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ノモンハン事件75周年 & 第二次世界大戦開戦75周年

2014 ノモンハン事件戦跡
日本モンゴル共同学術調査が成功

(第12回 国境軍事要塞群 国際共同学術調査団)
ノモンハン戦跡日蒙共同調査団 旧ソ連軍が構築したマタット基地を調査中























ノモンハン戦跡日蒙共同調査団 2014年調査
ノモンハン事件の主戦場(フイ高地、バルシャガル高地、バインツァガン)
及び旧ソ連軍、対日参戦時(1945.8.8)のモンゴル領内巨大後方陣地群を確定


NEW  The Asahi Shimbun 2014.8.28 -Social Affairs-
    Details of former Soviet positions in Mongolia unveiled
NEWS PDF 朝日新聞  2014.7.8朝刊 社会面(39面)記事掲載    
Link  
朝日新聞DIGITAL 「ソ連の対日進攻拠点明らかに  モンゴルに巨大陣地跡」
      
【2009年時調査 参考資料】
          2009年ノモンハン事件70周年日蒙中三国共同調査 --- 調査報告概要と報道記事 ---
             朝日新聞DIGITAL スライドショー番組「ノモンハン 70年後の戦場を訪ねて」
             ノモンハン事件調査(旧満州国 西部国境地帯 内モンゴル側)過去の報道

調査報告【概要】

はじめに
2014年5月28日から6月9日の13日間、虎頭要塞日本側研究センターとモンゴル研究者との間で、ノモンハン事件75周年を記念して、「ノモンハン戦跡日蒙共同調査団」が組織され、大規模なエリアの共同学術調査が行われた。
これは、5年前の2009年実施調査の延長線上にあるもので、2回目の現地調査となる。
ノモンハン事件がどういう性格のものであるかは、ここでは割愛するが、当センターは、2009年にモンゴル外務省で行われたノモンハン戦争シンポジウム(モンゴル内閣府主催)で、「ノモンハン事件は第二次世界大戦を1939年9月に惹起させる誘因の一つとなったとも言える大戦闘で、世界史的にみて極めて重要な位置をしめる戦争」との新たな視点を提供した。


調査手法
今回の調査では、人工衛星画像の事前精査による旧戦場遺構の図面化と、それをもとにして現地へ入り、短時間の間に、従来学術的に未発見であった軍事遺構を実証的に確定するという、当センターが開発した「宇宙軍事考古学」の手法を利用している。(詳しくは、『虎頭要塞』 『軍事考古学研究』 等をご参照)

このような手法に基づき、今回はあらかじめ調査テーマを三つに絞って臨んだ。

ノモンハン戦跡日蒙共同調査団
東部国境めざし砂漠のオフロードを走行中の調査団車両

調査テーマ
第一、同事件の主戦場である、@フイ高地、Aバルシャガル高地の北辺部にあるソ連軍縦深陣地と思われる遺構群、Bバインツァガン戦跡、の三箇所を現地調査し、軍事遺構の状態を記録し、衛星からの俯瞰観察とどこまで一致するかを検証すること等を念頭におきながら、遺構の一部を精密計測する。更に現地で詳細な観察をし、遺構の性格を推測できる物的証拠を収集する。

第二、同事件を契機にモンゴル領内に構築が始まったとみられる旧ソ連の対日参戦準備としての巨大兵站、@タムスク基地、Aマタット基地、Bサンベース基地の三基地すべてを確定する。

第三、同事件を現地調査しているモンゴル側の研究者、歴史研究者はもとより、戦争絵画制作者などの蓄積した記録を取材する。

非常に短い期間に上記のテーマをこなしたので、行程中には幾多の危険と不測の事態が連続したが、下記の通り、上記3項目をすべて達成でき、安全に帰国できたことで、調査は成功裏に終了したと考えている。


調査過程
第一テーマに関しては、2009年段階でフイ高地の南西部分に到達し、位置を確定していた。
しかし、センターが発見したフイ高地塹壕群(仮称)は、モンゴルの対中国・東部国境線ぎりぎりのエリアに存在している。
当然、進入にあたり、国境入境許可、モンゴル軍国境警備隊の特別許可を得てはいるが、2009年は未踏査地域の座標確定のため、絶えず車列が警備隊の区分エリアを複数またがって不規則に動かざるをえなかった。モンゴル防衛研究所の幹部も警備隊に適宜無線で許可を得ながら車列が動くという状況下での初めての作業であった。
そういう複雑な事情もあり、2009年での調査は必要最小限にとどめ、短時間で引き上げざるを得なかった。
2009年段階では、すでにフイ高地の主陣地ともいえる膨大な規模の塹壕線の座標を仮説として確定していたが、その内部に深く入って緻密な観察をすることまではできず、次回での精査が待たれていた。

ノモンハン戦跡日蒙共同調査団
フイ高地に複雑に掘られた塹壕線の屈曲部(画像処理済み)


今回は、国境警備隊関係者と現地研究者の手厚い連携協力を得ることができた。
2009年時とほぼ同じフイ高地塹壕群の南南西周縁部に到達してから、その中心部分にまで座標誘導をしながら比較的スムーズに進入できた。もちろん、増水した川をランドクルーザーで渡河しなくてはならない状況や、オフロードといえども地盤を選ぶため、曲がりくねった走行を余儀なくされるため、目標座標へ接近を試みるのはそれほど簡単ではない。ましてや塹壕や掩蔽壕が不意打ちのように大地に穴をあけているため、車両が陥没したら乗員も含めて深刻な事故となる。そういう技術的な部分の困難性はあるが、軍の複雑な規制をクリアできたことは、大変な前進であり画期的であった。共同調査の積み重ねが生んだ相互の信頼関係といえるだろう。

第ニテーマであるタムスク基地からマタット基地に関しては、東部国境の内陸部だが、国境からの帰還行程の中途半端な位置に存在し、(つまり戦場への最短距離をつなげるルート)宿舎のある街から遠く離れているため、各基地内に野営(キャンプ)連泊することとし、事前に計画を練り上げた。日程的には調査最優先の行程を組んだため、従来に比して移動より調査に比重をかけることができた。
一方、砂漠の野営のため当然ながら1週間近くシャワーなし。蒸し暑い日もあった。連日、脳炎ウイルス保菌の吸血ダニに団員の誰かが取り付かれるという点が悩みの種となった。マダニ脳炎は 、死亡率が20〜30%とも言われ、ダニが皮膚内にもぐりこんでいるところを誤って潰してしまい感染したと判断されたら、途中で救急搬送に切り替える必要が出てくる。また気象も炎天下から雨、竜巻、強風と一通りを経験し、快晴日は最高気温44度を越え、最低気温は5度以下となった。チョイバルサンまでの帰還行程は、飲料水、食料の補給ができないため、 物資を車両に満載したまま完全オフロード走行を繰り返すという、人にとっても車両にとっても過酷な行程となった。


調査結果
第一テーマ
フイ高地塹壕群の中心部分のいくつかの塹壕線と掩蔽壕等を精査することで、衛星図面の正確性を検証することができた。仮説が検証された段階だといえる。また同時に、比較的多くの貴重な遺物(日本軍が使用したと思われる火炎瓶用のビール瓶の空き瓶、榴霰弾薬きょう、バッテリー、車両部品等)が地表面から採取され、精密な測定と画像記録を行った。その中にはご遺骨も含まれている。
さらに、同事件の主戦場とも言われるバルシャガル高地の北縁部に存在する明瞭な陣地遺構が確認、確定できた。旧ソ連軍の縦深陣地の典型的な構成をなしており、モンゴル東部国境に確認され得る数少ないものである。この陣地は、モンゴル側も今まで未知の陣地であったようで、関係国のすべてにとって重要な遺構として記録・研究されていくだろう。
バインツァガンに関しても、2009年時では実現しなかった遺構群の中に入ることができ、座標測定を行うことで、図面検証が進んだ。

ノモンハン戦跡日蒙共同調査団
フイ高地塹壕群エリアから採
取された砲弾の破片。
長さ190o、幅40o。素手で
不用意に触ると怪我をする。
砲弾が炸裂すると、こういっ
た、いわば出刃包丁なみの無
数の凶器が空中を飛び交い、
兵士を殺傷する。

第二テーマ
旧ソ連軍基地であるタムスク基地、マタット基地、サンベース基地(現チョイバルサン)の軍事遺構をすべて確認した。

タムスク基地
2009年に特徴的な遺構群を発見特定し、現地確認・計測を行っているが、今回は陣地内部の各種遺構の用途特定につながる計測と鑑定を試みた。
その結果、射撃練習場や、砲演習施設らしき規則性の高い遺構、墓地の陣地内での追加発見、比較的まとまった形での車両の残骸などが大量に存在する可能性がわかってきた。

マタット基地
遊牧民が住み付いているので、自然科学上でいう発見とはいささか異なるが、その遊牧民が、モンゴル側も日本側も双方の研究者が今まで全く足を踏み入れていないエリアであることを証言したことから、歴史的発見といえる。
マタット基地では、あらかじめ仮説をたてていた鉄道軌道跡とおぼしき盛土のラインから100m以上をあけて二箇所で枕木の犬釘が発見され、軌道の証拠となった。また、周辺に代々居住している遊牧民から貴重な基地建設の経緯を知る機会も得た。

ノモンハン戦跡日蒙共同調査団
フイ高地塹壕群エリアから採取された榴霰弾の弾底部 これも内部から散弾のように大量に小型の鉄片が散乱して、一度に多くの兵士を殺傷する目的で使われる。

マタット基地の面積はタムスク基地と同じく東京都の山の手線がすっぽり入る巨大な規模であり、そのエリア自体が大型の対戦車壕で完全に包囲され、閉じたエリアとなっている。車両進入が可能な部分は数箇所しか認められない。
今回、マタット基地側面外縁部に西側から到達できたが、内部に進入する手前で、車両が完全に陥没するほどの巨大な壕に行く手を阻まれた。進入にあたっては、あらかじめ立案していたプラン通り、壕に邂逅してから、壕を横に確認しつつ、安全距離を取りながら並走し、進入路を探すという手法をとった。
だが、壕周辺には有刺鉄線や鉄片が散乱しており、パンクをはじめとした車両アクシデントが予想される危険地帯だった。壕から距離をとりつつ、地表面を観察しながらジグザグにノロノロ運転で走り、ようやく北部エリアの進入路を見つけることができたという次第である。

サンベース基地
サンベース基地は、山の手線の外周と同じ面積のタムスク基地が三つ以上入る大きさのエリアが対戦車壕で囲まれている。その南南西の端に現在チョイバルサンという名前の街が存在している。したがって南端の遺構はかなり消失している。
今回初めて、サンベース基地北部の対戦車壕を確認計測し、対戦車壕と塹壕線の交点にある屈曲部の特徴的な遺構を精密計測することができた。

ノモンハン戦跡日蒙共同調査団
旧ソ連軍がモンゴル領内に構築したマタット基地の軌道
施設遺構から発見された犬釘

また、マタットとタムスクでの軌道跡の現認を通じて、サンベース基地からマタット、タムスクまでの鉄道の軌道ルートを正確に仮説として立てることができる段階に入ったといえる。

第三テーマ
モンゴルの文化功労者である戦争画家・バトムンフ画伯の描かれた戦争絵画のコレクションと、その制作過程で得られていた貴重な遺物や軍事情報が入手できた。この画伯の活動とその作品である絵画は、日蒙の文化交流においても意味をもつと思うし、後世への貴重な証言となるだろう。



まとめ
衛星画像地図の作成と、それに基づいた2回にわたる現地調査で得られた情報により、ソ連支配下の衛星国時代におけるモンゴル国内で進められた対日参戦用陣地の実証研究の重要性と可能性が明らかとなってきた。モンゴル側でもまだ研究がほとんどなされていない分野である。
共産主義・ソ連は、ロシア革命後しばらくして、モンゴルを事実上の支配下に置き、モンゴルの仏教指導者のほぼ全部と成人男子の多くを抹殺するといった大規模な粛清をかけ、民族のルーツや文化を排除して属国として扱った。そしてノモンハン事件を契機として、モンゴル領内に大規模な陣地の構築を開始した。しかし、対日戦に勝利すると、今度は同盟国であるはずのモンゴル国に構築した陣地のすべてを破壊し、そのために築いた長大な鉄道軌道をも、すべてはぎとって撤退している。都市部に構築した建造物まで破壊し尽くした。中ソ国境・虎頭要塞周辺でも同じ現象がある。
それゆえ、モンゴル側での調査においても、「見えないものを探す」という困難がある。その意味では、衛星画像を仮説として現地調査をおこない、実証的に確定する日本側のやり方は、おそらくモンゴル側の研究の役にもたつに違いないし、さらには、抹殺された民族文化の発掘にもつながることを期待したい。
当センターは、第二次世界大戦最後の戦闘として位置づけられる虎頭要塞攻防戦の調査からはじままった。虎頭戦友会の行った10年間の交流を合計すると約30年間、旧満洲の国境軍事要塞群を調査してきた。そしてその結果、ノモンハン事件にたどりつき、第二次世界大戦の「前夜」と「最後」に同時に関わることになっている。

同事件の戦場は、戦友会、遺族会の貴重な努力で遺骨収集や慰霊が取り組まれてきた。その長年のご努力に深い敬意を表したい。ただ、その戦争体験者の痛苦の教訓を日本の若い世代・後世に伝えるためには、満ソ国境軍事要塞と同様、あまりにも日本から遠く離れており、そして戦闘状況、戦場・軍事施設の構造等は複雑である。

ノモンハン戦跡日蒙共同調査団
モンゴル領内の旧ソ連軍基地内で遊牧生活を送るボルト氏
インタビューに丁寧に答えてくれた。

その課題を克服する上でも、現代の最新の技術を駆使し、戦場を可視化しながら後世に伝える工夫は今後もっとなされても良いと思う。今回、二回目となるノモンハン事件の現地調査は、そのような実証研究の端緒についたともいえる成果をもたらしてくれた。そして、このような研究の成果を積み重ねていく関係者の努力が、歴史を振り返り、諸国民の相互理解と協調関係を築くことへの一助になることを願ってやまない。

今回、モンゴル国境警備隊と防衛研究所、モンゴル側歴史研究者の方々、そして現地コーディネーターとして骨を折って頂いた関係諸氏に心からの謝辞を申し上げ、得られた多くの成果を、今後、各種の専門家と共同で分析し、詳細報告としてまとめていく予定である。
以上




【名称】 
ノモンハン事件戦跡 日本・モンゴル共同学術調査団(=第12回 国境軍事要塞群 国際共同学術調査団) 

【渡航調査期間】 
平成26年(2014年)5月28日〜6月9日(13日間)

【調査範囲及び調査箇所】 
モンゴル国 東部国境地帯ノモンハン事件戦跡主戦場跡地、及び、モンゴル国 東部国境地域の旧ソ連軍基地3箇所
首都ウランバートルにおける証言調査
全行程13日間  モンゴル国内移動総距離 約3,000km

【参加者】 総員8名

【専門分野】
軍事考古学者、戦史研究家、兵器鑑定家、歴史研究者、朝日新聞本社記者、調査コーディネーター他

【派遣事務局】 
JCR-KF虎頭要塞日本側研究センター
(本部:岡山市 首都圏本部:東京都調布市 中部日本本部:岐阜県岐阜市) 

【報道】

1.朝日新聞 朝刊 社会面(39面)7月8日(火)↓PDFファイル

2.朝日新聞DIGITAL  WEB版動画 &記事リード
  「ソ連の対日進攻拠点、明らかに   モンゴルに巨大陣地跡」
 

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2009年ノモンハン事件70周年日蒙中三国共同調査
調査報告概要と報道記事 
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