玉砕戦とシベリア抑留から生還。
ヒ素ミルク中毒被害児の親としての戦後出発。
岡崎哲夫は、学徒動員による旧関東軍第15国境守備隊でのソ「満」国境・虎頭要塞の全滅戦、ソ連・シベリアでの抑留生活を経て奇跡的に生還し、郷里・岡山に帰った。
ところが、その直後、昭和30年に発生した「森永ヒ素ミルク中毒事件」で長女・ゆり子(2000年7月没・享年45歳)が被災した。それを契機に、「森永砒素ミルク中毒の子供を守る会」全国本部事務局長(※1 下記参照)として被害児救済運動の先頭に立つことになる。
また、それと並行して、岡山市社会福祉協議会の幹部として戦後黎明期における社会福祉事業の発展に尽くした。
森永ヒ素ミルク中毒事件において特筆されるべき岡崎の業績は、彼が公害被害者救済政策としては世界初の画期的内容をもつ「恒久救済対策案」を創案し、実現に導いたことにある。
彼は、131人の罪のない赤ちゃんの命を奪い、1万2000人以上の乳児を傷つけた人類史上最悪の食品中毒事件の重大性を誰よりもよく理解していた。彼は被害児救済の灯を燈し続け、恒久救済の理想の実現まで、どんなに困難な時も「金ではなく、子どもの身体を元に戻せ」との理念を高く掲げ続けた。
恒久救済対策案
「金はいらない、子どもの体を元に戻せ」---。
この理念は、被害者が社会的に省みられることのなかった事件発生後の十数年間のなかで、岡崎ら少数の親たちの辛苦の闘いの中で打ち固められた、子どもの親としての純粋な理念、揺るぎない感情を体現したスローガンであった。岡崎が提唱した恒久救済対策案の根幹を貫く哲学である。
いわゆる「被害者抹殺の十数年」---。
この間、彼を中心にした岡山周辺の被害者の親、数家族のみが運動の灯火を守り続けた。
文字通り「森永乳業による筆舌に尽くし難い被害者への弾圧、孤立無援の孤独な闘い」を長年月にわたって強いられたのである。
しかし、この苦闘の十数年のなかで鍛えらた前述の精神性こそが、「14年目の訪問」と前人未踏の「恒久救済対策」への着手を導いたことは、言うまでもない。
「岡崎はその後20年にわたり企業、行政、学会、世論の厚い壁を前に苦闘するが、運動のねばり強い舵とり役としての岡崎を支えたものに、前半生の過酷な人生体験とそこから得た信念があるようだ。」(「現代人物事典」-岡崎哲夫-朝日新聞社刊より)
彼は公害被害者の置かれた現状に国の行く末を案じ、なによりも、制度として抜きん出た政策を実現することで、公害の絶滅を願い、守る会の救済運動が幸福を希求するすべての国民の取組みに寄与するものとして、不断の発展を続けることを願っていた。
(よもや、その後、これを担う当事者団体が、救済団体の設立直後、潤沢な資金を受け取りはじめるとともに、体質が変質するなど、ましてや、運動を支えた唯一の当事者である親たちが「除名される」ことなど、誰が想像しただろうか?)
14年目の反撃
事件発生後、被害者圧殺が続いた14年目に、丸山博氏(元大阪大学名誉教授)が「14年目の訪問」をまとめたとの一報が入ってきた。良心的な学者が動き始めた。しかし、森永乳業の弾圧を覆すには、当該報告だけでは無理であった。それは丸山氏自身が明瞭に述べていることでもある。カギは守る会の闘いの姿勢と守る会のデータのほうに存在した。この意欲的な疫学調査である丸山報告は、唯一の被害者団体である守る会の蓄積したデータと合致するかどうかに加え、守る会が強い指導力を発揮し、非妥協の闘いを更に強化できるかどうかに、影響力発揮のチャンスがかかっていた。事務局長である岡崎は、運動が脚光を浴びると、それと同時に、金目当て、利権目当ての集団が一気に湧き出て、まとわりついてくることを、知り尽くしていた。守る会は戦列を注意深く整えた。そのうえで、勝負に出た。事件後14年たって、諸条件が整い、初めて一筋のひかりが差し込んできた。森永事件は再び世論の光を浴びることになった。しかしその後も森永側の策動と反撃が続いた。岡山県の親たちは、それを、まさに百姓一揆の姿で、一つ一つ打ち破っていった。その後の死闘の中で、全国民が、岡崎が創案した、親の純粋な気持ちであるところの、「金はいらない、子供の体をもとにもどせ」という「恒久救済対策案」の根本的な理念に共感し、子供たちを助けよ、と声をあげた。森永製品ボイコットの運動が、全国に波及し、森永乳業は倒産の危機に陥った。
岡山の数家族の親たちの14年にわたる孤軍奮闘がなければ、運動はぜんぜん再起していなかったのが実際の事情である。それは具体的資料で、森永ヒ素ミルク中毒事件資料館に膨大に収められている。ましてや、金の配分を主張するような精神が組織体に見え隠れしていたなら、即刻、国民から見放されていたことは言うまでもない。
逆の言い方をすれば、この「14年目の反撃」を支えたのは、次の理由による。つまり、「被害者の親」であるにも関わらず、親としてのモラルを喪失し、子供を金で置き換える風潮と、買収工作に屈し、屈するだけならまだしも、仲間を売り、心を売ってスパイと化し、運動を妨害し、森永に救済を要求する親を弾圧する側に回り、被害者家族の所有する資料を強奪しに個人宅に襲い掛かるような、金に目がくらんだ愚か者が、14年目の訪問までに整理整頓されていたことが前提にあった。もちろん陰謀を張り巡らし、親の間に楔を打ち込み、行政、医学界、マスコミまで取りこみ、産官学の強烈な包囲網を築き上げた、乳業独占の森永がそうさせたのである。(そのDNAは見事に変わったのだろうか?)
ただ、岡崎らが気がつかぬうちに、新たにすりよってきた、ある種のイデオロギーが静かに組織内への潜行を始めていたようである。これが現在の問題を招いている遠因でかもしれない。これに「親の心子知らず」といったよくある未熟さが拍車を掛けた。
救済団体設立以降、見事な仕掛けがセットされ、結果的に、14年間の試練を経なかった人々ばかりが権限を握った。
ほとんど全員に近い被害者やその親が14年間の苦闘を知らないのは、ある意味、仕方が無いことだ。
ただ、試練を経験していない人間は、試練を経験した人間の話に真摯に耳を傾け続けねばならない。
それが前提にあるべき最低限の義というものだ。
それが「救済機関」の設立とともに鮮やかに中止され、政治色の強い,弾圧が突然あらわれた。
豹変である。なぜか?賢明な国民には、説明は要らないだろう。まさに、押して知るべしである。
岡崎哲夫氏を弾圧、除名した一部勢力は、一人の人間であることを忘れ、歴史を忘れ、心を忘れ、甘いイデオロギーのささやきを自ら利用した。
だが、その状況は被害者が本当に望んだものとは思わない。1955年から14年間続いた「負の力」が、再来したのだと考えることもできるからだ。
いずれにしても、森永ヒ素ミルク中毒事件の救済運動の歴史は、この、暗黒の十数年を抜きにして決して語る事はできないといわれている。だが一般の国民の方々が、その生々しい歴史的体験を知る機会は極めて少ない。
当事件の救済機関の成立までの歴史に関しては、医事薬業新報社刊の「森永砒素ミルク中毒闘争20年史」が正史であるといえる。当該書は、事件発生直後からの歴史的経過を運動の中枢を担った人物たちによる血涙の手記を含め、最も体系的かつ多角的に伝えている。しかしこの書籍も今は絶版であり、ここに記載されている現「救済組織」から除名され攻撃されている人々が作り上げてきた肝心かなめの歴史の核心部分は、まったく継承されていない。
歴史の歪曲の悪しき前例がまたもや作られた。そして歴史の歪曲は、過去の過ちを繰り返すことに必然的に直結する。
遺族は、この現状に異議を唱える。だが、一般的に、被害者団体の現状の改革は、被害者自身が努力して行わなければならない。
そのためには、真実の歴史を一から振り返ることが必要不可欠であり、安っぽい党派的プロパガンダを真に受けているようではいけない。
森永ヒ素ミルク中毒事件の教訓を正しく後世に伝えるために、森永ヒ素ミルク中毒事件資料館は存在する。
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