見つけること自体も不可能である。被告機関紙「ひかり」やひかり協会報「ふれあい」には、ひかり協会や被告にたいする批判が掲載されているのをみたことがない。両者にたいする批判を認めない方針のようだし、もともと被告会員には表現の自由を認めない組織のようである。それについては、甲第29号証53頁以下でも述べた通りである。

 では外部からの批判は許されるかといえば、原告準備書面(第3回)第一の2で述べ、甲第30号証から甲第47号証で証明したように、これも許されないのである。被告は榎原氏らの人権擁護委員会への申立てや、原告の国会へ質問主意書の提出を依頼しようとしたことさえ、「正常を欠く方法」だといって非難している。それにもまして疑問に思うのは、原告が岡山県の公害調停窓口へ問い合わせたことに、「正常を欠く方法」だと非難の刃を向けている。被告準備書面(7)では、単に公害調停窓口へ電話で問い合わせただけのことが、いつのまにか「公害調停申立」へと飛躍しているのである。このように被告の書く事実は変遷極まりなく、一体どれが本当のことかと、疑念を抱かざるをえない。

 これらのことから、甲第1号証に書かれていることは、真実としての証明ができない、事実無根の被告の妄想によって築かれた虚構以外の何者でもない。

 第三 被告は原告が今までに要求した求釈明に誠実に答えるべきである。答えられないとすれば、これまで書かれたことは根拠もない事実を書きつらねたものであると断定するほかない。

 第四 求釈明

 1、榎原氏らが人権擁護委員会への申立てをしたことや、国会へ質問主意書の提出をすることを「正常を欠く方法」だと断定する根拠は何か。

 2、「森永告発の人」とはどんな人を意味するのか。

 3、「多くの専門家を確保して」とあるが、「確保」とはどのような雇用形態なのか釈明されたい。


(※ちなみに、被告は上記のような原告側からの「求釈明」---これまで20項目近くもある---に一切答えたことがない。勝手な決めつけを延々と書くが、その根拠は?と釈明を求められても、それに対しては一切答えない。都合の悪いことへの黙秘ぶりもここまでくるとアッパレである)

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■被告「守る会」の第6回準備書面の問題点

要点を絞って問題点を指摘する。

平成22年2月8日提出
被告第6回目の準備書面内容
事実及び評価

1、生活手当について取り上げて説明する理由

(1)原告は恒久対策案が空洞化していると非難する場合、いつも「生活手当」をとりあげている。そして原告は、甲29号証(森永ヒ素ミルク知有毒事件発生から50年)ではひかり協会が加害企業に思いやりある擁護論で森永は随喜の涙を流して喜ぶ、と加害企業の言いなりになっているかの如く批判している。その場合常に引用するのが、生活手当である。そこで、この準備書面ではひかり協会が実施している生活手当に関して説明する。

(2)@生活手当などひかり協会が支給する金銭給付は、損害賠償ではなく、救済として給付され、A生活手当の金額などの救済内容は、被害者が長い時間をかけ討議した末、被害者自身が決定した。


 この裁判における被告は「森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会」である。 
 一方、生活手当を支給するのは、救済機関である(財)ひかり協会である。 
 ひかり協会が被害者救済にあてる資金は、加害企業森永から出ている。
 
 被害者で組織する被告が「ひかり協会」の弁護を何故シャカリキになってするのか、それがわからない。
 「ひかり協会」が森永に「思いやり」ある擁護論を述べれば「随喜の涙を流して喜ぶ」と原告が批判することが、なぜ、「ヒ素ミルク中毒の被害者である被告」のゲキリンにふれるのか分からない。

 生活手当については、恒久対策案に示されている基準が「国家公務員一般行政職の給与相当」とある。原告はそれが守られていない、と批判しているのに、被告である「被害者を守る会」がシヤカリキになって否定するのもわからない。

 これらが最大の謎である。

4. 生活手当にかかわる被害者の選択と決定、生活手当の内容

 (1)ひかり協会が行う被害者救済は、財源の金額による限界はあるものの、大勢の多様な被害者に極力細かく対応するようにしている。30歳代をむかえて、新しい対応がなされた。

 (2)被害者が30歳代を迎え、親亡きあとに被害者が生活できるように生活設計をし、地域で支えられて生きて行ける体制を確立するようにした。また相談体制を強化し、健康管理、病気の予防の対策を強めようという考えが出てきた。

 (3)30歳代を迎えての被害者救済事業の基本的確認事項の中では、障害が重い人については、つぎのとおりにまとめられている。

 被害者の中には、障害・症状が重度であるために、なお自立が困難な者が多くいることは周知の事実である。

 そのため重度障害者に対する生活保障事業としての手当の内容は、公的給付と合わせて、国民的合意の得られるものとする。本人の所得保障の水準額は、30歳の勤労者の賃金の60%とする。

 (4)、(5)は略

 (6)被害者(父母、親族を含む)や関係者の間で、以上の30歳代の救済のあり方の議論をすすめる中で、次の@〜Bが、被害者や関係者の間で共通認識となった。

 @「協会事業には賠償金の支払いは含まれないこと」「救済とは、被害者の教育権、労働権、生活権等一切の生存権の回復を目指し、その発達を保障すること」であることの認識を改めて強くした。

 A行政協力を積極的に求め、公的制度・社会資源の活用をはかる。

 B救済事業は、森永の被害者だけがよい生活をするのではなく、国民と共に我国の福祉の向上を願い、ひかり協会の救済事業は、国民の福祉の向上と被害者の福祉の向上が同時に行われるように考え、国民の理解と支援を大切にして、事業をすすめていかねばならないことの意識を深めた。

 (7)ひかり協会の生活手当の受給条件と特徴

 @生活手当の額は、重度の障害のある被害者の1カ月の生活費を想定している。障害者基礎年金を受給している事を受給要件とし、年金と生活手当を合わせて生活保障水準額となるように制度設計されている。

 被害者の中には、中小企業で一生懸命苦労して働いても、給料の少ない人もあり、働かないで受取る生活手当について、被害者全体の公平感も考慮された。

 A生活手当の制度もその額も、被害者(父母親族をふくむ)自身が決定した。

 Bひかり協会は、被害者救済の内容について、国民の理解がえられることに強い配慮をしている。守る会運動が、国民の理解をえられず、失敗した過去の歴史の教訓を重く受け止めている。生活手当の金額の決定に当たっても、国民から理解の得られる水準を考える。そして、生活手当は、国民の福祉の向上と共にあると考える。

 C1か月の、保障されるべき生活費は、障害基礎年金1級の受給者も2級受給者も同額であることを前提としている。そのため、障害者基礎年金のおおい1級の受給者が、2級の受給者より、生活手当の額が少ないことになる。

 被害者らにある個別的違いの部分は、生活手当とは別に実施している。健康の回復やリハビリテーション、自立生活の確立、社会参加のために必要な費用の援助などで充当される。そこで、障害基礎年金の1級受給者と2級受給者で生活保障水準額を変える理由はないという前提である。

 D出発当時は、月額11万円であり、生活手当1級45,125円、2級58100円であり、障害者基礎年金は1級64,875円、2級51、900円とされた。

(8)@原告は、障害の重さだけにこだわる損害賠償方式の考えに立って、ひかり協会の救済方式を批判するが、守る会に集まった被害者は、ひかり協会方式(地域で、国民の理解をえて、自立を目指す被害者共通の福祉の向上)を選択している。

 Aひかり協会の救済事業は、個別にひ素ミルク中毒との因果関係を明らかにした上で、被害を金額に算定する保障制度ではない。被害者に発生した健康状態の悪化等に対して、ひかり協会のもつ対策のメニューを提供して、被害者の救済をする制度である。

 Bひかり協会の救済事業を希望している全被害者が、この救済方式を受け入れ、賛同している。

(9)@また観点をかえると、ひかり協会の救済は、生活手当だけではない。生活手当の分野以外に、多くの救済メニューがあり、被害者は、他の方法による救済と重複して、総合的な救済を受ける。

 A重い介護を要する被害者には介護料を支給している。「30歳代の救済事業のあり方」が実施された当時、生活保障水準額に介護料を合わせると、月額176、000円となっていた。

 Bひかり協会の救済は、被害者の全生涯にわたる福祉向上のためにおこなわれる。損害賠償額の金額計算という観点で判断されるべきではない。

(10)榎原氏ほか2名が岡山弁護士会と広島弁護士会の人権擁護委員会に人権侵犯の申立をした。

(11)@ひかり協会は、被害者の意見を最重点としてきき、専門家の意見をうけながら、公正に救済を実施した。

 Aひかり協会の救済は、恒久対策案をそのまま実施するものではないことが、繰り返し確認された。

 Bひかり協会の救済は、教育、労働、生活など被害者の自立に向けての全面的な支援をすること、全被害者の福祉の向上がひかり協会の救済であるとされた。

 C ひかり協会の救済は、総合的な救済事業であること(第2の原則)、そして個別対応こそ生きた救済である(第3の原則)という観点(救済の3原則)から救済がなされるようになった。

 D 恒久対策案当時とは、まったく姿をかえた救済方策になっていった。恒久対策案を、そのまま論じても意味がない程に、協会の救済は変化発展している。

 E ひかり協会の救済は、公的制度の活用と行政協力を重視し、公的福祉を補完するという考え方である。

 F 救済は、被害者らが議論し、ひかり協会の事業として実行されていったが、生活手当に関しては、保障されるべき生活費の額を10万円として、被害者の間で議論がすすめられた。

 10万円については、当時の他の被害者が得ていた労働賃金との公平な扱い(他の被害者が苦労して働いて得られる賃金より、働かない被害者への支給が高いと、被害者全員の間で共感が得られない)も考慮し、また、守る会の基本方針であるところの、国民の理解を得られる金額とすること(守る会は、被害者の福祉の向上と国民の福祉の向上を、共に考え、歩んでいかねばならないとしている)も考慮して決定した。

この額は、30歳の勤労者の賃金の60%という額になった。

 G 生活手当を決めたのは、被害者自身である。ひかり協会は、被害者の意見を尊重した。被害者の間では、いろいろな段階、長い間の議論の末にきめられた。被害者が決めた制度である。


 原告は被告に「協会の救済事業」について説明を求めたことはない。これらはすべて裁判の「争点とは関係ない」ことである。これらは裁判の争点はずしと、引き延ばし以外のなにものでもない。
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 生活保障事業とはギョウギョウシイ名前をつけたものだ。

・単に金をはらっているだけのことで、それが事業と呼べるものなのか。

・「国民的合意」をどのようにして得たのか。

・「本人の所得保障水準額」というが、誰が「本人の所得」を保障しているのか。

 ひかり協会が払っているのは僅かなものである。内訳は国の障害者基礎年金と協会の生活手当を合計したものを「所得保障水準額」と称している。

 所得の大半を国の年金におんぶさせておいて、それに生活手当を僅かに「上乗せ」しただけで、あたかもそれを、ひかり協会の事業のごとく「生活保障事業」と呼称しているにすぎない。

 その上問題なのは「30歳の勤労者の賃金の60%」としていることである。
 準備書面のなかでは「被害者の中には、障害・症状が重度であるために、なお自立が困難」と書きながら、なぜ「30歳の勤労者の60%」なのか、その説明もない。

 「自立が困難」なことを知っているのは被害者である被告のはずである。健常者より生活費も多くかかることは常識であるはずだ。その上、最大の「ギモン」は「勤労者の賃金」と称する統計資料の出典である。
 これまで原告は、「出典の明示」を求めてきたが、被告は黙殺である。その後にも裁判において被告準備書面には、なんども「勤労者の賃金の60%」が出現したが、出典は明らかにされていない。

 「国民の理解と支援」を掲げながら、以上のような「重大決定」を新聞発表するわけでもなく、それらを決定した会議も公開されたことはない。すべて「密室で決定」された結果を発表しているから、異論が排除されていることは、外部のものにはわからない。

4.(3)で「障害が重度で自立困難」と言った舌の根が乾かぬうちに「働かないで受取る生活手当」と書く無神経さには唖然とするばかりである。

 「公平感」をもちだし、最重症者が受給する「生活手当」を比較の対象にするところに、弱者と弱者を競争させて不満の矛先をかわす意図が明白である。

 生活手当の低額化を目論見み、あたかも過大な補償要求を事件発生当時にして運動が失敗したような誤解と嘘を重症者に与えようとしている。当時のことを詳しく調べも解説もせずに、事実を歪曲しているのである。

 C生活手当が1級も2級も同額であることの正当化を図るために、リハビリなどあたかも実施しているかのように羅列している。岡山市に住むYさんは両下肢障害の2級の被害者であるのに外出もできないで、家内の移動すら壁伝いにしている。リハビリなど受けたことがないという。自立生活をするためには家のバリアフリー化が緊急の課題であるが、それすらしていない。
 広島のY.Nさんは1級の被害者であるが、26歳の時に初めて養護学校へかようようになった。それまで学校教育と無縁だったので、団体生活になじめなかった。そのことを心配した両親が、ひかり協会へ休祭日に訪問指導をしてもらいたいと、ケースワーカーの派遣を依頼した。しかし拒否されたので、ひかり協会理事長に要望書を出し続けた。理事長からは返事がなく、実現したのは、4年半後でそれも2年でとりやめになった。

(8)@については、原告はそんなことを言ったことはない。2006年にひかり協会が発行した『ひかり協会30年の歩み』の35頁には
<「30歳のあり方」では、「協会事業は、過去の金銭賠償を対象にしなたものではなく、被害者の現状回復を基本とした救済制度であり、『恒久対策案』でいう新しいパターンの損害賠償制度である」とし、これを「三者会談方式」として定着化した。>
とひかり協会自身が書いているのであり、被告は「知ったかぶり」をしてあたかも代弁人のごとく、また親衛隊のごとく装いながら、マチガッタことを平気でばらまいている。

(9)@また観点をかえると、公的サービスを紹介することや、公的施設を紹介することもひかり協会の「救済メニュー」のなかに入っている。

A介護料を生活手当と合算することは筋違いのことである。介護するのは親兄弟であり、自身が仕事で得られるべき所得を犠牲にして被害者の介護をしているのである。176,000円をあたかも多額のように記載しているが、もし両親が介護にあたれば、この金額で3人が生活することになる。介護料は親に支給され、生活手当は本人に支給されるのである。
「みそもクソ」も一緒にするとはこのようなことの例えである。


(10)この事実を記載したことを見とがめて、被告は「学者の論文」にケチをつけてきた。事実の記述すらも、自己に不利益と判断すると許さない、という体質を如実に表している。
 だから、被告たちに都合のいいことしか言わない「専門家」の意見しか聞く耳をもたないことになる。そこには「公正」な運営は期待できない。

(11)ひかり協会の救済は恒久対策案をそのまま実施する考えはないようだ。そのなかで「金のかからない、人手のかからない、時間のかからない」ことしかやらない。BについてもYさんやY.Nさんの例に本質は現れている。

Cの個別対応とは、別名個別撃破であり、「できない、できない」とできないことを繰返し、「あなたのいうことをきいていたら、ひかり協会はつぶれてしまう」(広島Y.Nさんが言われた)とあきらめさせることである。

D恒久対策案の内容を詳細に解読すると、具体的実施項目32の内8割は不実行である。

E公的制度と行政協力を利用すれば、森永から支出された費用を内部で分配するときに、あらかじめ固定費をさっぴく者達には画期的な「節約策」となる。
 それは、国民の税金でもって森永ヒ素ミルク中毒の被害者を救済することになるのだが、実際の意味は正反対である。前述でみたような価値観をもつ者たちが仕掛けている意図は別のところにある。
 救済資金から得る自らの厚待遇を維持するためには、重症者への支出を低く抑えることが必須となり、考えついたのが、「行政協力」である。それが重症被害者へハッピーな効果をもたらしているのなら、言論弾圧も除名なども必要ないはずだ。また、自らの独裁体制を維持するためには、加害企業の意図をあらかじめ汲むことも必要になろう。
 このような政策をとることが、加害企業の救済へのモチベーションを低下させ、公害事件の教訓化にとって反面教師になることは、企業社会で生活する国民には想像に難くないが、被告には理解できないらしい。
 被告は、被害者への低め抑制政策を「国民との合意」などと強弁して、「国民」を会員への脅し文句に使う。ならば、この公的年金や公的施策・施設の併用について、全国民に対し、いつ説明責任を果たし、全国民(被告が好きな「全被害者」にならい)とどう合意を取り付けたのか? 国民からの批判に噛み付く前に、国民の税金を使いながら、国民への説明をサボって、一国民を弾圧している自らの態度を恥じ入り謝罪し、即刻その態度を根本的に改めるべきだろう。

F10万円とは1985年の頃のことである。被害者の間といっても健常者ばかりであり、重症者は入っていない。「30歳の勤労者の賃金の60%」と被害者が30歳の時にいわれると、40歳になれば「40歳の勤労者の賃金60%」と思うのが常識的な考え方である。それが現在54歳になっても「30歳の勤労者の賃金」即ち1985年時点を基準にしているためスライドしても僅かだ。だから、当時の生活手当1級の月額50,000円は現在57,492円で増加したのは、7,492円である。それに比べ障害者基礎年金は61,817円が現在は82,510円になっている。

Gこの論理は被害者自身が決めたのだから文句はなかろうということである
しかし被告は準備書面(4)の5頁3では次のように書いている。「救済対策委員会(ひかり協会)が救済事業として取り上げてくれなければ、救済対策はできないのである。」さらに続けて「(1)被告の準備書面(1)の12頁D項で説明したとおり、恒久対策案の中で、救済は、救済対策委員会を設置し、同委員会が資金の運用、基準の設定その他必要なすべてを決定し、そのもとで救済をすすめる、ことを決めていた。」と書いているのであるから、被害者自身が決めることなどできない相談である。都合の悪いことになると、「それは被害者自身が決めたことだ」と前言を翻して恥じない言動には辟易するばかりである。

5についても被告の主張は前項と同じ論理で「被害者自身が決めたことだ」と強弁しているにすぎない。これまでは「ひかり協会が決める」ことだと主張してきたことを、ここへきて「被害者自身がきめる」ことだと逃げをうちだしたのは、これまでの理論の破綻を露わにしたにすぎない。

 いずれにしても、被告が「被害者を守る」ことを忘れて「ひかり協会」を守り、「加害企業」を守り続ければ、理論的に破綻をきたすことは、目にみえていることである。

(3)生活手当の内容
「本人の生活費を賄う」とはどのような基準によるものか、さらに本人は「結婚しない」前提なのか、また「子供を産まない」前提なのか明らかでない。本人1人の生活が賄えれば、それでいいという考えなのだろうか。
「類似する公的制度」とはなにを指しているのであろうか。公害健康被害の補償等に関する法律によれば、4年前の基準で男子353,100円、女子204,200円を給付月額として決めている。どのような制度を調査したのか、明らかにする必要がある。
 また「労働者の賃金水準」というが、どのような統計を調査したのか、変動については、どのような方式を適用しているのか、それらのことはまったく明らかにされないのである。

(4)生活手当は「このように」といわれても「どのように」選択したのかあきらかではなく、なにが「成果」なのか「ちんぷんかんぷん」である。

6、全被害者が賛同している証拠はあるのか。賛同しない被害者は排除して、「物言わぬ」被害者に仕立て上げる。それでも沈黙しない批判者に対しては、ある日突然に「誤支給」と称して、今まで支給してきた手当の基準変更を極秘裏に行い、数百万円の返済を迫るというあくどさである。

(1)これまでは三者会談確認書にもあるとおり「因果関係をとわない」としていたのである。しかし
1994の「40歳代のあり方」いらい「中途障害者の場合は成人期以前からの障害」特別して救済しないことを決めている。

(2)このようなひかり協会の救済をなぜ「有り難く」思わなくてはならないのか。「障害を与えたのは」森永が作った「ヒ素ミルク」であり、その原因がなければ、今日の後遺症はありえないのである。「恩恵を受ける」とは辞書でも引いて正確な意味を把握して使用してもらいたいものである。「恩恵」とは「めぐみを与える」ことであり、この言葉を使えば、「する原因がないのに、一方的にあわれみをかける」ということになる。これほど言葉に「ドンカン」なものが書いた文書を読む不幸をしみじみかんじている。

 被害者には「被害者の果たすべき責任」があると思う。それは被害の正しい継承であり、いままでたどってきた歴史の正確な記述である。また被害者と加害者は、どこまでいってもその関係に変化はないということであり、それをあいまいにすることで、事件の再発を招く原因になることである。


 弁護士会とか国会に働きかけることは社会常識にそったことではないというのは、今回被告から教えられて初めて知ったことである。
 この国の市民が弁護士や裁判、国会を通じて社会の改善・改革を試みる努力を、被告は、非常識なおこないだとあっさり否定した。

 被告代理人におかれてはこの両方に携わった経験の持ち主であるが、このような認識のもとに仕事をなさってきたとは、立候補されるときにでも表明されていたなら、貴重な1票を投じなくてすんだものと後悔する。

総評

「被害者は、老人となっても、生涯にわたって、ひかり協会の安定した救済を受けようと考えているから、森永乳業株式会社の経営内容を悪化させることは回避しなければならないと判断している。」

総評1-
改善を求める被害者は加害企業の経営を脅かしているのだ、の怪


 この第6回文書で、当初の恒久対策案が、今では、全公害被害者にとっての反面教師になったことが証明された。

 被害者の親が血の滲む思いで築き上げた前例のない恒久救済対策案を、被告が完全に骨抜きにしたことを示す歴史的文書となった。
 とくに左記がこの文書の結論であり、被告はこれを言いたいがために膨大な紙数を使って自画自賛を繰り返し、加害企業の繁栄が被害者の老後の安心であるかのように言い切る珍しい言説を発明した。
 自己中心的かつ非社会的な価値観が究極的に到達した結論であり、この思想を被害者に刷り込み、対外的にプロパガンダを展開しているという意味で、かれらの言動は、広く社会的に分析されるべき対象となる。

 被告団体の上層部は、自らを加害企業からの給与生活者だと信ずるに至った者達なのだろう。だから、基金の活動は、福祉であり賠償ではないのだと主張したいのであろう。(前述のとおり、自ら「賠償の新しい形だ」と主張したことを忘れているが)

 
「そろそろ、被害者になった原因を忘れ、障害の苦しみを言わず、真に闘った親達の苦労と歴史を忘れて、加害企業からの金銭をお恵みとして感謝し、加害企業の業績発展に貢献しなさい」という、公害被害者に対する高みからのお説教である。

 被告には、恒久救済対策を真剣に実施する努力を通じて、公害再発への戒めともしていくような視点などは、もはやないのだろう。
 しかし、公害事件処理において民主主義を認めない立場からの加害企業との利益共同体的関係構築の言説鼓吹は、実際には、現実の被害者家族の生活権を侵害し、そればかりか、産業公害の起源・発生・闘争・救済・総括・改善という改善の循環サイクルにおける歴史的教訓と知見の獲得にあたって、巨大な負の効果を逆流させることになる。
 被害者家族をおこらせ、それを黙らせる弾圧が不可避となる必然性がここにもある。
 この準備書面をかかせた上層部に関しては、彼らが救済資金を「給与」と受け止めているのは想像に難くないが、それを被害者全員の価値観と言い切る行為は、そのよこしまな思想を「全被害者へ強要している」ことを認めており、言論弾圧はその必須のツールだ。全公害被害者を冒涜する言説でもある。

 更に、この主張にはあくどい詭弁論理が忍ばされている。
 最後の最後で「森永乳業株式会社」とお客様宛請求書のようにフル標記しているところも奇異だが、「森永乳業株式会社の経営内容を悪化させること」とは何を指しているのかということである。
 もし、「原告の主張は、森永乳業株式会社様の経営内容の悪化に繋がる」とでも言いたいのであれば、それは、事実の歪曲であり、存在しない前提を使って、自己の主張を正しいと強弁するところの詭弁である。

 原告の主張に反映されている被害者家族の憤りは、森永に無制限の支出を要求するものではない。
 被告「被害者団体上層部」が、原告らの批判を反省して受け入れることと、森永乳業の経営内容にはなんの関係もない。

 森永乳業の経営状態は、かれら自身の営業努力の責任である。
 もし仮に、加害企業が、自らの努力不足を棚に上げ「業績悪化は、被害者団体内部の民主主義と言論の自由のせいだ」と考え、それを被害者団体上層部に代弁させて、被害者会員や国民へ不法に噛み付かせるのなら、それ自体が恥ずべきコンプライアンス違反である。被告自身の態度が原因企業の行く末を誤らせ、その評判に影響しかねないということが、さっぱり理解できないようだ。


総評2--
みんなでやっているから、言論弾圧は正しい、の怪


言論弾圧がバレているのに、それとはお構いなしに「被害者で決めた」「被害者で決めた」を連発する会の怪。

 組織内に民主主義が機能せず、言論弾圧が横行していても、「被害者で決めてきたことだから正しい」、などと紋切り型の主張を執拗に繰り返し、あたかも、古代ローマ直接民主制の全員投票でも実施しているかのような幻想を撒き散らす。
 プロセスを抜きにして、いったん「決めた」あとは、批判や改善意見を徹底的に排除するのであれば、その「みんな」とは独裁システムで管理された「みんな」となる。

 歴史的事実を意図的に語らず、それを不当に改ざんしているかどうか、そして、組織に民主主義が機能してきたかどうかが、問題の核心をなす大前提である。

 被告は、被害者会員に対して、これらの基準は「国民的合意」であると繰り返し巻き返し機関紙などを通じて刷り込んでいる。
 救済内容を、少しましに充実せよと基金へ要求をしようものなら、「国民の皆様から」大変なお叱りを受けて救済事業が崩壊するかのように被害者を露骨に脅すことも忘れないのである。
 ところが被告は、「国民の皆様の冷酷な監視の目」をちらつかせながら、原告の能瀬氏のように一般国民が本当に組織を監視すると、今度は、国民の皆様へ容赦なく噛み付く。この二枚舌を使っている事実だけで、すでに被告の整合性は完全に崩壊している。
 いったいぜんたい、どこで、誰と、どう合意したのか、詳しく説明を求めたいものだ。国民からしても、はた迷惑な責任転嫁である。そして、そもそも、公害被害者と国民を対立させる構図にいかがわしさがある。当然のことながら、被害者も国民だからだ。そして国民である前に市民である。そして、その市民をよそ者とか、迷惑だ、などというのなら、被告はいったい何者なのかという疑問が改めてわいてくる。

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記憶の風化が招く公害の再発
 現在の同事件の重症被害者の抱える問題を直視すると、半世紀たっても変化しない公害問題の本質を見出さざるを得ない。 
 我が国において、食の安全にかかわる問題が何度も何度も懲りずに発生する起源の一つが、この戦後初の食品公害事件の和解後のあり方の異常性と、それを黙殺する広域かつ政党政派までが加担した共犯者ネットワークの存在に起因すると考える。
 「被害者救済に骨を折っている森永の元社員」といった「美談」が一部メディアで麗々しく「感動的に」展開される一方で、被害者家族が重苦しい現実に憤りを示し、それを発言することに対して「被害者団体」が弾圧を加えている事実、この二つの相矛盾する現状を直視するとき、第二の、しかも最高に巧妙な粉飾をもった巨大な犯罪が開始されていると推測するのは邪推にすぎないのだろうか? 
 公害事件のおびただしい死者たちは、真実の解明を天上から望んでいる。「
死人に口なし」と秘かに考え、己さえ良ければと、苦しむ者の現実に目を閉ざし、私腹と私権を肥やす者たちを天が許すことはない。

■中身が変質・転倒した「恒久救済」。

 
他の賠償金一時支給方式の公害事件と比較すると、現状の森永事件の被害者は、救済基金が当初約束した救済事業をほとんど実施しないことにより、実質的に金銭支給に矮小化され、一時賠償打ち切り方式より、さらに低俗な制度と化している。
 その現状であるところの、恒久救済ではない打ち切り賠償方式化した現状を素直にみた場合、森永事件の被害者は、当然受け取る権利のある補償額のごく一部を「恒久」という名の下に、長期分割払いで受け取っているに過ぎないという構図が明確になる。
(※2)

 しかも余命率の低下で死亡と共に早期に支給が打ち切られると、総支給額は著しく低下する。打ち切り方式よりたちが悪いのは、高額の給与を手中にする専従者集団が、被害者へ流れる救済資金を多額に浪費している事実である。「恒久救済」は、彼らの存在理由を自己弁護する看板に堕している。

 恒久救済対策は、被害者に健常者と同様の人間らしい幸せを実現するためにあらゆる努力を投入する、との理念を実現し、約束された救済事業内容が発足当時の精神で、誠実かつ完全に実施されれば、その時点ではじめてかろうじて評価されうるものである。
 ところが、「恒久」という外形だけが看板とともに悪用されると、単純機械的な「長期」となり、「長期」のなかで金銭支給に集中傾斜すると、今度は一時金賠償方式より俗悪なものに成り下がる。しかも賠償総額の圧縮が可能となるトリックも可能となる。
 さらに恒久救済が形骸化すると、その美名の看板は、実際には行わない「救済事業」を「推進するため」と称した専従者集団が、恒久的に巣食う格好の口実となる。
 多くの資金が人件費などの固定費と彼らが被害者支配の都合で配置する取り組みに消費され、一部の者の利益を優先する集団の根城へと変貌する。これらの相乗効果により、逆に「加害者への負担軽減」と「被害者への非道で差別的な抑圧的管理支配」が徹底されるといった現象が起きる。

 「基金方式」を「救済案」として「お勧め」する動きには更に注意が必要だ。一時金賠償支払い方式では、職業的政治集団が入り込む余地がないが、「基金」組織が誕生した場合、そこへ政治集団が入り込みそれにタカって前述のように根城とし、恒久的にピンはねを続けることが可能となる。「性善説」でそれを防止することは不可能だ。最初は天使の顔をして近づいてくるからだ。10年くらいたって、組織の中枢にシンパが送り込まれた頃に、突然浮上が始まり、市民的良識への牙がむかれる。おかしいと思う被害者家族には、奴隷になるか、追放に甘んじるかの二者択一が迫られる。一歩間違えると、金の力と「被害者組織」という「看板」を最大限活用して、外部からの批判を封殺し、長期に亘って不正常な運営が可能になるという、諸刃の剣的要素があることに大きな注意が必要だ。

 (詳しくは下記掲載、能瀬英太郎氏のレポート 「森永ヒ素ミルク中毒事件 発生から50年」 を参照)

 しかし、「和解」と「救済機関発足」後、20年以上黙らされてきた被害者家族も、鬱屈した怒りが爆発し始めている。


■被害者家族が「被害者団体」らを相手取って「人権侵害」を申し立て
 被害者サイドでは、救済のあり方を問題視する被害者家族が現「守る会」内で発言機会を奪われる言論妨害事件が近年、次々と明るみになっている。(出典:2003.6.25付山陽新聞報道)
「被害者がおるから」「使っても使っても入ってくる」「ああ、うれしゅうて、うれしゅうて」「お金ほしい、なんぼあってもええなあ〜」 それを契機として、広島や岡山において、重症被害者の親が現「守る会」「ひかり協会」を相手取って、各地の「人権擁護委員会」に「人権救済申し立て」を起こしている。(出典:2003年6月25日付読売新聞岡山版報道記事)  事件番号:2003年6月24日の岡山県における人権救済申し立て事件(岡弁庶第33-1号)及び、2003年7月8日の広島県における人権救済申し立て事件(広弁第57号)
 なお、現「守る会」は人権救済申し立てを行った岡山県倉敷市在住の重症被害者の父親に対し、新聞記事では「父親に説明をする」と言っておきながら、その後この父親は権利停止処分(無期限)となった。


■証拠書類が次々に提出。現状の一端、遂に明るみに。岡山地裁にて誰でも閲覧可能)

 裁判資料は公開されており、岡山地裁第2民事部2A1係にて、所定の手続きを経れば、誰でも自由に閲覧できます。原告側の生々しい証拠も豊富に提出されており、被害者の親への行動監視記録としか思えない書類(甲第45号証)や、被害者本人へのすさまじい差別的言動の数々(甲第44号証)など、現状の一端が明らかにされつつあります。

 これらの証拠をみれば、裁判が本来、能瀬氏個人に帰する裁判ではなく、森永ヒ素ミルク中毒事件「和解後」の約30年近くにわたって「当事者団体」というオブラートで強力にガードされてきた深い闇をえぐる初めての勇気ある試みを示していると言えるでしょう。
 (なお閲覧に当たっては、資料は裁判所内部で使用されていることもあるので、事前に、岡山地裁代表番号へ電話の上、第2民事部2A1係へつないでいただき、そこで閲覧希望日を連絡の上、訪問されることをお勧めします。)

広島の山田氏に対する素行記録。同氏は人権救済申し立てを起こした。
■組織病理を反映した確信的暴言の数々
 とくに、「甲第44号証」の内容を精読すれば、偶然的な不規則発言ではなく、組織病理を窺わせるものばかり。「和解」後、数十年の長きに亘って、どんな思考構造を持つ者が公害被害者を管理支配してきたか、そして救済基金に対していかなる思惑を巡らしているか、などについて容易に想像できます。

 なお、甲第44号証の暴言記録は、それを受けた被害者家族による人権救済申し立て時にすでに提出済みの証拠書類。発言者からの(手短な)「詫び状」までついており、行為者自身が認めざるを得ない事実のようです。被害者への罵詈雑言の類は、もはや語るべき言葉も見当たりませんが、さらに注意がいるのは同証拠8ページ、4ページ付近の発言。救済基金への彼らの思惑を示しており、背景事情まであからさまにしています。

■発言記録からわかる問題点
 ここにサンプルとして掲載している4点の画像は、画像の上をダブルクリックすると元文書の一部が現れ、印刷もできます。
「誰のおかげでここまでなっとる」「頭割って脳の中身見てみたい」「アイキューなんぼある。いってごらん」「体をもっと動かんようにしたろか」 特に、差別暴言記録の証拠文書は、その内容のほとんど全部が人権侵害発言で埋め尽くされていますが、見落としてはいけないのは

1.特異な一個人の偶然的発言ではなく、
  古参職員と束になった複数職員の言動であること。
2.金の流れを構造的に知った上での確信的な発言が多すぎる。
  つまり、
  救済基金への財団職員の思想を明瞭に示す発言が多数あること。
3.えげつない言動の底流にある目的とその策源地を見落とさないこと。

 特に2については提出文中を赤字で強調表示しています。なお掲載に当たっては被害者のプライバシーを完全に保護するため、すべて仮名に変更しておりますので、ご了解下さい。

■今後の情報公開予定
 当館は、この裁判は被害者とは異なる一市民が提起したもので、「当事者団体」の変節という最悪の事態への、市民・国民の側からの監視という新たな概念を具現化したものとして、我が国の公害救済運動史に特筆されるべき歴史的試みであると考えている。学術的にも非常に意義のある「こっちにお金があるんじゃから」「あんたら〜直接いらえんからな〜(タッチできないからな)事件と考え、周辺証拠資料、被告側とその背景の動向、被告側弁護の特徴や問題点、その背景について、分析を開始した。
 また、裁判の内容は、現状の改善を求める人々にとって重要な意味を持つので、情報公開の理念にそって、順次対応していく。能瀬氏の勇気ある行動は、市民主義のモデルケースとも言えるものだ。多くの人々に有為な参考となろう。当館は、状況をみながら物証(地裁提出証拠に限らないものも含む)を公開していく。
 また、事件後半世紀以上もたって、再度、事件の全体像を歪曲し、そしてなにより現状の問題点を敢えて黙殺し、「美しすぎるちょうちん記事」を書く媒体まで登場してきた。政治目的はよく分かるが、「歴史は繰り返す」という事例。後世に汚点を遺すだろう。


【紹介】原告:能瀬英太郎氏(のせ えいたろう)
岡山市米倉在住 自営業
元岡山県作家協会会員。
仕事の傍ら、文学・小説などを執筆。雑誌、書籍に発表している。
フリールポライターとして
各種事件のノンフィクションドキュメントも執筆している。

『砒素ミルク1』
『砒素ミルク2』(『森永ミルク事件史』収蔵)
『砒素ミルク3』など、
当時の「守る会」救済運動の発展に不可欠であった上掲の重要書籍の編集と出版を、純粋なボランティアの立場から手弁当で取り組み、森永製品不買運動などに多大な貢献をした。「恒久救済対策案」を普及・実現させる「守る会運動」を強力に支えた市民ボランティアの一人。今となっては、本来の被害者救済運動における見識と理念を知悉する数少ない人物の一人である。
(※3)

(例)砒素ミルク 〈1〉 ― 森永と共犯者たちによる被害者抹殺の16年
谷川正彦 能瀬英太郎  (1971/06 出版) 247, / 18cm / 新書判 NDC分類: 493.153


 その功績もあり、かつて「森永ヒ素ミルク中毒の子供を守る会」(当時)から正式に委嘱を受け、事件の発生から20年間の苦難の歴史を集大成した『森永砒素ミルク闘争20年史』を世に送り出すため編集委員として活躍した。

 その後、「救済」組織の変質とともに、森永事件問題から遠ざかっていたが、故・岡崎哲夫氏の死去を契機に、2001年に、同事件の闘いの歴史をまとめたルポルタージュ『紙のいしぶみ』を発表。雑誌『週刊 金曜日』誌上でルポルタージュ大賞 報告文学賞を受賞した。
 この作品は、我が国の若い世代が同事件の歴史を数十年ぶりにふり返る重要な契機となり、大きな注目を集めた。
(能瀬英太郎氏の取り組みを報じる記事 【中国新聞】 【読売新聞】 【毎日新聞】 )

 その後も同氏は雑誌等で、公害被害者の将来を憂慮する一般国民の立場から、“現状の組織は、運動の功労者や改善のための批判を行う人物を攻撃し除名排除し続ける一方で、被害者救済事業においても大きな闇があり、被害者が不当に扱われている”と、発言を続けている。そして、“財団である基金運営団体は公的性格が強く、透明性が強力に求められるものであり、国民からの批判を真摯に受け止め改善すべき”、との常識的視点から、“現「救済」基金=「ひかり協会」”指導部の事業実態を明らかにするルポルタージュも自主的に発表し続けている。
(※4)

「週刊 金曜日」422号 P21. 『森永ヒ素ミルク事件 後退する被害者救済 “ひかり協会” に娘の未来を託せるか』(能瀬英太郎)

 中国で発生した粉乳メラミン中毒事件、我が国の事故米ロンダリング事件など、食の安全を大きく揺るがす事件が内外で頻発する中、森永事件の教訓が改めて見直されている。7年先んじて発表された同氏の問題提起の先見性は注目に値する。なにより、真摯に耳を傾けるべき内容が豊富であると、研究者からの評価も高く、公式の学術論文でも引用されている。
 良心的な一国民に過ぎない能瀬氏を、そこまでやっきとなって攻撃する背景には、彼らなりの何か相当な「あせり」があるのかもしれない。

能瀬英太郎氏の最近著作
『紙のいしぶみ』 (「週刊金曜日」 ルポルタージュ大賞 報告文学賞 受賞作品) 
第10回の項を参照

『人権擁護委員会は頼りになるか』 (「週刊金曜日」586号P63.論争)
●ダウンロード可能PDF版 『森永ヒ素ミルク中毒事件 発生から50年』 


■能瀬氏が発表した最新レポート
(pdf形式 ダブルクリックすれば、ダウンロードできます)
















































紙面画像の上をダブルクリックすると、ダウンロード→印刷が可能です。


注釈解説
(※1)
 機関紙の見出しは、「被害者運動の変質と救済事業の破壊をねらう能瀬英太郎氏(元「森永告発」)の動き」であるが、名前の後の「氏」の部分をご丁寧に1/2相当の小文字にしている。アリバイ的に「氏」をつけているものの、良心的一市民を事実上大見出しで「呼び捨て」にしているわけである。このような噛み付き方をする集団がだいたいどのような背景を有するか、賢明な国民ならすぐにわかることである。耳を覆いたくなる差別暴言といい、品性のあまりの低さを感じずにはいられない。

(※2)
被告はこれを指摘されると、「この事業は賠償ではなく福祉である」と言いはじめた。「最高の福祉」を目指した創設者を謀略的に除名し、救済から福祉の理念をそぎ落とすことに腐心してきた被告、もの言う被害者を大量に除名してきた被告のどの口がこのような物言いをするのだろうか? まじめに福祉事業をやっている人々が怒る物言いである。
人権救済申し立てとその文書、批判意見を提示する被害者家族への冷酷な仕打ち、基金職員の本音が莫大に吐露された差別暴言記録の証拠等、裁判で明るみになった証拠書類のひとつでもみれば、おどろおどろしい現実が明々白々である。美辞麗句列挙、日本語への冒涜は、たいがいにすべきである。

(※3)
 今から30年以上前の話であるが能瀬英太郎氏は「森永告発」の創設に参加した。「森永告発」は重要文献「砒素ミルク」(1)から(3)までを膨大な労力をかけて出版した。その書籍は、医療関係者から学識経験者、ジャーナリスト、市民に広く読まれ、その理論的影響力は計り知れない。「告発」に一時席を置いた人々も今は70歳近いが、まだまだ元気で、各分野の一線で活躍中である。しかも、現「守る会」「ひかり協会」の現状を深く憂慮している。当然であろう。
 もともと「守る会」運動は一般市民・国民と共に歩んでいた。市民が今も森永事件被害者の救済の現状に関心を持ち、意見を持ち、問題提起するのは当然のことである。
かつて多くの良心的市民が拠り所とした「森永告発」を、今は存在しないことをいいことに勝手気ままに攻撃するものたちは、

1.そもそも「森永告発」が被害者団体とのコンセンサスの上で作られたものであるという事実を知らない。
2.「森永告発」の若いスタッフ(医療関係者や学生)がどんなに純粋な暖かい心で「守る会」を支援していたのかも知らない。
3.1.2.を知らないということは、基本的な歴史的事実を知らないこととイコールである。したがって「森永告発」が果たした巨大な歴史的役割は当然理解できない。

(写真)
「砒素ミルク」(著者:谷川正彦・能瀬英太郎 「森永告発」出版)の必読を呼びかける、前「こどもを守る会」機関紙「ひかり」19号1面記事。これ一つをみても運動が極めて苦しい時期に「森永告発」の果たした意義の大きさは明白である。このような一般国民からの無償の愛情と支援の事実を否定し、歴史の全体像を歪曲してはばからない現「団体」の、人としての感謝の気持ちのなさには、あきれるばかりである。



(※4)
 能瀬氏への誹謗中傷の論理構造から底流にある政治目的を分析すると
1.現組織に抗議して批判的社会行動を起こす被害者家族を孤立させ一個ずつ潰す。
この一点に尽きると思われる。

 2000年に入って被害者の親が高齢化し、介護疲れなどで共倒れになりかけている中、現状の救済姿勢に憤りを募らせ、被害者家族は次々に人権救済などの訴えを起こしている。
 この動きを封じ込めるべく、一連の動きの真実を捻じ曲げて被害者に伝え、同調者が現れないようにしようとしている。そのため、支援者に過ぎない能瀬氏をことさら攻撃し、事情を知らない会員には「彼がけしかけたのだ」と事実を180度捻じ曲げて宣伝し、現組織を批判する被害者を「外部のものに踊らされるだけの愚かな追従分子」と決め付け、共感を排除した上で、被害者家族を簡単に除名し、事情を知らない傘下会員を細かく分断支配する。
 批判や要望を直接組織に持ち込む素直な被害者には、次のようなお経を唱えて困惑させる。
 曰く「文句を言っているのはあんただけだ。あんた以外の被害者はみんな感謝しているよ。あんたが文句をいうと、他の感謝している被害者がみんな迷惑するんだよ…」。
 この呪文が、抗議する被害者に唱えられる。
 だから、これまで能瀬氏の一連の指摘そのものに、基金や被害者団体指導部は、はじめから誠実かつ具体的に反論するつもりがない。もっとも、当たっているから、反論も出来ないのだが、その必要もなかったのだ。上掲の「はた迷惑論」でこれまで十分に被害者家族の声を封じ込めてきたからだ。それが、だんだん、そうも行かなくなってきたようだ。

1970年、まだ健全だった「森永ミルク中毒のこどもを守る会」機関紙「ひかり」の主張
「森永事件以後、同じような事件が次々と起きています。私達が十五年前に、もっと徹底的に森永を糾弾していたならば、カネミ油症事件は起きなかったし、もし起きたとしても、もっと正しく処理されていたはずです。
 こう考えてくると『自分の子供は大して悪くないから』という理由で黙っていることは、結果的には森永に加担したことになります。
 事実、森永は十五年前にも、そのような人を利用して、事件をヤミに葬る手段に使いました。曰く『森永の処置に十分満足している』『森永に感謝している人が沢山いる』『騒いでいるのは一部の人たちだけである』と。
 今、森永はふたたび、この使い古した手を使って、こどもを守る親の悲痛な声をおしつぶし、社会正義のためにたたかう国民の努力を圧し殺そうとしています。
 被害を受けた人たちが、どのようにされても感謝するはずはないし、こどもを元に返して貰ったからと言って、森永の犯した罪が許されてよいはずはありません。」

(説明)
文中の「15年前」とは1955年、すなわち事件発生時のことである。つまり、この「森永への感謝」という表現は、被害者を分断支配するとき森永乳業が繰り返し使ってきた常套手段であるということだ。


何者かが一番恐れているのは、能瀬氏の努力で正確な客観的事実解明に基づく歴史認識が広がり、被害者が「となりの被害者の声」に耳を傾けるようになり被害者の声が社会的に表面化することだろう。
 攻撃の真のターゲットは実は能瀬氏ではなく、現状に疑問を抱く被害者家族そのものである。被害者家族に、「聞くな」「見るな」「言うな」を要求するわけである。この手口は、本来、犯罪企業が内部告発者の排除に活用する手法である。真に公明正大で正しいことをやっているという自負があるなら、どんな批判も一つの事実の反映として受け入れ、聞く耳を持ち、改善提案としてむしろ歓迎できる度量があるはずである。

 もとより能瀬氏は、「名誉毀損」を闘いながらも、個人的憤りから自分の問題を闘っているのではない。裁判を通じて被害者団体に巣食う悪徳の事実を明らかにしようとしているのである。真実を捻じ曲げる嘘と暴論が公害被害者団体の機関紙で平然と展開される現状を憂い、改善し、被害者団体が事実をすき放題に捻じ曲げ圧殺することは許されない最低限の条件を微力ながら作りたいと願っているだけである。
 一銭の得にもならないのに、えげつない人身攻撃を平然と行う組織に敢えてコミットし、その問題点を外部から指摘するという同氏の行動。そこには、被害者の姿を当時から良く知り、救済運動の真の歴史を知悉しているがゆえに、被害者が置かれている現状を見て見ぬふりができないだけである。そしてかつての支援者としての使命感から、正しい社会の発展を願う日本国民の一人として、長らくメディアからさえも見過ごされてきた問題に一石を投じたいと考えているだけである。
 このような真の市民とも言うべき人間の存在は、日本の民主主義にとって、かけがえのない宝であるはずだ。

 公害被害者という最も弱い立場にある人々が、まず毒物摂取で殺され、次に後遺症で殺され、更に余命低下の早期死亡で殺され、そして、生きていても腐敗した「救済」団体から物心両面でいじめられている。何度も何度も…。改善を求める被害者とその家族は、現状が変革されなければ、死ぬまでいじめられ続けるだろう。
 さらに悲惨なことに、主要にいじめられている重症者とその家族は、介護だけで共倒れの危機にあり、現団体を変えるエネルギーさえままならない。そこに被害者団体指導部は巧妙につけ込んでいる。

 この、まるで閉鎖病棟監視システムのような現状を、社会が黙認し、自らの社会にその温存を認めれば、その災厄はいずれ民主主義社会全体へふりかかる。事実このような監視支配システムを「唯一の恒久救済」と賛美しつつ、隙あらば根城を拡大しようとして、他の公害や事故災害で、被害者団体に触手を伸ばしている党派が存在する。これもまた見ようによっては公害だ。第二の被害が生れないよう祈るばかりである。

 国民一人ひとりが勇気をもって、「当事者団体」の「被害者以外は文句をいうな」などという妄言を相手にせず、「一般国民の支援のおかげで基金ができたのですよ。日本の民主主義という制度の中で初めて存在を許されているんですよ。国民の声を聞き、謙虚になり、説明責任を果たしなさい」と教え諭す必要がある。そして、その妄言の背景に、もっと別の力が働いているとしたら、第2の公害犯罪として新たな取り組みが開始される必要もあろう。


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【検証】
岡山地裁提出準備書面の公式文書から明らかとなる
被告 : 森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会 の驚くべき思考方法

批判意見を提示する重症者の親を、公式に「敵」扱い。
裁判での係争より、見せしめを優先するかのようなプロパガンダ文書を臆面もなく提出。

岡山市米倉在住の自営業・能瀬英太郎氏から名誉毀損の損害賠償請求訴訟を提起された、被告「森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会」は、岡山地方裁判所に三回目となる準備書面を提出した。その内容は、嘘の羅列の一方で、意味不明の主張も多く、被告の体質を垣間見させる事実がおびただしく散見されるので、以下、比較対照形式で具体的に紹介したい。
 
 公式の公開文書である準備書面での由々しき問題は、重症被害者の親を名指しした上に、犯罪者であるかのように「呼び捨て」にし、個人的人間性を否定してはばからないその「書きっぷり」である。もの言う被害者家族を、これほどまでに個人攻撃することに、ためらいを見せない「被害者団体」というのは、他に類例がないだろう。もはや「被害者団体」ではなく「被害者管理支配団体」の名称がふさわしい。

(以下、被告による被害者家族への氏名の呼び捨て行為は、親御さんへの不当な誤解を与えかねないので、
被告文書の引用において、仮名:榎木・山本、○子、等に変更する。要点を太字強調した。)

■被告「守る会」第3回準備書面の問題点

被告「守る会」の第3回準備書面

事実及び評価


榎木は、この公開質問状やこれに添えた文章のような文書を作れる人でないので、原告が援助したものと考えられる(原告以外に援助する人は考えられない)


 これが、いやしくも裁判所に提出する公文書であろうか。
 苦しみ、憤る重症被害者の親を、いきなり見下して侮辱する…。もはや被害者団体とは言えない差別主義者である。このような書きっぷりは、本来、加害企業に特有の傲慢な特権的支配者意識から生れるものである。

 また、「原告以外に援助する人は考えられない」など、これだけ勝手な推論を裁判文書で書きなぐる神経も理解し難い。
 同時に、被告の主張が根拠の無い決め付け=嘘の羅列に過ぎないことを、被告自ら認めているだけである。
 内部での誹謗攻撃文書をそのまま外部世界へ持ち出したかのような奇異な文書である。


※被告は、榎木氏を一方的に無知な人間と決め付け、同氏が、能瀬氏の操り人形となって批判・抗議行動をしたかのように物語を創作し、「あやつった側」の能瀬氏を機関紙で人身攻撃することは「正当だ」と展開し、それによって、榎木氏をその仲間として攻撃する。
 原告や榎木氏の批判は事実に基づいたものだから、そのまま内容で争うと恒久救済を放棄している事実が明るみになり勝ち目がないものだから、それはできない。
 そこで、中身の論争をさけるために考えだしたのが、榎木氏の知人である能瀬氏の存在である。守る会が能瀬氏がかつて創設に参加した市民運動と意見を異にした局面があった「数十年前の出来事」を、埃だらけのタンスの奥から引っ張り出してきて、一般市民に過ぎない原告をまるで、被害者団体にとっての「終生の敵」であるかのようにおどろおどろしく描き出し、それと接触したものは、「何を主張していようが、聞く耳不要、罰を受けて当然」という形に無理矢理もっていく。
 そして、どちらが「吹き込んだのか、吹き込まれたのか」といった、無意味かつ下世話な詮索に関心を誘導し、お互いを疑心暗鬼にさせ、会員をして、「指導部から監視されている」という空気で支配する。その主目的は、自らの闇から被害者の目をそらせる「めくらまし」にすぎない。
 「加害企業との協調体制」を声高に叫びながら、権力者の常套手段を活用して被害者を支配する「被害者団体」というものが、一般国民にまで攻撃を加え始めた昨今の事態は、まさに社会的悲劇であり、その背景を解明することは歴史的要請になりつつある。


そして、これらは、被告の全国本部事務所にファックスで送られてきたが、ファックスで送られてきた書面の上部欄外に印字されているとおり、原告のファックスによって送付されている。原告は、榎木の身近にあって、原告の考える運動を榎木が進めるように、指導育成援助している。


 こんな作文を裁判所へ出していいのだろうか?あまりのくだらなさに悲しくなる。

相談相手のファックスから書面を送ると、そのファックスの持ち主から煽動されたことになると?あきれて言葉が見つからない。日本はいつからゲシュタポ社会になったのだろうか。コンビニからファックスを送ったら、コンビニの店員が煽動者として攻撃されるらしい。おちおち自由にファックスも使えない監視社会だ。

 「指導育成援助」がなぜ問題になるか???この奇異な論理展開にこそ彼らの秘密主義的独裁体質がある。
 後にも登場するが、能瀬氏が榎木氏に「吹き込んだことが問題だ」という論理だ。この物言い…、ゲシュタポやKGBといったスパイ組織のフレーズだ。
 民主社会では人間同士がお互いに影響しあったからといって、「操られている」などと非難されることはない。笑止である。


 「被害者団体」が被害者家族を、「市民に指導されている、吹き込まれている」などと容赦なく攻撃すること自体が、驚くべき異常な弾圧者の行いであり姿である。
 この一言が、被告組織の異常な体質を端的に表している。
 むしろ、この法的に無意味な主張に、法廷で公然と拘泥し続けている被告は、「批判というものをなにがなんでも封殺したい」という願望をあからさまにしているだけである。
 同時に、構成員を情報過疎において支配を続けてきた被告の「閉鎖的支配管理者」の姿をもまた、あからさまにしている。


「榎木氏は自分では文章を書くのが苦手なので、原告に協力を求めてきた」と述べ、批判攻撃を吹き込む原告と、吹き込まれる榎木の関係を明確に示している。


「吹き込む原告と、吹き込まれる被害者家族」???
 いよいよどこかの国のスパイ機関の報告書の登場である。
 こういう異常な思考構造が常態化していることが、この20年にわたる森永ヒ素ミルク中毒事件の救済事業に潜む闇の深さを物語っている。

 …前述の調子が飽きもせず続く。「嘘も100回言えば本当になる」というプロパガンダを見ているのだろうか?

 公害被害者の親が困っているので、頼まれて文章のアドバイスをしたら、煽動だという。こんな超主観主義の作文をいつまで続けるつもりだろうか?

【被告の主張はこういう理屈となる】
 運悪く、毒ミルクを飲まされて被害者とその親になったら、一般市民とお茶を飲みに行っても、そこで、被害児であるわが子の将来への不安を訴えたり、被害者団体のあり方への疑問を口にすることはご法度となる。それは、「組織外部に被害者団体の機密を漏らした」重大な規律違反だからである、罰を受けるのが当然となる。
 さらに、被害者の親が、友人に救済のありかたについて相談をし、意を強くして改善の行動にでたら、被害者団体「指導部」はその被害者の親を「外部市民から煽動された罪」で処断できる。
 同時に、その友人も、被害者団体の全国機関紙で、名指し攻撃されても仕方がない。「当会の会員○○に余計な知恵を吹き込んだ、近所の○○は組織破壊分子だ。○○は若いころ、こんなこと、あんなことをしていた」などと徹底攻撃されても当然となる。
 さらに、一般国民は、被害者団体のあり方への批判をした時点で、名誉も人権も剥奪されて当然となる。「ものいう被害者家族」を励ましたという一点で、一市民は、被害者団体指導部から口汚くののしられるべき罪人にされても仕方が無いというのだ。
 だから、一般国民は被害者家族とみだりに話をすることも遠慮すべきなのだ。なぜなら、話相手の被害者家族が、いつ「ものいう被害者」になり、被害者団体の攻撃対象にされ、それと話をした国民が、いつ「吹き込み煽動罪」で弾圧をうけるか、わかったもんじゃないからだ。
公害被害者団体とは、それほど「怖〜い」存在なのだという印象をもたせたいのだろうか?

 と、まあ、被告の準備書面の主張から固有名詞を省いていくと、以上のような、どえらい論理構造が現れる。どこの世界の話だろうか。スターリン主義かナチズムか、暗黒社会だ。この民主社会で、よくもまあ、こんな論理を平然と展開できるものだ。戦前の「鬼畜米英と話をするな、敵性語を話すな」と全く同じである。

 
これは結果的に、「被害者団体への礼賛は許すが、その闇に首を突っ込むと逆に徹底的にひどい目にあわせるぞ」、という日本国民全体への投網をかけるような脅しになっているという意味で、許し難い論理である。
 こんなことが許されれば、被害者団体を一端私物化した勢力は、密室下で好き放題の運営が可能となる、という恐るべき前例をつくることになる。

組織内部で、被害者家族を黙らせるために常態化している異常なモノ言いの習慣が、うっかり外部の裁判所提出文書まで「はみ出してしまった」稀有な事例だ。


榎木の上記京都府本部ホームページへの投稿は、明らかに原告の著述の一部を引用している。このように、榎木は、考え方はもとより、用いる字句までも、原告にしたがうにいたっている。


 また、飽きもせずに言う。今度は新手の「言葉狩り」だ。
 用いる字句が誰かの使った言葉と同じ場合、「その誰かから煽動された」とお叱りを受けるのなら、およそ国民が、あるものへの批判を行う場合は、まず最初に、日本人をやめなくてはいけないことになる。外国語で批判すれば問題がないのだろうか?

一般市民が「戦争反対」とネットに書き込みをしたら「“戦争反対”は過激派も使っている言葉だから、おまえは、用いる字句まで過激派に従うにいたっている」と攻撃されてもしかたがないと言っているのだろう。 

 
戦前の特高警察の再来である。


原告は、榎木に対し、ひかり協会の救済が恒久対策案に書かれている公務員給与相当額という項目を守っていないからだと、重症被害者への給付が少ないという榎木の不満の理論的根拠を教え、さらに、榎木が論客として自分の主張を述べることができるように、岡山県内企業の平均賃金とか、障害年金、生活手当の額などの論拠について学習させ、1割しか実施していないという誤った認識をもたせるようにしむけ、さらに、現在のひかり協会、守る会が恒久対策案を空洞化させていると、榎木に闘いの旗印を教え、そして、加害企業と妥協しているひかり協会や守る会幹部が悪いのだと、闘いの相手方についての指導をしている。
まさに系統的である。


 自分たちの闇を自ら声高に言っているだけではないか? 原告の主張をご丁寧に引用までして、ご苦労様であるが、肝心の内容について、弁解すらしてない。これでは、「組織実態を暴露しやがって!腹立つ」と遠吠えしているだけだ。

「まさに系統的である」?…何を勘違いして、こんな締めくくりをしているのか。
 そのとおり。まさに系統的なのである。その点だけは理解しているようである。系統的になるほど、問題が全面に亘っており、その病根が深いということだ。

批判に答える姿勢のある誠実な組織なら、思いつきで批判されるより、系統的に批判されるほうを歓迎するはずだ。
 「系統的に批判されること」に、これほど逆上する理由で考えられることは、ただ、一つ。批判に対して反論できないからだ。批判者をその場限りの思いつきの物言いで煙に巻いてねじ伏せてきたことが、今後できなくなるからであろう。
 弱い立場にある重症者へは暴言や脅しで屈服させ(差別暴言記録)、もの言う批判者に対しては「みんな感謝(※1)している。あなただけが文句を言うから、みんな迷惑している」といった子供だましの言説で黙らせてきた従来の手口は確かに通用しなくなる。
 (※1 「みんな感謝している」、としつこく言うが、みんながいったい「誰に」感謝しているかは明確に言わないという。その「誰」に、「森永乳業」「国」「守る会」「ひかり協会」「専従職員」「目の前の俺」などからどれを当てはめるかは、どうも被害者の自由な「誤解」に任されているらしい。)


榎木は、守る会運動やひかり協会の行動にかかわらず、そのため、守る会の運動方針やひかり協会の救済事業について理解や知識がなかった人である。守る会の方針やひかり協会の救済事業について、広く議論がなされ、積み上げられていくことに関心のなかった人である。


 おどろきもののき、大嘘もここまでになると、嘘つきに恥もためらいも一切感じない体質になっているのであろう。

 榎木氏は、かつて、守る会岡山県本部の支部長として誠実に活動をしていた人物である。 自組織の会員に嘘のプロパガンダを続けてきた長年の癖がでてしまったのだろうか? 
 榎木氏が支部の代表として「こどもを守る会」岡山県支部の会議に参加していたことは、被害者の一部も知っている公知の事実である。 親の苦労はすっかり忘れてしまったということであろうか?

彼は、元事務局長H氏(被害者)の不誠実かつ不可解な言動に関して、様々な詳細にわたる事実を述べている。今後詳しく明らかにしていきたい。被告の勝手気ままな嘘とは正反対の事実が今後、沢山出てくるだろう。

この文章は、人格毀損の人身攻撃が組織内で常態化していることを明確に窺わせる。自らを棚に上げて、「知識や理解がない」などと被害者家族を一方的に小馬鹿にするような書きっぷりは、先の差別暴言の証拠文書の底流にある精神とも見事に合致している。
 「被害者団体」を自称しつつ、強烈な独裁支配を構築してきた過程で、会員への差別・蔑視感情が指導部全体に蔓延しているのではないかと思われても不思議ではない。


原告は、上記ホームページに多く投稿をして、榎木をひきつけ、榎木の、活動の応援をしている。


 どうも…一般市民がインターネットにうっかり被害者支援の書き込みをすると、「被害者家族の願いを体系化し、知恵を授け、より充実した救済措置ができるように支援することで、すなわち被害者団体を破壊する」と解釈され徹底攻撃されるらしい。恐ろしい時代だ…。

 被告が機関紙などで主張するところの「われこそは被害者の利益を代表する唯一の団体なり! それに異議を唱えるものは被害者に敵対するものなり! 容赦なく徹底的に攻撃するものなり!」というロジックは、実は、足元の会員をターゲットにした、体のいい恐怖支配のマインドコントロールである。
 被害者会員は、指導部から「お前達の利益を守るためと称する他人への見せしめ懲罰攻撃」を定期的に見せ付けられることにより、被告組織指導部そのものへの恐怖のイメージが刷り込まれる。これは、一般会員からの異議申し立てを抑え、思考を停止させる絶大なる効果を発揮する。

 「ふきこみ、吹き込まれる」などという一般国民には無意味な、くだらない物言いを裁判所の公文書においても絶対にやめようとしないのは、その物言いが、「被害者団体」を外部世界とは切り離された、外部社会とは異なる「閉じた社会」として設定し、印象付けるためのキーワードとして活用できるからである。
 被告の、開かれた言論の封殺と情報公開の否定という独裁手法は、その「閉ざされた社会」という前提概念が、構成会員の深層心理に共有されてこそ、かろうじて効果を発揮する。これは全ての独裁組織、、独裁党派、独裁国家体制に共通するところの、イデオロギーとマインドの両面に亘る誘導手法である。

ジョージ・オーウェルの「1984」を想起してしまう。


榎木は、娘榎木○子さんの父親で、かつて守る会の会員であった。○子さんは、重症の被害者で、入退院を繰り返しておられ、一進一退で病状の改善がみられないので、榎木は心を痛めていた。

榎木は、重症の被害者への給付が少ないという不満を持っていた。


 
異様な文章である。
 どこが異様か?敬称の使い方が変なのである。

 子供には敬称をつけて慇懃無礼にしておき、その親は呼び捨てにして攻撃する。
 よほど子供の将来を案じて改善要求をする親が邪魔臭く、憎いのであろう。それとも重症者の子供は何も言えないから「よしよし」なのか? 子供がもの言えない状態とみるや慇懃無礼に対応し、その親は容赦なく攻撃する。このような、いやらしい作為には言葉が見当たらない。
 裁判の原告は能瀬氏にもかかわらず、被告の憎悪は、裁判とは直接に無関係な榎木氏のほうに向いている。

 さらに準備書面を注意深く読むと、かつて被告を批判し、救済申し立てなどの行動に出た他の親で、今は高齢化や体調など何らかの事情で発言が出来なくなっている親に関しては、攻撃の対象としながらも洩れなく敬称をつけ、細かく「敬称の使い分け」をしている。
 どうも呼び捨てにする基準は、「批判をやめない」親ということのようだ。もの言えない被害者は、批判の恐れが全くないので、敬語をつけてもかまわん、そのほうが体裁もいい、という判断なのか。
 ちなみに、世間には、悲しいことに、「子供のために良かれと思って苦言を呈する親を逆恨みし、永遠なる沈黙を密かに期待する」という超親不孝者が稀にいる。

 しかしいずれにしても、裁判所相手にこのような使い分けをしても無意味である。
 この文書が、裁判での評決云々よりも、会員への「見せしめ回覧目的」で制作されていると推察される理由もここにある。被告のいう、すばらしい「個別対応の原則」の真髄は、どうもこのあたりにありそうだ。

 こんなことに神経を使う余裕があるのなら、救済事業の正常化のためにエネルギーを使うべきだと思うのだが。
 自己主張のためには、被害者の親子関係を「公式文書表現」中で引き裂くこともためらわない。その感覚こそが恐ろしい。


原告らの、ひかり協会や守る会に対する批判攻撃の方法は、常識的な内部での議論とか、協議によるのではなく、加害企業森永と手を組んでいる(いわば裏切り者)に対する追及として、人権擁護委員会、岡山県公害調停に申立てるとか、国会での追及を企てるなど、原告の行動によって守る会が混乱することは、かまわなかった。むしろ、ひかり協会の救済によって、榎木ら会員が犠牲になっているという前提をもっているから、目的実現のために、会員を苦しめている協会や守る会の混乱を狙っていたのである。


 被告らと言っているので、これは原告に加え榎木氏を含んでいるのだろう。

「常識的な内部での議論とか協議」を徹底的に封殺しておいて、よくここまで臆面もなく、すらすらと嘘が言えるものである。おまけに自らを裏切り者と括弧づけして言うに至っては世話がない。

 さらに、根本的問題は、人権救済申し立て制度など法的制度を利用したら、イコール組織の破壊であり、人身攻撃されても仕方ないという異様な論理を展開するに至っていることだ。
 問題は「被害者団体」の活動内容に正当性や真実性があるかどうかだ。自らを、被害者団体ではなく、党派組織か何かと勘違いをしているようだ。こんな理屈が通用すれば、社会には、裁判所も弁護士も必要がなくなる。

「批判を封殺したことに異議を唱え、公的機関へ訴えを起こせば、被告を混乱させることであり、嫌な思いをした被告が、報復として原告をいかに徹底的に人身攻撃しても合法だ」…被告の準備書面は全編にわたってこんな意味不明の無茶苦茶な論理で埋め尽くされている。もはや「真実」や「法理」とは無縁の作文。

ここまで来ると、むしろ被告は評決の結果などは眼中になく、“異論・批判を外へ出すと、ここまでとっちめて攻撃するぞ”という見せしめに使おうとしているとしかいいようがない。

 かつて、被告は、政府系外郭団体である社会技術研究センターの研究員が森永事件について公式発表した学術論文の内容が気に食わないと、所長あてに仰々しい抗議文を送りつけた。ところが、所長から「それでは公開討論をしましょう」と逆提案されるやいなや、以降、一切、音沙汰をやめてしまった。
 この恥ずべき事実一つだけ見ても、被告組織に巨大な闇が存在することを被告自身が証明しているようなものである。恥ずかしくて、被害者家族への攻撃などできないはずだが。
 被告の常識の中には「自由な公開討論」や「透明性の原則」という世間の良識だけは無いのだろう。
 最後に「目的実現のために混乱を狙っている」と書くが、なんで被告組織が混乱すれば目的が実現できるのか、逆にお聞きしたいところである。能瀬レポートを読めば、詳細な分析の労力を投入しているだけでも被告組織を是正しようと問題提起をしていることは普通の市民には明らかである。ここでも、「もの言う被害者家族」への被告の「憎しみ」のみが全面開花している。


榎木のホームページで、「私共は事前に大会会館と兵庫県警の許可を得て抗議行動をしましたが、後日守る会は機関紙に無事終了したと『ウソ』の発表をしました。」と書いている。榎木らは、自分たちの抗議行動によって守る会総会は無事ではなかったと主張しているのであるから、この「抗議行動」は総会の妨害の意図をもっていたものである。


 意味不明。こんな作文を本当に裁判所に出すか?という類。

 あえて砕いて言えば、被害者団体機関紙である「ひかり」が少しでも正確な事実を書く姿勢があるなら、総会で被害者の家族による「抗議行動があった」とありのままの事実を書くべきだろう。榎木氏は、それさえなかったことを問題にしているのであり、その事が、彼らには理解できないとみえる。
 もの言う被害者家族に対する、被害者団体指導部の歪んだ「憎しみ」が溢れた異様な文面である。被害者家族がここまで表立った行動をせざるを得ない背景にある厳しい理不尽な現状を、なんとか理解し、それを改善しようという人道的姿勢が微塵も感じられない。


妨害行動の内容は、事前に警察の許可を得るなどした上、「非民主的で守る会、被害者を守らぬ会が光らぬ会と一体で加害企業を守る実態を暴くホームページ開設! !」という、守る会とひかり協会を揶揄し、攻撃する、大きな横断幕(幅約1メートル、長さ約5メートル)を、会場前に道路側に向けて張り、恒久対策の完全実施を求める全国有志というグループ名を書いた名刺を総会参加者に配布しながら、会場に来た会員に対して、恒久対策の完全実施を求める全国有志の活動に参加するように勧誘し、守る会の活動を非難した。

 守る会の役員などが、中止を要請したが、一切きかなかった。

 7)これは明らかに、総会と守る会活動に対する妨害行動である。

 「抗議行動」という字句は、上記のとおり、榎木が、自分たちの妨害行動について、ホームページで用いた言葉である。


 抗議行動をえらく詳細に解説されているが、被害者家族の怒りの大きさが逆に良く分かる。(だから前述のように、機関紙には掲載しなかったのでしょうが)
 一般的には、批判行為を「妨害」だと強弁し、批判者を人身攻撃するのは、民主集中制組織の大きな特徴だが、国法のレベルでは意味不明の論理である。

●妨害というのは、「権利者の行為や受益を妨げること(広辞苑)」である。相手を批判したからといって、「妨害」になるわけではない。

 妨害とは、物理的にバリケードを張って一般参加者の入場を阻止するような事例である。

ビラをまいて、横断幕を張ったから「妨害」だと敢えて言う者は、批判が開始された時点で、批判者の権利を否定する、という独裁主義を自ら主張しているだけである。
 合法的抗議に対して、中止しろといわれて、中止するのなら、はじめから横断幕なんて張らないでしょう。被告は何様のつもりなんでしょうか?主張自体がヘンである。

以上、これが、「批判」イコール「妨害」だとこじつける者たちに特有の、ゆがんだ思考方法である。相当腐敗した国家機構でさえ、己への批判行為をここまでおおっぴら且つ偏執的に攻撃する意欲は少ないだろう。
 自立支援法反対で官庁街に抗議に来た団体を、政府が名指しで徹底攻撃する姿というものはあまり見かけたことがないのだが…。


そのことへの不満や対抗意識が強かったであろう、榎木は、当日、家族らと数名で突然妨害行動にやってきた。原告も、ひかり協会や守る会を相手に不満を持ち攻撃している榎木を応援するために(他にここにくる目的は考えられない)やってきた。この間守る会の総会には全くきてない原告が、わざわざ神戸市にまでやってきたのは、原告にしたがって守る会を混乱させてきたため、第35回全国総会では傍聴者となることも認められないように、守る会内で窮地に立たされた榎木に対して、原告は、強い応援をしなければならないという意図をもって、当然やってきたはずである。


 「家族らと数名で突然妨害行動にやってきた」…なんという言い草であろう。人としての良心を疑う。

 家族と一緒になってやってくるほど、守る会の榎木氏に対する決定は理不尽であったのだ。
 被告組織の規約にもないところの、「“守る会総会”への出席も傍聴も発言もゆるさない」という被告自身の行った暴挙に目をむけようともしないことのほうがおそろしい。

 抗議として横断幕をはることは、表現の自由であり、それを「妨害」といいかえることこそ、すりかえである。守る会は憲法で保障された「表現の自由」を認めない団体のようである。


このように、被告とひかり協会は、逃げまくったことは一切なく、弁護士会の定める日程に従って、弁護士会の調査に協力している。


 能瀬氏は榎木氏のHPの「掲示板」でも度々ひかり協会への質問をしている。また別の著作でも問掛けをしているのに、それらに全く回答をしないのだから、すべてのことに「逃げている」のではないか。


また、山本申立人の人権擁護委員会への申立は、事実に反し、正しくなかったから、不採用となった。


 事実を歪曲している。不採用になったことはない。実際には採用され、2年以上調査が実施され、1、生活手当ての金額については国民的合意に達する金額ではないので調査を継続する。2、そのほかについては調査を実行しない、との第1回目の決定通知書が発行されている。

 広島の人権擁護委員会委員長は「ひかり協会」の顧問弁護士がなっているのだから、そのことをどうみるかで解釈も変わるだろう。


ひかり協会は、設立以来、被害の多様性から個々の被害者のニードに基づいた個別の対応を基本として、救済事業を行っている。救済は、被害者の声に応じている。また、そのために相談事業を最も重視している。


 能瀬レポートで解明済みであるにもかかわらず、未だにこんな主張を展開している。これが「肝心の中身についての反論をせず」「逃げている」と言われる姿である。

「設立以来…」云々と、綺麗な歴史でやってきたかのように偽装しても、真実は消せない。歴史を歪曲するものは歴史的責任を永久に負うだけである。


救済は、被害者の声に応じている。また、そのために相談事業を最も重視している。そして、教育、労働、福祉、法律、保健医療等様々な分野の専門家の協力を得て、個別対応を基本とした事業を展開している。決して金銭給付のみという事業ではない。金銭給付にしても、検診費・医療費・生活手当・調整手当・後見人介護費をはじめ、多様な必要性に応じて、厳格な基準に基づき支給しており、原告の記述は事実ではない。


 麗々しく書いているが、よく読むと、結局、原告が指摘しているとおり、「ほとんど金銭給付ぐらいしかしていない」ことを自ら表明しているにすぎない。

 原告のレポートを正確に読めば「一割実施」と指摘しているのである。それは、当初の救済事業項目の1割程度しか実施しないことで、専従職員の恵まれた給与を確保し、残りを被害者へ配分し、専従者が自己の私的利益と加害企業の負担軽減に貢献している、と批判しているのである。この単純な批判にさえ、何も答えていない。まるで、仕事をサボってお叱りを受けている社員が、あわてふためいて、「そんなことはない、あれもしている、これもしている」と弁解し、「肝心なことをしていない事実」を隠そうとしている姿とそっくり。


榎木は、守る会運動やひかり協会の行動にも参加せず、守る会の運動方針や救済事業に対する関心もなく、発言もなかった人である。それが、平成14年から後、原告に会って原告の影響下に入ると、次のとおり、榎木は、次々と、まったく新しく身につけた知識や考えにもとづいて発言をし、強い行動に出るようになった。


 被害者の親で救済事業に無関心な人がいるだろうか。親が主体であった頃の「守る会」の会議に出席したこともない現執行部が、“発言もなかった”とは、「見てきたようなウソをいい」がぴったりする。「親の心、子知らず」もいいところだ。そういう親不孝者は、自らを恥じ、反省すべきである。
 だいたい、洋服でもあるまいし、そんなに簡単に「考え」が身につくはずはないだろう。もともと疑問に思っていたことでも、ねつ造と歪曲の得意の手法にかかると、ここまで見事な表現で攻撃されるという見本である。


そのことへの不満や対抗意識が強かったであろう、榎木は、当日、家族らと数名で突然妨害行動にやってきた。原告も、ひかり協会や守る会を相手に不満を持ち攻撃している榎木を応援するために(他にここにくる目的は考えられない)やってきた。この間守る会の総会には全くきてない原告が、わざわざ神戸市にまでやってきたのは、原告にしたがって守る会を混乱させてきたため、第35回全国総会では傍聴者となることも認められないように、守る会内で窮地に立たされた榎木に対して、原告は、強い応援をしなければならないという意図をもって、当然やってきたはずである。


 
妄想による「でっちあげ」もここまでくれば見事というほかない。
 すでのこの調子にのった放言が嘘の固まりであることは、証人尋問で、明白となった。


榎木の不信不満は、自分が正しいしいう理論的根拠を身につけるにつれて増幅した。また、それが誤っているために実現しないので、そして、ついてくる人も拡大しないために、不信不満は、増幅された。

榎木は、原告の思想を受けついでいるが、内容がこのように先鋭化してきている。原告の考え方が、被害者救済運動の中では特異で孤立しているため、それが実現していく見通しがまったくない。そこで、榎木は、批判は体系的に発展強化されるが、不満不安はますます増幅させられた。


 実現しないのは誤っているからだ、という論理を展開する被害者団体には信じがたいものがある。

かつて、加害企業による圧殺の14年間、被害者の願いは数家族の孤軍奮闘に支えられても、決して拡大せず、実現しなかった。それは結果的に14年であったが、30年か、ひょっとすると40年になったかもしれない。被害者の訴えのほうが間違っていたというのだろうか。
いつから「被害者団体」は加害企業の論理を、被害者家族へ容赦なく撃ち込むようになったのか?


過去に守る会運動に深く関わっていなかった榎木の詳しく知ることではなく、「森永告発」に属し岡崎氏とも深い関係のあった原告から教えこまれて共感したものである。


 「深く関わっていなかった」かどうかを誰が判断するのだろう。自分たちにとって都合の悪いことは「詳しくしることではない」といって排除する思想がよく現れている。


これは、かなり深く原告に影響されての行動である。ホームページ掲示板に最初に書き込んだ人物が原告であった。しかも、開設間なしであるのに、お互いに通じあっているとみられる。


 「通じ合っている」???
 これが、いやしくも民主社会の裁判所に出す公文書であろうか?
 まるでナチスの秘密警察・ゲシュタポの監視報告だ。
  「あいつとこいつは通じ合っている」と鵜の目鷹の目で監視される被害者側もたまったものではない。これでは、弾圧者を自称してるも同然のように見えるが。

 


問題の焦点は、ひ素ミルク中毒被害者の救済である。普通であれば、被害者を助けようという暖かい人間性からの視点から、6,000名の被害者の実態などに真摯な態度での関心が向けられ、調査が進められねばならないはずであるのに、原告の関心は、被害者への救済とか援助とかに目がまったく向けられていない。


 
意味不明
 暖かい心は、本来、被告がもつべき心ではないか。。
 そもそも、被告の準備書面からして、被害者家族への侮蔑的放言に彩られ、被害者家族への「暖かい心」など微塵も感じられないのだが…?

 救済が当初の合意の1割以下と批判されれば、「1割でない事実を示さずに」「嘘」だと猛烈に攻撃し、内部では「いまや恒久救済なんていう時代ではないよ」と言い合い、ならば「金の分配しかしない専従者集団は要らないのではないか」というと、今度は「金の分配だけではない」と言い張り、結局、「1割実施」しかせず、重症者への「冷遇」を長期かつ強固に維持する、恵まれた待遇の専従者集団の存在を裏付けているだけである。
 被告の主張をいくら見ても、被害者に真摯な救済をしていないことだけが明確になるだけである。その帰結として裁判や人権救済申し立てが発生する。
 重症者の親の憤りを長期に亘って無視し、封殺し、いよいよ我慢できずに明るみに出てきた途端に、見境のない組織的弾圧を加えてきたのは、暖かい心があるからだろうか…。

 能瀬レポートや、人権救済申し立て書では、まさに苦しみ抜く重症被害者家族のリアルな現実が詳細に報告されている。被告の言う「問題の焦点」を徹底的に検証しているのは原告である能瀬氏のほうに他ならない。
 この問題提起を頭から無視し、また他の被害者家族に「その声に耳を貸さないように」、などと呼びかける「被害者団体指導部」のほうこそ、驚くべきモラルハザードである。

 ちなみに、ひかり協会職員による被害者本人への差別暴言は、よほど「暖かい人間性」から生れた発言なのだろう。「頭かちわったろうか」「アイキューなんぼな」…鬼畜な発言が、被告の言う「暖かい心」なのだろう…。


原告はこの500名以上いる「救済事業協力員」の誰からも聞き取りはしていないはずである。


意味不明

これで個人攻撃が正当化されるのなら、日本にジャーナリストなど一人も要らなくなる。ここまで麗々しく書いたのであるから、裁判所に誓って、かならず名簿が近日中に送られてくるものと確信する。


不満を持っている数名の被害者から聞き取りをしただけである。


意味不明

これで個人攻撃が正当化されるのなら、日本にジャーナリストなど一人も要らなくなる。


原告は、被告の森永告発に対する態度を無視し、


意味不明

 訴えられている被告が、原告に向かって、「我々の原告への態度を無視した」…??? こんな、ちんぷんかんぷんな文書を裁判所に出してはいけない。


原告は森永告発から脱退すべきであった


意味不明

 森永告発の運動が無ければ、不買運動も成功していないし、恒久救済対策もその一部さえ実現はおぼつかなかった。
 被害者を支援して多大な歴史的貢献をしたところの、被害者にとっても大先輩にあたる市民が、そのボランティアから脱退すべきだったなどと、何十年もたって被害者が「説教」してはばからない恐るべき現状でもある。
 「被害者団体」にひれ伏さねば、人にあらず?笑止だ。
 お世話になった先人の労苦を平然とこき下ろせる今の「被害者団体指導部」らしい物言いである。政策や救済への考え方の相違という高尚な次元の問題というより、先人への感謝の気持ちの欠如、歴史への冒涜と、人としてのあり方を説く親を疎ましく思う、単なる親不孝者にみえるのだが。

 それに、そもそも「森永告発」は規約も無いゆるゆるの市民ネットワーク。規約がないから、いわゆる統制組織とは言えない。メンバーは思想信条も百人百様、そのメンバー自体もいつも流動的に入れ替わっており、森永告発という自由市民運動に「脱退」という思想を当てはめること自体が無意味なことを被告は理解できないようだ。市民運動は党派ではないことも理解出来ないのであろう。自分達を中心に世界を解釈すると、こんな発言を平気でおこなってしまうという事例だ。


原告の活動を知るものはほとんどいない


これが本当なら、機関紙で必死になって攻撃する必要もなかろうに。


給付に金が回っていないと公害調停をはたらきかけ


 公務員が通報市民の個人情報を、守秘義務に反して、原因者へ通報しているのなら、今後、重大な係争事案となりうる。


■被告側第4回目の準備書面の問題点

平成21年12月4日提出
被告第4回目の準備書面
事実及び評価

冒頭-----

原告の主張する、被害者救済に関する基本的な考え方は、今、現に実施されている被害者救済とは、その基本原理からして、根本的に相違している。原告は、救済はかくあるべきだという原告が独自に持つ空想的な被害者救済の理念に固執して、そこから現実に実行されている財団法人ひかり協会(以下単にひかり協会という)の被害者救済を批判するので、原告の批判は的はずれであるし、まったくかみ合わない。また現にある救済事業に対して、空想論からの批判がなされるため、誤解が生じ、混乱が起こるから、本件の「ひかり」を発行するなど、被告は対応を必要としている。


対応するのは自由だが、事実に基づいて対応しないと、名誉毀損になる場合がある。

「集団(連帯)責任主義」を活用する被害者団体?
 被告の準備書面の主張の中から、争点とは関係のない事象と固有名詞を省いていくと、以上のような異様な論理構造が現れる。スターリン主義かナチズムか、軍国主義か? 
 弾圧したい当事者(ターゲット)よりも、それを助けた人間を集中攻撃する…それを見せしめにし、支援者をターゲットから遠ざけて葬り去り、ターゲットを孤立させたあとに、いかようにも料理する…。これは、ナチズムがユダヤ人迫害時に徹底活用した「集団(連帯)責任主義」悪用の典型事例である。しかし、物言う被害者を敵視したとたんに、国民全体を敵視することになる事には、どうも気がついていないようだ。
 
 このような行為が、批判もされず、代理人によってしつこく弁護されるのもまた、温暖な民主主義のよいところなのだろうが、しかし許されるはずもない。罰則に強弱はあっても、単純な違法行為の核心部分をシロにしてしまうと、判決自体が民法を書き換える違法行為となる。従来の劇場政治で「弱いものの味方」を気取ってきた向きが、いったん組織権益を手中に収めると、戦前の「鬼畜米英と話をするな、敵性語を話すな」といった論理構造を、民主社会の裁判所で、平然と展開してためらいを見せないことに、ただ、ただ驚くほかはない。

被害者団体は日本社会の一部ではない?
 これは結果的に、「被害者団体への礼賛は許すが、その闇に首を突っ込むと逆に徹底的にひどい目にあわせるぞ」、という日本国民全体への投網をかけるような脅しになっているという意味で、許し難い論理である。
 こんなことがもし仮に許されれば、被害者団体をいったん私物化した勢力は、判例と公益法人、そして被害者の看板という三重の密室下で、非常識な運営が可能となる、という恐るべき前例をつくることになる。民主制の大幅な後退であり、民主主義の強化が求められる大震災以降の日本社会に、真逆の判例が登場することになる。

全国民の税金で生活をしている厚労省はどういう見解?
 組織内部で、被害者家族を黙らせるために常態化している異常な論理展開の習慣が、うっかり裁判所への提出文書まで「はみ出してしまった」稀有な事例だ。
さて、裁判所は、日本社会は、そして、厚生労働省はこの異常な部分社会が日本社会へおこなっている民主主義への挑戦的な侵犯行為に対してどう判断をするつもりだろうか? 憲法の精神にのっとって、後世へ語り継がれる、よき判例と範を示してもらいたいものだ。

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森永ヒ素ミルク中毒事件の概要は、以下の文献、及び当サイトの学術論文アーカイブからも、ご覧頂けます。


↓現在の問題点にまで踏み込んだ能瀬英太郎氏のレポート




↓能瀬レポート 英語版  (Nose Report)The Morinaga Milk Arsenic Poisoning Incident  50 Years On   by Eitaro NOSE



表向き「公正中立」を偽装して登場した「第三者委員会」が、被害者を無視して
勝手に作った不正な「診断基準」。その文中に使われた「原病」という表現に
ついての解説つき。↓
能瀬レポート日英対訳版 
まだ解決を見ない日本の戦後初の産業公害 
PDF:136KB 
(著作権Free: 英語教育の教材等ご自由にコピーしてお使い下さい。)

(日本における第三者委員会方式は森永事件以降、常用され、水俣病でも被害の隠蔽に活用されるようになる
という要注意なもの。)

↓救済システムでの問題発生を学術的視点からすでに予期している秀逸な論文。





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