中露国境の大要塞

すべては一冊の本から始まった。


「かつて日本軍部は、ソ満国境に、
独仏国境のジークフリード線、マジノ線にも劣らぬ、
驚くべき大要塞を秘密につくっていた。
しかもそれは、大量の異民族の血のいけにえのもとに建設されたのであった。
ソ連の参戦によってそこには凄絶な死闘がくりひろげられたが、
十倍以上の大兵力をもつソ連軍の猛攻の前に
さしも要害を誇った大要塞も抹殺され、守備隊は全滅した。
驚くべきことに、その全滅は、「終戦」後の8月26日であった。
太平洋戦争は真珠湾に幕をあけたが、
その最後の幕が降ろされたのは、
実に、知られざるこの虎頭要塞だったのである。
崩壊後の要塞には僅かな生存者があり、
彼らは筆舌に尽くせぬ苦難を乗り超えて奇跡的にそこを脱出し、
後年祖国に帰還した。
私もその一人であるが、生還者達の体験を忠実に、
また赤裸々に記録したものが本書である。

虎頭に眠る
日・中・ソ三国の兄弟達にこの書を捧げる
―地上に永遠の平和を願いつつ。―  」



(右写真)TBS報道特集より


これは、森永砒素ミルク中毒事件の原告として知られる岡崎哲夫(1920-2000岡山市 森永ミルク中毒の子どもを守る会全国本部事務局長 ※1 )が、1964年に初めて発表したノンフィクション戦記「秘録 北満永久要塞―関東軍の最後―」である。※2
虎頭要塞をはじめとする関東軍国境要塞群の存在と、歴史的戦闘の事実はこの著作によってはじめて日本人に知られることになった。

(※1 救済機関=財団法人ひかり協会の理事をつとめていたが、組織の問題点を批判する過程で「除名」された。)
(※2 中国語版 「日ソ虎頭決戦秘録」 哈爾浜工業大学刊)
 

虎頭要塞を知っていますか?
 

13億の人口を抱えるアジアの大国・中華人民共和国。
黒龍江省最東端の国境の街・虎林市・虎頭鎮。
そこには、日本の旧関東軍が第二次大戦中、対ソ戦を想定して、極秘裏に山稜の地下に築城した、東洋最大の重火力軍事要塞がある。
虎頭には、地下の巨大要塞群とともに、当時、東洋最大の巨砲(地上火砲)といわれた射程20キロという口径41センチ榴弾砲が、厚いコンクリート製のドームの中に設置され、対岸のソ連軍事都市イマン市内シベリア鉄道ワーク川迂回線鉄橋を射程におさめていた。
さらに、世界でも稀な、射程50キロの移動式列車砲(列車で牽引・移動し、攻撃を加える火砲)まで存在した。虎頭は、巨大な地下要塞と地上の各種重火力が連携して、来るべき対ソ戦をにらんで中ソ国境に配置された軍事要塞群の戦略的要衝であった。

二万のソ連軍を相手に孤立無援の戦い

岡崎は、その虎頭要塞を守備していた旧関東軍・第15国境守備隊の兵士としてソ連との全滅戦を戦い、わずか1パーセントという生存率のなか、生還した一人である。
その戦闘は、8月9日のソ連対日参戦以降開始されたものだが、現地関東軍は、ソ連軍による8月15日の終戦の連絡を信用せず、告知に来た軍使通訳を斬殺し、自国の無条件降伏を無視した。結果、8月26日までソ連軍と破滅的な戦闘を戦うことになったのである。
しかも虎頭の第15国境守備隊の兵員は、軍人一千五百名、民間の開拓団一千四百名を含む総勢三千名弱であり、対するソ連軍は二個師団。歩兵・戦車・ロケット砲・航空機等の高度な兵器を装備した約二万人以上の強大な機甲兵力である。
三千名弱の守備隊は、その十倍にも比する巨大なソ連軍を相手に、二週間以上の死闘を繰り広げたわけである。

最新の技術で築造された軍事要塞


その無謀で凄惨な戦いを不幸にも支えたこの巨大地下要塞は、鉄筋コンクリート構造の、当時としては最新の建造技術を投入した軍事要塞であった。
厚さ1メートルに及ぶコンクリートの地下トンネルが縦横に走り、機銃掃射のための銃眼や落とし穴、調理場から軍用貯水池、軍用井戸、弾薬庫、通信指令室、発電所、食料庫、戦闘指揮所、兵員棲息所、監視所、逆襲口(非常脱出口兼、迂回攻撃用トンネル)、排気口、包帯所(病院)などなど、一種の都市機能ともいえる複雑怪奇な仕掛けが組み込まれた構造物である。
また山表には、前記の41センチ榴弾砲、24センチ列車加農砲をはじめとして、24センチ榴弾砲、30センチ榴弾砲、15センチ加農砲等の要塞重砲、対空高射砲、対戦車速射砲、弾薬庫、トーチカ等々が大量に配置され、これらの武装装置を連絡し、対ソ攻撃を行なうための交通壕(塹壕の一種)が山腹に異様に張り巡らされた。
そしてこのような虎頭要塞が中国民衆の膨大な犠牲の上に建造されたものであったことは、もはやいうまでもない。
中華人民共和国・黒龍江省・虎林市の虎頭鎮が、第二次世界大戦最後の激戦地といわれるゆえんである。

中国の「国家級文物」に指定された虎頭要塞

虎頭地下軍事要塞の存在は、1990年頃に岡崎哲夫の著作と戦友会の日中友好活動を通じて、中国政府に大きな関心をもたらした。
中国政府は、15ヶ年計画で瓦礫に埋もれた自国内にある要塞の学術調査と発掘、保存公開事業を開始した。
同時に虎頭要塞は速やかに省級文物保護単位に指定され、要塞の発掘・調査・保存事業は日中両国の良心的知識人の力によって支えられた。
地下に眠る虎頭要塞の実測、発掘作業のために日中両国から専門家のプロジェクトチームが編成された。
それが虎頭要塞日中共同学術調査団である。調査団は多くの困難と紆余曲折を経て整理整頓が進み、不偏不党の精神を樹立、真に優秀で、特定の思想信条に偏らない社会良識を備えた専門家による運営体制が確立されるにいたった。
2008年現在、共同調査は9回目を迎え、日中の軍事専門家、歴史学研究者、軍事考古学者、兵器鑑定家、カメラマン、通訳、他関係者からなる多彩な構成で粘り強く継続され、そのなかで大きな学術的発見と、友好交流が進んでいる。
地下深く埋葬されていた巨大要塞の全貌は、戦後60年以上経て、初めて現代の人々の目に触れることになった。

(※2008年現在、虎頭要塞は、中国の「国家級文物」に指定されている。)


















写真解説:
上から
1=黒龍江省虎林行列車からの夕陽
2=秋田書店刊「秘録 北満永久要塞」表紙
3=TBS「報道特集」よりキャプチャー
4=地図 毎日新聞東京本社版記事より抜粋
5=41糎榴弾砲遺跡(虎頭要塞遺跡博物館パンフレットより)
6=虎頭要塞穹窖
7=虎頭要塞穹窖
8=虎頭要塞穹窖(逆襲口)
9=ムーリン河
10=虎頭要塞遺跡博物館(虎頭要塞遺跡博物館パンフレットより)
1.2.6.7.8.9 =撮影 : 岡崎久弥