愛あふれる親を追い出し、兄弟を踏みつけ、身代食いつぶす愚か者が、世の中をだめにする。

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【親が子供により多く遺すべきものは、金よりも、廉恥の心である】
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NEWS FLASH
救済監視塔↓
ひかり協会の救済事業 監視塔 掲示板
企業犯罪要因の重大な歴史偽造
東京大学 教養学部 学生自治会が、日本共産党の「不当な支配」との決別を宣言
現役東大生で元党員の
ブログ「林局碧段」
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 ⇒日本共産党・政治


■党派の実態 
★日本共産党…悪魔の辞典
★不条理なる日本共産党


【TOPIC】Link
■東日本大震災 復興努力続く 
■最初に井戸を掘った川本輝夫氏
■ウィキペディア(Wikipedia) 改ざん事件
■虚偽記載を認めても謝罪しない組織
■意見言うと暴言浴びせられる被害者
■意見言うと監視される被害者家族1
■意見言うと監視される被害者家族2
■異なる意見はダメと公言する組織
■ひかり協会救済事業 監視塔


榎原訴訟
(since.2012.6.25)
●重症被害者が、森永・国・被害者団体・救済基金の4者を岡山地裁へ告訴(訴状)
●原告後見人(父親)の談話
●能瀬訴訟(下記)一審の最終局面で原告が初めて解明した「公益財団法人 ひかり協会」の背信の証拠
原告側 準備書面
1  

■能瀬訴訟
(since.2009.2.18)
●市民が「森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会」を名誉毀損で告訴。岡山地裁
原告側準備書面 
3 5 6 7 11 12
●岡山地裁 被告の不法行為を認定
判決文全文(解説つき)を一挙公開
 
控訴審でも、原告側が勝利 控訴審での能瀬英太郎氏の第1回準備書面PDF
(被告・被害者団体の腐敗幹部、30年前から加害企業に内通。しかも同じ被害者が起した訴訟を背後から斬りつける目的で加害企業側弁護士へ被害者団体の内部情報を供与)

■日本共産党の介入支配と決別した東大駒場(教養学部)自治会の学生の会話(自治会元委員長・何ろく氏のTwitter)
https://twitter.com
/karoku1991

党派による支配介入と私物化の実態↓
日本共産党・政治
   ↓
EX.
・ざくざく出てくる貴重資料

・東京経済大学・学生会の全学連脱退
・共産党の原子力政策について考える
・東京新聞への共産党の不可思議な「抗議」の真意とは


■オドロキ「良い原爆」論 
核絶対否定HP(森瀧市郎氏を顕彰しているサイト 原水禁運動の歴史解説)
「共産主義の核兵器は平和の武器」と言い続けた政党の正体。
原水禁運動の歩み(1) ヒロシマ・ナガサキから原水禁運動の分裂まで

■歴史ドキュメント/TVシリーズ
【ソビエト社会主義共和国連邦の歴史的大罪】これこそが、民主集中制の本質。/この独裁への性向は、言葉を変え、形を変えて、今も、日本に存在する。

スターリン恐怖政治 「公開裁判」「粛清」「見世物裁判」
「チェーカー」 ウラジーミル・レーニン直属秘密警察組織
共産党暗黒白書、「二千万人大虐殺」
ソビエト強制収容所
スターリン恐怖政治 強力な個人崇拝とプロパガンダ
ソ連邦の統制でスターリン崇拝を強要されたバルト三国の悲劇
家族を密告した「少女オーリャ」
キリスト教會弾圧「宗教は阿片なり」


■全体主義者の市民運動への浸透戦術分析
■民主集中制の基礎「外部注入論」

■民主集中制が好む詭弁論理

その他
牡丹江化学兵器実験場 
朝日新聞

書籍紹介 【新刊】
『原発事故と子どもたち』
放射能対策ハンドブック
2012年3月9日発売
放射線被曝から子どもたちを守るために家庭で、地域で、親は何をなすべきか?
政府、行政に何を求めたらよいのか?
福島現地で事故直後から繰り返し健康相談に取組んでいる、小児科医・黒部信一先生がわかりやすく解説する決定版。
ISBN978-4-380-11003-0 三一書房サイト紹介より
黒部信一著  装画: 原郷由美子
定価:本体1300円+税


「原発・放射能 子どもが危ない」 小出裕章 黒部信一 共著 文春新書 刊

文春新書 刊
小出裕章 黒部信一 共著
「原発・放射能 子どもが危ない」
「原発・放射能 子どもが危ない」 小出裕章 黒部信一 共著 文春新書 刊








【新刊】
『健康寿命は差別用語だ』
青山英康(岡山大学医学部 名誉教授)著
研文館 吉田書店


森永ヒ素ミルク中毒事件で史上初の疫学調査を指揮した岡山大学医学部名誉教授の青山英康氏による近著。

戦後日本初の御用学者と正面から学術的に対決し、その功績と価値が国際的に認められている医学者だけある。御用学者と誤用学者の二つの言葉を巧みに使い分け56項目の多岐にわたるテーマを1ページ程度の短文で括る。内容は明快の一言に尽きる。
世間で洪水のように流される、健康や医学、科学にたいする俗説や誤解から、我々の思考を軌道修正する上で、心強い味方になってくれる一冊だ。
P46~P49に「誤用学者」という面白い指摘がある。
目次一例
1.危険な健康の常識
2.危険な予防注射
3.専門医・専門家の「専門」とは
4.専門医を育てていない医学教育
5.健康寿命は差別用語
6.「寝たきり」と「寝かせっきり」
7.「体力つくり」か「体力削り」か

14.「正常」と「異常」
15.病名の変遷
16.生活習慣病とは
17.「正常な人」とは
18.医師不足と患者の「たらい廻し」

21.原発事故と被曝対策
22.「許容濃度」の考え方
23.高血圧と高血圧症

29.専門家に騙されるな「御用学者」と「誤用学者」
30.総合医の名称

33.常識の源泉はテレビ
34.「改革」か「非常識」か
35.多数決の「誤り」
36.アメリカに学ぶことは「失敗事例」
37.投薬指導と服用の方法

日本共産党員であることを隠す事について(試論)
2013年01月04日 「林局碧段」
http://blog.livedoor.jp/karoku1991/archives/21872506.html
非常にわかりやすい分析であり、かつまた、待望の政治学的試論であるともいえる。
党派の偽装浸透工作の実際の政治目的をクールに分析している。
かれらの偽装(身分隠蔽)が、対権力闘争からの要請ではなく、「彼らの行いが他者から批判される場合の隠れ蓑」、つまり「すでに明らかとなってしまった個人のおこないと党派の関連付けを外部に許さない」という土俵を作ったうえでの「公正な議論を避けるための免罪符」でしかないことを解き明かしている。
つまりフェアプレイの精神などはじめからないのだ。
公開や透明性とは縁遠い世界だ。民主主義となじむわけがない。
さすが、実践で得られた教訓に裏付けられている実証的論稿だ。試論であるとのことなので、今後の更なる深化を期待したい。


冷血

初公開、森永乳業の被害者への暴言
(1957版)
2012.12.26

公益財団法人「ひかり協会」を監視中のホームページ掲示板で以下のような一次資料が公開された。
以下同掲示板で公開された、事件当時の森永乳業株式会社幹部の言動の一端をご紹介する。一次資料は最小限に記述され、わかりづらいので、( )内に投稿者が補足説明を入れている。(加害企業が「上から目線で被害者に指示する」という恐るべき本末転倒な構図なので理解しづらい方も居られるかもしれない。)

森永乳業株式会社の発言といい、 ひかり協会(公益財団法人)の職員の差別発言  といい…。 一部の加害企業と民主集中制に共通する「超」専制主義の特性がよく観察できる。

以下-----------------------------  
綱島氏(守る会設立者の一人)の報告(昭和32年-1957-9月17日)

それによれば、梅原睦氏(森永乳業渉外部)は、「辞を低くして
(注1)お願いするように、松本鷹知(当時の森永渉外課長)に言ってくれ」と(被害者側に対して)申し入れてきた。  
そこで(被害者側が)辞を低くして(森永側に)お願いしたら、(森永側から)守る会の解散を要求(された)。
(森永乳業は被害者団体の代表に対して以下の話をした)
会社(加害企業・森永乳業)の意を受けて(被害者団体の)会員を説得せよ、(被害者の内部の反対意見を)強引に押し切れとの要求(これは)はきわめて不徳義で(被害者側としては)耐えられない。
 (森永乳業・渉外部)松本課長の(被害者側への)申入れ
 
A.守る会解散なら『事件史』の負債等も
          解散の名目で支払う。  
B.解散無理ならその他の条件に応じず  

 という。

 今までは岡崎、綱島が強硬で、黒川が温和な仲介を取るという形であった。今度は梅原氏の書簡((被害者が加害者に対して)辞を低くしてお願いする)の意を体して卑屈な位(くらい)、低くでた。(だが、それに対しても)森永乳業・松本氏は被害者側へ自殺を強いるような高踏的態度であった。
 今後は黒川は高飛車に出て「今ただちに守る会の解散を要求は極めて不自然不当で、頭を下げるものを踏みつける行為だ。会社の態度が一歩も引けないなら仲介はしないで反響を見る」と黒川はいう。

【解説】これは、被害児のヒ素ミルク中毒後遺症、併発症の治療費を要求をしている守る会に対する森永の態度について、綱島氏が報告している文書である。いまだに森永は被害者の頭を踏みつけていることに変わりがない。
-----------------------------------以上
【投稿原文-890】
(注1)「辞を低くする」とは、相手に腰を低くして丁寧な言葉を使うこと。/つまりこの文書は、加害企業・森永の中級管理職・梅原氏が、被害者団体に対して、「わが社の上司(森永乳業の松本氏)には腰を低くして丁寧な言葉をお使いさしあげながらお願いするように」となんだか「“超“上から目線のアドバイス」様のものを出している様子を示している。 そして森永側の「上司」からは、「被害者側がへりくだった事」への「お返し」として“君たち(被害者)は消えて無くなれ”という「まるで自殺を強いるような」高飛車な要求が出されてきた事実を淡々と報告している。 これはまるで江戸時代だ。引用文には青字の補足説明と改行を入れた。

「今では、被害者は森永乳業によくしてもらって感謝している」という某弁護士の発言などは、このDNAの引き写しか?  さらに、「(被害者の内部の反対意見を)強引に押し切れとの要求」って、これ…現在進行中の裁判の争点ではないのか? 要するに加害企業のDNAを代行しているのが民主集中制というわけか?


原子力規制委員会、危うい現実。

日本の規制当局は信用できるか?

2012.12.20
本日、メディアのコメンテイターが、「自民党になっても原子力規制委員会の委員が米国NRC位の水準の高い人材がそろえば、稼動が難しいだろう」と超楽観的なコメントを出していて、腰がぬけそうになった。
「水準の高い人材」てなんだろう。
他力本願、「お上にお任せ」スタイルに見えた。
「フライデー12月21日号」原子力規制委の非常識「外部識者(6人のうち4人)に原発マネー6000万円」左掲の写真週刊誌フライデー12月21日発行号にもすでに深刻な問題が暴露されているではないか。以下記事の冒頭を引用する。

…(前略)…原子力規制委員会(以下、規制委)に、早くも重大な問題が浮上している。原発の新しい安全基準を作る検討チームにおいて、「公正かつ中立的な立場」から意見を述べるメンバーとして、10月に6人の「外部有識者」が選定された。しかし、その中立的であるべき6人の識者のうち4人に、6000万円近い“原発マネー”が渡っていたことが判明したのだ。…(後略)…

記事では「有識者」(大学教授)が、どの原子力産業からどのくらいの金を受け取っていたのかについての内部文書が公開されている。なかでも、最低2千万円以上を受け取ったことが判明している名古屋大学教授が規制委員会へ提出した申告書(規制委へ提出分)は、一部が黒塗りで潰されているという有様である。
原子力規制庁は、「かかわりのない人だけにしようとすると選択肢がせまくなる」とお決まりの釈明をするが、識者と議論した経験のある技術者は、「安全性を考える場なのに、…発言の多くにバイアスがかかっている」と憤っている。そうならば、規制庁が学者を「誤用」しているのではなく、はじめから単に「御用学者」を動員しているだけだ。民主党政権が信用を失う部分がこういうところにも透けて見える。

ここでも、またまた、森永ヒ素ミルク中毒事件の際に厚生省によって強引に設置された「第3者委員会」である「6人委員会」のインチキを思い出す。(「6人委員会」の詳細は、アーカイブページ所収『砒素ミルク1』-ダウンロード・配布自由-p66-p74をご参照)
森永乳業と緊密な関係にあった戦後初の御用学者である岡山大学医学部小児科の浜本氏は、森永ヒ素ミルク中毒事件の歴史を忘れた一部の者によって、今では、なぜか、「名医」と宣伝されている。
名医とか名士などという超主観的な言葉で、利害関係者である事実を覆い隠し、意図的に「中立」を宣伝して、砒素中毒を隠蔽した事実に反省のないこの国では、「公正・中立」の言葉そのものを疑い続けなくてはならない悲しいDNAが付きまとう。

「水準」が何を意味するかはしらないが、抽象的言葉でお茶を濁す前に、規制委員会の動向の隅々までメディアが監視するとか、市民の監視活動を報道するとか、メディアもこれまで以上にもっと真剣に仕事をしてほしいものである。
選挙前に、「脱原発なんてシングルイシューではだめだ」といったはなから「もう各人の好みで決めるしかない」などと、同じコメンテイターが週単位でコロコロと変わった。最後には「投票所で鉛筆転がせばいい」って言い出すんじゃないかと心配になった。そんな評論家をやたらめったらと登場させるメディアは、もうすこしまじめに仕事をしてほしいものである。
フライデーなみの取材にトライしてみたらどうか?



森永ヒ素ミルク中毒事件と生き写しの経過を辿る東京電力福島第一原発事故の責任追及と補償問題

森永ヒ素中毒事件の「悪魔の辞典」を現代に復活させた東京電力。
重大事故をあっというまに幕引きにしようとする日本社会の懲りない習性

ツイッターで、以下のような12月18日付け福島民報の記事が発信されている。これは重大な意味をもつ記事だ。この記事で、東電社長が述べていることの邪悪な意図は、感の良い市民はすでに理解しているだろうが、森永ヒ素ミルク中毒事件を知る市民にはその悪徳性がさらに良く伝わってくる。

この記事を見て、すぐに思い出すのは、戦後日本初の御用委員会「5人委員会」の姿だ。
131人の乳児が死亡し、12000人以上の乳児にヒ素を飲ませても、「因果関係なし、後遺症なし」と、タダ同然の補償金を一方的に提示して交渉を「打ち切り」、その後14年間にわたり事件を闇に葬った第三者機関「5人委員会」の意見書である。(「5人委員会」の正体の詳細は、アーカイブページ所収『砒素ミルク1』-ダウンロード・配布自由-p152-p172をご参照)
当時は、国とメディア、医師・弁護士が作った第三者機関の装いで、世論をたくみに誘導し、被害者を圧殺したが、いまでは加害者本人が開き直って、顔まで晒して、しゃあしゃあという有様だ。日本社会の無責任性が深化・進行し、再度露見している。しかも12月18日といえば衆院選の直後。原発政策の先祖帰りをうけて「待ってました」と言わんばかりだ。

「加害者主導」の補償打ち切り表明。
記事はこう伝えている。
広瀬東電社長が説明/ 避難区域外精神的賠償打ち切り方針/「新たな放射性物質拡散ない」
広瀬氏:「どこかで賠償の終期を示さないわけにはいかない」

汚染されて失われた国土を回復する責任は、たぶん数百年・数千年先いやそれ以上まで続く。人命や生活への賠償にしても、今後、生きながらえていく東電という会社の時間と同等規模のものになろう。ましてや「終期」を口にするのは百年早い

加害者自ら早々と「因果関係論」に言及。
だが、もっとも問題なのは以下の発言だろう。
広瀬氏:
「原発関連死…概念広く…ひとつひとつのケースをしっかり調べる…法廷で因果関係が認められれば…考える」

選挙結果を受けて原発事故被災者切捨てに公然と舵を切ったことが、森永ヒ素ミルク中毒事件の5人委員会の意見書と比較すれば直ぐにわかる。

5人委員会の意見書を振り返れば、次のような記述がある。
「かかる中毒は、過去にも事例なく、文献等にも十分な記載がないので、…他の疾病との鑑別が困難なものについては慎重かつ綿密にこれが確認を実施すること。」
非常に似た表現。なにより、意味合いは全く同じではないか。「5人委員会」は、この「綿密に確認」などというもっともらしい表現で、後遺症を見事に抹殺した。
5人委員会の「功績」は、東電社長・広瀬氏が現時点で因果関係などというものを、そもそも認めて対応するつもりなどハナから無いことを、歴史的に証明して見せていることである。

「5人委員会」「6人委員会」「森永奉仕会」と悪魔的な御用組織を次から次へと作り出し、はては、加害企業が、自らを「被害者」と称して、裁判所を騙して、一時的に無罪まで勝ち取った森永ヒ素ミルク中毒事件。そして今では民主集中制までが、カビの生えた森永無罪の立論を流布し、被害者を管理する森永ヒ素ミルク中毒事件。
その加害企業・森永乳業の筆頭株主である「森永製菓」と血縁を結ぶ自民党総裁の登場を、東京電力が確かに追い風と感じたとしても、不思議ではないだろう。3.11後の原発事故処理の様相は森永ヒ素ミルク中毒事件の経過にいよいよ酷似してきた。



「誤用」学者

2012.12.17
原発事故以降復活した「御用学者」と同時に、最近「誤用学者」という面白い言葉が登場している。(以下の書籍『健康寿命は差別用語だ』で初発見)

科学者の特性を把握せずに、メディアや社会が、リスクコミュニケーションにおいて専門家を「誤用」するという意味だ。このあたりについての議論は、3.11以降、科学者の間で盛んになっている。

例えば、地震学者に「予知」をさせようとすること自体が、「誤用」ではないかと指摘する意見は、阪神淡路大震災以降にようやく登場し、最近は「減災」の掛け声が強まっていた。(問題は完全に掛け声倒れだったということ…)だが、科学者の間での議論が成熟しないうちに、原発事故で、またしても、安心と安全の概念がぐちゃぐちゃになってしまった。このあたりの教訓は森永ヒ素ミルク中毒事件でもすでに登場ずみだが、歴史をわすれると同じ過ちを繰り返す。

「誤用」されることに甘んじたり、癒着と売名から積極的に立ちまわって「御用学者」になったりと、科学者が怒りを買うケースは多い。メディアが専門家のコメントに依拠する傾向が強い昨今ならなおさらだ。
以前、イタリア中部の地震で309人が亡くなった地震で、直前の「安全宣言」が犠牲の拡大を招いたとして、地震学者ら7人全員が禁錮刑を言い渡された。地震学者に占いばりに予知をさせておいて、学者個人を標的にして刑事罰を課するのは少々短絡といえるかもしれない。だが、現在の地震学が地球の地殻運動を予知できる水準にあるとはとてもいえないことを地震学者は、なによりも自覚していたはずだ。

地震学者がその成果を生かせる分野として安全性向上に寄与する分野がある。原発付近の断層帯の把握なども、その貢献事例だが、これらは本物の「御用学者」に邪魔されて、いかされていない…。

書籍紹介
『健康寿命は差別用語だ』

青山英康(岡山大学医学部 名誉教授)著
研文館 吉田書店


森永ヒ素ミルク中毒事件で史上初の疫学調査を指揮した岡山大学医学部名誉教授の青山英康先生による近著

『健康寿命は差別用語だ』 研文館 吉田書店

さすが戦後日本初の御用学者と正面から学術的に対決し、その功績と価値が国際的に認められている医学者だけある。
56項目の多岐にわたるテーマが1ページ程度の短文で括られて非常に読みやすい構成であるにもかかわらず、内容は明快の一言に尽きる。
世間で洪水のように流される、健康や医学、科学にたいする俗説や誤解から、我々の思考を軌道修正する上で、心強い味方になってくれる一冊だ。
P46~P49に「誤用学者」という面白い指摘がある。
目次一例
1.危険な健康の常識
2.危険な予防注射
3.専門医・専門家の「専門」とは
4.専門医を育てていない医学教育
5.健康寿命は差別用語
6.「寝たきり」と「寝かせっきり」
7.「体力つくり」か「体力削り」か

14.「正常」と「異常」
15.病名の変遷
16.生活習慣病とは
17.「正常な人」とは
18.医師不足と患者の「たらい廻し」

21.原発事故と被曝対策
22.「許容濃度」の考え方
23.高血圧と高血圧症

29.専門家に騙されるな「御用学者」と「誤用学者」
30.総合医の名称

33.常識の源泉はテレビ
34.「改革」か「非常識」か
35.多数決の「誤り」
36.アメリカに学ぶことは「失敗事例」
37.投薬指導と服用の方法



カオスが加速する哲学なき政界。

投票率10ポイント下がって主役交代。
2012.12.17
カビの生えたイデオロギーの残滓が、いまだ日本社会には根強く残る。画一的思考方法と決別し、新しい政治哲学を再構築する要請が世界的規模で生まれているが、残念ながら今は産みの苦しみの時代だ。

だが、市民は引き続き、政治への監視を続け、知恵を絞り、社会改善への取り組みを加速させる必要がある。

例えば原発問題は良い例だ。トータルな政治家としてのの資質の低さから、「脱」や「卒」の「シングルイシュー」押し出し作戦は著しく精彩を欠いたままだ。政治家の側が、従来の「革新」諸党派のセピア色のアナクロニズムから完全に決別できないでいることにも問題はあるようだ。だが、市民・国民が独自に深刻な問題提起をし続けて来たことの価値に変わりはない。
長い目で政治はそれを無視できない。今回の結果は、市民の政治的センス、特に「ウソを見抜く」目を一層磨く契機になるだろう。

今後の7ヶ月あまりの政治も注目に値する。原発事故や産業公害で失われたものの大きさや、原発推進でやってきた政治の本質を安易に免罪し、かつての戦争で失われたおびただしい命の叫びを忘れ、オマケ代わりに意味不明な金融緩和を行えば、海外市場は面白がっても、投機が横行し、日本経済は長期的に衰弱し、むしろ苛烈な資本主義へ移行するかもしれない。そこが出番だと期待をめぐらしている共産などをはじめとした諸々の全体主義イデオロギーが息を吹き返すような問題外な状況を、将来許してしまうのか、それとも、適切な軌道修正を加え続けることを保障している民主主義のシステムを活かし、透明性を確保した土俵の上で、公正な格闘が行われる多元的で、開かれた政治を構築していくのか、それについての再考が、選挙権を行使しない41%の有権者と意識ある市民に問われている。ただ、41%の有権者は政治に無関心なのではなく、政界という特殊世界に価値を見出していないだけである。およそ政界という特殊世界の無節操や退廃に嫌気をさしているだけだ。41%はファッショや反ファッショ、ぶれないとか、変わるとか、変える、とか、決めるなどというプロパガンダに心を動かされないだけである。この感覚は、ある意味、正常かもしれない。
市民自身が、時々選挙の結果も見ながら、自らの中にある政治的なるものを問い直し、思考しないことによる安易な政党政派への依存心や、他力本願の怠惰な思考を内省する必要があるだろう。

市民運動は、確かに個性的な人間の存在も時として必要とするが、同時に市民の定義を考えたとき、社会生活のなかで培われた良識とバランス感覚をあわせもつ必要がある。

政界の勢力配置図がどう変わろうとも、市民の抱える問題はそう大きく変化しない。ましてや自然界と人類との間で抱える問題は、当分変わらない。だから、市民はコツコツと活動し続ける必要があるし、市民の息の長い活動をどう共有するかのセンスや企画力こそが問われている。実業で鍛えられたスキルはそういうところにこそ活かせばいいのだ。(在野の仕事で成果をあげたことがない「政治家(屋稼業)」など問題外だ。逆に、普通の市民は日常的に政治的なるものの中で格闘していることに、もっと自覚と自信をもつべきだろう。)

「政治的なるものの再興」 シャンタル・ムフ著社会生活のなかで十二分に経験を積んだ一般市民が自身の政治的関与への総括を民主主義的視点から深く行い、結果的に政治勢力の合従連衡を主導するくらいの政治的センスを磨くことが必要だ。
ベルギー生まれの女性政治哲学者シャンタル・ムフは左掲の著書で民主主義を「闘技」と呼んだ。民主主義の不確実性を受け入れ、備えを怠らず、市民が政治家以上の闘技のスキルを磨く良いチャンスの到来と捉える必要がある。






うわ、やること、えげつない!
民主集中制の正体、相変わらず…。
30年前森永事件/被害者団体を占拠したスターリン主義の生き写し。今もって大学生に迷惑かけ続ける、懲りないカルトの習性。
2012年12月11日
共産党の,ビラの張り方がひどい件。さらに,そのビラを破り散らかす人がいて気分が悪い件

最近は、携帯デジカメの普及で、こういう現場がちゃんと押えられるようになり、大学内の状況が、一般社会人にも見えるようになってきた。このような可視化の取り組みは大歓迎だ。
凋落傾向にあせりを強めたとき、一気呵成に何かを挽回しようとするときに、恐怖政治の手法を露呈させる全体主義者の本性のほんの一端だ。全体主義イデオロギーの政治的特性からくる行動様式(ブログ主催者:何ろく氏のいう「作風」-いい表現だ-)が、チンピラ的軍国主義に通底するものであることは想像に難くない。(彼らのチンピラ的軍国主義の作風は、本物の軍国主義に必ず先を越され、世の中を本物の軍国主義一色にしてしまうことがよくある)

(話はそれるが、不勉強な党員が、“かつて我が党は軍国主義と闘った”と、お経のように唱えても、少しばかり物事を知る人間にとっては、“そりゃ、コミンテルンから革命の絶好の好機と指示されてがんばっただけでしょ。勇ましくやった若干の人がいるのは事実だが、それじゃあ、幹部の腐敗と体たらくは、どう説明をつけるの?“と言ってあげるしかない。当時、かれらの主張していた平和運動とは、“プロレタリア独裁政権樹立のため”と領導され、“ソ同盟防衛”を最優先課題として枢軸国の国内かく乱を目指した、一種「表裏使い分けの統一戦線戦術」にすぎない、との見方ができるからだ。彼らが中国共産党にシンパシーを感じているのは、その実現不可能だと思っていた東アジアでの共産党独裁が、「形ばかり実現し、しかもとりあえず継続」してしまっているからだ。レベルは雲泥の差でも、自分たちと同じ体質をその姿に見出し、本能的な「郷愁」から逃れることができない悲しい性である)


下手な「テロ攻撃」よりたちの悪い、公的組織の事なかれ主義と度外れた安全軽視。

中央道トンネル崩落事故 死者9人
なんの前触れも無く市民を襲う人為犯罪
2012.12.6
 12月2日の朝に起きた中央自動車道・笹子トンネルの天井板崩落事故は死者9名(けが人2名)を出す惨事となった。人生の最後を、身動きとれない中で火にあぶられて焼け死んでいったりした被害者の痛みと無念を考えると、言葉が見当たらない。
 既報のとおり、数十年にわたり(2000年の緊急点検時のみ実施)、打音検査も非破壊検査もせず、「懐中電灯で照らして双眼鏡で見た」などというまるでパロディのような杜撰な管理実態が露見している。
 トンネルでの壁面崩落事故は10年ほど前にも、すでにJRのトンネルなどで発生しており、また、関門トンネルでの天井つり金具切断事例も情報が上がっていたことから、今回の事故の危険性を「想定外」とごまかすことはもはやできない。むしろ全国の道路管理組織が喫緊の課題として即座に取り組むべきテーマだった。
 過去の歴史や、他部門での事件・事故をよそ事と考える習性、同時に、その教訓を自組織に展開する際の障壁を乗り越えようとする努力をサボる「事なかれ主義」がいかに社会の隅々を毒しているか、如実に示す事象である。
 お隣の中国の新幹線埋め立て事件を軽々しく笑っているハナから、原発事故から、高速道路事故から、(そういえば、バス事故もあった)、かってに動くエレベーターから、同じ程度のことを繰り替えしてしまう現実である。「おごる国に未来なし」はどの国にも言えることだ。また大事故は連続して発生する傾向もあるから油断禁物だ。(5日午前1時には、富山県の国道トンネルで、照明枠が車に落下。)
 原因の徹底究明とその十二分な公開、被害者家族への手厚い救済が必要だ。それなくして、次の教訓は生まれない。ここまでの無検査体制を「見事に維持」してきたからには、相当の組織的背景と長い歴史に培われた風土がある。その抉(えぐ)り出しも、「株式会社並み」になされるべきだ。
 それが行われない間は、全国の高速道路の通行を市民がボイコットするくらいの姿勢を見せることも必要かもしれない。

※)
 中日本高速道路(NEXCO中日本)は道路公団民営化の結果、2005年に生まれた株式会社。だが株式は、国土交通大臣 が99.95%(財務大臣 0.05%)保有しており、事実上の国の組織だ。実際は役所の感覚であろう。同社のサイトには経営理念として「私たちは、常に変革と向上を求め、安全・安心・快適で、時代をリードする高速道路空間を創出し、地域社会の発展と暮らしの向上、日本経済全体の活性化、そして世界の持続可能な成長に貢献します。」とあり、5ヵ年を通じた経営基本方針として『世界一の高速道路会社をめざして』などと勇ましい言葉が踊っている。
 だが現実は、当然やるべきことを放棄し続けてきた、真っ赤な偽りのコマーシャルだったということだ。さらにご丁寧なことに「公益通報窓口(コンプラホットライン)設置のお知らせ」まで掲載し、いかにも内部規律の引き締めを意識しているかのように見せている。結局、組織全体が麻痺していると内部告発さえないか、あっても組織内でもみ消されていた可能性すら否定できないだろう。(この公益通報制度の機能不全は、以前も触れたが、森永ヒ素ミルク中毒事件の重症被害者家族である榎原伊織氏が、公益財団法人「ひかり協会」の問題点を内閣府公益認定委員会にまで通報しても、彼らが知らぬ顔を決め込んでいるという現状とも、かなりだぶって見える。)(内閣府公益認定委員会というものが、いかにあてにならないかは、この裁判で暴露されている公益財団法人の実態-ページPDF-をみても明らか。)
 ちなみに同社は、連結ベースで201億(2006年度P/L)から100億(2011年度P/L)と減収傾向ながら経常利益をしっかり稼ぎ出している。(純利益も199億から114億)この利益と、それをもとに得た社員の待遇は、「最低限の検査の手間も惜しんで稼ぎ出した金」であったということになる。
 なにもかもが麻痺しているという見本のような事件だ。


「指導死」
(「東京新聞」2012年11月13日付に関連して)
ブログ・林局碧段 2012.11.13
教員の不祥事を、なんでもかんでも日教組のせいにしてスケープゴートする黒塗り街宣車に影響されてきた方々は、この若い世代のブログを読まれるとよいだろう。


学生自治会への党派介入の驚くべき実態が赤裸々に初公開。

記事:「東京経済大学・学生会の全学連脱退」
ブログ・林局碧段 2012.11.30

東大教養学部元自治会委員長が、東京経済大学への取材結果をまとめ、公表した。↓
http://blog.livedoor.jp/karoku1991/

学生自治会をめぐる「全学連」の画策と、日本共産党の画策の詳細(たぶんこれでも氷山の一角)がはじめて明らかになった。歴史的記録と同時にすぐあとの新人学生にとっても必須となる、現実的な「カルト 党派介入撃退マニュアル」としての充実化、及び、圧倒的な拡散展開の両方をさらに期待したい。

東京新聞への共産党の不可思議な「抗議」の真意とは
───「林局碧段」最新論評 2012年11月28日
「家で東京新聞を購読していることもあり,リアルタイムでこの記事は読んだのですが,いつも通りの政治報道であり,特別,特定の意図を持ったようにはまったく感じませんでした。それゆえ,翌々日になって,共産党が抗議文を渡したということが赤旗に出るに至って,たいへん驚いたものです。
 この抗議文,不合理な点がたくさんあります。…」

あとは↓
http://blog.livedoor.jp/karoku1991/archives/20440857.htmlをご覧あれ。
その後は↓これも…
「東京新聞」2012年11月16日付朝刊 3面
http://blog.livedoor.jp/karoku1991/archives/19778262.html


脱原発本気度 薄っ!
やっぱり原子力余り嫌いではなさそうな非科学的社会主義
 
東京新聞が11月23日に報じた「脱原発本気度 議員活動で検証」の記事が物議をかもしている。といっても、騒いでいるのは、脱原発に「本気でない議員」たち。
 以下に、記事がアップされているので出力してご覧頂きたい

「脱原発本気度 議員活動で検証」11月23日 東京新聞
 細かい理屈を言って、脱原発基本法案にも反対して、なんでもかんでも反対で票がスクえるとおもってたら、そうは問屋がおろさない。日本はやっとこういう分析を始めるメディアが出てきた。
 「原発ゼロ」と大口を叩きながらも、実はそれほど本気でない議員政党の一周遅れの「反対ポーズ」が「本気度うすっ!」とジャッジされて、逆恨みしているらしい。この本気でない議員たち、逆上して、東京新聞になんだか「抗議の申し入れ」をしたとのこと。日頃からメディアを「嘘つき商業マスコミ」とし赤旗ふってる(売ってる?)んだから、怒る必要性がそもそも無かろうにと思うが…。(イメージだけで世渡りしているからこうなる。またぞろ森永事件でのマスコミ記者への恫喝を思い浮かべる行為だ。)
 一覧からは読み取るのが困難なくらい少ないのだが、「ゼロ」とか言って新聞全面広告をうったりしている割に、脱原発に本気でない議員の正体がバレバレである。本来は市民がさらに厳密な検証をするべきだろうが、とりあえず、東京新聞の緻密な取材は役に立つ。


マルクス主義は原子力がお好き?

(マルクス主義を自称する理論はおびただしい数の種類があるので、個人及び、ごく一部の研究者を例外として、社会的勢力としては、むしろ「全体主義」とまとめたほうが妥当だと考える)

http://blog.livedoor.jp/karoku1991/archives/19778262.html


 上記サイトの「まとめ」は決してこのタイトルのような意味あいでのものではないが、日教の原子力政策への見解の経緯について非常によく調べている。


民主集中制の世俗体質
 東電F1原発が爆発して以降、かなりの時間をかけて、あるとき表向き豹変した彼らの姿。
 従来の「平和利用」の主張が、どうにもこうにも無理となったことから、彼らが選択した動機が、党内統制と、一転開き直りの選挙向け&市民運動介入目的のリップサービスであることはおのずと理解できる。
 従来の彼らの「三原則守って平和利用」という背景には、スターリン型ソビエトの子飼いとしての体質や、マルクス主義の全体主義的中央集権志向(民主集中制)からくる原発・原爆好きの体質ももちろんあるが、もっと世俗的には、原子力ムラの周辺部に居住する科学者・知識人・国民を取り込み、原発推進勢力の国民むけの陽動作戦に組し、市民運動の発展を背後から抑制する役割を果たすことで、先進国での民主集中制を公然と掲げる異様な組織体の存続を、大きな意味で国家から容認してもらってきたという裏面体質が透けてみえる。それは産業公害や、原水禁運動など、ミクロレベルの様々な動きをみれば明瞭であろう。

数頼みから、反省無き嘘つき集団と徒党を組むと、
市民の信頼は得られない。

 そもそも彼らが“一貫・ブレない”と念仏のように唱えても、ほとんどの国民が、ポカーンと聞いているのは、国民がそもそもこの党の政策をウォッチする必要性を感じていないから、この勢力の変わり身の早さに気がつかないだけである。この勢力に近寄られて大迷惑をこうむった人と、無関心な人との大きな落差はそこにある。一般人は、「何でも反対している党」と漠としたイメージで見ているだけだ。
 ただ、ウォッチャーから「変わり身の早い無節操な党派」と嫌悪されても、一般論として党派の軌道修正としては一概に否定されないだろう。彼らは、自党への国民の無関心度を前提として、そのような一般論で世渡りをしている。自分の足を食べるタコのような習性だ。本質的には、経営でいう「タコ配」で凌いでいる末期症状の組織だ。
 ただ、一番大きな問題は、彼ら自身が従来から、「原子力の平和利用推進」という戦略方針をもって、大きな意味で原子力ムラを側面から支え、東電F1爆発を招いたことへ加担したという責任意識が無いことである。それどころか、従来からの自党への自画自賛を延々と続けていることであり、これは、もはや政治家や公党とは無縁の姿といえるだろう。「タコ配」組織が外にもたらす害悪は、実態の詐称である。政治家としても致命傷である。さらに、彼らを脱原発の勢力の一部だと認識するのは、もちろん各人の自由だが、反省なきカルト的思想集団を味方として捉えれば、「タコ配」組織の実態を知る国民の嫌悪感と同化してしまうだろうし、他の部分で齟齬をきたすことにあるだろう。それで失うものの方が大きい。
 市民運動がまだまだ未成熟な日本では、一見「何でも反対」の党に任せておけば、なにがしかのカウンターオピニオンになるだろうと期待する、他力本願的な傍観者が多く存在する。この時代錯誤の党が、時々表に出てくる時には、そのような待機主義的な人々の存在がまだ根強く、代替勢力が成長していない日本社会の後進性を図る最適のメジャーでもある。今度実施される選挙結果でも、その後進性の変化が測定できるだろう。

保守政党から「調整弁」と小道具扱い
 社会的有用性や政治的牽制能力をすでに30年以上程度前から失っている(自ら放棄)なかで、彼らに残された選択肢は、「国民の不満のはけ口をいかに刈り取るか」しかなく、同時に、F1の爆発で「原発の安全利用」の主張では、もはや組織存続への潜在的バックアップの旨みも感じられなくなったことから方向転換をしたわけだが、その体質はなんら変化していない。

 たとえば、民主集中制の参加も数の内という平面的発想があるとすれば、また、その背景に古典的な統一戦線戦術の発想があるとすれば、それは、プロパガンダを生業とする共産主義者が、自らを偽装し、権力奪取を目的に常用・愛用してきた思想であり、権力闘争の力関係や状況が変化すれば、その「統一戦線」は込み入った謀略の渦のなかであっけなく、瓦解に導かれ、簡単に白紙撤回されたり、売り渡されたり、寝返ったりするものである。
 民主集中制のいう統一戦線戦術とはしょせんそのような発想であり、最近やたら「みんなの」という言葉を多様する彼らの癖も、その本質は同じである。
 日本の市民運動がその影響を受けているとは思いたくないが、その思想的コアを鵜呑みにせず、一端白紙に戻して、一から再構築する必要がある。すでに保守から「調整弁」と揶揄され、小道具代わりに適宜利用されている勢力である。
 スペイン内戦の教訓など、過去の血まみれの歴史にも学ぶ必要があるだろう。


カルトは10年前から市民運動を標的市場にしている
 結論からいうと、民主集中制の参加・介入が市民運動を強化することは有り得ない。宗教を含めたカルト集団の10年前からのトレンドはおしなべて、「ボランティア活動」への偽装介入である。組織を維持することが最優先の彼らにとって、潮目にあわせて自らの過去を平然と偽装し、新たな草刈場を探すといった、企業活動に匹敵するほどの臭覚は、彼ら自身の経済的要請からくる当然の帰結である。企業より無節操であるのは、人々の良心に基づく活動に表面きだけ合わせて、なんとでも美辞麗句を口から発することができる「生業」の特殊性から来るものだ。

 自称マルクス主義者は、企業の行動原理は、最大利潤の獲得だと大雑把にいうが、実際には、企業は、労働者を雇用し、労働者とその家族の生活を生み出し、地域と生産力の発展に何らかの社会的効用をもたらし、最近はCSRなど活発で、カルト政治勢力とは比較が無理なほど、地域に人的経済的、基盤的な還元をしていたりする。

 一方彼ら「自称マルクス主義者」がやっていることは、もっとも良心的な国民・市民の活動に寄生して、自分たちの独裁的「党生活」と根城の維持・延命・拡大を図るだけである。唯一、野党としての平時における国家政策への軌道修正能力がとうの昔に喪失してしまっていることは、その内部腐敗の拡大と是正能力の絶無という事実で明瞭であり、現在の日本政治における小党乱立状態は、彼らが無用となっている証左とみることもできよう。
 むしろ、ナショナリズムと全体主義的雰囲気が高揚し始めているなかで、一部のメディアが日教をカウンターオピニオンであるかのように材料として使うやりかたは、戯画的を通り越して、ワイマール共和制時の古い教訓を忘れた愚かな発想としかいいようがない。

民主集中制への橋渡しをする党派性向に警戒が必要
 市民は、彼らの接近に関して、絶えず最大限の警戒をしておかないと、「軒を貸して母屋を盗られる」こと必定である。無垢な市民運動の価値観の対極にある恥知らずな行い=「専制的で、謀略的で、秘密警察的な」行いを、機を見て平然と実行するからだ。
 さらにもっと注意が必要なのは、金や権力、名誉欲などから、或いは、諸々のマネジメントスキルの不足から専制的統制を組織に持ち込みたがる一般人の傾向である。ひとたび専制的に統制され、党派性向を有するにいたった組織は、一般市民社会からの批判やそれとの対話を回避・拒否するようになり、市民社会との整合性を断ち切り、閉じた世界に入り込む。その段階で、あらゆる種類の全体主義勢力との親和性を発揮するようになる。その後は、めぐり合わせさえ悪ければ、じわじわと、気がつかない程度の時間をかけて、専制的企業や専制的カルト的政治集団、カルト宗教、裏社会、或いはそれらの野合勢力の餌食になる可能性が高い。

新しい世代の登場に唯一の救い
 人材育成がいかに必要かは言を待たない。人間は一から社会経験を積まねばならないのだが、一方で、民主集中制組織は、長年蓄積してきたプロパガンダと言う名の政治的詐欺にためらいを持たない。どんなに貧して鈍しても、なお、存在している限り、カルト的自己完結型イデオロギー(※1 以下-補足:「科学」をもてあそぶカルト-)のもつ心的効果(精神心理学ではアディクション-共依存症-という誰にでも多少ある傾向)を利用・扇動して、意識下への同義反復型の刷り込み教育を加えることで、組織化活動をあきらめることは、まず無い。それへの対抗には、やはり、新たな市民主義の基礎的な理論体系と社会生活と政治生活の区分けへのある種の哲学をもつ必要があるだろう。

警戒すべきは、共依存体質にある全体主義の勃興
 かれらが、公衆の面前で、過去と現在、また他の分野でも行っているヨコシマな事実を封印して、「一貫してブレない、アメリカと財界に物申す唯一の党」などとひたすら虚勢を張ってみせる姿は、事実を知っている人々には唾棄すべきオールドタイプのスターリン主義であり、支持率2%以下ながらも「民主集中制」を公然と恥知らずに掲げている政党が存在する限り、将来にわたって左右の全体主義が共依存関係でもたれあいながら国民を欺き続け、国民国家と世界を混乱に導く愚を繰り返すことになろう。

補足:「科学」をもてあそぶカルト
(※1)だいたいマルクス主義を「科学」だと称して「科学的社会主義」などと簡単に言い換えて悦に入っている時点で、「カルト」である。科学の定義には長い論争があるが、過去事象の分析をもって未来を想定するのが科学ではない。それは単なる仮説である。
 科学と呼ぶ水準に合格するには、(実験等による)実証性、再現性、客観性、反証可能性などを備えていなければならない。科学における客観性とは、実証性や再現性を満たすことによって、多くの人々によって認められ、認証されているということを示しており、一部の絶対的な「真理」や「神」が演繹的に人間に下したものではない。もし、科学における客観性が、彼らのいう「人類の普遍的な発展法則」の一言で片付くのなら、人類はむしろ、動物と同じようにサバンナを弱肉強食で走り回っていたほうが、よほど自然の法則に従っていることになるかもしれない。
 マルクス主義は科学の要件のいずれも満たしていない。それどころか仮説に基づいて実験してみたら、何百万~何千万人もの悲劇的な死や人権無視、言論弾圧と情報隠蔽、暗黒政治、奴隷労働とジェノサイド、強制収容所を実現してしまい、科学のもつ要件からすべて外れてしまった。多くの人々の承認どころか、少なくとも、人類の選択すべき方向性では無いことだけが、明確になってしまった。果ては、マルクス主義者自身が,それまで敵だとして核戦争まで準備していた憎き資本主義に乗り換えてしまった。(しかもまだ現存する共産党が、産業革命期のもっとも残酷な時代を再現しても、なおかつ「新しい社会主義」と自称する隣国の体制に、羨望的まなざしとシンパシーをもっている姿は病的としかいいようがない)人類の将来は、人類が望まない限りその方向へは行かない。人類の希望を無視し、生産力の無限的解放からすべてが規定され導きだされる「人類の絶対的発展法則」など存在しないのだ。(生産力の無限的解放も実現したこともないし、永遠の未来へそれが続くという予言自体が「科学」との自己矛盾だが)
 なお、仮説が誤まりと判明したならば、別の道を選択するものだが、かれら「主義者」は、絶対にそんなことはしない。一方で失敗した仮説でも、結果が正反対となった仮説でも、存在しているだけで喜んでいる。これが「科学的」なのなら、もっとマシに「論理的な」カルト宗教もあるとしか言いようが無い。
 現状への観察でいうところの実証主義的側面からみると、「主義者」は、かつてのソビエトは対敵闘争において敵の包囲網のせいで負けただけだと言ってきた。或いは時期が悪かった、早すぎただけという。しかし、その失敗した実験を失敗したした姿のまま成功だと、嘘も方便でやりすごしてきたことに「科学」としての反省はない。「いやぁ、ありゃ認めてません」チーンで、万事いつもこれで終わりである。それに、「かつての仲間」が「負けた」「失敗した」「早すぎた」という「主義者」は、それでは、それを上回る見事な対敵闘争をしているのかというと、とても、とてもそんな風にはみえないし、だいたい幹部といわれる連中は優雅な資本主義的生活を謳歌しているのが、笑止なところである。
 それに、そもそも、誰も再現も検証もしたがらないという致命的欠陥がある。理屈屋が込み入った屁理屈で、人々に科学のイメージをよそおって接近を図っている限り、低級カルトのそしりを免れ得ないだろう。そして、こんな、もっとも粗悪な部類を利用して、出来レースをよろしくやっている一部の例外的企業には、近代資本家の風上にもおけない旧態依然企業との烙印が押され続けるだろう。


10月19日(金) 「救済監視塔」掲示板  No.843より転載
もっとも罪深いことは、歴史を欺くことだ。
投稿者 :カント



思うに…
一番、罪なことは、被害者団体自らが、原因企業の犯罪を過少評価する歴史観を自身の公刊書にまで明確に書いて、学習会などと称して自らの会員に普及して恥じることのない姿勢でしょう。

 ひと月に、お一人が5万円か10万円か、それが低すぎる保障であることは言を待ちません。だが、人間というもの、「無いよりましだ」という隷属意識で支配された場合、仮に1万円でも2万円でも文句など言わなくなるものです。その隷属意識はどこから出てくるものですか?
 それを自戒を込めて、被害者とその家族全員が、自らの長い人生の歴史に手を当てて考え直すことが不可欠です。

 では、ひとつご質問です。
 ひと月に20万円支給されることになったら、大喜びするのですか? 
 或いは、仮に、お一人30万/月、程度支給されれば、森永乳業は世界に宣伝すべき、すばらしい企業になるのでしょうか?
 
 かつて、専従者がどれだけバランスを欠いたことをしようとも、どれだけ、組織内で不正なことに手を染めようとも、どれだけ、同じ被害者を切りつけようとも、とにかく目先の金が手に入ればいいんだという考え方で、被害者も被害者の親も、踊らされ、何者かの尖兵になって、同じ親や、被害者自身までをも追い出し、「現状」を築き上げたのです。

 そして、その成れの果てに、すずめの涙程度の金銭でもって、以下のような記述を書いて恥を感じることのない状態に立ち至っているのです。そういう姿勢をまず反省すべきでしょう。

「森永乳業が、第二リン酸ソーダだと思い込んで入れたものにヒ素が入っていた」「そんな危険なものを流通させた厚生省にこそ責任がある」

 こんな(ような)文章を平気で、書籍に印字し、歴史を知らない人々へ、「被害者団体の見解」として宣伝している現状を「まとも」だと思えるのですか?

 私は、そんなことに無関心になっている、現団体のものの考え方こそ、死者の御霊を冒涜し、生きてるうちがハナという刹那主義を蔓延させ、それでもって、すべてを合理化し、歴史を冒涜し、同じ過ちの繰り返しという、将来への禍根を残すことだと、強く憤るものです。

 最後に繰り返します。
現被害者団体や基金のもっとも罪深いことは、歴史を欺くことを平然と行っていることです。



10月16日
動かぬ証拠・森永と水島協同病院の癒着  
投稿者 :パスカル
2012年10月16日(火) 9:51 「救済監視塔」掲示板への投稿№810

 ここに一枚の写真があります。それは新生児が生まれたときに、病院が配る記念品のアルバムです。提供したのは乳業メーカーです。森永、明治、和光堂などがその病院と自社の関係が深いことを示す意味で、記念品を提供するのはよく知られています。1971年ころの岡大病院小児科で生まれた新生児には森永ミルクを記念品として2缶ずつ配っていました。ある日、それをもらった母親は缶の裏をみたところ、製造年月日刻印は7年も前のものでした。さっそく知りあいの「森永告発」の会員に連絡しました。連絡を受けた知人は、読売新聞の記者と共同で調査にかかりました。記者は岡大小児科に行き看護婦詰め所が留守のとき、新生児名簿から住所を書きとりました。そこで「森永告発」の会員と一緒に新生児の生まれた家を尋ねていき、岡大でもらった記念品の森永ミルクを見せてもらいました。
 それぞれの家からもらった空き缶を調べてみると、全部7年前に製造されたものでした。そこで、間違いないことに確信をもった読売新聞記者は「森永乳業この無神経さ 出産祝いの贈り物に 7年前のミルク」(昭和46年7月30日)を書きました。それを境に岡大小児科はどこの乳業メーカーからのお祝い品も配らぬことを宣言しました。
 同じころ水島協同病院も新生児の出産祝いにアルバムを贈っていました。森永製品不買運動が始まったころのことでした。私の持っている写真では表紙には「育児記録」とありその下には協同病院とあります。裏表紙の下段には「森永乳業、森永ドライミルク」とあります。これは森永が贈ったことを意味します。協同病院は公然と「森永ミルク」を推薦していることを認めたことになります。
 これは「7年前に製造」したミルクのように世間から非難をうけるほどのことではありません。だから新聞記事にもならなかったのです。しかし協同病院は森永ヒ素ミルク中毒の被害者支援をうちだし、被害者団体自身は不買運動を控えていながら、支援団体には不買運動を要請していた時期のことです。医療生協水島協同病院はこういうかたちで、平気で運動を裏切ることはやっていたということは、わすれてはいけないことです。
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2012年10月15日(月) 13:29 投稿者:ピンク 「救済監視塔」掲示板への投稿 №798
 私は、実は、ウィキペディアの問題から、この事件をウオッチしているものです。
 ウィキペディアの書き換えは、患者への保障の水準云々より、よほど問題だとおもいましたよ。そういう自覚って、患者にあるんですか? 私は少し厳しい見方してます。

 患者が、支援してもらって当然っていう傲慢さで、歴史上の多くのボランティア・手弁当の人々を切り捨ててきたのは、一般人の側からすると、ちょっと非常識で、辛口でいけば「許し難いこと」です。

 おまけに、未だに、「一般人は患者を支援してくれて当然」みたいな考え方がありませんか?
 なぜ、私たちが、あなた方を支援しなくてはいけないんですか? 支援する人はみんなそういう自問自答の繰り返しで来ている。その自問自答が欠落しているのが患者自身じゃないのですか?

 今年はじめ、図書館で、「森永ヒ素ミルク闘争20年史」を読みました。
 240p、241p、244p、245pを読まれたことありますか? その内容を読んで、恥じるところがない、患者関係者にも驚きます。それとも金額ばかりで、歴史の経過の背景はどうでもいいのかな。

245p
「いわゆる民主的医療機関を組織している民医連関係の自主検診班のグループは、この官製検診委員会への参加に踏み切り、学園闘争における学生の訴えを真面目に受け止め、若干なりとも医学・医学界の改革に努力してきた部分については、官製検診への参加は「守る会」要求に反することになると判断して参加を拒否した。事実「守る会」は不参加を訴えていたし、自主検診によって得られたデーターの官製検診委員会での公表を拒否するよう訴えていた」

とありますし、

同じく245p
「財政的にも、これら「民医連」は「守る会」とは独立して、加害企業森永に検診費用を要求し、交通災害なみに一点単価十五円で検診費用を受け取り、検診費用を負担していた患者には一点単価十円を払い戻しているのに対して一方のグループは、全くの手弁当での参加を終始一貫守り通した。」

て、民医連が、ちゃかり商売をしているばかりか、行政と談合している事実が、しっかり書いてあるじゃないですか?これは重大なことですが、このホームページではでてきませんよね。

患者が、手弁当で支援してくれた方々に少しでも感謝の気持ちがあれば、そして、こういう事実を真摯に受け止めていたら、ここの問題みたいに、「約束守ってない」なんてことにならないでしょう。

この本を読んでいないことをまず反省したほうが良いです。最初から約束守らない連中を味方だと思ってるんだから。
このあたり、冷や汗出るくらいの反省がいるんとちゃいますか?

2002年の京都民医連中央の不正請求も、本質がまったくいっしょの事件じゃないですか。
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10月3日
雑誌「週刊金曜日」が市民主義の確立について緊急提言。

週刊 金曜日 2012年9月24日号記事コラージュ


同誌で原発反対運動の特集記事が掲載された。
 その中でもひときわ目立つのが市民主義の確立を求めるオピニオンだ。
 興味深い内容なので、市民の自覚とは何かを考えたい方はご参考にされることをお勧めする。
 筆者は、日本における市民主義については、独裁権力の変容(或いは代理人)である民主集中制との意識的な隔絶を視野に入れる必要ありとの感触を強くしているが、そこは多様な意見を認める市民主義。誌面の提言を傾聴しよう。
 佐高氏は「
政党活動をやっている者は、市民の後を歩け、と久野は教えている」と明確に書いた。(まあ、何事かに取り組んで、イデオロギー政党のご乱行でエライ目にあった経験をもつ市民は「後も歩くな! 近寄るな!」と言いたい方も多数居られるだろうが。これは今後ご乱行を間近でみれば理解できるだろう)
 この提言は、逆にいうと、未だ日本では市民主義が確立していないことを示している。また、それが深刻な障壁となって未だ存在していることもあらあわしている。これらが大きな課題であるからこそ、この雑誌は、大っぴらに問題提起を始めたのだろう。
 久野収氏の先駆的提言にも、佐高信氏の水俣からの教訓についても共感するところ大だ。



10月6日
1976年段階で、守る会の内情の一部が暴露されていた。第二弾。
「森永ヒ素ミルク中毒『資金運用に独善』 北九州の被害者の親 近く公開質問状」

(昭和51年-1971-5月23日(日) 西日本新聞 5段)

 公開質問、要求書をだすのは北九州市小倉北区朝日カ丘、事務局長田部春夫(51)さんで、九州の被害者を結集した『森永ミルク中毒のこどもを守る会』の副本部長。
 田部さんの話によると、51年度の同協会予算案では森永から支出される救済資金約5億5千万円のうち人件費が約1億8百万円、事務費4千万円など事業経費が資金の約3割も費やされることになり「多い人で一事務員に月平均30数万円の給料が与えられているなど人件費の割合が高い。この資金は当然被害者被害者救済中心に使われるべきだ」と訴えている。そして①経費節約が実行できないなら、厚生大臣は協会の設立認可を取り消し、国の行政機関の責任で救済にあたれ②同協会のあらゆる資料を公開せよ、と求めている。
 同協会は17人の理事で構成されているが、九州では結成後から協会幹部への不信が大きく、同守る会大分県本部(13人)の御手洗松夫本部長(63)も『重度障害者には物価スライドしで生活保障費が月々支払われることになっているが、実行されていない。また協会幹部は下部の意見を聞こうとしない』といっている。
 同九州本部福岡支部のAさん(42)も『協会設立時に一時金として20数万円が贈られてきたが、その後、厚生省の確認患者である子供の症状について医師のはっきりした診断がないということで、協会から一時金の返済を求めてきた。また学校へ行くため、被害者救済資金の中から、奨学金を受けているが、これも貸与の形で返済が必要となっている。協会設立は全被害者の救済に当たる、というので賛成したが、これでは被害者切り捨てではないか』と不満を訴えている。(以下略)

10月4日
1976年段階で、守る会会員の抗議の脱会が「報道」されていた。
記事の見出しは
被害者守らぬ ‘守る会’西日本新聞

ひかり協会の救済事業監視塔・電子掲示板(№767)に以下の史実が紹介された。

 「─被害者守らぬ‘守る会’─これは昭和51年11月12日付けの「西日本新聞」夕刊にのった記事の見出しです。つづいて「九州本部副本部長が脱会 森永ミルク中毒」とあります。記事『…(前略)…ひかり協会が設立されたが、田部さんは、資金運用が不明朗で、守る会もチェック機能を果たそうとしないと、厳しい批判を突きつけ波紋を投げかけている。…(中略)…田部さんは、例えば事務経費、人件費で年間予算の三割近くが支出され、九州事務所の職員に三十数万円の高給を支払っている。公開を求めでもナシのつぶて。協会の財政が営利企業のようにみられていると指摘。
 こうした協会のあり方に対し、田部さんはことし5月、厚生省や同協会に①経費節約ができないなら、国の行政機関の責任で救済に当たれ②協会のあらゆる資料の公開─などを求める公開質問書を出していた。(以下略)』
 それにしても当時の新聞記者は思い切ったことを書くのには感心します。…(後略)…」
-------------------------------
※1976年といえば、現在は同団体から禁書扱いされている「森永ヒ素ミルク中毒闘争二十年史」が刊行される前年である。
同書は被害者団体「守る会」が正式に刊行を決定したにもかかわらず、突如、「守る会」の主要な幹部が豹変し、そのほとんどが原稿の出稿を拒否、或いはサボタージュしたという異様な経過を持つ。。
同書に原稿を出していない面々を分析すると非常に興味深いことがわかる。
この西日本新聞の記事が報じる「抗議の脱会」は、この時期を境に、被害者団体内部で、おおきな変質が始まったことを示唆しているのだろう。
いずれ、その実態の詳細が赤裸々に公開されるに違いない。


回顧:女子高生コンクリート詰め殺人事件

 1988年から1989年にかけて東京都・足立区で発生したこの異常な事件のことを覚えて居られる方も多いと思う。
 数名の少年たちが数ヶ月にわたり女子高生を主犯格の少年の自宅2階に監禁し、すさまじい拷問を続けたのち死体を埋立地に遺棄した事件である。
未成年の少年が集団で実行した猟奇的拷問と殺人は、社会に衝撃をもたらした。

 この主犯格の少年の両親が、日本共産党の党員であったことは当時から週刊誌などで暴露されていたが、最近、共産党の体質を批判するサイトで、以下の赤旗の記事が公開されている。丹念に調べている。
http://blog-imgs-45.fc2.com/o/s/s/ossanman/0407.jpg
出典:http://ossanman.blog68.fc2.com/blog-entry-1763.html 
紹介先:http://kinpy.livedoor.biz/
 ここでは、同事件を、単純に「共産党員の不祥事」と扱っているわけではないようだ。また親の監督責任を主に問うものでもないようだ。とくに、サイト:http://kinpy.livedoor.biz/ が問題視しているのは、たぶんイデオロギー党派の物事への対処にみられる「ある特徴」だろう。「この記事が共産党の体質を表している」と書かれている。
 一般的に政党の党員が犯罪を犯したからといって、無条件に「その党派自体が犯罪を犯した」とは言えないだろう。それは短絡というものだ。
 だが、一方で、その政党の暗黙の指示や支持、また党派の漠然とした存在感を背景として生まれた不正な事態、党派の思想的影響・人的イニシアティブの存在などが背景に予想される場合など、党派の影響であると思われる相当の理由があれば、党派は生起している事態に対して、社会的責任や説明責任を問われる。
 また、党派の指示や路線とは無関係であっても、党員が社会的に重大な犯罪に関与していた場合は、やはり説明責任を問われるだろう。これは、法的というより、その党派のモラルの問題である。
 ところが、この記事、週刊誌の指摘を(「同事件と日本共産党が関係があるかのように報じ…」)紹介・対置し、それへの反論という形式をとって(そういう反論権は認められているが)、党派のモラルの問題を回避してしまっている。曰く(極めて簡潔に)「もちろん日本共産党とは一切関係ありません」…この書きっぷりが注目に値する、との管理者の指摘だろう。

 http://kinpy.livedoor.biz/ 氏が指摘したいのは、「“外部からの攻撃”へ反論するという構図の中で自分達の無謬性を演出することに拘泥するあまり、そういう党員を擁したことへの、本来反省すべき問題を何も書かなかった。」ということだろうか? むしろ後者を避けるために、前者の短絡的構図を、自ら進んで設定したのではないか?と疑う人もいるかもしれない。
 確かに、この記事の論理(というより、特に論理があるわけでもなく、単に書きっぷりとしかいいようがないが…)でいけば、例えば、官庁の職員が不祥事を起こしたときも、官庁は「犯罪者がなんの職業についているかは、憲法に保障されている職業選択の自由だから、もちろん関係ありません。その後辞めさせましたから余計にもちろん関係ありません」といったトカゲの尻尾きり丸出しの開き直りができることになる。
 論理展開・思考プロセスが常識的かつ良識的であるかどうかが問われているのだ。 事件解説と、この記事を並べて、双方読み比べてみると、体質の一端が垣間見られる。

と、昔を思い出していたら、こんなニュースが流れていた…。次から次へと、デタラメの連続。まるでチンピラの所業だ。

産経新聞
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120926/crm12092617390026-n1.htm
共産)町議が事故示談金790万着服で辞職 群馬・大泉町 2012.9.26 17:39

 群馬県大泉町の渡辺明町議(68)=共産=が、町民の交通事故の示談交渉代行で預かった約790万円を着服していたことが26日、分かった。渡辺氏は同日、議員辞職した。

 大泉町内で会見した安田博敏町議会議長らによると、渡辺氏は、交通事故で長男を亡くした町内の90代女性から委任され、交渉を代行。昨年3月に相手側の保険会社から示談金約3千万円を受け取ったが、うち791万8200円を弁護士費用などとして着服した。渡辺氏に弁護士資格はなく、弁護士への依頼もしていなかった。

 不審に思った女性の親族が今月4日、町の相談室に苦情を訴え。渡辺氏は当初、無実を訴えたため、議会側は証明する領収証などを提出するよう求めたところ渡辺氏は着服を認め、26日に「著しく反社会的な行為を行った」などとして辞職願を提出。許可された。

 渡辺氏は「迷惑をかけた。全額弁済したい」などと話しているという。安田議長は「信頼を裏切られ非常に残念だ」と話した。

 渡辺氏は町議3期目で、福祉・文教委員長を務めていた。

 以上、産経新聞

共産の議員、公職でも、裏で結構、悪いことしてるな!…バレたとたんに即日除名、バレなければ除名されない?しかも福祉・文教委員長やってたって?! こういう人格を公認の議員として抱えていた責任はどうなのよ、てことが世間の感覚。

て、思ってたら、今度は北上して、

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120825/crm12082513000015-n1.htm
組合費700万着服 前いわて生協労組委員長
2012.8.25 12:59
 いわて生協労働組合(岩手県滝沢村)の前執行委員長(51)が組合費約700万円を私的流用していたことが25日、分かった。既に全額を返還済みといい、いわて生協は委員長を6日付で懲戒解雇している。
 いわて生協労組などによると、私的流用は7月の監査で発覚。組合費は職員から集める費用で、生協の財産や一般の生協組合員への影響はないという。
 着服目的や期間について同労組は「本人も懲戒解雇となり、既に内部で解決した話なので明らかにしない」としている。
 以上、産経新聞

すごいな、この情報隠しへの、開き直りの態度…。
生協労組は組合員の出資で運営されている生協とは関係ないらしい。
自分達の給料は、もともと生協のお客様から頂いたものじゃないの? そういう誠実さというか常識的感覚が全くないのかな。


(「週刊 金曜日」についてのコメントを優先するため、10月3日以降の書き込みを冒頭枠の後半に配置します)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121003-00000011-mai-soci
毎日新聞 10月3日(水)2時31分配信
<福島健康調査>「秘密会」で見解すり合わせ

拡大写真
秘密会を終え、検討委員会の会場に向かう委員会メンバーら=福島市杉妻町で2012年9月11日午後1時55分ごろ、武本光政撮影

東京電力福島第1原発事故を受けて福島県が実施中の県民健康管理調査について専門家が議論する検討委員会を巡り、県が委員らを事前に集め秘密裏に「準備会」を開いていたことが分かった。準備会では調査結果に対する見解をすり合わせ「がん発生と原発事故に因果関係はない」ことなどを共通認識とした上で、本会合の検討委でのやりとりを事前に打ち合わせていた。出席者には準備会の存在を外部に漏らさぬよう口止めもしていた。

【出席者に口止め】秘密会、別会場で開いて配布資料は回収し「保秘」徹底

県は、検討委での混乱を避け県民に不安を与えないためだったとしているが、毎日新聞の取材に不適切さを認め、今後開催しない方針を示した。

検討委は昨年5月に設置。山下俊一・福島県立医大副学長を座長に、広島大などの放射線医学の専門家や県立医大の教授、国の担当者らオブザーバーも含め、現在は計19人で構成されている。県からの委託で県立医大が実施している健康管理調査について、専門的見地から助言する。これまで計8回あり、当初を除いて公開し、議事録も開示されている。

しかし、関係者によると、事務局を務める県保健福祉部の担当者の呼びかけで、検討委の約1週間前か当日の直前に委員が集まり非公開の準備会を開催。会場は検討委とは別で配布した資料を回収し議事録も残さず、存在自体を隠していた。

9月11日に福島市内の公共施設で開いた第8回検討委の直前にも県庁内で準備会を開いていた。同日は健康管理調査の一環である子供の甲状腺検査で甲状腺がん患者が初めて確認されたことを受け、委員らは「原発事故とがん発生の因果関係があるとは思われない」などの見解を確認。その上で、検討委で委員が事故との関係をあえて質問し、調査を担当した県立医大がそれに答えるという「シナリオ」も話し合った。

実際、検討委では委員の一人が因果関係を質問。県立医大教授が旧ソ連チェルノブイリ原発事故で甲状腺がんの患者が増加したのは事故から4年後以降だったことを踏まえ因果関係を否定、委員からも異論は出なかった。

また、昨年7月の第3回検討委に伴って開かれた準備会では、県側が委員らに「他言なさらないように」と口止めもしていた。

毎日新聞の取材に、県保健福祉部の担当者は準備会の存在を認めた上で「あらかじめ意見を聞き本会合をスムーズに進めたかった。秘密会合と言われても否定できず、反省している。(今後は)開催しない」と述べた。

福島県の県民健康管理調査は全県民を対象に原発事故後の健康状態を調べる。30年にわたり継続する方針で、費用は国と東電が出資した基金で賄う。【日野行介、武本光政】
以上、毎日新聞記事

↑すでに、この福島の県民健康管理調査は、当資料館制作ビデオ「福島の子ども達と森永事件の教訓」(2011年8月制作)において、福島で活動する小児科医師(元・東京森永告発)たちが問題視していたものだが、案の定の「官製検診」だ。森永ヒ素ミルク中毒事件の際、因果関係抹殺という国・森永の意向をあらかじめ受けた上で実施された「岡山県官製検診」の発想を見事に焼き直している。この国はこの60年近く、本質的には何も変化していないことを端的に示す事例だ。


9月29日19:07

NHKでもアクリル酸・トルエン燃焼が報道


トルエン燃焼?!

9月29日18:30
「日本触媒」工場で爆発、消防職員1人死亡 兵庫・姫路
朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/national/update/0929/
OSK201209290036.html

 兵庫県姫路市消防局に入った連絡によると、29日午後2時40分ごろ、姫路市網干区の「日本触媒」姫路製造所で爆発事故があり、多数の負傷者が出た。爆発の直前に同工場から通報があり、駆け付けた警察官や消防隊員も巻き込まれたという。県警網干署によると、消防職員1人が死亡した。負傷者は30人にのぼるとの情報もある。

 姫路市消防局によると、午後2時5分ごろ、日本触媒の姫路製造所から「D地区のアクリル酸の異常反応が出た。煙が出ていた」という119番通報があった。兵庫県警網干署によると、機械が過熱したとの情報があり、その冷却作業中に爆発があったという。このため、現場にいた工場作業員や警察官、消防隊員が巻き込まれ、消防車が燃えたとの情報もある。

 網干署によると、負傷者は消防隊員8人、警察官2人、工場作業員7人の計17人。消防局によると、負傷者は30人にのぼるとの情報もある。

以上、朝日新聞------------------

トルエン燃焼?
中国新聞によると、アクリル酸のほかトルエンも燃焼しているという。
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201209290168.html
アクリル酸、トルエンは、労働安全衛生法施行令の第18条の2で、「名称等を通知すべき有毒物」にあげられる化学物質である。それらを大量に貯蔵したタンクが爆発炎上したというなら、周辺住民は早急に避難すべきだろうが、そのあたりの報道が聞こえてこない。
 この二つの物質のうち、特に「トルエン」は、有機化合物である。ベンゼンと似た性質をもち、トルエンの気体は、極微量でもシックハウス症候群の代表格として知られているほど毒性が強い。
気体のトルエンを吸入すると、重篤な症状としては脳障害も指摘されている。問題の工場から北東方向にかけて800m前後しか離れていないところに住宅地がある。13時から18時にかけて、姫路市では、南西から西南西の風が風力5から1までの強さで吹いていた。この説明が周辺住民に周知されているだろうか? また、もし、トルエンが飛散したりしているとすれば、土壌汚染、地下水汚染などは相当深刻な事態となるだろう。
 放送では、事故報道は最低限にしか扱われていないようで、すぐに娯楽番組に切り替わったが、そんな定例ニュースの扱いではだめだろう。命を守るために最低限の必要な情報を確実に伝えるという報道の使命はどこにいったのか?
先の原発事故から学ぼうとしているように見えないのは被害妄想に過ぎないのだろうか?

ユニオンカーバイドの教訓
 1984年にユニオンカーバイド社のインド子会社で発生した世界最大の化学事故を記憶しているものにとって、化学工場の事故と空気の流れ、住宅街との隣接、そして、化学薬品と水との反応などは、非常に深刻な事態をもたらすとの危機感がある。
 同事故では、悪条件が重なり、有毒ガスが風にのって、住宅街に流れ込み、数万人規模での死亡者が発生した。
 製造中の反応製品がイソシアン酸メチルという化学兵器の材料ともなったホスゲン由来の毒物であることが被害を重大にしたともいえるので、今回の化学工場大爆発と全く同一視することはできないが、やはり、周辺住民への影響にさほど関心がないとしか思えない報道姿勢には疑問を感じざるを得ない。

9月27日
人の本性はどんなところで垣間見られるものか?
広島高裁岡山支部で本日9月27日、能瀬訴訟控訴審の判決が言い渡された。
被告の控訴を棄却─。
被告の不法行為を認定した一審判決が支持された。

それを受けて、
ひかり協会の救済事業監視塔電子掲示板に次のような書き込みが掲載された。
HN:ホワイト氏によるもの。

「 森永ヒ素ミルク中毒事件資料館のホームページ拝見しました。法廷の様子がなんとなくわかりました。

 一番驚いたのは、被告席に誰も座っていなかった、つまり、被告はハナから出席していなかったという報道。これを知って、被告は今後も変わらないなと、思い知った次第。

「弁論再開の申立」というのを仰々しく連名で出しておきながら、形勢が不利だとみると、裁判所にもやってこないって、その姿勢が “ドウよ!” ですよ。

 だいたい、裁判所に失礼でしょう。被告がむちゃヤラカスから裁判所の仕事が増えたんだよ。お詫びの気持ちを謙虚にもって、頭をたれて聞くという姿勢も見られない。正々堂々としていない、被告の態度には、最後の最後に、ただただ、呆れるばかりです。

 結局、勝とうが負けようが、結果に対して、責任感をもって真正面から受け止めるって、気構えがまったくない。こりゃ、彼ら、まだ変わらないよ。

 肝心なところで、逃げてばかりじゃ、脅しやゴマカシの癖はいつまでたっても治らないぜ。」



「赤旗は役に立たない」 橋下徹・大阪市長、共産堺市議の誤情報掲載問題めぐり批判連発

msn産経ニュースwest
2012.9.14 19:36
westピックアップ

 共産党堺市議団の石谷泰子議員(44)がインターネット交流サイト「フェイスブック」の自身のページに大阪市職員が懲戒処分を受け自殺したとする誤情報を書き込んだことをめぐり、橋下徹大阪市長は14日、共産党の機関紙「しんぶん赤旗」に対して「赤旗は何も追及していない。赤旗は役に立たない」と批判を繰り返した。

 政党交付金に関する考え方について質疑が行われる中で赤旗の記者とみられる男性から「政党交付金は税金の無駄遣いではないと(考えているのか)」と聞かれた際、橋下市長は「赤旗よりはまし。世の中であんな役に立たない新聞はない」と口火をきった。

 石谷議員の問題となった書き込みの中で「橋下の犠牲者が1人増えた」との記述があることに触れ、「僕は何もしていない。(職員は)自殺をしていない」と反論。その上で、「赤旗は何も追及していない」「僕が逆のことをやったら、徹底的に追及するでしょう」と批判を連発した。

 男性が「石谷議員本人の謝罪文は新聞に掲載した」と釈明したが、橋下市長は「僕に対しては謝らなくてもいいのか。そのへんの常識を問うている」とたたみかけていた。
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(驚き。橋本氏「赤旗」を「新聞」と言う。)


2012.9.5
大阪では常識と化していた?!
「ウソばかりの政党」「共産党」評

ん、まあ、こんなクダらない党派体質も金がからむと裁判沙汰になるケースもあるから、かれらの言動・動向には要注意だ。

産経新聞 2012.9.5 12:13
「書き込みは三流週刊誌以下」 橋下市長、ネット誤情報の共産堺市議を痛烈批判
『…橋下市長は記者団の質問に「共産党だから仕方がない。嘘ばかりの政党ですから」とあきれた様子で語った。』

↓この一件
「職員自殺、橋下の犠牲者」堺の共産市議がネットに誤情報 喫煙停職めぐり

↓ここにも
J-CASTニュース

http://www.j-cast.com/2012/09/05145295.html

橋下大阪市長ウォッチ
「停職運転士が自殺」と共産党市議「デマ拡散」「共産党は事実誤認とウソばっかり。3流週刊誌以下」

2012/9/ 5 16:44
大阪市営地下鉄の運転士が乗務中の喫煙で停職1年の懲戒処分を受けたことをめぐり、日本共産党に所属する石谷泰子市議(44)がフェイスブック上に「(運転士が)自殺しました」とする誤った情報を拡散したことについて、大阪市の橋下徹市長は2012年9月5日朝の囲み取材で「共産党だからしょうがない」と痛烈に批判した。


「私の知人から聞いたはなしです。是非、他言して下さいといわれました」
石谷市議は、9月1日、フェイスブックに、

「私の知人から聞いたはなしです。是非、他言して下さいといわれました。以下のとおり」

と、ネット上で拡散している文章を貼り付けた。

石谷市議が拡散した文章では、交通局の職員の現状について、

「既に、身ぐるみはがされて、ケツの毛まで抜かれています」

と表現した上で、停職処分を受けた運転士について

「先日(8月中旬、日付不詳)自殺しました」
としていた。さらに、自殺の事実が報じられないことについて、

「事実を断片的に報道し、核心的な部分を意図的にスルーすることにより、視聴者が勝手に誤解するように誘導する手口は、Mr.マリックも顔負けです」

とメディアを非難。その上で、文章は、

「また、橋下の犠牲者が一人増えました。できれば、彼を、最後の犠牲者にしてあげたいです。悲しくて、悔しくて、涙が止まりません」

と、橋下市長に対する批判で結ばれている。

(続く)
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この議員、自身のホームページで、運転手が自殺したという情報を「事実として確かめられないままに発信」と書いているが、「確かめないままに」とフツーに書かないのはなぜだろう。


2012年8月2日
サイトアクセスが10万件を突破しました。この数字は、当館トップページからアクセスされた方に限ったカウントでして、個別の論文や、当館の他のページへダイレクトにアクセスされた方の数は全く含まれておりません。ですから、実際の訪問者はこの数倍はあるだろうと想像します。取り急ぎ御礼まで。今後とも宜しくお願い申し上げます。

2012年7月27日
【再考】2009年奇妙な報道
「どこかでシンポジウムが開催されます」
 国外研究者からも閉鎖性に驚きの感想
フタをあければ一般被害者さえもが傍聴もできないという「知る権利のないシンポジウム」が、もっともらしい装いで読者に告知されている(記事最下段)。「会議の開催場所を「非公開」にしなくてはならない理由とは一体何なのか?」とのコメント有り。
(一般被害者は関係者ではないとの言い訳をあらかじめ考えた上での記事ならば、恐るべき閉鎖的な団体の活動を持ち上げたことになる。このメディアらしくない記事であることは一目瞭然。では掲載の動機は何かと探っていけば、なかなか、興味深い題材である)

粉乳中毒事件史の現在
─森永問題とは何か 
上     中     下    


2012年7月26日
学生からの問題提起
ほんとうに原発から「さようなら」するために、今、考えなくてはならないこと

ダウンロード.pdf
 謙虚な姿勢で、人間の内面性を問い、同時に脱原発を含む社会改善の市民運動のあり方を、より深く模索しようと呼びかけている。1969年に森永告発に結集した市民の精神と重なる部分を見出す方も多いだろう。この数名の学生からの問題提起が、わが国でどこまで現実的課題として受け止められるか? これから日本は、本当の意味での岐路にたたされる。

2012年7月19日
26年目の訂正 「原発はいらない」 双葉町の標語考えた少年後悔
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012071890071406.html


2012年7月13日
★企業犯罪要因の重大な歴史偽造 
戦後日本社会で歴史的に蓄積されてきた「食の安全」知を崩壊させる。

ひかり協会の救済事業監視塔」公開電子掲示板に以下の事実が通報された。
№378~382
ひかり協会の救済事業 監視塔 掲示板-------------------------------------------

No.378 なぜ第二燐酸ソーダが混入したか? 歴史の歪曲 投稿者 :おじいさん 2012年7月12日(木)

 現被害者団体 「森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会」 さんは、森永さんにお話をしているというが、第2リン酸ソーダ混入の経緯について、つまり事件の核心部分について、どのような見解をお持ちなのか、調べてみた。   
 現団体は、1991年頃から以下のようにのべている。

「 4. 森永事件は何故おこったのか。 
食品健康被害として「食」に対する重要な警告を教えている。森永乳業は、粉乳の溶解度を高める乳質安定剤として、第二燐酸ソーダを使用していた。事件の経過を見ると、この「第二燐酸ソーダ」に、ひ素等の不純物が入っていたことにより起こった。当時乳製品に第二燐酸ソーダ使用の法的規制はなかったとはいえ、使用にあたって徳島工場では、工業用の第二燐酸ソーダを何らの品質の確認をしていなかったのである。分析結果では、とても「第二燐酸ソーダ」とはいわれるものではなく、日本軽金属清水工場の廃棄物にすぎなかった。この経緯を見ると、1954(昭和29)年頃日本軽金属清水工場で、ボーキサイトからアルミニウムを製造する過程で廃棄物が大量に産出されて、利用法を紹介していた。これを脱色再結晶したところ、燐酸ソーダらしき外観を呈した。しかし、成分は到底第二リン酸ソーダといえるものではなく、ひ素等の化合物を大量に含んだ有害物質であった。松野産業は、これを第二燐酸ソーダと称して、協和産業を経て森永乳業徳島工場に納入したのであった。この過程で日本軽金属は、1954年(昭和29)年静岡県を通じてひ素含有データを示し、厚生省に指示を求める伺いをしているが、厚生省は「注意されたい」程度の見解を返答したのも事件発表後の1955(昭和30)年11月であった。もちろん静岡県も格別な措置を採らず、市場に出まわった。人間の生命を奪う物質が、何の品質管理もせず、商品として流通している事実の中に、人命軽視の行政の姿がみえる。森永乳業もまた「第二燐酸ソーダは本来ひ素など含むものではない、協和産業が何の説明もせず納入した。会社は何の疑念も、もたなかった」という理解を、1973(昭和48)年2月会社発行の「森永パンフ」で述べていることに注意したい。」
「守る会運動の歴史から『三者会談方式』を学ぶ」より「森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会」 1991年6月23日発行

おいおい、おいおい!
文末の「注意したい」って一言でなんだかあいまいにしているつもりだろうが…。そんな言い分は通用しないほど、この解説のフレームは「よく考えて」作られている。だが考えたのは「被害者団体」ではない、5人委員会だ。
これなら、一番の責任者は厚生省で、やばい薬品が流通していて、森永は、そのやばいものをつかまされた被害者という、5人委員会の御用学者のデッチ上げたフレームワークと同じになる。
森永無罪を導いた一審に、ほぼ完全に沿った内容だよ。
おどろき!
森永さんに、いったいどんなお話をしてるんでしょう。
歴史を語る資格なし、というより、歴史を偽造するな、ですよ。
正確にこの事件を知りたいなら
砒素ミルク1. 2.がありますし↓
http://ww3.tiki.ne.jp/~jcn-o/morinaga-hiso-jiken-no-jissou-syousai-hm1.htm
中島貴子氏の精緻な論文もあり↓
http://ww3.tiki.ne.jp/~jcn-o/morinaga-hiso-nakajima-takako-ronbun02-nihonno-kagakusya.pdf
ウイキぺディア事件解説書もあります。↓この改ざんを行った者の思考と瓜二つ。
http://ww3.tiki.ne.jp/~jcn-o/morinaga-hiso-wikipedia-kaihen-pdf-ver1.pdf 9P以降に詳説
森永の社員さんはまじめにものづくりしたいのなら、後者の3~4本の論文をまず最初に読んだほうがいいよ。
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No.379 Re:なぜ第二燐酸ソーダが混入したか? 歴史の歪曲 投稿者:匿名希望 2012年7月12日(木)
なんだ、これは…えぇ?
これって、5人委員会と同じ見解じゃないの。砒素ミルクシリーズ読んだ1万人以上の当時の市民は、これみたら、腰を抜かして、びっくりするよ。
もはや、腐敗とか癒着とか、そんな複雑な話じゃなくて、被害者団体が、森永そのものになってる。
しかも加害企業として被害者を残酷に弾圧していた時代の露骨な森永の姿そのものじゃないの。
30年前から、森永側弁護士への内部資料提供の決定などといった裏切り(こんな公然たる裏切りってのも珍しいがね)を始めて、21年前からは、同じになってたのね。
もう、言葉がないね。恥を知りなさい、です。
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No.380 Re:なぜ第二燐酸ソーダが混入したか? 歴史の歪曲 投稿者:フィフィテ2012年7月12日(木)
ようするに「結果回避義務」をしっかり隠しているのさ。  [返信]
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No.381 第二燐酸ソーダのこと投稿者 :本当に怒っているオジサン 2012年7月13日(金) 8:46
被害者団体がなぜ自分なりの意見を述べないで、加害企業発表の「混入経路─原因」を「ウノミ」にしているのか、その答えは「守る会運動の歴史(学習版)編纂委員会」のメンバーにカギがある。守る会副理事長・大槻高、副理事長・古賀重明、事務局長・岩佐義明、事務局次長・平松正夫、常任理事・鎌田浩。の面々である。
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No.382 歴史偽造の背景 Re:第二燐酸ソーダのこと 投稿者:カント2012年7月13日(金) 9:57
>被害者団体がなぜ、自分なりの意見を述べないで、加害企業発表の「混入経路─原因」を「ウノミ」にしているのか、その答えは「守る会運動の歴史(学習版)編纂委員会」のメンバーにカギがある。守る会副理事長・大槻高、副理事長・古賀重明、事務局長・岩佐義明、事務局次長・平松正夫、常任理事・鎌田浩。の面々である。----------
この問題は重大です。モラルの問題を通り越している。どう表現すべきか悩みます。
が、先般紹介されていた歴史研究者の指摘は、「加害企業の手先に成り下がった」という簡単な結論では済まされない、深刻な日本社会全体の問題点を衝いていると思います。今の福島での東電と国策原発政策がもたらした人命と国土汚染犯罪への追及のあまりのヌルさという現状にも通じる問題です。やはり原点は、いまだに戦後の産業公害に網羅されていますね。
引用します。

「岡崎哲夫が 『人間社会のヒューマニズムの限界に挑』 み続けなくてはならなかった理由は、日本的 『ヒューマニズム』 が、こうして人を利害的関心に還元し、そこから命題の 『正/誤』 を評定する志向を持ち続けるからである。ならば、わたしたちはこの閉じ込められた知を、あるべき手順に従って開いてゆかなくてはならない。そもそも不寛容─循環論証の誤謬─に寛容なヒューマニズムなど存在し得ないのだから。」  (「こうして人を」の「人」に傍点有り)
「粉乳中毒事件史の現在─森永問題とは何か─(中)」戸倉恒信著 月刊「むすぶ」 ロシナンテ社刊

ちょっと難解ですね、素人解釈で恐縮ですが、(筆者の意図と違ってたらすみません)私は、以下のように翻訳しています。

“人道的価値判断さえ経済的利害関係を基準にして黒を白と言いくるめてしまうのが、現状の日本的エセ「ヒューマニズム」である。それはたぶん、この半世紀、本質的には変わっていない。戦後の高度成長からバブル、その後の数十年にわたる精神的停滞期のなかで、依然として、過去の“成功体験”が国民感情から払拭しきれずにいるのが日本の現状である。
そこから、─ 金のためには、事件の被害者が“当事者という錦の御旗”をたてて、社会的知見にかかわる重大事件の歴史の偽装さえ、ためらいなく行っている ─。 彼らは “私どもの森永ヒ素ミルク中毒事件” などという発言をためらいも無く行うが、そんな妄言に基づく循環理論で市民社会からの問題提起を圧殺することは、古今東西決して許されないことであるし、それをすれば社会への罪である。そのことを、そろそろ社会全体の責任として公開議論のなかで問題にし、再検証せねばならない時期になっている。そうしなければ、日本社会のヒューマニズム自体が、前述のような循環理論の罠(=誤謬)の蔓延で、このまま、大崩壊していくことになるだろう。”  [返信]

ウエブサイト「ひかり協会の救済事業監視塔」公開電子掲示板に公益通報を呼びかけるメッセージ

【公益通報(内部告発)の呼びかけ】
No.383 ひかり協会と守る会の職員さん毎日ゴクロウサン 投稿者 :やさしいオジサン 2012年7月13日
いくら仕事とはいっても、毎日毎日これらの貴方たち組織への批判を一つ残らず「ダウンロード」して、それをまたコピーして上役に配るのは、おつらいことと「ご同情」申し上げます。そのうち、どうも我が方より相手側(この掲示板)の言っていることの方が、真実性があるとお気づきになりましたら、そしていっそ職場を変えようかと思うようになり、本当に転職なさった暁には、こちらのほうへご一報ください。ひかり協会在職中のご苦労話など承りたいと思います。しかし、くれぐれも短気な行動はお慎みください。「耐えがたき耐えて」その間のことを細大もらさず、記録にとどめてください。それが公になるとき「何かが変わり」ます。あなたは「何かが変わる」ことに貢献したことになります。だまっていれば、なにも変わりません。あなたたちのご健闘を祈ります。
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No.384 Re:ひかり協会と守る会の職員さん毎日ゴクロウサン投稿者:公益通報 2012年7月13日(金)
公益通報者は、わが国でも、勇気ある正義の行為者として2006年4月より法律で保護されるようになってます。「公益通報者保護法」つまり内部告発を行った労働者を保護する法律です。

内部告発する場合の注意は、仲間に相談したり、仲間を募らないこと。これは、労働組合を結成する時などとは異なる点です。
通報すると決めた場合は、自分の良心のみを信じてください。その後は媒体によって審査され、世論が判定するのです。

まず、一次書類や証拠をじっくりと蓄積し、それを安全な場所に保管したうえで、複製を必ずとって、マスコミの全国紙の複数社(とりあえず、一社でもかまいません)に送ります。政党機関紙なんかには絶対に送ってはいけません。
状況によっては、あらかじめ電話して郵送するのも有りです。(組織内部で、内部告発への脅しが、あらかじめ行われているような場合には、安全保障も兼ねて、メディアへの通報後、警察へ通報してもかまいません。)
資料送付の場合、通報者の自宅の連絡先は必要です。まずメディアは、通報者へ裏取りの第一弾で連絡してきます。(いきなり通報先へ取材をする記者は、トンデモか、思想的内通者ですから、その社は相手にしないでください。なおトンデモ記者によって不利益をうけた場合はメディアの重役に連絡して下さい。)このサイトで、問題が指摘されている一部メディアは避けたほうがいいでしょう。

この場合、監督官庁は信用してはいけません。すでに、このサイトの管理者は内閣府にまで通報していますが、実際にはもみ消されているようです。なんせ天下っているんですから。

仮に職場に居続けて、その後の成り行きを当分見ようとする場合は、情報の出所が悟られないようにする工夫が必要です。周囲には反抗せず、協調して、仲良くしていたほうがよいですよ。大体、悪事を働く連中は、日頃から反抗的な人間をまず疑うのです。ただ、一応全員疑われますから、居続ける場合は、役者になる覚悟が必要です。私としては、居続けるのはお勧めしませんが。
もっと効果的な方法もありますが、ここは公開の掲示板なので、言いません。

ところで、内部告発を「ちくり」みたいに捉える人がいますが、勇気ある内部告発者がいなければ、今、世界の空を飛んでいる二階建ての大型ジャンボジェット機は間違いなく墜落しているだろうということを、その人は知らないだけです。トラックの大型タイヤも未だに、はずれまくって、路上を暴れまわって、人を死なせていることでしょう。
内部通報は、大昔から、この無茶な世の中を正す正規の手段です。[返信]


--------------------転載にあたり、明白な誤字、リンクミスは修正した--------------

2012.6.30
脱原発 6.29首相官邸前 数万人の抗議行動
緊急!大飯原発再稼動決定を撤回せよ!首相官邸前抗議~空撮チャンネル 第1便 USTREAM─http://www.ustream.tv/recorded/23641517
─市民運動に乗じて党派色を表面化させる一部動きあり、との警戒も─

2012.4.11
★日本で始まったアジアの春? 
東京大学 教養学部 学生自治会が、
日本共産党
の「不当な支配」との決別を宣言
大学自治会を隠然と支配していた冷戦構造の残滓イデオロギーが音をたてて崩れ始めた。
産経新聞報道 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120618-00000062-san-soci
    
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/education/569549/ 


東京大学の教養学部学生自治会が、日本共産党の支配・介入から脱退する、との声明
2012.4.11
東京大学の教養学部学生自治会が、日本共産党の支配・介入から脱退するとの声明を発表した。6月に入り、大手メディアが取り上げるにいたって、全国的な話題を集めているようだ。ネット上でも若干の資料が公開されている。
東京大学の教養学部学生自治会ダウンロードページ 「新フェス説明文」「新入生フェスティバル説明文ポスター」参照
それによると…

「…(前略)…東大教養自治会は長年、特定党派(日本共産党)の介入を受けてきました。そこで、今期の正副委員長・常任委員会は「学外からの党派的介入を排し、自主的な運営を確立する」という方針を決定し、学生自治会の在り方の転換を図っております。その中で、正副委員長・常任委員会としては、同党の強い影響下にある、全日本学生自治会総連合(全学連)、東京都学生自治会連合(都学連)からも脱退の意志を明確にしています。…(後略)」
(2012年度全都新入生歓迎フェスティバル(新フェス)への参加について 2012年3月29日 東京大学教養学部学生自治会正副委員長 より抜粋)

どんなところでも、過去とのしがらみを断ち切り、新しい道へ踏み出すのは、勇気のいること。それを決断した学生に、敬意を表したい。
※これについての面白い論評

Japan Business Press
「ついにとどめを刺される「全学連」
東大の自治会が引き起こす社会運動史上の大事件とは」

日本でもようやく始まったアジアの春?
クラウド上に記録された国立大学自治会による日本共産党の介入支配からの脱会ノウハウ


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東京大学新聞
2012年6月19日号 - 就職特集号3
全学連脱退を正式決定 学生自治会 代議員大会で承認
 教養学部学生自治会は、14日の代議員大会で、全日 本学生自治会総連合(全学連)および支部の東京都学生自治会連合(都学連)からの脱退を決議した。大会では、学外党派からの介入を排除する旨が盛り込まれた基本方針も可決され、学生の意向を反映しやすい自治組織に生まれ変わる。

東京大学新聞
2012年4月 3日号 - ニュース
新フェス不参加へ 学生自治会 共産党の介入も明言
 教養学部学生自治会は3月29日、2012年度の全都新入生歓迎フェスティバル(新フェス)の運営に参加しないことを明らかにした。インターネット上に公開した文書で発表した。また同じ文書の中で、自治会が長年にわたり日本共産党の介入を受けていたことも明らかにした。自治会は1月、過去に学外団体の介入を受けていたことを認めていたが、その名称は明言していなかった

東京大学新聞
2012年3月21日号
自治会介入共産党回答 直接の言及避ける 学生への指導・援助は認める
 日本共産党東京都委員会は、学生団体で活動する学生党員に対して指導・援助を行ってきたことを認める一方、教養学部学生自治会への「介入」の有無については明言を避けた。自治会がツイッター上で外部団体からの「介入」を認めたことに関する東京大学新聞社の問い合わせに回答した。日本共産党員の学生が党員であることを隠し、党職員の指示に従って自治会活動に参加してきたとする自治会の発言の真偽は、回答が得られていない。

東京大学新聞
2012年3月 2日号 - 入試解答号
学外党派の「介入」示唆 教養学部 学生自治会
 教養学部学生自治会はツイッター上で1月、長年にわたり学外団体の「介入」を受けてきたとする一連のツイートを発信した。ツイートは「東大教養自治会(東CZ)正副委員長」のアカウント名で発信された。同会の五十嵐真純委員長は東京大学新聞社の取材に対して、このツイートが五十嵐委員長本人が発信したものと認めている。学外団体の名称は明らかにされていないが、日本共産党を指しているものとみられる。

 参考資料(党派等のカルト的支配から脱却することの大変さがわからない人向け)

 産経新聞報道
 
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120618-00000062-san-soc
i
 http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/education/569549/ 
 産経記事
 http://photozou.jp/photo/show/2332241/139752369
 ★現実認識の弱さ指摘する意見
 http://kinpy.livedoor.biz/archives/52017912.html
 毎日新聞記事 写真
 http://mainichi.jp/select/news/20120615k0000m040080000c.html
 http://photozou.jp/photo/show/2332241/139323989
 反論のつもり?
 http://livedoor.blogimg.jp/busayo_dic/imgs/6/a/6ae37831.jpg
 「私の名前が全部Aにされました…」
 文革時代の人民裁判を皮肉っているところがおもしろい。
 http://kinpy.livedoor.biz/archives/52017256.html
 ★組織への党派支配から脱却することの大変さがわからない人へ
 http://kinpy.livedoor.biz/archives/52017494.html
  
「…(前略)…言い換えると全学連脱退は、ヤクザの事務所追い出し運動の先頭に立つくらいの恐怖心を克服してやること。それを理解していない人が多いなぁと思う次第。…(後略)…」

言いえて妙、というところか? 何事も、火中の栗を拾い、当事者になってみないとわからない事が多いものだ。評論家・傍観者で開き直っている限りは、せいぜい「モノ知り」どまりがいいとこで、世間の本当のところはわかりようが無い。


 ↓東京大学教養学部の自治会の活動風景や、学内状況が
 写真アルバムで一般公開されている。(スライドショー可能)
 自治会への党派支配から英断でもって脱却した学生たちから、
 いまや嘲笑の的になっている「あるもの」とは?
 http://photozou.jp/photo/show/2332241/139328394

 何ろく氏のツイート
 プロフィールには、教養学部人文地理/
 自治会前委員長/駒場民青・日本共産党「脱会者」とある
 https://twitter.com/#!/karoku1991

 「事実」とか「真実」とか「毅然」とか「革新」とか「物言う」とか「清潔」とか「平和」とか「民主」とかの日本語を、ここまで無意味化し汚しきった党派勢力というものは他には見当たらない。

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2012.3.1 
重症被害者家族が告発のウエブサイトを開設。


ひかり協会の救済事業監視塔

財団法人が、被害者に支給済みの手当てを26年間さかのぼって返還せよと、277万円の請求書
 驚くべき、救済基金の実態と、被害者家族への抑圧行為がサイト内で暴露されている。 倉敷市の重症被害者の父親・榎原伊織氏は、「ひかり協会」の救済への異論を提示すると、「ひかり協会」から請求書が送られてきたそうである。その内容というのが、奇妙で、「26年間支払ってきた手当金額を間違って多めに支払った。多すぎるから最初までさかのぼって返還せよ」という「誤支給」のような要求であったという。ところが、初めのうちは金額さえはっきり示されず、「誤支給がある」という話の内容がよく見えない状態であった。ところが「協会」への批判を続けていると請求書が送られてきたという。その額なんと、180万円。さらに奇怪なことに、その後、請求金額が増えて、最終的には277万円の巨額に至っているという。そもそも過払い金請求には時効制度があるはずだが、それも敢えて知らせずに26年間とは…。
こんなことが日本社会でありうるのだろうか? 
 これだけでも目を疑う内容だが、この話には、続きがある。

裁判でやっとこさ公開された文書をもとに財団法人が本来被害者に支払うべき金額を計算しなおすと、今度は500万円超の過少支給。
 その後、、榎原氏が能瀬訴訟を通じて知りえた、「ひかり協会”の被害者に対する本来の支給基準となる文書」をもとに計算し直すと、今度は、26年間で「ひかり協会」が本来払うはずであるべき手当てが、実際には5百万円超も削られているということが判明したという。ちょっと、表現のしようがない、むちゃくちゃな実態が正確な数値データとともに明かされているから驚くほかは無い。
 (この32項目にのぼる 陳述書 には同氏の愛嬢への思い、森永への怒り、そして腐敗した組織への憤りが、切々とつづられている。岡山地裁へ提出された文書のようだ。)
 とすると、裁判所はどのような判断をするのだろうか。そして、公益財団の資格認定にも関わる重大な内容が提起されたことになる。
このような異常事態に対してどのような対応が行われるのか、今後の推移から目が離せなくなった。

2012.2.12
やっぱり、こちらの業界でも、しでかしている…。あえて紹介しておきます。だいたい、現実はややこしいものです。

 いいんだよ、推進なら。それはそれで、一つの考え方だから、堂々と主張すればいい…。はっきりと、「本音は、推進なんです」と言えば良い。逆のことを言うから、国民がだまされる。前々から正体を知ってる人はいいが…。これほど、開き直って二枚舌を使われると、人というものを多少は信じたいと思っている人には、理解不能。こういった苦情、国民生活センターは受け付けてくれないんだろうか?
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資料1.
原発推進派の“親玉”とも手を結び始めた
原子力政策の裏と表
やっぱり、この記事…
資料2

広瀬隆氏の紹介では、以下のように書かれている。
ウイキぺディア「広瀬隆」2012.2.13
…(前略)…『危険な話』の出版後、日本共産党系の『文化評論』(1988年7月刊)は記事「広瀬隆「危険な話」の危険なウソ」を掲載した[2]。『文芸春秋』(1988年8月刊)は前記の記事を改稿した「デタラメだらけの『危険な話』」を掲載した[3]。広瀬はテレビ番組で反論を行っている[4]。また、日本原子力文化振興財団は『つくられた恐怖 「危険な話」の誤り』を出版した[5][6]
…(後略)

2. 『文化評論』通号329、1988年7月。 記事の執筆者は野口邦和(日本大学専任講師、放射線化学・放射線防護学)。 …(中略)…
5. 「政界ジャーナル」編集部・監修『つくられた恐怖 「危険な話」の誤り』紀尾井書房、1989年、ISBN 978-4765610551。紀尾井書房刊は日本原子力文化振興財団が作成した三部作の小冊子『『危険な話』の誤り』を一冊に編集した書籍。


ウィキペディアのこの部分は、わりと知られている事件。しかし、なんだか、あらゆる方面で無茶苦茶やらかしている。
   『フクシマの嘘』ドイツZDFの30分番組2012/03/18 UL ZDF

本来は、東京電力福島第一原子力発電所事故のウソ、或いは、原子力ムラの嘘というべきだろう。投稿者 sievert311 同時に、「日本を包む大きな嘘」というべきかもしれない。

復興日本ページへ。 岩手県陸前高田市 まだ多くの地域が海水に浸水したままだ。







2012年1月29日(日)放映
NHK 証言記録 東日本大震災
シリーズ第1回
「岩手県 陸前高田市」~消防団が見た巨大津波~

 観終わったあと、どうにも、言葉が見つからなかった…。
 終わらない、終わらない、と心の中で呟く自分がいた。

 3月11日、私は、ある施設の耐震構造に関する検討会に参加していた。ちょうどその時、岡山にも揺れがきた。
 友人から第一報が携帯に入り、会議出席者の携帯電話のワンセグには、すでに津波の光景が入り始めていた。
身震いがした…。

 昨年8月、陸前高田市へガレキ撤去に行こうと決めたのも孤立した街を地域の助けあいが支えたという報道を聞いて非常に印象にのこっていたからだ。

 数日後、復興支援といえば当然支援だが、むしろ、学びに行かなければならない、となった。

 主催者が、高校生に呼びかけると100人以上の応募があり、当初の計画を大幅に超えてしまったので、バス2台、60人という制限で、一週間お手伝いに行くということになったらしい。

 夕方、県庁前を出発して、一夜あけた朝、山あいから陸前高田市の市内へ入った瞬間、全員の言葉がなくなった。
 それまで、何度となく聞いて、なんとなく、わかっていたつもりになっていた「津波のあとは何も残らないのだ」という言葉が、現実との大きな乖離を伴って、脳裏によみがえってきた。それは簡単に表現しようがないものだ。まさに、被害とは、容易に言葉にまとめきれないものだと改めて実感した。

 そのような体験を思い起こしながら、今回の番組をみた。陸前高田市への思い入れもあるのだろうが、これまでに見た震災の番組のなかで、もっとも印象に残ったものの一つとなった。
 彼らの気持ちからは、戦争の修羅場から生き残った人々の気持ちや、また、公害で多くのものを奪われた人々に通じる、えもいわれぬ「理不尽への割り切れなさ」といったものが伝わってきた。

 彼らの思いを、1時間で伝えることは到底、無理であろう。ただ、その「無理だ!」という叫びが、ずしんと、伝わってきた番組でもあった。

 犠牲になった仲間に献杯をして語り合い、いつまでも記憶にとどめ顕彰し、声なき声に耳を傾けながら、多くの仲間を失った消防団の任務を再確認し、自問自答しながら、新たな目標に向かって再起をかけて生きる人々の姿こそが、先に逝った人々へのせめてものはなむけとなることを祈らずにはいられない。

 忘れない、いや、終わらない。それが現実だ。

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昨年共にボランティアに参加した人から感想が寄せられた。

「今回番組を拝見して『たまらない』というのが一言での感想です。

 私も昨年夏、被災した陸前高田市へのボランティア活動に参加し、ガレキ撤去をしました。岡山から団体60名での参加ということもあって、大型バスでの移動で活動現場で作業のみを行いました。したがって、現地のボランティアセンターの方とお話しすることはあっても、ほとんど住民の方との交流はできませんでした。当時も、住民の方からの体験を聞きたいと思っていましたが、まだ、被災されて間もない時期でもあり、ボランティアとしてガレキ撤去をして現地を見ることが大切だと思っていました。

 今回の番組での消防団の方々のお話は、生々しく、団員の方々の無念さとジレンマがすごく伝わってきました。家族を亡くされ、今までの生活が一変し、震災で多くの傷を背負いながらも、これから自分の生活も街も再建させていかなければならないと言い聞かせながら生きている姿に、たまらなくなりました。取材する側も取材される側もしんどい作業だと思います。でも、とても良い番組を拝見できました。私が住んでいる岡山では、やはり被災地との温度差があります。映像を通して、多くの方が被災地に寄り添う気持ちが強くなったと思っています。」

NHKの証言シリーズは以下のサイトに予定表が掲載されている。
http://www.nhk.or.jp/ashita/shogen/

☆☆☆☆☆☆☆☆
    
2012.1.25 
またか
日本社会の混乱の哀しみに嬉々とする「前衛」ってなに?

独裁支配にためらいを持たなくなる共産主義の組織論 民主集中制=独裁 を正当化する基礎理論  レーニン主義「外部注入論」 PDF:200KB




 昨年末あたりから、「二大政党制が破綻!」と、公然と大喜びする某(自称?)「前衛」勢力。「大躍進」とネーミングまでしているらしい。

産みの苦しみとして、熟考・思案している国民が多いのだが…


 “ついにマルクスが復権した、いまがチャンス”と、中央は、カツを入れているらしい。

人の不幸に乗じて、錆付いたイデオロギーを復活させたい


 結論では、“マルクスを国民に注入するには、「ソ連の覇権と長年闘ったと宣伝することが要」だ” と…。
「ソ連・中国=共産主義の核兵器は平和の核兵器だ」と長年主張してきて、平和運動をむちゃくちゃにしてきたのに…



 なんで、そう思い込むのか? 
 “福島の怒りが我々の勢力拡大の源”と明言。

福島の被災者を、結局のところ飯の種にするつもりか?


 
さらに、大金が絡む被害補償の動きには敏感に触手を伸ばし、民主集中制傘下の組織が現世の利益を求めて被災者の窮状に「救済」と称して近づき、どこかの基金方式を売り込み?
 ビジネス拡大のチャンスと色めき立つのは、さながら、貧困ビジネス・震災資本主義集団。
 おまけに、“自民党系傘下組織も取り込みが可能となり、我々にチャンスが巡ってきた”と、無節操なハッパがけ。“米国政権にいた経済学者もマルクスを評価したと言った”と活気づく。日頃は「米帝」でも褒められると、うれし涙?
 やっていることは資本主義政党と同じなのに、スローガンはマルクス?
 「大手メディアは翼賛報道」といいつつ、「しんぶん」も組織も、翼賛会化…。知らぬが仏の構成員、すでに数十年前からカルト宗教化している。
 「大企業の横暴な支配を批判できるのは我々だけ」、とこれで、よく言えるものである。結局、最後は、このグループも現世のカネ。集金能力はかなりある。美辞麗句の鎧をまとった、その分け前にはいかほどの旨みがあるのだろうか。

 史上稀に見る親不孝ものが、日本では、不条理な苦しみにあえぐ人々の前では、いまだに大きな顔をして闊歩している現状は見過ごせない。いろいろな住民運動で、あたかも大資本や国家と歩調を合わせるかのように、苦しむものを背後から切りつける行為を続けてきた卑劣な歴史を、多くの人々は忘れない。ソヴィエトとの連携もさることながら、あくどい一部資本との連携にも長い歴史がある。

 住民運動組織に浸透をはかり、情報を集め、人間関係を探り、時機をみて急浮上し主導権を牛耳れば、社会からの監視を排除し、内部の料理をはじめる。 
 人道にもとる行為を批判する人物への誹謗中傷を一定期間じっくり行い、外堀を固め、良識の主張を「みんな
(※)に迷惑をかける」異論を言い張る者として、一斉に「路線問題」にスリかえ、組織内の人民裁判的査問、言論弾圧、構成員(みんな)への扇動、謀略的情報操作、スターリン的満場一致礼賛主義、誹謗中傷、監視、暴言、隠蔽、プロパガンダ、嘘、そして物理的追放…、と見境がなくなる。

(※ この勢力、「みんな」という文言が大好きだ。まことに、かわいらしい言葉だが、いったん使い方を間違えると凶器にもなる。特に、「みんなでやったから正しいのだ」とのロジックに悪用した場合だ。外側には民主主義を千も万も語りながら、組織内では、民主主義を単なる多数決と強弁する、超・ご都合主義的短絡思考。 これが下で紹介する「外部注入論」が導き出す「前衛」論の罠だ。
ソヴィエトでの数百万人以上にのぼる自国民への粛清も、見事に「みんな」=全員でやった殺戮だ。カチンの森では、ポーランド将校をみんなまとめて殺害した
これもみんなで決めてやったことだ。










 カネに心を売った人間の浅ましさが美辞麗句を鎧にして全開する。彼らが外側に「敵」と宣伝する、その「敵」が使う半非合法の手段を内部には平然と適用するのである。
 それでいて、その二面性を恥ない。
 究極の言い訳は “敵の世界も同じようにしている”だ。
 この合理化論法に、意外に構成員は黙ってしまう。なぜなら、たいてい、そこには利害関係や金がつきまとっているからだ。拝金主義をくすぐる。現世の利益のためには手段を選ばずとなる。                     

 「目的のためには手段は選ばず」というイデオロギー。だが、所詮、その最終目的は「赤い貴族」の利権の確保だ。

 「庶民の感情はプロパガンダで、なんとでもコントロールできる」と構成員に信じ込まさせ、労働力として動かす、よく出来た思想である。

 このような、マルクスやレーニンが開発し、旧ソヴィエトで全開・到達した殺戮の嵐の源は、単純にスターリン個人の性癖に帰するものではない。

 それは、マルクス主義そのものに内在する思想的源流と、その思想の実行を旗印にするところから生まれる「民主集中制」という民主主義の根幹を捻じ曲げるプロレタリア独裁(執権と言い換えても同じ)、つまり権力の平行移動による社会の単純理想化論である。もっと本質を衝けば、とどのつまり「人間解釈の単純化」である。

 彼らの基本思想、とくに組織論の中核をなす「外部注入論」をあえて、ご紹介しておく。最終的に、この思考方法に縛られたい方がどの程度おられるかは別として。皆さんの団体が浸透戦術の対象にされ、最終的にイニシアティブを奪取されて乗っ取られたくなければ、この思考方法の悪質さは一通り知っておいたほうがいい。

 レーニン 「外部注入論」 のロジック
【前提】
 「資本主義から共産主義への移行は歴史的必然だ。


必然といっても、だれも検証していない、摩訶不思議な唯物史観の主張。最近は絶対に口に出さないが、潜在意識下では、ソヴィエトなどを想像して郷愁にふける。




 それを担うのは資本家にいじめられているはずの労働者階級だ。
 マルクスの資本論や剰余価値学説は、これをまず定義するところから始まる。したがって労働者の方が、圧倒的に数が多いから、資本家を打倒する革命は、労働者階級が実行すべき“義務”となる。だから革命は労働者階級の“歴史的使命”だ。

 だがしかし、ここからが最も重要だ。ある意味で、【前提】よりもはるかに重要。いや現世では、【前提】など、数千年先の事にして、むしろ真面目に実現の努力などしなくて良いことにしておいた方が都合が良い。議員や傘下組織が増えることで、さまざまな利権にアクセスできれば十分だ。マルクス主義に続くレーニン主義で完成された、以下の論理構造だけ活用できれば、その管理が容易となる。資本主義を批判しながら、もっとも時代遅れの資本主義的内部統制が正当化できる。それだけで十分だ…。

 まず、レーニンに言わせれば、労働者階級が自らの歴史的使命を自覚することは不可能なのだ。なぜなら、労働者は日々工場で奴隷のように働かされているから、物事を考える力は無いのだそうだ。

 ゆえに、目先の事しか考えないのが労働者というものだ。
 せいぜい考えれるのは改善
(※)だ。

(※)ちなみに、「改善」とは、トヨタ生産方式のことではない。「革命ではなく小手先のことしか考えていないのが普通の労働者」という侮蔑的意味が込められている。日々、町内会の活動に腐心する小生などは、論外の下らない奴なのだろう。






 ゆえに、労働者階級は“歴史的使命”に自分からは気付かない。
 ゆえに、労働者階級の“歴史的使命”への自覚は労働者階級の内部から自然には生まれない。
 ゆえに、革命への道筋は労働者階級以外の者から示されるのだ。

 ゆえに、“ 労働者階級の無知な実態”と、 “労働者階級の使命”の両方を知っているところの、頭の良い富裕階級の知識人が、革命の思想を、無知な労働者に “外部から注入” しなければならない。 “外部から注入する” 役割をもつもの、それが “前衛” というものである。」


 実際には、なんだか、格好良さげな、ヒロイズムをくすぐり、鼓舞する言い回しになっている。だが、実際には、以下の現象を生み出す。これが世の中の悲しさだ。

 「外部注入論」は労働者階級
(※)は、労働者階級が気がつかないところの「労働者階級の使命を教えてくれる前衛」の指導者の、「教え」と「決定」には無条件で従わなければならない、というロジックが醸成される。
※「労働者階級」は、しばしば、「国民」「人民」「大衆」「民衆」「人々」などと、言い換えられる。



 前衛組織を運営する裕福な職業的専従知識人には、当然、労働者階級は献金し、全面的に従わなければならないし、前衛に労働者が従わなければ、労働者階級全体の利益を損ねる「人民にあるまじき存在」=「人民の敵」となる。
 なんとも傲慢で、よく出来た、自己完結型の論理だ。エリート思考(志向)の人間にはぴったりの論理構造である。ましてや、既成街道から外されて恨みに駆られた単なる野心家にとって、相手を「資本制」と定義して、別ルートで「見返したい」場合に格好の、ご都合主義のレールであろう。

 したがって、たとえ、労働者が共産主義を願望しなくなったとしても、それは労働者が無知だからであり、誰一人共産主義を受け入れなくとも、専従共産主義活動家は、労働者に思想を注入し続ける運動をやめてはならない。資本主義が安定しているときは、労働者は怒らないが、資本主義が問題を起こし始めたら、それは外部注入の最大のチャンスだ。喜んで勢力拡大にまい進しなくてはならない。つまり、人類が存在する間じゅう、これは、やり続けなくてはいけない事業なのだ。
 この共産主義の手法や理論は、アドルフ・ヒトラーも、よく出来ていると感心しながら勉強したほどらしい。
 本当に全体主義のお手本のような無限サイクル理論である
アーレントが全体主義を終結の無い無限の世界運動というように指摘しているのは、このような思考方法が、共産主義や排外主義など色々と衣をまとっても、全体主義の論理として共通していることを衝いた箴言である。
  社会が停滞し、人間が過ちを犯すとき、それに不満を募らせる国民の、はけ口として、排外主義、軍国主義、マルクス主義などの全体主義イデオロギーは常に役割分担をしながら、社会に嬉々として登場し、社会は暴力的にすさんでいく。アーレントが「棒とにんじん」に形容した、易きに流れる手段として選択することが無いようにとの警鐘であろう。
























 労働者が「前衛」なるものに従わなければ、ましてや、「前衛」に集う構成員(労働者でなくても)が、「前衛」に異論を唱えれば、労働者階級みんなが迷惑をうける、という論理が出来上がる。つまり「あんたがぐちゃぐちゃ言うと、みんなが迷惑するんだよ」ってことである。誰も迷惑を感じていなくても、勝手に本人がそう思い込むのである。これがマインドコントロールである。
 ゆえに、「前衛」に従わない異論を唱える個々の労働者は、仲間である労働者階級に迷惑をかける自分勝手な人間と判断される。そんな輩は、「残念なことだが」、自動的に「人民の敵」とみなされ、最終的には、侮辱の嵐をうけて追放されても致し方ないことになる…。なんにも悪いことをしていないのに、「異論を唱えると」なんだかいきなり「人民の敵」になるのである。それでソヴィエトでは数百万人が殺された。どこの社会主義国家でも似た現象が起きた。

 
労働者階級というより、そもそも、一人の人間であるにも関わらず、に、マインドコントロールされた構成員は、このことに気付かず、「追放」されて、その後、何年もモヤモヤを引きずる「きまじめ人間」が多い。他の全体主義とともに人類の悲劇である。

 ソヴィエトの影響下から脱出するどろどろの戦いの過程で、「人間の顔をした社会主義」-プラハの春-なるフレーズがはやったが、それは、ソヴィエト崩壊までの話である。某前衛が自分のことをそういうイメージで宣伝しているつもりなら、ポーランドやチェコの国民は「ちょっと、日本人、おかしいんじゃないの?」と内心思うだろう。マルクス・レーニン主義には、そもそも、「人間の顔がない」からだ。

 この「外部注入論」には、知識人が無自覚の内に陥りやすい、現場労働者への差別・蔑視感情や、上から目線の思考方法が前提に横たわっている。というより外部注入論はそのような感情を一から作り出すことができ、その萌芽を成長させ続けることができるのである。(障碍者問題も同様に上から目線で解釈され、彼らの政府が出来たときにはじめて幸せになれるという、陳腐な理論に組み込まれている。)

 人間の深層にある、このエリート主義的侮蔑感情が「人民解放の理論」の基礎として閉鎖的に自己完結されてしまっている。だから、なんだか外側には、「救済」や「平和」や「民主主義」や「人権」「平和」を声高に主張するくせに、内部では、そして至る所で、市民の活動への介入や、時には人権侵害や、さまざまな問題解決の過程に割り込み、おおモメをやらかす。そして、傲慢な「自分たちだけが正しく、それに従わないものは、味方ではなく、異論を唱えれば、みなが敵」というセクト主義に拍車がかかり、とまらなくなる。やってる本人たちもその理由に気付かない輩が多い。セルフマインドコントロールだ。だが、実は、裏で彼らが「敵」というものと現世に利益で結びついて、住民運動のリーダーを背後から切りつけて、平然としている場合がおびただしく多い。
 自らは「外部注入する貴重な側」だと思い込んでいるから何も矛盾を感じない。攻撃している相手の苦しみなどは、関係ない。攻撃対象の市民は「歴史的使命」を知らない、無知な住民だから、追い出してもかまわないという論理が回転する。これでも末端構成員は、自分は「敵」と闘っているんだ、これは、「路線」問題なんだ、と納得し、そのような所業を積み重ねるうちに、もう過去を振り返って反省したり、葛藤したりすることは無くなるし、出来なくなる。過ちを詭弁や屁理屈で正当化し、ますます、嘘の上塗りを続けることになる。

 ちなみに、稀(まれ)に、それに気付いたら、自分から脱退しようとするが、なかなか「脱退」は許してくれない。規約違反での除名の形をとられることが多い。なぜなら、そうしておけば、なんだか、追い出された側が規則を破った悪者のような印象で、自分たちのほうが、なにやら迷惑をこうむった正当な側に演出できる(所詮自己満足だが)からである。この「前衛」、結構、体裁ばかり気にして生きている。

 これは、特に、名の知れた知識人が異論を唱えはじめたときに特徴的である。このような場合は、「物理的追放」までに結構長い時間をかける。その間に、その人物の人脈をもぎ取り、1年から数年以上、対象者の行動を監視して、組織の方針と異なる言動をした時点で、査問的追及(これを国家的にやったのが人民裁判)を行い徹底的にいじめ、規約違反の「除名」にし、社会的名誉や尊厳まで貶めることにためらいをもたない。構成員にはすべて「組織防衛」の一点で説明づける。現世の利益や、所詮コップの中のつまらないポジションであっても、餌が目の前にぶら下がると人間は弱いものだ。アーレントの言う「棒とにんじん」効果である。日本流には「飴と鞭」か。古代から使い古された手法だ。

 苦楽をともにしてきた仲間から、このような仕打ちを受けるくらいなら、意味不明の「前衛」などあっという間に辞めればいい。ましてや、苦楽は、なんにも共にもしていない後から侵入してきた「前衛」とやらの連中からこんな仕打ちをうけるなら、普通の人間は愛想を尽かす前に、何とか建て直そうとも努力するものだ。組織に、「前衛」とやらが浸透し、全体主義がはびこれば、外に別団体をつくるのは日本の民主主義が保障する当然の権利である。
 だが、ともかくも、あとから来たものは大喜びである。正式に「除名」ができ、できあいの組織を手中にできるからである。まあ、「居抜き」というやつだ。

 「前衛」などと自称する組織は何十年にもわたって、このような謀略と己への偽りを含めた歴史への冒涜を繰り返してきている。公害問題なら、これにもっと大喜びをするものが背後にもう一つ控えているだけである。

 資本・共産同盟軍ほど強固な完全犯罪組織はない。その原点が旧ソヴィエトの歴史の深部に「ノーメンクラツゥ-ラ」の「収容所群島」とそれを生み出した政治思想プロセスとして刻み込まれているのである。共産主義者は、平然と、管理者を装って、凶暴な資本主義を実行できる。それが外部注入論のロジックだ。共産党Gの一党独裁で現に実行されている国家資本主義も同様の要素をもつ存在だ。
 時々、「マルクスはロシア革命とは別だ」として、レーニン主義と切り離して単体で評論家が論じることがある。だがそれは、資本主義の改善に対して、その評論家が何も具体的な改善行動をした経験がないことを良く示している。特に悪意はなくとも、過去のイデオロギーに依存したまま、社会の変化を傍観者的視点から「思想」を説きながら期待しているだけとも言える。そういう視座からマルクスをいまさら賛美しても、現実政治では、必ずレーニン主義となる。新しい思想があるとすれば、それは新しい社会で産みの苦しみを経て考え抜かれるものであろう。つい最近まで、ソヴィエトの原子力を賛美していたようなレベルでは、これからの科学・技術社会論や、政治哲学を語る水準にはないといえる。

 「ソヴィエトは “人間性否定の社会主義” と決めましたから、私たちは違います。我が党が目指しているのは、“新しい社会主義”だ」??? そんなたわごとに騙されるほど、日本国民は愚かではない。と期待したいところだ。

 欧州危機に端を発した世界経済の混乱は、資本主義の問題点であることは間違いないが、それは「資本制生産様式」を破壊することで乗り越えられるほど単純なものではない。だが、無能な政治家の一部は、軍国主義や排外主義に一時の逃避を求めがちである。その途端、社会は左右の全体主義と排外主義の草刈場とされ、閉鎖的外交政策へまっしぐらに進みだす。国民の怒りを排外主義へ扇動する負のサイクルが回り出すのである。

 その問題点を解決していく方法論は、これから人類が真剣に考えなければならないテーマだ。まして、排外主義や共産主義イデオロギー(も排外主義となる)はそれに比して、「易きに流れる」下流のシロモノと化している。それは、彼らが美辞麗句を吐きながら、陰で行っている言論弾圧や利権あさり、反対政党と連携しての市民・住民運動への背後からの切りつけ行為、科学・技術への無節操な態度と、その自己修正能力の全くの無さで、自己証明されていることだ。

 私たち市民の側も、新しい価値観と民主主義の方法を検討しなくてはならない時に、怒りに任せて、さび付いた過去の全体主義イデオロギーにはけ口を求めれば、凄惨な歴史の繰り返しが待っているだけであることを歴史から学ぶ必要がある。

 とまれ、多少とも社会的政治的活動を経験した多くの人が指摘する彼らの強烈な「セクト主義」(※)がとまらないのは、政治環境把握能力の低さといったテクニカルな問題ではない。共産主義が提唱された時点で、これを“社会発展史という無理やり法則化された後付理論の中に「一神教」として強引に位置づけてしまったという、その根幹部分に起因している。
※最近は、フロント組織で使い分け、あるときは薄めて勢力を拡大しその後、急に表面化するという「臨機応変」が多用されている。だが、やっぱり、中央からの大号令で、豹変することが多い。







 ちなみに、ソフト路線を打ち出している「前衛組織」の内部では、この「外部注入」論は、言葉をかえて、学習活動や、歌声や、演劇文化活動や、こども・障碍者問題や、スポーツ信仰、はては宗教団体の有志の取り込み、などとなるらしい。まあ、彼らがそう主張すればするほど、カルト教団や他の全体主義勢力も、ますます彼らの手法を真似るだろう。洗脳も学習会も、「似たもの同士」の草刈場と化し、勢力争いと、モラルの崩壊で、どんどん社会はすさんでいく。

 レーニンの「国家と革命」にも盛り込まれているこの基本思想は、マルクス・エンゲルスの資本主義批判と「共産党宣言」を「なりわい」とする専従活動家が「主義」に転換し、それを「実行に移す」場合、必然的にこうなることを示している。閉じた社会を形成し、外部から隔絶させて利権をあさる方法としては非常に良くできている。これを「独裁」という。

 「社会が怒りに満ちたときに、この自己完結型・単純化理論を“外部注入”し、マインドコントロール学習会を全員に徹底実施すれば、民衆は身も心も動乱・波乱を期待するようになるはずだ…」 
 マルクス・レーニン主義のカルト的思考である。

 同時に、これが自己完結型・全体主義(マルクス・レーニン主義、軍国主義、<ミクロでは>カルト的マインドコントロール等々)の最大の特徴である。


 笑えないジョーク
1.問「資本主義と共産主義の違いは何か?」
答「資本主義は金持と貧者を生み出すが、共産主義は貧者を食って金持ちとなる」

それにより、通常の資本主義より残酷な全体主義をベースにした国家資本主義へ移行する。

2.問「資本主義と共産主義の違いは何か?」
答「資本主義者は市場で豊かになるチャンスはあるが、共産主義者はゴマすりで豊かになる」
公正な市場競争という概念を超越した共産主義は、誰に気に入られるか(誰に監視・盗聴され、誰に殺されないか)という“人治の市場”で競争する。

3.問「資本主義と共産主義の違いは何か?」
答「資本主義は功利主義に疑いを持ちつつ実行するが、共産主義は功利主義の徹底を目指す」

全体(みんな)の利益のためには個人の尊厳は抹殺されて何が悪いの?という全体主義の基本理念。個人を抹殺したおかげで、それが、どれだけ全体(みんな)の利益になっているかは、膨大な書類と数字で、科学的社会主義的に示される。

4.問「資本主義と共産主義の違いは何か?」
答「資本主義は人民が選んだものだが、共産主義を選んだ人民は資本主義に戻りたがる」
憎しみをぶつけた敵がいなくなると、昨日までの“同志”が資本主義の復活をたくらむ敵となり、それらが抹殺されると、生き残った者の我欲の世界となり、逆に、産業革命期の資本主義が登場する。

5.問「資本主義と共産主義の違いは何か?

答「資本主義は、しばしば共産主義政党の存在を認めるが、共産主義は資本主義政党の存在を認めることはない。」
理由「共産主義は資本主義が滅びたあとに登場するという“必然的歴史法則”で登場する人類の理想たるシステムだから、絶滅危惧種を見つけた場合は、法則どおり物理的に絶滅させるのが共産主義者の“歴史的使命”だ。すばらしい共産主義政党に異論を挟むものは時代遅れの資本主義の思想だから、手間のかかる手続きではなく、銃殺刑がもっとも合理的だ」

6.問「資本主義と共産主義の違いは何か?
答「資本主義は、生産力の無限上昇を目標にはしないが、共産主義は生産力を“無限”に上昇させても環境には一切影響しないと思っている」
生産力の無限上昇を人類の理想・金科玉条とする共産主義は、チェルノブイリ原発を動かしすぎて広島型原爆の500発分の死の灰を吐き出した。今では資本主義もそれを追いかけている。ちなみに、日本人は米国の原水爆実験は時々問題にするが、未だにソヴィエトの原水爆実験の死の灰は議論しようとしない。“米帝国主義”の放射能は体に良くないが、ソヴィエト時代の放射能は人類の味方だという共産主義の主張を、資本主義も時々真似している。


書籍紹介
「正論」政党の知られざる実態、とはなんとも皮肉っぽい帯タイトルだ。
元・日本共産党参議院議員で党内ナンバー4といわれる政策委員長を務めた筆坂秀世氏による内部告発本。共産党への郷愁も多少漂う内容であるが、この党の内部に民主主義が存在しないことだけは、確かなようだ。

共産党は早く自民党に合流したほうが良い。そのほうがしっくりするし、分かりやすくて良い。主張をしょっちゅう変えるにもかかわらず、「一貫してなんとか」を口癖にしているこの党にとって、言ったことに筋を通すことの勉強もできるし、党内民主主義も一から勉強できる。そして共産党と自民党には、実は違いなどほとんど無いのだと証明して見せてくれている中国へのいっそうの民主化促進の問題提起も可能となる。一石二鳥だ。

こんなホームページもある
「民主集中制」権力は絶対的に腐敗する
共産党問題・社会主義問題を考える


へえ…そうなの?…
日本版 「赤い貴族」?

2012.1.18
 暴挙!

政府・経産省、原発ストレステストの評価協議を密室で強行

 経済産業省、原子力安全・保安院は18日の夕方、経産省内の会議室で福井・大飯原発3.4号機のストレステストの妥当性協議を開催しようとした。だが、傍聴人に対して、従来通りの同室での傍聴を認めず、別室に押し込めてモニター視聴にしようとした。つまり実質的に非公開にしようとした。
 これに対して、傍聴人が抗議して会議室になだれ込み、騒ぎとなった。会議の担当者は、大臣室に泣きつき、急遽登場した枝野経産相は「専門家が議論する場が平穏に開催されないのは到底容認できない」と大見得を切ってみせた。

専門委員も密室協議を拒否

 ところがどうだろう。当の専門委員である後藤政志(芝浦工大)、井野博満(東大)の両委員は「堂々とやればいいのに、公開性の原則に反する」「密室で議論して結論を出すというやり方はおかしい」と抗議のコメントを発表し(NHK18日21時NEWS)会議への出席をボイコットした。
 抗議は当然であろう。「平穏な開催」が求められる裁判所でも傍聴を認めているではないか。裁判での公判は、結果はどうあれ、一応公正な審判をするというイメージを打ち出しているので法廷内での傍聴を認めている。誰でも、事前の了解も不要で、ふらっと入って公判を傍聴できる。公判でも、たまに傍聴席から不規則発言があるが、それにもかかわらずだ。

市民の目を避けて行う再稼動評価の会議とはなんぞや
 傍聴者を排除し、一般市民の厳しい目をさけながら、別室に押し込めてアリバイ的に「一応見せた」と言い訳をしながら行う協議にどれほどの意味があるだろうか。しかも、いま「旬」となっている「原子力の専門家」の協議である。別室に押し込めて「これで我慢しろ」というものの考え方は、枝野氏の「平穏な開催」という価値観より、はるかに問題な精神構造だ。

市民の抗議で「出来レース」の実態が明らかとなった。
 市民・国民を粗末に扱った「例の専門家たちの」協議のやり方に、市民の安全を任せるわけにいかないという傍聴者の危機感はまっとうであろう。
 3時間半以上たって、保安院は、傍聴を認めないまま、しかも、二人の委員が出席を拒否したまま密室会議を再開し、テストの内容を「妥当だ」と結論づけた。こうした行為や会議を「出来レース」という。原子力行政の「悪さ加減」が改めて明るみとなり、それに市民が抗議し立ち上がったったという面で、非常に意味のある出来事だ。

東海村の現村長も「情けない国」と呆れ顔
 原子炉40年廃炉にいきなり例外規定20年延長を作ってしまった政権内のぶれについても、東海村の現村長から「骨抜きで、結局もとのもくあみで、60年だ。前とぜんぜん変わってないじゃないか、情けない国だ…」(NHK)といわれてしまう始末。一方、原子力推進の側で動くものたちも、同様に、ブレを批判し、政権が原子力推進の方向性を固めるのを虎視眈々とてぐすね引いて待っている。

政権に就くとすぐに隠蔽体質に移行する冷戦型政治の克服を
 もともとが隠蔽体質の民主集中制は論外としても、従来型野党(現与党)でさえ、自らの足元の問題を見つめなおす意志が弱いがゆえに、困難な問題に直面すると、すぐに密室政治と、情報隠蔽の不透明性の誘惑に逃げ込み、それを指摘されるとかつての与党と同じ開き直りしか出来なくなっている。政策の変更や修正は、情勢の変化と国民の理解が伴えば大いに結構だが、体裁や隠れた意図をごまかすために隠蔽(=不透明性)を保身に使うすべての政派は、民主主義を語りながら民主主義を「多数決主義」に陳腐化し、議論の前提となる情報公開と公正な議論という大原則を放棄し、あっという間に民主主義を瓦解させてしまう。これは猛省してもらわねばならない。

市民が政党政治を監視し、独自の勢力を形成して影響力を行使しなければ、日本は底なしに腐敗する
 日本の従来型政治の枠組みが、恐ろしいほどの腐朽と末期症状を呈している。一方で、市民のやるべき仕事が山のように積みあがっている。市民の自発的行動こそが変化をもたらす。そこでは、知恵を絞る必要がある。市民は、現有のあらゆるテクノロジーを駆使して独自にオープンなネットワークを形成し、政治へのなんらかの関与をはかる必要があるし、現にそれが可能な条件が世界的に成熟している。民主主義とは何かをバランス感覚を研ぎ澄まし、あらゆる情報を集め、考える。既存の常識にとらわれない新しい感覚と、強い意志、そして永く続けていくためには、偏狭なイデオロギーという悪性ウイルスへの鉄壁防御も絶対不可欠だ。口先だけで「民主主義」や「平和」を語る政治勢力を真に受けてはいけない。腐りきった腹を抱えていても、口先からは美辞麗句を千も万も発射できる全体主義者は巷にゴロゴロいる。いつの時代にもそういう輩は活気付いて徘徊を始める。人間と組織、社会を冷徹に見極める力量(それは特別な能力ではなく、ごく普通の社会人・市民の感覚でもあるのだが)、それを一般市民が発揮しなくてはならない時期だろう。


2012.1.17
SPEEDI情報 国民に知らせず米軍に提供
情報の隠し癖が国民の命を削る。
不透明性は民主主義を根底から破壊する最短コースだ。25年の歳月をかけ、100億円以上の血税を投入して構築したSPEEDIを国民のために使わず、事故の深刻さを隠すために隠蔽したことは既にばれている。にも関わらず誰も起訴されず、責任も問われない現状は、小出裕章氏の言うように「国家の体をなしていない」。


SPEEDI情報 米軍に提供   

2012.1.17 0時7分 NHK

 東京電力福島第一原子力発電所の事故原因を究明する国会の「事故調査委員会」は、初めての本格的な質疑を行い、参考人として招致された文部省の担当者が、放射性物質の拡散を予測する「SPEEDI」と呼ばれるシステムによる予測データを、事故の直後に、アメリカ軍に提供していたことを明らかにしました。

 国会の事故調査委員会は、16日、政府の事故調査・検証委員会の畑村委員長や東京電力の事故調査委員会の委員長を務める山崎副社長らを参考人として招致し、公開で初めての本格的な質疑を行いました。この中で、文部科学省科学技術・学術政策局の渡辺次長は、放射性物質の拡散を予測する「SPEEDI」と呼ばれるシステムで、事故の直後に行った予測のデータについて、外務省を通じて直ちにアメリカ軍に提供していたことを明らかにしました。SPEEDIのデータは、文部科学省が「実態を正確に反映していない予測データの公表は、無用の混乱を招きかねない」として、一部を除き、事故の発生から2か月近く公表しませんでしたが、アメリカ軍に提供した理由について、渡辺次長は「緊急事態に対応してもらう機関に、情報提供する一環として連絡した」と説明しました。また、質疑では、事故調査委員会の石橋委員が「平成19年の新潟県中越沖地震の経験がありながら、東京電力は、地震と津波に対して、対応が甘かったのではないか」と指摘したのに対し、東京電力の山崎副社長は「事業者として、忠実に対策を取ってきたと思っているが、考えているような前提をすべて覆すようなことが起きた。もう少し考えなければならないということがあるならば、考えていきたい」と述べました。質疑を終えて記者会見した事故調査委員会の黒川委員長は、原発事故の対応にあたった菅前総理大臣や枝野経済産業大臣の参考人招致について、「検討事項に入っている」と述べました。事故調査委員会は、30日に次回の質疑を行うことにしています。

2012.1.16 マンションから高放射線量
だから、いわんこっちゃない…。
「言い訳しか考えない」ナマケモノ国家による大人災が未だに継続中。
日本中を市民が自衛で放射線計測しなくてはならない時代に?…。
マンションの基礎から放射線が検出された。
当資料館でも、ずいぶん前に触れて、もうとっくに対策済みと思っていたら、全くの手付かずだったようだ。
おどろくべき怠け者国家。一般市民の警鐘があっというまに現実となり、官僚が“想定外”を未だに繰り返す異常事態。

 当館では、原発震災コーナーで、2011年3月27日時点での資料館のコメント 福島沿岸を棄民にする政治」と題して以下のように書いた。
「…今後、原発の廃炉にともなう膨大な量の廃棄物、また数十キロ圏内で汚染された、さらに、膨大かつ様々な瓦礫をも厳密に選別管理しなくてはならなくなる。これらをドサクサにまぎれて処理すると忘れた頃に大変なことになる。台湾では、紛失した核物質がくず鉄業者経由で製鋼過程に混ざりこみ、マンションの鉄筋から人体に影響があるほどの放射線が出る事件が発生し、大問題となっている。…」











朝日新聞
http://www.asahi.com/national/update/0115/TKY201201150290.html

二本松の新築マンションで高線量 浪江で土台の材料採取
 福島県二本松市の新築マンションの工事に、東京電力福島第一原発事故で出た放射性物質に汚染されたコンクリートが使われていたことがわかった。マンション1階の床からは屋外より高い放射線量が測定された。同市と国が15日発表した。
 コンクリの材料に、計画的避難区域内の砕石場の石が使われたのが原因とみられる。同じ材料が数百カ所の工事に使われたとみられ、国は石やコンクリの流通経路を調査している。
 発表によると、汚染されたコンクリが使われたのは、昨年7月に完成した二本松市若宮地区の鉄筋コンクリート3階建て賃貸マンションの土台部分。1階の室内の高さ1メートルの線量が毎時1.16~1.24マイクロシーベルトで、屋外の同0.7~1.0マイクロシーベルトより高かった。2、3階の室内は同0.10~0.38マイクロシーベルトという。
 コンクリの材料になった石は、計画的避難区域に入っている浪江町南津島の砕石場から搬出。コンクリ会社を通じ昨年4月11日、マンションの基礎工事に57.5立方メートルのコンクリが使われた。
 砕石場では原発事故前に採取した石を砕き、事故後も屋外に置いて避難区域に指定される同月22日まで出荷を続けたという。経済産業省などによると、この砕石会社は県内の19社に計5200トンを出荷。このうち、マンションにコンクリを納入した二本松市の会社からは県内の百数十社に販売され、数百カ所の工事に使われたとみられるという。
 二本松市は昨年9~11月、子どもなどの積算線量を計測。マンションに住む女子中学生の3カ月間の線量が1.62ミリシーベルトと比較的高かったため、市が調べた。マンションには12世帯が入居している。
 マンション1階の室内に24時間滞在する仮定で計算すると、年間の線量は10ミリシーベルト前後になる。


朝日新聞 2012.1.16
放射能汚染石、出荷先は福島県内の19社 土木工事用に
 福島県二本松市の新築マンション工事に東京電力福島第一原発事故で出た放射性物質に汚染されたコンクリートが使われたとされる問題で、コンクリ材料の石を出荷した砕石会社は16日、取材に対し、汚染の疑いがある石の出荷先を明らかにした。いずれも同県内のコンクリ会社2社、建設会社など17社の計19社と説明。大半は道路などの土木工事に使われたとみられるという。
 砕石会社は、同県富岡町に本社を置く「双葉砕石工業」。猪狩満社長によると、問題の石は計画的避難区域の同県浪江町の砕石場のもので、震災3日後の昨年3月14日から、同避難区域に指定される4月22日まで計約5200トンを出荷した。
 このうち、コンクリ用には、二本松市と本宮市のコンクリ会社2社に計約2千トンを出荷したという。
 砕石場では、土木用は野ざらしにし、コンクリ用は品質を保つため簡易式屋根の下で山積みにしていた。
 土木用の石を出荷した建設会社など17社は、二本松市や同県川俣町などの地元工事を主とする中小業者。問題の石やコンクリが県外に出た可能性は低い、と猪狩社長は説明している。


 汚染地域にあるものが建材として使用され、マンションから有害な放射線が発生する可能性は誰でも予測できる。そして、一端、このようなことが発生すると滞在時間が圧倒的に長い居住空間そのものがホットスポットとなり、住民は金銭被害と健康被害をダブルで受けることになる。巨大建築物が恐怖の館に変わるのである。姉歯事件に24時間続く健康被害が加わるようなものである。工事では施工の都合から近隣のセメントや砂利が使用されるのも常識だ。しかも、高線量地域から疎開している非難住民を愚弄するかのような話だ。このような事態に際して「すっとぼけたような言い訳を聞いて納得」するような良い子になってはいけない。ずるずるべったり、いい加減、無責任、そういう意識の集積物であるという認識が必要だ。
 「業界団体に確認したが…なかった…」(朝日)とか「石から高線量が測定されたのは想定外だった(経産省の担当者)」(msn産経ニュース)」???…。慎重に見ると、この二つの説明は矛盾する。現場を見ようともしないデスクワーカーののらりくらりの言い訳だ。
 こんな寝言を原発事故から1年もたとうとしている時に未だに聞かされる「技術立国」日本の国民はほとんど表現のしようがないほどに不幸である。若干原因が異なるとはいえほとんど同じ前例があるにもかかわらず、この国の規制当局はどこまで勉強不足の怠け者なのだろう。日本国民は、学ばない怠け者の権力機構によって、防げる被曝を余儀なくされている。これらは風評被害とか二次被害というものではなく、考えて行動しない怠け者による被害である。

 次は当館が当月(1月)紹介したような、汚染海域で密漁された海産物が市場外流通、或いは海上取引などで偽装されて出回り、どこかの外食産業のテーブルに登場して、次から次へと大騒ぎということになるのだろうか。第二次食品汚染、第3次食品汚染と無限連鎖を続けるつもりだろうか。
 消費者は、外食の日時と食べたものを日記につけておいたほうがいいかもしれない。いや、それもムダか。このような事態は内部告発でなければ発覚しないだろう。放射能は食品に入り、しかも外食産業に入れば、もう「浴び損(しかも内部被曝)」そのものになる。
 「汚染されるなんて知らなかった」などと言うのは勝手だが、人を傷つけても金儲けしか考えない「知らぬふり」をする親不孝者が、あらゆるところに激増してしまい、手がつけられなくなりつつある。

台湾放射能マンション事件 
高島さんも稲垣君も知っている。これを公知公認・既知の事実という。これを「想定外」といってしまえば、およそ、安全性や予見可能性などを議論しようがなくなる。言葉を適当に発していると、これまで積み上げてきた安全文化を根こそぎ破壊していくことになる。

他の放射性物質による被曝事故の例

ノルウェイ大気研究所による放射性物質の拡散予測

ヨウ素131についてですね。http://transport.nilu.no/browser/fpv_fuku?fpp=conccol_I-13 -1_;region=Japan ノルウェー王国の Norsk institutt for luftforskning(NILU; ノルウェー大気研究所)によるアメリカ合衆国の National Centers for Environmental Prediction(NCEP; 国立環境予測センター)の Global Forecast System (GFS) model(全世界予測システム・モデル)よって、分析予測される風向風速分布の予測結果を使った放射性物質の拡散予測です。ヨウ素131は10の17乗Bq/日、セシウム137は10の16乗Bq/日、セシウム137は10の18乗Bq/日が放出されると仮定しています。Total Column(Tot. Col.; 全層)は面積当たりの放射能量[Bq/m2]、Surface Concentration(Surf.Conc.; 地表濃度)は海抜0~100mの体積当たりの放射能量[Bq/m3]を推測しています。アニメーションになっておりますが、Scroll over to navigate in time(スクロールして時刻に移動する)の右にある......上でマウス・カーソルを動かせば任意の時刻の状況を見ることが出来ます。時刻表示は協定世界時(UTC)ですので、日本時間(JST)へは9時間足してください(例えば、協定世界時11時は日本時間20時)。6時間毎の 0, 6, 12, 18UTC、つまり日本時間3, 9, 15, 21時に更新されます。なお、しばしばアクセス困難になります。http://www.youtube.com/watch?v=j5OW0zC02oc&feature=player_embedded より

ニコニコから引用 http://www.youtube.com/watch?v=CEFt9p7-Dxo&feature=player_embedded より


原発下請け労働者の現実を取り続けている樋口健二氏の講演会映像
かなりクリアな画像が紹介されている。


2011.12.29
ドイツのナチズムとドイツ共産党はご都合主義的共闘を実際に行っていた。
 「2009.11.12 民主集中制という名の独裁制」に関して、「共産党とナチスが手を組んだ」というのは本当ですか?との質問が寄せられた。
 たぶん学校では、ナチスが政権与党となったあとに国会放火事件などで共産党を弾圧したことしか習わないので、犬猿の仲だったと思い込んでいる人がほとんどだろう。また一部には、
ドイツ人のナチス無関心をたとえ話で表現したマルティン・ニーメラーの言葉などをかじった人もそう思っているのかもしれない。ニーメラーの言葉には後悔はあるが、彼の言葉を聴いて、ドイツ共産党が民主主義を守るためにナチと闘ったと思い込んだとしたらそれは95%ほどの間違いである。現実は、ナチスとドイツ共産党は政治闘争において共闘していたことは紛れもない歴史的事実である。「ナチスに政権を握らせろ、そのあとが、いよいよわが党の出番だ」と内心ワクワクしている共産主義者の先祖代々共通の思考方法こそ、よく知られている事実であり、世界を不幸に陥れる邪悪で血なまぐさい思考である。この問題から目を背けて、反ファシズムなどといってみても、はなはだ表層的で、教訓はなにも導きだされない。また、なぜナチスが合法的に選挙で第一党の座を占めることが出来たのか、といった本質的な背景理由もわからないだろう。

ナチズムも共産主義も、穏健政党を敵とみなし、その失敗を喜びながら導き、議会を単なる手段としか見ない点では同じ。
 暴力革命を明確に目指す際の共産主義者も、暴力革命の前段で議会闘争を「戦術的」に利用することにはためらいをもたない。議会内闘争や、選挙は、自らが最終的に採用する独裁的運営手法を隠蔽して、社会に自党の正当性を認知させ「力を蓄える」戦術でしかなく、その過程をへて、ある程度の人員と影響力を確保できたあかつきに路線を変更することは、一枚岩党派を自認する彼らにはたやすいことである。カルト教団が自己純化型活動に励んでいるうちに、予期もせず信者が増えて、途中から権力志向を先鋭化させ、暴力的になるのも同じ原理である。
 逆に、仮に「共産主義」という名称を使いながら、解釈改憲ならぬ解釈改典をつづけながら、内実はそれとはほとんど無縁となっているのに、しつこくその名称を愛してやまないグループがいるとしたら、それは、たぶん過去への郷愁ではない。その「共産主義」政党には別の政治目的がある。そこに残存しているのは、「新しい形の共産主義の模索の努力」などというものではないだろう。彼らが行っている実際の生活をよく見ればわかる。現世の資本主義的生活の甘受である。貧困ビジネスの元祖ともいえる「事業」だ。
 共産主義イデオロギーの資本主義社会内部での政治生活の基本形態である準軍事的統制、別名「民主集中制」という独特の支配形態が、社会的弱者の取り込みを通じて獲得される利権の維持にとって、大変好都合であるという事情であろう。「民主」という言葉をみめ麗しく使いながら、実際には、民主を「多数決」に陳腐化し、中央集権制を基本とする笑止千万なこのネーミングは、一端構成員になると、対敵闘争の思考から何も疑問を持たなくなる。異論の存在は、実際には存在しない「対敵闘争のための統一と団結」を「破壊」する「分裂分子」の許しがたい思考であると簡単に断罪ができ、捨象できてしまうのである。
 民主主義と市民社会の形成が相対的に遅れている社会では、このような思考方法が「反権力」の代名詞化になりやすい傾向がいまだに残存している。だが、共産主義の思想は権力志向そのものである。この民主集中制は、国家資本主義や軍国主義的統制と同じ結末を生み出す。一枚岩的な独占や統制主義は国家資本主義の思想でもあるので、民主集中制の思考方法は、遅れた資本主義社会であればあるほど、炭疽菌のごとく生き残りが可能となる。資本主義が時々陥りやすい暴力的資本主義は、対極に暴力的共産主義を生み出すか、或いは、両極で先鋭化する全体主義の雰囲気を活用し、最終的には暴力的軍国主義で社会を支配的に彩ることになる。暴力的資本主義は、共産主義といった全体主義が生存しているほうが、自らの存在の正当化が図りやすいので、治安機関の生き残りの口実のごとく、わずかながら、生きながらえさせる方向へ思考するのが常である。歴史の教訓に学び、変わっていかなければ、将来も同じような構図が繰り返され、結果的には民衆が、繰り返される歴史の愚に振り回される事態となるだろう。


2011.12.6 全体主義
 全体主義者は一人(個人)でいると見分けがつきにくいが、集団になって「大義名分」的なものがまとわりつくと、途端に態度がかわるのでわかりやすい。ブッシュ政権のイラク攻撃の論理と、思考方法としては、まったく同じである。ソビエトなど社会主義イデオロギーが、あっというまに、ナチズムと同じ様相を呈するにいたったのは、人間性の本質を隠蔽しつつ、大衆に単純な政治目的を示して、「理想郷」への感情的な、時に熱情的なコントロールをするところの、その思考方法にある。さらにことを深刻化させるのは、このイデオロギーは自組織を「純化」させることを自己目的化しやすく(その到達点はたいがい「赤い貴族」の利権確保であるが)、構成員がその危険性に無頓着となり、自己陶酔してしまうところだ。粛清(物理的抹殺)される側自体が、殺される直前までそれに気がつかないというカルト的特徴も有する。
 人間社会の実相を知らない精神的な自立が不十分な層には、このようなコントロールはいとも簡単に有効に働くことがあるので、仕掛けている側は、それに味をしめてしまうと、もう絶対にやめられなくなる。
 マルクス主義は党員獲得の必要性から「宗教はアヘンである」と信仰心を攻撃してきたが、宗教家からの言を待つまでも無く、「マルクス主義も宗教にすぎない」と見破られる。問題は、宗教的教義であるのに、「科学」といったフレーズをおびただしくちりばめ、信仰心と隔絶した存在に自らを演出するところにある。したがって、人間性の変化が社会変革で簡単に達成されるなどとする架空の物語を、「信仰心ではなく、科学から導きだされた」として臆面もなく語る。 しかし、この行き着く先は、たんなる宗教団体ではない。「腐敗した宗教団体の要素を兼ね備えた全体主義」である。しかし、資本主義のなかで不満を募らせる人々の中には、このような全体主義的な対抗方法に快感を抱く傾向がある。これは不満層がカルトに走るのと同じレベルである。だからこそ、注意が必要である。
 一方、マルクス主義を資本主義分析の画期的手法と信じるものの中にも、人間性を経済的構造関係から単純に規定し、その構造変革で人間の精神活動の根本的ありようまでが自動的に「浄化」できたり「別次元に移行する」という迷信にとりつかれているケースが多い。また人類の発展を単純に「法則化」し、「生産力の無限上昇を最大の是とする」教義から一義的に規定すれば、障がい者問題などに直面したとき、最終的には障がい者は、マルクス主義政党が国政で躍進すれば、自然に幸せになる、などという陳腐な落としどころを設定できるのである。これもまたカルトやネットワークビジネスに取りつかれる若者と同じレベルであろう。
 そこでは自らの精神の問題や、人間性の問題と向き合うのではなく、外側に敵をつくって物理的に結束し、異端は排除するという、偏狭なナショナリズムとまったく同じ原理が働いている。「インターナショナリズム」を声高に叫びながら、結局、全部、偏狭なナショナリズムに転化したのも、それである。しかも自己浄化機能を失って、凶暴な粛清機能だけを維持し続けるのは、マルクス主義イデオロギーの断片をつなぎ合わせて「革新」や「前衛」などと自称する集団に特有の自己完結型論理からきているのだろう。全体主義が無限の政治運動として終局を見せないのは、そういう思考のパラドックスに入ってしまうからだ。


2011.11.8
共産党国家の拝金主義によるモラルハザード、しかし、それは中国だけの問題ではない。
 コンビニで朝刊各紙をあさっていると、右掲のような記事が毎日新聞の朝刊1面を飾っていたので購入した。この記事に、多くの人はため息をついたに違いない。そして、このサイトを知る多くの人々もまた、共産主義や「人民の味方」を語るイデオロギーによる差別拝金主義の醜悪さを再確認されたかもしれない。
 しかし、日本もこの例外ではないのではなかろうか。少し前になるが、大阪で数百m被害者を引きずって逃走したひき逃げ犯の状況は実際にはどうだったのか、日本ではあまり報道されない。憤った群衆が犯人の車をすかさず追いかけたのだろうか? あの事件を新聞で読んで、最初に思ったのが、目撃者の行動である。そしていつも犯罪や、公害、いじめや虐待の事件に触れて、考えさせられるのが、その周囲にいて「見て見ぬフリをする」サイレントマジョリティの問題である。
 夏、都市部の中心街で荒れ狂う暴走族をビール片手に眺めて楽しむ人々がいる現実をどう考えたらいいのか。他人の家に不法に書かれた落書きを面白半分に評論したり、「あれはアートなんだ」などと論文を書いたり、美術館で展示会をやったりする人々の存在をどうみたらいいのか。一方で、明らかな学校の異常や、地域環境の異常、組織の異常事態に対して、黙ったまんまというのは、逆に日本の得意技かもしれない。
 そういう現状から、モラルなんて、結局、それほど大差はないというのが現実だという人もいる。
 中国の共産主義政権の腐敗は深刻だ。それを指摘することはもちろん重要だ。だが、そのエネルギーの一部を、自国の共産主義政党の腐敗を暴くことにも使ってほしいものである。いまだに原発や、環境問題、原水爆禁止運動で、55年体制の感覚から抜けきれない現状。反搾取を叫びながら搾取を行うという強烈な二面性。障碍者問題を政党政派の道具にしたがる勢力。「人を助けるにはコストがかかって仕方がない。だから被害者への基金から半分近くを頂戴しても当然だろう」という自称“革新”思想の跳梁など、日本人の精神深層にもたらすモラルハザードは、より身近で深刻である。

2011.9.26
2009年に虎頭要塞日本側研究センターで実施した「ノモンハン事件70周年国際共同学術調査団」の記録が
好評を博しているようで、ネット上で上映されている。
ちなみに、ABC朝日放送で放映された特集番組も、関西圏域での高視聴率を出したそうである。
ノモンハン事件の謎は、まだ解明されていない。
朝日新聞社スライドショー(ノモンハン70年後の戦場を訪ねて)
1939年、モンゴル東部国境で、旧日本軍側と旧ソ連軍側が戦った「ノモンハン事件」から70年になる。
日本側は死傷者2万人を出して敗れた。
この戦闘跡を5月、日本、中国、モンゴルの国際調査団とともに訪れた。
現地の様子をスライドショーで見ることができます。(朝日新聞WEBサイトより)
http://www.asahi.com/kansai/photo/slide/OSK200906070027.html

2011.9.7
カネと権力のためなら、ためらいもなく、仮面を脱ぎ捨て、手を組んで弱いものいじめをする犬と猿─世紀末の腐敗と独裁の腐臭漂う構図。
能瀬訴訟を観察していて、つくづく感じるのは、マルクス的スローガンが腐敗臭をまき散らしているということだ。精神的にだめになったというレベルを越えて、もうほとんど完全に腐っている。

  共産主義イデオロギーの自己陶酔性と思い上がり。それがもたらす究極の殺戮犯罪。
  その氷山の一角である「カチンの森」虐殺事件を告発するビデオクリップ。
  KATYN MASSACRE execution of Polish officers

 
ポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダ監督の映画、「カチンの森」については下記に掲載。

「人間は経済的範疇の人格化」「民主主義より中央集権制が便利」と割り切る、マルクス党派。
勝手に腐って立ち枯れるならまだしも、フロント組織として経営する病院や、一部の労働組合の腐敗幹部の天下りのために、市民運動へ寄生しようとする癖はまったく治らないようだ。
訴訟で公開されている被害者への罵詈雑言の証拠文書を読むと、そこには、「君ら公害被害者は我々の飯の種なんだよ。だから種は種らしく、おとなしくしろよ」といわんばかりのおぞましいモノの考え方が露骨に口から脅し文句として出てしまっている。このような非人間的な思想を前提にして、裁判官の前に大量の「美辞麗句」書類を積み上げる行為自体、日本の司法をナメているとしかいいようがない。
基本的な人間性を喪失したイデオロギー党派が、憲法9条がどうだの、平和や民主主義がどうだの、大企業がどうだの、アメリカの横暴がどうだのとパフォーマンスをすること自体、ナンセンスそのものだ。フツーに平和を求めて活動している市民は大迷惑だ。それに、ほとんどの企業はまともだ。間違いを犯さないよう、日々、神経を使い、努力している企業は多数ある。

手っ取り早いガス抜き演技で人間の依頼心を悪用する民主集中制の独裁的本質
まともでない、コンマ二桁以下の確率でしか存在しない企業を社会の代表格と決め付けて、表向きには、すべてを弾劾してみせ、一転、自らの党とその影響下に収めている組織内部の腐敗と独裁手法には千も万も屁理屈をつけて文句を言わせないのが共産主義者である。発生当初の共産主義者ならとことん戦ってみせたものだが、すでにそのような「歴史的一過程」は過去のものとなり、今は、飯を食らうことが最優先。だったら、フツーに働けばいいのに、人に使われるのはどうにも我慢できないゴーマンだから、大衆運動と称して、大衆の上に立ちたい。だからみんな平等な資格で活動に関与する市民運動なんて大嫌いだ、となる。かつて(いまでも?)市民運動に対して、「反共市民運動」というレッテルを貼りまくった、行いをもっと恥じるが良い。そして彼らが一番嫌悪するのは、自らも同列に置かざるを得ない本当の民主主義と情報公開である。「民主主義?そんなものは資本主義社会にはないから、共産主義ではじめて実現してやるんだよ。だからそれを実現する共産党には民主主義はいらないんだよ」「そんなこといってたんじゃあ、階級政党の一枚岩の団結なんてできやしねえじゃねえか。つまり、オ・レ・が・エリート指導階級に仲間入りできねえじゃねえか。オレは人の上に立ちたいんだよ。権力奪取だって、同じことさ」─それが本音だ。だから資本主義が時々、深刻に陥る中央集権的支配手法には、本質的な疑問をもっていない。権力を奪取するということを金科玉条してきた癖は、どのような権力政治とも同化する親和性を持つに至っている。だから、軍国主義が繁栄する局面では、少なからず、中央集権制を著しく好む左右の全体主義政党が相対的に伸張し、最期は「広義の意味での内ゲバ」に遭う。全体主義ナチスが全体主義ドイツ共産党に襲い掛かったのも似た様なものだ。「社会主義的民族主義?」を装う全体主義者スターリンも、ソヴィエトに逃げてきたドイツ共産党員をヒトラーに送り返した。所詮、この思想は、軍国主義的無節操と同根である。(ちなみにドイツ共産党員の行進も、ナチスの行進も、その異様さにおいて、同列。当時の二つの勢力の街頭闘争の写真をみて旗以外で区別できる人はすくないだろう。)

全体主義的無節操は共産主義にも軍国主義にも存在し、利害関係が一致すると奇妙かつ見事に同盟する。
逆に、全体主義的共産主義は、昔から訓練してきた対敵闘争における準軍事的独裁の手法・思想を内部に対しても使う。ましてや、そんな勢力と手を組んでおいて、「昔の軍事政権となんだか似ていて格好が悪いな」と恥じ入ることのない企業家は、確かに資本家ではあっても、現代の資本家の風上にはおけない。もはや近代資本主義の代表格でもない。かのA.スミスでさえ、こんな勢力と手を組む企業家に対しては、「ちょっと無節操とちゃうか?」「“神の見えざる手”という言葉の真意を知っておるか?」と叱責したくなることだろう。日本資本主義には、フェアプレイの精神はまだまだ成長が見られない。もちろん、気に入らない人物の行動を秘密警察まがいに調べあげて文書を流せば、気持ちがスカッと高揚するような強力管理とスパイ監視を愛好する共産主義には、最初から存在しない精神だが…。


2011.5.11 映画「レイチェル・カーソンの感性の森」

 雨が多くなり、気分まで沈みこんでしまいそうな日々だが、これもお百姓さんにとっては恵みの雨だといいきかせながら、映画でもみようと探していると、おお、あの「レイチェルカーソン」ではないか!
さっそく、鑑賞して、元気が出た。このようなすばらしい映画に出会って、心を洗われる思いがした。

 1964年に亡くなったアメリカの海洋生物学者で作家でもあるレイチェル・カーソンを主人公にした映画である。そして、この作品は彼女の遺作となった著書「センス・オブ・ワンダー」の映画化である。【公式サイト】

 彼女が執筆し1962年に出版された「沈黙の春」は、世界で初めて化学物質が環境に与える危険性を告発したことで、あまりにも有名である。この本をきっかけにアメリカ政府はDDT(※1)を禁止する法律など環境を守る諸法規を次々に制定した。この著書の中で彼女は、人間の自己中心的なものの考え方・行動がいかに自然環境に悪影響を与えたかについて、豊富な科学的データと実例をあげて紹介している。一方、それがあまりに深刻な真実だったがゆえに、一部のメディアや化学薬品産業から理不尽な攻撃にさらされることになるが、決してそれに屈することなく、人々の健康と環境の危機を、生涯を通じて訴え続けた。

 人類は地球上で自然に生かされていることを忘れ、人間の傲慢さから、環境破壊と汚染は止まる様子がみられない。しかし、それが最終的には人類自らを脅かす問題になることは目に見えている。
 彼女からのメッセージにはこうある。
 「すべての人が子供のころに持っていた感性、神秘や不思議さに目を見張る心”センス・オブ・ワンダー”を失わないでほしい…」。
 実際、この映画をみると、なにか特別な、懐かしい気持ち ─ 私たちが子供のころにもっていた ─ を思い起こさせてくれる。それは、自然への畏怖の念、自然を怖れ、敬う心だろうか? これこそが、今、私たちに欠けているもっとも深いところにあるべき感性なのかもしれない。

 是非、「この時期」に、彼女が伝えたかったメッセージについて考える機会を多くの方に持っていただきたいと思う。
 岡山では「シネマクレール丸の内」にて、5月20日まで公開上映中。
(※1)DDT:Dichloro-diphenyl-trichloroethane(ジクロロジフェニルトリクロロエタン)有機塩素系の殺虫剤、農薬で、発がん性が指摘されている。


2011.4.18 斉藤和義が思いきった歌を発表した。

 かつてチェルノブイリ事故の際、当時のしたり顔の多くの大人がためらった基本的な疑問を提示する勇気を見せたミュージシャンが数名いた。RCサクセションの忌野清志郎、ブルーハーツの甲本ヒロトなど…。(後者は岡山市の岡山県立岡山操山高校出身(1963年3月生まれ)である。)
レコード会社が原発を作る東芝であったことから強烈な圧力がかけられたRCサクセションの歌はカセットテープで録音され、ひそかに地方でも聴く機会を得た。旧ソヴィエトの表向きの不祥事だけは散々指摘しても、その背景にある言論弾圧や情報統制の本質を自分の国に当てはめて見ようとしない多数派の中で、チェルノブイリの真の教訓は忘れ去られていった。その中で、このようなアーティストがいたことに、かすかな希望を見出したものだ。そして斉藤和義が、それに続く。日本には、そういう人材がまだ、あまりに少なすぎるのが悲劇であるが、それでも、数少ない彼らの素直な着想と、それを提示する勇気には惜しみのないエールを送りたい。

●斉藤和義 『ずっとウソだった』
http://www.youtube.com/watch?v=AylBxsiUSws
http://www.youtube.com/watch?v=HmxFUEPoPfU&feature=related

これに対して多くの応援コメントが YOU TUBE に寄せられている。
その一部を紹介しよう。

■福島に住んでいます。他県の2倍の4つの被害があります。地震・-津波・原発・風評。
原発と風評は、生活を元に戻して頑張っていこうとする、漁業・畜産・農業を苦しめます。一つの実例は、放射能はいままでと同じだから出荷したものを、【イメージが悪いから】と断られたそうです。
テレビで訴えられているような、キレイゴトの支援はありません。
斉藤和義さんは、こんな福島県人の現実を、みなさんに伝えてくれました。
福島県人を守ってくれようとしてくれた楽曲です。


■日本は捨てたものじゃない、彼らの世代が、これからどういう日本を創ってゆくのかを見たいと真剣に思った。
今、この歌を、歌う勇気と根性と度胸がある若者がいる、その歌を愛する多くのファンがいることが、素晴らしい。
今回の事件で、学者は抑圧によって学問の自由を奪われ、国民は正確な情報を提供される権利も失った。蔓延した抑圧と洗脳に怒る気力さえ萎えていた。
が、音楽の自由は生きている。批判など気にする必要はない。この歌を歌う君達がいることで、日本は必ず新しい未来へ突き進むことができる。
パニック状態の親友や生徒達、逃げ惑う親戚、彼らをサポートする自分、だけど、原発は天災じゃない。何かが違う嫌悪感・・・息詰まる1ヶ月の閉塞感に、やっと風穴を開けてくれたのがこの歌だった。
この歌には、大きな勇気をもらった。日本の為にもうひと踏ん張りしよう!という元気が沸いてきた。
斉藤和義、わが身のリスクを覚悟してこの歌を今歌う君も、正しくFUKUSHIMAのヒーローの一人だよ。私は、君の歌心を愛する。君を干す奴がいたら、私が許さない。これからも、思いのままに生きて、心のままの歌を聞かせて下さい。

http://www.youtube.com/watch?v=AylBxsiUSws より引用


2011.4.17

 この数週間、風評被害をなんとか防ぎたいという関係者の努力の中に、こっそりと「チェルノブイリ事故でも甲状腺ガン以外の発ガン患者は一人も報告されていない」などという楽観的言説を流布する「学者」が登場している。

 東日本産周辺の一時産品は、正しいやり方で検査した結果が基準値以下なら安心だが、消費者への説明責任をあらゆる方法で誠実に実施しなくてはならない。一方で、その「安全安心」の努力の中に、どうしても、いやなぜか、“チェルノブイリ事故も実はたいしたことない”と主張したい人々が紛れ込んでくるのである。台無しである。彼らがどうしても、「チェルノブイリも騒ぐに値しない」といいたいならば、「あの事故に関しては国際機関の正式報告でも数千人規模での発ガンが今後確率的被害として予測されている」とセットでいうべきだろう。チェルノブイリ事故評価では、2005~2006年にかけてIAEAやベラルーシ、ウクライナなどで、国際検討会議が開催された。そこでは、被曝による将来的死亡者の予測値が出ている。事故処理に当たった作業員も203人が入院し、31人が死亡しているという。その後も死亡者の増加が続いた。しかし、晩発性疾病・悪性腫瘍に関しては、ソビエトにおける貧困な疫学的調査では科学的データが取れていない。

 本当に、安全をうたう覚悟があるのなら、最悪の場合に備える体制をとるべきであろう。事故直後からそれをすればよいのであるし、しなければならないだろう。そこまで責任をもちつつ、基準値を云々すべきではないのか。それが産業公害の経験ではなかろうか。

 しかし、このような主張を提示する気力も失せるような、適当な言説がまかり通っている。チェルノブイリでは、数十万人以上が避難した。疫学調査では調査対象の母集団が一定地域から短期間で拡散してしまうと、その調査自体が困難になるといわれている。チェルノブイリ事故や放射線障害における晩発性疾病の「影響なし」を、いとも安易にいう者たちは、そのバックグラウンドを忘れたフリをしているとしか思えない。一次産業を守りたいという良心的な企画に、こっそりと、入り込む習性。放射線への警戒感を薄めさせる目的で動いてきた一部の者たちが、その機会を利用して言説を展開しているのなら、自らの良心に問いかけをし、出直すべきであろう。元阪大のある医者が、お笑いニュース番組に登場し、あからさまに疫学を皮肉りながら「200mSvでもまったく問題ない」と涼しい顔で吹聴している番組を拝見したときは、世も末というべきか、いやむしろ、森永事件当時の生き写しにみえたものだ。

2011.3.30 地震・津波を甘くみてはいけない。「稲むらの火」を歌い続ける。
シンガーソングライター関島秀樹 オフィシャルサイト関島秀樹氏の今震災についてのコメント

津波の恐ろしさと、命の大切さを「稲むらの火」を通じて歌で訴え続けてきたシンガーソングライター・関島秀樹氏のオフィシャルサイト。↓
http://www.natural.fm/

【関島秀樹プロフィール】
1979年4月25日「あじさい寺」(テイチク)でレコードデビュー。1981年「風のアルペジオ」(トリオ)。俳優、DJ、レポーター、キャスター、講演等に活動の幅を広げる。現在はシンガーソングライターとして“もっとやさしくたって生きてゆける”を信条に、故郷、家族、心のふれあい、自然や平和をテーマに、ギターの弾き語りを中心に全国でライブを続けている。津波の恐ろしさや命の大切さを子供たちに伝える彼の「稲むらの火」は、スマトラ沖地震復興の際、内閣府から世界に発信された。現在でも、日本各地のコンサートで披露されている。また、太平洋と日本海を桜でつなごうと人生を植樹に捧げたバスの車掌の物語「てんごの夢~桜のように生きた男の物語~」など、夢や希望を失わない元気が出る曲を数多くリリースしている。 島津亜矢の「帰らんちゃよか」を作詞・作曲。2008年、映画「荒木栄の歌が聞こえる」に出演。劇中、荒尾市万田坑で「仲間のうた」を歌っている。
1954年11月3日、熊本県荒尾市生まれ。滋賀県大津市在住。

「稲むらの火」 作詞・作曲 関島秀樹(日本語/英語)

関島秀樹氏の作詞作曲「帰らんちゃよか」を歌う、島津亜矢さん。(NHK)
http://www.youtube.com/watch?v=wHpEYfmSu3I

ヒット曲「帰らんちゃよか」の原曲「生きたらよか」 を歌う関島秀樹氏のライブ。
http://www.youtube.com/watch?v=znCs_ze6BQ0


「関島秀樹氏のメッセージ(関島秀樹オフィシャルサイトから)

大変な被害が、日を追うごとに伝わってきます。信じられない驚きから、深い悲しみ、被災された方の現実と将来を考えると、気が遠くなるほどの虚脱感に襲われています。毎日流れるニュースや被害の数字があまりにも大きすぎて、本当に現実に起こったものなのか受け止められないでいます。夢であってほしい。あの地震が起きる前にもどりたい。被害に合われた方はもちろん、日本のみんながそう思っています。
いつか来る。必ず来る。それは皆知っていました。それぞれの場所で、それぞれの立場で警戒し、準備はしていました。でも、これほどのものが3月11日に来るなんて、誰も考えられませんでした。
阪神、淡路大震災で学びました。この体験を忘れないで、未来へ生かそうと・・・。この4月からは、小学校の教科書に「稲むらの火」(津波から村を救った昔話)が復活することもあり、特に昨年後半からよく歌うようになっていた「稲むらの火」の歌。今年16年目にあたる震災の日1月17日には、さいたまでの防災イベントに神戸からメッセージを送ったり、神戸でのライブで「あの日を忘れない」を歌っていました。地震、津波への意識や備えさえも根こそぎ押し流してしまった東北関東大震災。反省や問題点はあるにしても、まずは復興!みんなで力を合わせましょう。できることを最大限やりましょう。
直接被害に合わなかった人は、嘆いたり、悲しんでばかりいても前へは進みません。どうすれば皆さんの力になれるのか?復興の手助けになるのか?静かに祈ることは大切だとしても、自粛から建設的なものは生まれません。節約は必要です。でも元気な人は頑張って動きましょう。いつも通り一生懸命働き、学び、運動し、活力を取りもどしましょう。涙を拭いて前に歩き出しましょう。余力のある人は手助けをしましょう。このままみんなが沈んでいたんじゃつらい思いから大切な人を、家族を、ふるさとを失った悲しみから立ち上がる力になれないから・・・。
みんなで頑張ろう。頑張るよ。たった一人のためにも最後まで頑張るよ!

                                      2011年 3月 関島秀樹 」



2011.3.30 【投稿】

「カチンの森」虐殺事件に関する待望の学術書が刊行された。
著:ヴィクトル・ザスラフスキー 
主題:「カチンの森」
副題:「ポーランド指導階級の抹殺」
訳:根岸隆夫
発行所:株式会社 みすず書房  →ホームページ
発行日:2010.7.9 第1刷発行 2010.10.5 第3刷発行


内容の詳述は省くが、ソヴィエト体制による驚くべき虐殺の歴史の一端が明らかにされている。
ソルジェニーティンの「収容所群島」とともに、いまだ十分に明らかにされていない共産主義・全体主義の恐怖政治を理解する上で、必読の書である。
同書の帯にはつぎのように記されている。

「虐殺の原因と経緯、ソ連に同調した連合国の隠蔽工作、ゴルバチョフの沈黙、歴史家の責任まで簡潔に分析する決定版。スターリン体制を象徴する事件の真相」


 スターリン体制の別名・「民主集中制」を、党内統制においていまだに採用する共産党は世界に数党残存しているといわれる。
 この半世紀以上の歴史を振り返ると、結局、共産党とは、「人民の味方」を錦の御旗にして、数々の自然発生的運動に介入し、組織と利権の拡大工作をしているだけである。

 その現実をよくよく直視すれば、別に共産主義云々ではなく、最終的には、党生活者にとっての潤沢な資金の確保と、閉じた城下町的組織を増殖させて、数々の現世の利権を確保する集団でしかない。

 それでは、なぜ、共産主義的ネーミングを意固地に冠にかぶるのか? それは、独裁のエッセンスである民主集中制の統治スタイルを、組織乗っ取り工作とその後の統治支配に都合よく利用するため、それに疑問を生み出させない精神的土壌を自党全体に確保するためであろう。
 そのためには、マルクス主義のなんとなく難解な、インテリ受けする切り口、レーニン主義の党純化スタイルと、威勢のいい雄たけびは、いかようにも便利に使えるものである。疑問から怒り、怒りから感情的支配に自己陶酔する一部の人間には、麻薬的作用をもつ場合もある。だから、個々人のレベルでは「わりによい人」でも「組織となると豹変する」。そのわけは、資本主義の矛盾点を衝く共産主義の表向きの理論によるというより、金と人が結果的についてくると見たときの組織支配工作において、言論の自由をいとも簡単に破り捨てる凶暴な古典的意味での中央集権的手法にためらいを見せなくなる全体主義的イデオロギーのおかげである。だから「中央集権制」という言葉をあえて維持し、適宜強調するのである。

 「政府が横暴な場合は、それに対抗する勢力も全体主義的にまとまってよし」とする「全体主義的正義論」は、目的が別のところにある。つまり自己の組織の支配権を無限に拡大しなくてはならない、というアーレントも指摘するところの全体主義運動の理念である。スターリン主義を声高に批判し、重箱の隅を「清算」することはいかようにも可能だが、このエッセンスが維持されれば、実質的に立派なスターリン主義である。それは「平和」や「理想的幸福世界」を掲げつつ、無自覚的に世界を復讐主義の連鎖に巻き込むもうひとつの思想的梃子である。この書籍を読めば、いろいろと思い当たる節が、わが社会の「革新」「毅然」「物言う」云々にもあると気づく。

2010.5.29 必見! 映画「クロッシング」
 北朝鮮からの脱北者の現実を描いた、韓国映画 『クロッシング』。息つく暇もないほどの緊張と慟哭と告発の映画である。
 すべての共産主義が生み出す固有の共通項=「マインドコントロールによる収容所国家」のすさまじい現実の一端が映像化された…。シネマクレール丸の内(岡山市)で本年6月18日まで異例ともいえる連続上映中である。
 また、当サイトの閲覧者にとっては、日本国内にもあるところの、形を変えた北朝鮮「収容所」群島的な「部分社会」を考える上でも大変重要なテーマである。映画「クロッシング」パンフ表紙 発行:「クロッシング」パートナーズ
 しかしながら、近年これほど観客をして唸らせる映画は、アンジェイワイダ監督の「カチンの森」と、この「クロッシング」だけだと思うのは、私の映画の観足りなさ所以であろうか?
 エンドロールの最後まで客席をたつ観客が一人もいない映画、静かに抑え込むようなすすり泣きが聞こえる客席、最後には涙も枯れて、最も身近な国の一部を厚く覆って、多くの民衆を絶望と怨念の虜にさせているこの現実を、いったい、どう解釈し、どう対処すればいいのか、悩ましいその想念がしばらく頭を支配して、はなれそうもない。
 それにしても、自国民をこれほどまでに平然と飢えさせ、人間として当然の想いから家族を守るために行動に出たものを徹底的に追い詰めて攻撃し、さげすみ、貶め、イデオロギー信奉者(党員)をして、無辜の民衆を弾圧することに快感さえ感じさせるように仕向け、一方で労働者国家といいつつ、人民のためといいつつ、拝金思想に支配され、それらを同居させてなんら疑問を感じなくさせ、その矛盾から逃れようとするものを、ためらいもなく「後ろから」撃って虐殺できるのは、イデオロギーのどの要素なのだろうか? もちろん、現代史上、全体主義・共産主義イデオロギーに固有のものであることは分かるが、その冷酷さは、もっとも凶暴なファシズムと何らかわらない。
 さらに、主人公のヨンスと、このサイトで紹介している「もの言う被害者家族」「もの言うことによって、特定の被害者団体指導部からいじめ抜かれる公害被害者家族の悲惨」が思わずダブってしまうのは、事情を知りすぎた私だけであろうか。
 いずれにしても、北朝鮮的なものは、国外にだけあるのではない。この一見恵まれた日本国内にも、「弱者救済」を旗印にしながら、「弱者」を食い物にして、自らの党派的延命をはかる全体主義勢力が、「部分社会」として厳然と存在する。
 また、フェアな評価をすれば、歴史的経緯からみれば、共産主義は凶暴な資本主義がその対極に生み出した同じく凶暴な鬼子のようなものである。さすれば、仮に、現世の利益に目のくらんだ北朝鮮的な共産主義グループを防波堤として、それを目くらましの親衛隊代わりに駆使する資本主義者がいるとすれば、その資本主義者の歴史的評価は、「21世紀まで共産主義者と裏取引をしながら残存した卑怯で 凶暴な資本主義者」となるであろう。つまり、両者は共依存関係にあり、お互いを現世の利益の甘受のために必要としあっているともいえるのである。
 凶暴な資本主義者は資本主義の改善を押しとどめし、民主主義の発展を阻害し、資本主義の健全な成長を鈍化させ、資本主義の全体的信用を貶めることに大いに貢献することになろう。それはまた独裁支配にひそやかな快楽を見出すところの民主集中制の愛好者にとって格好の酒の肴となるだろう。

日本社会への民主集中制の強制を考えるための若干のキーワード
スターリン主義と民主集中制
ノーメンクラトゥーラ(共産貴族)

粛清

フラクション
「民主集中制」そのものについてのウイキペディアには、最後の部分で「批判」への「反論」として「民主集中制支持者」の言い分を紹介している。民主集中制信奉者が一般党員を黙らせる手法として、この程度の社会認識で宣伝扇動をしているのだという好例である。民主主義を深く考える上での反面材料としてご覧いただきたい。

 「労働者の理想郷」、「弱者の味方」、「虐げられしものの救済者」として朝鮮半島北部にソビエトがバックとなり樹立した「労働者国家」。それゆえ、日本の一部党派勢力は、その礼賛を戦後一貫して、ためらいもなく続け、拉致問題をきっかけに手のひらを返したように、「我が党は一貫して北を批判してきた」などと豹変せざるを得なくなった。その同類国家の呪縛から脱出し続けている人々の物語。すさまじい葛藤に苛まれ続ける家族の物語である。
 同時に、今もそのイデオロギーを通じた所業の問題点へ本質的な一片の反省もせず、「民主主義を語りつつ、民主主義を嫌悪する」ところの、延命を続ける日本の偽善的党派勢力にとって、かつて確かに自党礼賛セールスの駒の一つとして活用した国家の物語である。そして民主集中制に支配された組織の厚いベールに包まれた腐敗と欺瞞の内部告発に踏み切ったところの、少数だが、その人々の苦しみと悲しみを想像できる一助にもなりうる作品である。いずれにしても禍根は内にも大いに在りだ。

映画 『クロッシング』 予告編
http://www.youtube.com/watch?v=ZA4H2O7D1qQ


↓ただし、韓国も30年ほど前は軍事独裁政権だった。左右の全体主義イデオロギーが成長するとこうなるという見本。だが、韓国国民は全体主義を乗り越え民主化を勝ち取った。
1980年5月18日光州蜂起



↓日本もちなみに70年前こんな調子だった。現在の全体主義に対して「ヒトゴト」のような涼しい顔をしていてはいけない。過去の歴史を決して忘れず、永久に、自問自答を続けなければならない。その上で不当な行為は許さないという姿勢を、国際間の平和を維持しながらどう実現するかをまじめに考えないといけない。
731部隊の真実
 

↓そして、時々「戦争犯罪を告発してみせたりする」共産党は、いかにソフトな顔をつくっても、すべからくこんな調子の粛清型イデオロギーだ。他者の問題には猛烈に噛み付き、自らを聖人君主と演出してためらいをみせない。だが、自党の腐敗と犯罪は絶対に公開せず反省・修正しない。 内部を正す人材が組織内部にはいない(すぐに追い出される)から当然独裁になる。


2010.5.8 「カチンの森」DVD発売される。 (投稿)アンジェイ・ワイだ監督「カチンの森」パンフレット 出版:岩波ホール
 ポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダ監督の「カチンの森」。先般お知らせしましたが、5月2日、意外に早くDVDが発売されてました。お店に注文すればすぐに取り寄せてくれますよ。2008年のアカデミー賞外国語映画賞ノミネート作品でもあり、名作です。ちなみに、同作の解説パンフレットには、映画のシナリオが採録されています。つまりセリフがすべて文字化されているのです。(出版元:岩波ホール)この映画の内容にどれだけ深い歴史的意義があるかが、このことからも垣間見られます。

↓映画 『カチンの森』 予告編 You Yube
http://www.youtube.com/watch?v=1o6yWgR2at8




2008年アカデミー賞外国語映画賞ノミネート作品「カチンの森」



【ソビエト社会主義共和国連邦の歴史的大罪】
 民主集中制の歴史的特性 
 この独裁性向は言葉を変え形を変えて今も、日本にも存在する-
 スターリン恐怖政治 「公開裁判」「粛清」「見世物裁判」
 「チェーカー」 ウラジーミル・レーニン直属秘密警察組織
 共産党暗黒白書、「二千万人大虐殺」
 ソビエト強制収容所
 スターリン恐怖政治 強力な個人崇拝とプロパガンダ
 ソ連邦の統制でスターリン崇拝を強要されたバルト三国の悲劇
 家族を密告した「少女オーリャ」
 キリスト教會弾圧「宗教は阿片なり」

2010.4.11
 再度「カチンの森」 (投稿)
 数日前、NHKの朝の全国放送でやってましたね。カチン事件でロシアのプーチン氏がポーランド政府主催の追悼式典に第2次世界大戦後初めて参加したっていうニュース。ポーランドとの経済交流の進展を目的に来たとの報道でした。

 ところが、本日11日、衝撃的ニュースが報じられました。
 カチンの森事件70周年の追悼式典に参加するため、ワルシャワからロシアへ訪問しようとしたポーランドのカチンスキ大統領の乗った専用機が、ロシア西部・スモレンスク空港近くの林の中に墜落したというのです。(朝日新聞一面トップ記事より)
 スモレンスクは、カチンの森の直近にあります。なんとも言葉にならない不可思議な事件です。
 同機にはポーランド政府高官や、カチンの森事件の遺族も搭乗しており97人全員が絶望とみられています。「機体が古かった」などという噂が流れているらしいですが、古い機体が全て墜落するわけではないでしょう。本当に事故なのかどうか、続報を見守りたいと思います。
 その理由は以下です。カチンスキ大統領は、70年代から反共産主義の民主化運動に加わり、80年結成の自主管理労組「連帯」で副議長に就任しています。同大統領は、一貫してロシアと敵対姿勢をとってきました。そのため、「カチンの森虐殺事件」に関するロシア政府主催の戦後初の追悼式典(4月7日)には招待されず、秋の大統領選でカチンスキ大統領と争うことになりそうなトゥスク首相をロシアが招いたのです。そして、なぜかロシアは、10日にも別日程の式典を企画し、ロシアと対立する同大統領が参加「せざるを得ない」状況が生れたようです。こうして、二人の指導者が別々の機体でロシアへ向かうという事態となったわけです。
 例えば、カチンスキ大統領の使った機体は古く、一方、ロシアから正式に招待されたトゥスク首相の使った機体がもし仮に新しかったのなら、そのほうが不自然でしょう。そして、もし二人の指導者の使った機体が両方とも古かったなら、今回の事故に関して「機体が古い」という情報だけが先行的に流れるのも、また不自然ではないでしょうか。
 虐殺されたポーランドの側の二人の国家指導者が、「別々の日に開催される二つのロシア側の式典に別々に参加しなくてはならない」というシチュエーション自体がすこぶる不自然です。「カチン虐殺事件」の真相も、いまだ十分には明らかになっていませんし。

 カチンの森虐殺事件とは、ソ連がやった、史上まれにみる他国の正規軍兵士(しかも戦いをやめた兵士=捕虜)へのアウシュビッツ的な政治的抹殺行為です。
 NHKでは確か4万人くらい殺したといってましたね。ソ連は、ナチスドイツとしめし合わせて隣国ポーランドを侵略し、実際に街頭に宣伝カーを出して、「ソ連は平和のためにドイツからポーランドを解放しにきた。皆さんの味方だ。抵抗しても無駄だ。ま、ちょっと集まれ」っていう感じでポーランド軍将校を全部招集して、収容所へ押し込め、ベルトコンベアー方式で、その全部を虐殺したわけです。一方の悪役を強調して、自らの悪徳性を隠蔽・美化し、人の警戒心を麻痺させながら同様の悪行を冷酷に実行してはばからない…。他人のふんどしを使っての、実に姑息なワル知恵的宣伝煽動手法です。こういう企画を陰に隠れて立てるものを「人間のクズ」というのでしょう。
 その結果、殺されたポーランド軍将校の捕虜は約5千人(正確には4千4百名超)ほどらしいですが、それ以外にも一般兵士も連行してだいぶ殺したらしいですね。ただ、この部分は逆に万を越え、多すぎてカウントできないらしく、連行された兵士と生還した兵士の引き算の差が10万をはるかに越えるという計算もあります。本当なら原爆投下並みの虐殺行為です。
 つまり、戦闘上での死亡ではなく、捕虜として集めた他国の無力な兵士を政治的抹殺という手法でこれだけ大量にまとめて殺したのは、近現代では、ソ連共産党が唯一最大ではないでしょうか? 専門の施設までつくって、牛馬のように、いや牛馬以下の冷酷さでもって大量に処刑されたポーランドの将校達の無念の思いは、天空を覆い、永遠に消えることはないでしょう。ナチのアウシュビッツの犠牲者とも似た思いでしょう。そしてシベリア抑留の犠牲者とも…。
 シベリア抑留でも、ジュネーブ条約を無視して60万人という捕虜に最高10年以上、極寒の地で違法に強制労働をさせ、一部に共産党員への洗脳改造教育を施して日本へ送り込んでいます。捕虜の1割にあたる6万から7万人を死なせていることをみても、共産主義は政権をとるまでは、「平和」や「人民・国民の味方」を腐るほど語り、歯の浮くような口だけ達者集団ですが、実際には、その行いの根底にある精神は、平和や人権とは程遠いです。独裁支配愛好の嗜好に関しては古今東西、ソ連型とか何とか型には関係なく、完全に共通してます。いくら綱領や政策の文言や内容を変えてみてもだめです。階級闘争史観、生産力至上主義的唯物史観など、歴史観や社会観といった根底部分に、自らの政治思想の絶対的優越性を妄信するところの独裁を是とするDNAが隠れていますから。まあ、簡単にいうと、自らの政治思想においては「謙虚さゼロ」という習性です。

2010.3.30 必見! 映画「カチンの森」(投稿)
 ポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダ監督の「カチンの森」。
戦史研究者には常識的なこの事件も、一般的にはほとんど知られておらず、少し極端な言い方をすれば、「忘れられた国家の悲劇」といいうか、ヨーロッパ史、いや世界史でこの70年隠蔽されてきた歴史の暗部を抉り出した大作である。この映画をみれば、一見勇ましく見える全体主義的イデオロギーに浮かれて快感を得たり、共産主義イデオロギーが反権力&反体制のカケラだと信じている一部の党員の底知れぬ愚かさがすぐに理解できる。
 そういう意味で日本人は、ヨーロッパが先行的に経験した悲劇をもっと学ぶ必要があろう。
 ソビエト(マルクスレーニン主義)とドイツ(擬制的な国家社会主義)に翻弄された国々の塗炭の苦しみを理解する上でも…。当センターがモンゴルのノモンハン事件調査とその国際シンポジウムで問題提起した、太平洋戦争と第二次世界大戦との連関を知る上でもっとも重要な事実の中のひとつであり、それを活写した必見の映画である。ノモンハン事件70周年は、第二次世界大戦70周年であるという事実を日本人はしっかりと認識する必要がある。

 プロパガンダの嘘と恐怖、イデオロギーによる精神的コントロール下におかれた人々の悲しい姿。悲劇の民族を支配し、その最後の生き血まですすり続ける共産主義的全体主義イデオロギー。人々の間に監視と密告を持ち込み、裏切りを正当化するマインドコントロール、すでに70年前に出揃っていた冷厳な事実は、私たちに、民主主義のあり方を厳しく問いかける。

 日本社会にもカチンの森がいくつもある。
 ナチズムや共産主義、軍国主義など、様々な絶対的・原理主義的理念で、権力を分割せず、集中的に行使することを正当化する理論。共産主義者やその亜流勢力が信奉する「民主集中制」もその代表的なもののひとつだが、こういった一枚岩的な中央集権体制を組織内外で正当化する「全体主義的イデオロギー」の持つ麻薬のような力はいまも健在だ。民主主義の原理が「多数決」であるかのように平然と語られる幼稚化されたわが国の「理性」が、自ら全体主義を引き寄せている。「平和」や「解放」という美名を駆使して、卑劣な手段を正当化・自己合理化するところの、その奥に隠された凶暴な牙を見抜けないようでは、人類は今後も「階級闘争」や「正義」という名で、混乱と争いをやめることはできないだろう。

 マインドコントロールを維持するカラクリは、経済的支配と、それによって可能となる「棒とにんじん」効果による事実の隠蔽という単純な手法が基礎にあるという普遍的教訓を教えてくれる。この点で、残虐な特異的資本主義者と共産主義者は、条件さえ整えば見事に融合する事例が映画の各所で出てくる。でも、それが実際にわが国で発生した場合、有効に対処できるとは思えない。その事例は日本社会でも「部分社会」として随所に存在しているからである。
 人間としての善悪の判断、真実とは何であるかの理性的判断能力が麻痺し、そして、それを支える根源的な部分での自己と他者との対話能力が欠如していけば、理不尽な環境でも、いろいろな理由をつけて居心地の良いコミュニティと思えるようになる。
 日本が、歴史を軽視し、美しい言葉に踊らされ、警戒心を怠り、「運の悪い人民民主主義国家」として「見捨てられる社会」にならなければ良いのだが…。

 「カチンの嘘」が、日本でも大手をふっている。現代版「カチンの嘘を守る会」という亡霊も…。
 現代の日本人に、そして歴史の痛みをフェアに理解しようとする全ての人にとって必見の映画だ。

↓映画 『カチンの森』 予告編 You Yube
http://www.youtube.com/watch?v=1o6yWgR2at8

2009.11.12 
民主集中制という名の独裁制

 一党一派が大衆運動組織の運営に介入し、それを私物化するのは、スターリン主義に至る過程で完成した共産貴族(ノーメンクラツーラ)による独裁支配=民主集中制が日本社会の一部党派に根強く残存し、冷戦型政治から脱却できていない日本社会が、それを許してしまっている悲劇的状況である。日本の民主主義は、「民主集中制」に対して呵責のない批判を行い、公党内部にそのような統治形態を認めない方向へ、進化する必要がある。
 民主集中制の信奉者は、「言論表現の自由は、一般社会では認められても、組織内部で同時に認められるわけではない。一般的な言論の自由を組織原則に適用するのは誤り」といった暴論を平然と主張する。これが「弱者の味方」といった看板を掲げる組織の実態である。
 彼らは、企業に対しては、法の遵守とか、情報公開を要求しても、自組織ではそれを認めない。その巨大な乖離に疑問を持つこともない。また影響下にある構成員を封じ込めるには、嘘、謀略、スパイ、監視、密告、金銭を使った各個撃破と、一般企業でもためらうような権謀術策を躊躇なく使う。

 コミンテルン以来(国際共産党※1)の、目的のためには自党を準軍事的な一枚岩組織とし、目的のためにはダーティーな手段をとることにためらいを見せない「癖」=「DNA」が、美しい表向きのスローガンの陰で、組織内での権力闘争と私利私欲に走り(通称:共産貴族)、必要とあればご都合主義的に大企業と癒着し、ひたすら「党生活者」の生活の維持に汲々とする…。それを批判するものは、一般国民であろうが、一市民であろうが見境なく攻撃する。
 最近では、万年野党に甘んじている限り、民主集中制も外部大衆団体へのよこしまな干渉も、社会の側が多めに見てくれると踏んでいる。その結果、すぐれて資本主義的党生活は快適に維持される。他の、もっと開かれた党派と決して合流しないのは、資本主義の失敗を吸収する「不満調整弁」としての役割を演じれば、あと数十年は国家から延命が許され、その中で次の社会的混乱のチャンスをつかんで復権を果たそうと踏んでいるからであろう。
 資本主義はその危機的局面にあたり、非民主主義的な解決手法への誘惑に駆られることが多い。そして、それを民主集中制は絶好のチャンスと捉える。対抗する側にも非民主主義的暴力闘争形態を認める階級闘争史観は、民主主義の基盤が脆弱であれば、容易に復活する。民主主義を脅かす支配に対しては、同じく民主主義を軽視する全体主義的イデオロギーによる対抗もやむなしという安直で感情的な発想は、戦争やテロ、核報復理論といった、人類を永久に救われない負の連鎖を側面から支えるイデオロギーである。
 そのような反民主主義的陣営による相互応酬は、人類にとってもまた、必ず「暗い」時代になる。だが、左右の原理主義者は、ひそかにこのような状況の出現を待ち望んでいる。それは無限の世界支配を追及する全体主義イデオロギーの最大の特性であり、党生活の基盤も拡大する。。

 日本社会に存在し、議会政治にコミットしながら、その内部運営に関しては、手のひらを返したように、「外部の国民には一切文句は言わせない」という姿勢。彼らが侵食した一般団体までも、その病に罹患している。通常は、暴力団や、不祥事企業でしか見られない「癖」が、何十年も大手をふるっている。(暴力団ですら、市民から改善の「相手」にされることもある)
 ごく一部の企業の悪徳指導部が、「民主集中制」と手を組み、それらを防波堤代わりに利用しはじめたら、社会はどうなるだろうか? 民主集中制組織がいったん獲得した組織では、異論や批判は、「外部からの混乱と破壊活動」として排撃され、「組織防衛」と称して、批判者へは国家権力を上回る陰険な手法で封殺する。
 悪徳企業が、スターリン主義者と手を組み、彼らの天下り先を保障してやるかわりに、真の市民主義的要求の現出を統制し始めれば、民主社会において独裁支配にためらいをみせない政治的親衛隊が悪徳企業側の尖兵として社会のいたるところに感染を始めるだろう。鉄のカーテンならぬ鉄の防波堤となるわけだ。民主社会のなかに、「ブラックホール」のごとく、「弱者の味方を看板に掲げた暗黒部分社会」が出現することになり、次第にその引力に、まともな市民運動までが引きずりこまれる。
 (※1 その変節と退廃の現況は、かつて原水禁運動などに介入し、「共産主義国家の核兵器は正義の核兵器」と公言するまでに至った醜い党派の歴史を知る多くの人には、「またか」「今もか」という出来事だ。

ドイツの反省
 近代民主主義社会、たとえばドイツ社会では、公党や結社の内部統制に、他国との協調や、もっと言えば、民主主義と言論の自由、情報公開と透明性の原理が機能しなければいけないとのコンセンサスがある。それは、後述するが、ヴァイマール共和制で、独裁的組織締め付け手法を採用する政党が合法的手続き(選挙)を経て政権をとると、その党派の内部的運営手法とイデオロギーが、国家体制全体にまで一気に波及してしまうという深刻な歴史の教訓である。選挙で当選すれば民主主義的政党だというのは、世界史を知る方々には、単なる短絡的認識である。
 だが我が国では「表向きの美辞麗句」が優先され、冷戦型政治の残滓のなかで、野党側の公党、特に「革新」を装う(この言語自体が無内容なものだが)党派の内部統制のあり方への議論は、立花隆氏など骨のある知識人を例外として、殆ど話題にされてこなかった。民主主義的手法より、表向き演出される反体制的雰囲気や、一見美しいスローガンに惑わされている。
 日本のこれまでの政治状況の混迷の背景には、このことが大きく陰を落としていると愚考するのだが、共依存関係にある諸勢力は、お互いに、この点に関しては「紳士的な沈黙」を守ってきた。
 仮に、党内民主主義を認めない党派が、何かの社会的混乱に乗じて、まかり間違って議会選挙で政権を獲得した場合、現与党を上回る専制的政治を実施し、一転、自らが表向き批判の対象としてきた者と公然と癒着して、かなり悪どい手法を活用しつつ、長期政権を目指すかもしれないという一般的可能性は、与党以上に警戒が必要だ。これが「55年体制」の深刻な副作用であり、日本社会を適宜是正し、活力を与える有効な民主主義的土壌と風土の成長を阻んでいる。最近、自民党の幹部が、民主党の幹部に「最近は自民党も民主集中制になってきたよ」と自嘲的に語ったという。民主集中制の党派は仮に表向きイデオロギーが正反対でも、同じ民主集中制の党派と簡単に野合してはばからない。

 我が国でオバマのような黒人街で救済を行った経験をもつような人材が、一国の指導者に成長することがないのは、様々な民主主義的運動が特定の党派に私物化され、真に良心的で優秀な人材が、醜いセクト闘争で、徹底的に叩き潰され、放逐され、周囲の広範な良識ある市民が大衆運動や政治そのものに愛想を尽かしていった何十年、いや半世紀近い歴史の後遺症でもある。
 ボルシェビズム的党内統制の象徴である「民主集中制」的支配体制のようなおぞましいものが、大衆団体を平然と侵食したり、独裁支配を続けていても、全くアンタッチャブルとして敬遠され、是正されない状況では、民主主義の逞しい力の成長は、かなり難しいかもしれない
 
スターリン主義=ナチズム=東ドイツ秘密警察 
KGB=ゲシュタポ=シュタージ
 かつて、ヒトラーが率いる国家社会主義ドイツ労働者党は、党内が独裁であったにもかかわらず、大衆の不満をたくみに利用しつつ、合法的な選挙を通じて第一党となり、ドイツ社会全体にその内部統制=全体主義的マインドコントロールイデオロギーによる独裁制を一気に拡大した。
 当時のドイツ共産党とても同様で、彼らもプロレタリア独裁(執権と言い換えようが同じこと)の思想であり、当時の多数労働者の党である社会民主党を徹底的に攻撃し、自らのセクト的利害のみを徹底追及、そればかりか、交通ストライキなどではナチスと共闘し、ナチスと相互補完関係にあった。このことは、後にナチスが共産党を弾圧したことをもって、両者は異質であるかのように表現する向きもいるが、この見方は表層的である。両者は、政治手法的には、極めて似通っており、ナチの幹部はドイツ共産党の手法を賛美し、それを真似たことが指摘されている。
 だからかどうか、ドイツではナチスも認めないが、同時に共産党も事実上存在しない。共産党は解散し、ドイツ統一後に、その残党は、「ドイツ左翼党」へ合流した。
 しかし、油断は禁物。この「左翼党」は、現在もおぞましい問題を抱えている。
 同党には、未だに拷問と密告で悪名高い旧東ドイツ秘密警察「シュタージ」と、旧東ドイツの社会主義統一党のメンバーが紛れ込んで隠然たる影響力を行使している。それらが、失業者と不満勢力の囲い込みを通じて、ドイツ社会全体にその息を吹き返そうとしている。
 実際、「左翼党はかつてのナチスと同じ」として、政党活動そのものの禁止を求める旧東ドイツの市民も多い。かつてのヴァイマール共和制を崩壊に導いた「同じ穴のムジナ」として、また、市民への残酷な弾圧を行った秘密警察国家の復活に繋がる(当然、左翼党は、表向きそれらを否定しているが)勢力として、厳重な監視下に置かれている。

 ちなみに、東ドイツ市民へのスパイ密告制度と拷問弾圧支配を続けたシュタージ(国家保安省)は、人口一人当たり換算で、ナチスの秘密警察である「ゲシュタポ」の12倍、旧ソ連秘密警察「KGB」の35倍の規模のスパイ監視網を構築していた。
 しかも、これは正規職員によるもので、市民の密告奨励によるものは換算されていない。スターリン主義=民主集中制の残滓は、社会が近代化すればするほど、市民同士をスパイとしてお互いに対立させて支配しようとする強烈な管理社会に行き着くことが明らかにされている。ドイツでは、近年「市民スパイ・密告」による一般市民への監視記録・600万人分が公開され、衝撃をもたらしている。
  【旧東ドイツ 国家秘密警察 「シュタージ」=ドイツ民主共和国 国家保安省】
  第79回アカデミー賞外国語映画賞受賞作品
  『善き人のためのソナタ』 公式サイト 
  俳優ウルリッヒ・ミューエさん追悼 オスカー受賞作『善き人のためのソナタ』で好演

市民団体への民主集中制の介入行為には社会的監視と規制が必要
 仮に、外面的にはいかにも「開かれて」いるかのようなパフォーマンスをとりつつ、組織内では民主主義・情報公開と言論の自由を認めない党派が、市民組織や、切実な課題のために存在する大衆組織に介入をはじめ、上意下達の権威主義的な民主集中制の組織統制を開始すれば、純朴な組織であればあるほど、「赤子の手をねじる」ように乗っ取りは可能だろう。その団体は不幸な人身御供にされる。 
 この現象は、そういった党派が、そのまま我が国の議会制民主主義のもとで政権を合法的に奪取した場合、何が起こるかの予言的な姿を示している。 別の形のスターリン主義的粛清型ファシズムの予兆である。だから、党内でチャプチャプしている間は多めにみても、外に出てきた場合、そういう事態は絶対に許されてはならないのである。 (森永ヒ素ミルク中毒事件で言えば、能瀬レポートや、重症被害者の親への素行調査と見られる記録類、暴言等の証拠類をご参照)
 この事態は、運命のいたずらによって、すべての国民に等しく起こりえる深刻なテーマとして、今後、直接の利害関係をはなれた一般市民が旺盛かつ積極的に議論する権利を有するテーマであることは間違いない。かれらが一般国民に噛み付くのは勝手だが、そこでは、残念ながら彼らの発明した「秘密ごっこ」は通用しない。

 “国民の支援で勝ち取った成果を、支援団体の一つに過ぎなかった特定のイデオロギー党派が乗っ取ってあぐらをかき、モラルハザードをきたしたすえ、一般国民からそれを指摘・批判されると、今度は「部外者からの組織破壊攻撃」といわんばかりに攻撃的に噛みつくような独裁体質の組織”が日本の民主社会に存在するとすれば、それは不祥事企業と同様に、すでに「部分社会」の問題などではない。
 早急に謝罪の上、きれいさっぱり変わってもらわねばならない。それは、企業さえも日々直面しているところの、民主社会にとって、いまや常識的義務であるといえる。

 (※1 例えば日本共産党は、国際共産党日本支部として「共産主義世界革命」を推進するための一支部にすぎなかった。これは強力なDNAだ。作家・立花隆氏の「日本共産党の研究」全三巻をご参照)


2009.10.11

某記事にみる党生活者礼賛キャンペーン 新手の「野党共闘」?

 事件後14年もたってから、訪問調査・「14年目の訪問」通称“丸山報告”が発表された。ただ、これは丸山氏も、当時のメディアも証言しているが、守る会の自主的な検診と、疫学的整合性のあるデータとの照合があって初めて、御用学会の嘘を打破する理論的基礎を得ることになる。では、「検診」は一つだけだったのか? 学会のデマを破ったのはどのデータなのか? 真に科学的なデータとはいったい何だったのか?については、おいおい詳しく明らかにしていく。
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党生活者のちょうちん記事を書くまでに至った「保守を売り物にする媒体」も、最低限の情報収集をして書いているのだから、現状の問題点には沈黙した上で、「美談物語」だけを敢えてチョイスしたわけであろう。その責任はあとから発生してくる。党生活者も「これならいける」と今回のキャンペーンを思いついてメディアに売り込んだのだろうが、歴史は単純ではない。最終的に恥をかくのは、踊らせたものではなく、踊らされたものである。躍らせたものは、国民の批判など受けなくていい政治カルトの党生活者であるからだ。
健全な保守の視点には歴史を再検証する上での参考になるデータが多く含まれると考え、定期的に拝読していたが、こんな野合をしていては、セカンドオピニオンにもなりえない。
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 森永ヒ素ミルク中毒事件の歴史に戻ると、被害者側が一端勝利し、救済基金が拠出されるようになると、今度は資金の運営をめぐる問題が浮上。それへの批判が始まるなかで、現「守る会」は被害者救済の誠実な実行を目指す当時の被害者団体指導者への除名排除を強行。その後の20年間で、現在のような、「被害者をいじめ抜く被害者団体」「被害者に差別的暴言を吐く救済基金」がつくられている。
 現在、ある意図に基づいて、暗黒の14年間の運動の意味を薄め、歴史の全体像を改ざんすることに必死となっている者が登場している。一部メディアを利用することさえいとわない。
 その中には、ごく一部の党派系医療機関や党派系医師が被害者を救ったとするキャンペーンも登場している。
幅広い医療機関や学術機関、国民支援の存在を歴史から捨象する目的の売名キャンペーン

である

 その邪悪な意図はすぐにわかる。
共通しているのは、
現在の「救済」団体の異常な実態、厳しい被害者の現実と極めて不十分な処置のカラクリに関しては完全に黙秘し、「美辞麗句」で埋め尽くされた断片的な過去物語を語る

ことである。その異常性たるや、1955年、事件発生後の森永乳業が被害者家族への弾圧に活用した手法と一致している。党生活者の手馴れた宣伝扇動のテクニックであり、それに思惑を一つに糾合していく一部媒体の動向を興味深く観察させてもらっている。
 まさに「歴史は繰り返す」である。だが、ある歴史学者の言葉によると
「歴史を繰り返す時、古いやり方では繰り返さない。昔とは違った新しいやり方を開発して繰り返す」

らしい。そこにこそ、新しい危機の萌芽が潜んでいる。


2009.9.28

http://d-arch.ide.go.jp/je_archive/society/book_unu_jpe5_d04.html
http://d-arch.ide.go.jp/je_archive/pdf/book/unu_jpe5_d04.pdf (PDF版)
 この宇井純氏の編纂になる著作は、日本の公害史の教訓を鮮明にあらわした特筆すべきものである。当該論文の後半には、守る会とひかり協会の関係性が端的に述べられており、その危険性についても明快に指摘されており、不幸にも的中しているという印象だ。問題は、この現状が正されないことにある。
 学術的良心といったものが感じられる論文である。
 
 ところで、当該論文と対極に位置する事例として、かつて、公害被害者の恒久救済運動は、裁判(これ自体戦術の一つに過ぎない)の一端を担当した一部の弁護士の「活躍」で支えられたものであるという、いかがわしい言説が吹聴された時期があった。 このこと自体、市民運動の歴史のみならず、市民運動一般の本質までをも、大きく誤解させ、公害被害者の深刻な現状を覆い隠す効果を、未だに発揮している。調子にのって自己陶酔の言説を行ったものは、恥を知るべきである。一般的にいって、市民運動の主人公は市民である。
 歯の浮くような偽善的言説や、美辞麗句でもっての安易な「まとめ上げ」的解説で、事情を知らない国民を一時的に感動させ、一方で、酷い事実誤認の羅列が指摘されているにも係わらず訂正もしようとしない傲慢さを見るとき、作為者の薄汚い裏の目的を推察せずにはいられない。
 しかしながら、「毎月金が支給されていること」をもって、あたかも 「いまでは公害被害者が公害企業に感謝している」 かのような構図を流布したその姿勢そのものが、実は、彼らが公害被害者の真の苦しみを、これっぽっちも理解していないという実態をよくあらわしてしまっている。
 その最大の罪は、「公害問題についての歴史的教訓を何も生み出さない」という効果であり、おびただしい犠牲者・死者たちに対してもっとも無礼な態度である。要注意。


2009.1.22 寄せられる被害者の怒りの声 そして開始された善良な国民への噛み付き行為、その他

当資料館に関する記述が、なんと、ある団体の機関紙に掲載されているという。詳細は不明だが、決して好意的ではないという意味で掲載されているという。実に名誉なことだ。
まず、彼らは既に1986年以降、何十年もの間、加害者の立場にいる。それがどんどん明るみになるだけである。
善良な国民や遺族を攻撃するのは自由だが、手先になって動くものも含め、どのように自分を合理化しようとも、必ず因果はその者自身にめぐってくる。
専従者集団が公務員なみの恵まれた待遇を確保し、その一方で、軽症者の取り分の方が重症者の取り分より多いというあきれた実態、そして重症者の親の悲痛な声を何十年にも渡って圧殺して、なんら良心の呵責さえ感じない、なんていう、民主主義以前、人道主義の根幹に反する行為。
もっともしんどい、重症者とその家族に対し、飼い殺し的政策を採用していることに、なんら罪の意識を持たないこの異常事態を、天が許すことは決してないであろう。
私たちはすでに、被害者親族は他界し、いまさら、問題提起をしても一文の得にもならない。それ以上に、むなしさを感じるくらいだ。しかし、許しがたいと思うから、貴重な時間を削って、問題提起と誤りへの改善提案を行っている。
にもかかわらず、自らの不正義と過ちへ10分の一ほども反省をすることもなく、批判者へ嫌がらせを行うものは、心の底から恥を知るべきだ。

2008.11.14 某党派の「このすばらしい恒久救済方式を、ぜひ他の公害事件へ」の宣伝は要注意。

ある党派は、「森永事件の恒久救済対策はすべての公害事件に広がってほしい」と、蟹工船ブームに乗っかって、他の公害裁判や原告団への触手を急速に伸ばしてる。要注意である。
かれらにとって、サラ金被害者や、カルト教団被害者、貧困層、一般的な公害薬害被害者団体は格好の党員獲得市場である。だがいったん支援を受け入れれば、知らないうちに党員が急増し、いま苦労している現役の方々は党員にならない限り、たぶん順番をつけられて、逐次追い出されるだろう。
彼らの学習会内容は、ヒドイ、というか幼稚というか…。。
運動の勝利は、すべて、自党のフロント組織(医師、弁護士、教師系団体 といってもほんとに特殊な団体ですが)の活躍によるもので、それを軸に地球が回っているといわんばかりの自画自賛、党史礼賛---。「国民世論」は、つけたしだ。
実際には正反対。
支援の主力であった一般市民の様々なネットワークや組織を、すべて「ヘルメット集団(※)」や過激派として捨象し、仲間内への手前味噌の感謝、感激の学習なのである。
自分たちの内輪にだけ選別的感謝をするなんて、もう言葉がみつからない。

「一時金による金銭の補償ではなくではなく、50年以上にもわたって公害被害者の救済をしている、この恒久救済方式を、他の公害運動に広げなければならない」と美しいポエムを書き連ねて、もりあがったとしても、そりゃ、また次の市場狙ってるんですか?すごいですね、としかいいようがない。しかし、功労者への恩義と礼節を忘れた、弾圧と裏切りの歴史は絶対に、覆い隠せない。

(これは、ほんとに徒然話
ところで、(※ヘルメット集団) なんていわれると歴史を知らない人は、おそろしーと思うかもしれないが、70年代の学生運動をやってた人はほとんどヘルメットをかぶっていた。一種のファッション。ヘルメットをかぶらず、みんなロンゲなのがアメリカの学生運動。ベトナム戦争を早期にやめさせた重要な要素であり、これを「過激派」と捨象した時点で、世界の学生運動は理解不能になるか、黄色のヘルメット集団の礼賛になる。こういうことを言う人はカラオケで「いちご白書をもう一度」は絶対に歌わないんだろうなあ。「反党極左暴力集団」賛美の歌ですかぁ?はぁ?機動隊に殺されるようなことをする学生のほうが悪い? はぁ…。「いちご白書」自体、みたことないんでしょうね。まあ、そりゃ自由なんですが。
一言。
最近60代の方に聞いたんですが、某党も確か黄色のヘルメットとゲバ棒で全共闘の学生さんをぶん殴っていたというのは本当ですか。要するに、ヘルメットの色の問題なんですね? おまけにあなた方、昔は「ソ連や中国の核兵器は自衛のための正義の核兵器だ」なんてわけのわからんことを叫んで、原水爆禁止運動をとうとう分裂させてしまったというじゃないですか。良心的な国民が嫌気をさしてしまったじゃないですか。どこが平和主義なんですか?みんな言ってますよ。「あれは平和の党ではない」って。 あれ、もっと難しい問題ですか。 えっ、「路線問題」? だから一生懸命学習会をするんですね。要するに、いきつくところは、「わが党だけが正しい」、ですか。はぁ。 他は全部間違っている? なら、それは民主主義の政党ではないですね。
 民主主義は、「民主集中制」を認めるべきですか? 「認めるべきだ」の声、はあそうですか。暴力振るわなければ民主集中制はいいんですか。 へえ、では、極端な話、民主主義社会は、暴力振るわなければ、党内で独裁を行う政党も認めるべきなんですか? そうですか。選挙で合法的に票をとって権力を握ったあとに、自党内の流儀で政治的独裁を始めるのは、アリなんですかねえ。
 だからドイツ連邦共和国憲法は、最高裁裁定でナチス政党は認めないですよ。ナチは選挙で第一党になったんですよ。「ナチスの次が俺たちだ」って、考えていたのが共産党ではないですか? 社会が暴力的にすさんでくると、絶対口外しないけど、内心「チャンス」だと喜んでいないですか?
 戦後、ドイツ共産党も実質的になくなりましたよ。社民党に合流しちゃいました。でも、みんな言ってますよ「彼らの言う弱者救済や平和なんて党派の連中の生活のための餌に過ぎん」って。
多くの国民はイデオロギー党派が国民的合意の出来ていた市民運動や国民運動を無茶苦茶に引き裂いた歴史と事実をいっぱい知ってますよ。まさにこれこそが、国民的悲劇です。本当の悪党を、しっかり助ける行為です。たぶん悪党は陰ながら、涙流して喜んでます。
 調子にのって「自分だけが正しいなんて」、あまり民主社会で言い過ぎないほうがいいですよ。その発想そのものが独裁政治の温床ですから。

 「最大の悪は、もっとも美しいものから生れる」っていう言葉を聞いたことがあります。最近まで、これは「最大の悪は、表向きもっとも美しいと見えるものの腐敗から生れる」と思っていましたが、それは表面的理解かもしれません。「美しくみえるものにこそ、最大の注意を払え」っていう意味かもしれません。「美」は、あくまで主観的だが、同時に心躍るもの。心動かされ、体も躍る。だからこそ、もっとも警戒すべき、という意味なのかも。これはナチズム、スターリニズム、ユニラテラリズム、コミュニズム、すべてに共通している、人間の精神を巧みに操作するマインドコントロールイデオロギーの原点を衝いた厳しい言葉かも知れません。

2008.11.13
(写真)「森永告発」出版の「砒素ミルク」(著者:谷川正彦・能瀬英太郎)の必読を呼びかける、前「こどもを守る会」機関紙「ひかり」19号1面記事。
一般国民からの無償の愛情と支援の上に胡坐をかき、事実を知りもしないで否定・歪曲し、しつこく毒つく。それが、いかに恥知らずで「天に唾する」行為であるか、一目瞭然であろう。

 岡山や広島の人権救済の動きを、「第三者の破壊分子“告発”に煽動されている行為だから無視しろ」などと、手前味噌「学習会」をご丁寧に必死で繰り返している向きをみかける。

 話変わって、「森永告発」っているのがある。どうも「森永告発」っていうネットワークをまったくご存知ない人がほとんどだ。参加していたご本人は謙虚なので、あまり自分からは言われない。
 だからしっかり言っておこう。現被害者は「森永告発」に集まっていた方々に、ものすごいお世話になっていたのだ。
 「恩をあだで返す」とはこのことです。
 「森永告発」ってのは、民主集中制とは正反対の超フラットネットワーク。今で言えば、「勝手連」みたいな(少し古い?)もの。それよりさらに、ゆるい、ゆるゆるの、だれでも参加型の市民ネットワークでしかない。だから「私は森永告発です」って言ったとしても、発言や、行動はいろいろ、無数、多様なのだ。
 「私は森永告発から手伝いに来ました」といっても、翌月には、関係なかったりする。(普通の人だと思っていたら実は隠れ共産党員だったっていうのはわんさとありますが…。)
 確かに今は「森永告発」は、ないからね。「学習会」で誹謗中傷しても、そもそも、反論する人がいない。だから、なんでもかんでも「森永告発の元メンバーはなんだかんだ」って言いたい放題。でも、事実は「森永告発」の方角から来た人は、すべて一般国民なんですよ。自由すぎて、いろんな地域で、いろんなことを言う。だが、とても膨大な支援を受けている。だから、守る会は正式に能瀬英太郎氏に「森永砒素ミルク闘争二十年史」の編集を依頼したのだ。この事実を知らないらしい。だが、一方で「発足したばかりの「ひかり協会」のあり方を批判をする人もいた。そりゃそうでしょう。問題山積みで出発したんだから。批判されてなにが問題なの?(そしてそのとおりになっちゃった?)
一方、「告発」の方角から来て、最終的には、元に戻らずに、普通に、ボランティアで支援し続けた人もいっぱいいます。

『森永砒素ミルク闘争二十年史』の編集に携わった能瀬英太郎氏は、純粋に私財と自分の時間を大量に費やして、被害者の親を誠心誠意支援した人。この人を「森永告発」にいた破壊分子、と攻撃するのは、「読売新聞の渡辺さんは(元)共産党員だから、読売新聞は共産党の隠れみのだ」、というに等しい馬鹿馬鹿しさだ。この例え、イマイチ? 即興で作ったので出来は悪いでしょうか。新聞読んでたらわかるかなあ。(渡辺氏は日経新聞の回顧録で、自分から、元党員だったが路線が馬鹿馬鹿しいからやめた、といった内容を書かれている)

詳細は省くが、「森永告発」は守る会運動を強力に支援した。他の国民と同じように。
そして自由な存在であった。日本の民主主義のように。

これだけは、しっかり言っておこう。

「天に唾するな、自分に返ってくる」

被害者であろうが、なんであろうが、これに関しては関係ない。一人の人間としての礼儀礼節を失えば、必ずそれ相応の報いを受ける。それが人の世の掟だ。
能瀬英太郎氏に関しては、その人柄や功績は、わかりやすく、おいおいじっくり説明していく。あとになって、恥じても間に合わない。まあ、書けば書くほど、またぞろ、「学習会」ですり込みされるんだろうが…。

レベルの低い攻撃には、容量をさきたくないので、ちょっと「さわり」だけ。
「森永告発」は、一般市民、有志の精神的集まりだった。確かに活動が広がると、元気のいい全共闘学生も入って来ただろう。だが、それがどうしたの?
60代の会社社長さんが時々、「昔はヘルメットかぶってがんばってたよ、ミンセイってのがいてなあ、あ~、セミじゃないぞ。あいつら一番やわな連中でさ、黄色いヘルメットかぶってゲバ棒振り回して、俺らのところに襲い掛かってきたんだぜ、しってるか、こんな話?なにが全共闘が極左暴力集団だよ。笑っちゃうよ。あいつらの上部団体こそ、元々暴力大好きだったじゃねえか。未だに民主集中制だぜ、この意味わかる?立花隆の本、読んでみな」って居酒屋で言ってるのも、ある意味ほほえましい光景だが、その方々が、「あの時、森永の集会にもいったなあ」と語るときは、とても、しみじみされている。

学習会で、「森永告発は“はしか”だった」ですか? はあ。まあ、いい意味で「はしか」ならいいんですが。
あの時代のあの青年たちを攻撃する意味合いで、「はしか」だといってしまったら、時代への冒涜だ。
なら、あなた方は未だに30越えても「はしか」。
その言葉は十倍にもなって、あなた方に即刻Uターンする中傷だ。それがわかっていない「裸の王様」。

「森永告発」の説明で「ヘルメット集団が会場にいた」「彼らが今、岡山や広島の被害者の親御さんをたぶらかしているのだ」といまだに必死で攻撃するのは、すくなくとも、数十万かそれ以上の団塊世代の国民の「青春時代への、投網をかけるような誹謗中傷でもある。

なにを言おうが自由であるが、「学習会」に参加されている当の皆さん方。なんでもかんでも「上の人の言うことを聞く」のではなく、もっと、一般社会の認識を広持ち、政党機関紙だけではなく、一般新聞をしっかり読み、図書館で広くいろんな書物をよみ、自分自身の心に問いかけ、しっかり自分の頭で考えてほしいものである。悪気があろうがなかろうが、支援してくれた国民を罵倒していることに変わりはない。

もう少し言っておこう。手前味噌の「歴史」観を語り継ぐのも自由だが、中身が真実でないと意味はない。
これでは「歴史修正主義」を批判しつつ、自らの足元の歴史を偽造しまくる、どこかの民主集中制党派とおんなじである。

(ちなみに左翼党派といわないのは、昔の左翼をしていたある大学教授から、「君、あの党は左翼でもなんでもないのだよ。理論面だけではなく、その精神においてだよ。いまは入党してしまった教え子に謝りたい気分だ。この歴史の痛みわかる?キミ」なんて、怒られるからである。)


日本政治を具体的に変えたいと思う若者に、少しアドバイス。

 政府はいつも問題だらけ。ブッシュが退こうが、オバマが座ろうが、政府を運営するのは至難の業。逆に、政府を批判することぐらい簡単なことはない。同時に、政府を批判することは必要不可欠だ。どんな政府にも、どんな政党にも、どんな人物にも聖人君主はいない。どんな革新政党も綺麗な政党なんてない。政権与党が腐敗していると攻撃しても、まったく、別の形で腐敗しているかもしれない。政治のパワーバランスのなかで、敢えて叩かれないだけである。とくに、利用されている場合はなおさらだ。ただ、居酒屋で上司の悪口をいうような感覚で批判しても現状は具体的に変わらない。ただ、国民の間に、不満が増えれば、批判をしまくっている政党は、いろんな不満をもった国民の票をいくらか集めることもできるだろう。
だが、これだけは、しっかり認識してほしい。

「美しい言葉を、決して、真に受けるな」

かれらを国民が道具として使うことはあっても、彼らの道具にはなるな。
しかし、道具にされないためには、彼らを上回る技量と警戒心が必要だ。
心臓部には、一歩も彼らを入れるな。だが、偽装された隠れ党員は、たいていわからない。
だからあるタイミングで一気に乗っ取られる。
ではどうすればいいの。答えは簡単。

どんなに苦しくても、最初から、彼らだけは、寄せ付けないことである。

彼らは、もちろん口先の批判だけでは1年と持たないから、機関紙で情報操作をし、マインドコントロールもするし、何がしかの成果物を国会で分捕ってきたりする。(その成果物がなにかとの取引かもしれない、という疑惑がもっとも問題なのだが。(拉致問題が封殺されてきた裏面史などを見よ)だましだましやっていけば、組織はかろうじて維持していける。前述の一面の成果を見せられると、苦しい闘いに明け暮れる住民運動や市民運動の当事者はついつい、支援を要請し、お付き合いをしてしまう。そしてあるとき突然、その組織人員となった腹心の仲間から囲まれ、「いろいろ世話になったじゃないか。文句いわず黙れ、言うこと聞け、いやなら出て行け」となる。
謙虚な一般国民・市民のボランティアは絶対にこんなことは言わない。

ソ連共産党ノーメンクラトゥーラも、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党の正式名称)も同じやり方で組織を拡大したのだよ、と言っておこう。



2008.11.12 いい加減にしたら?
どこかの、ある自称確信政党団体の幹部が、金の配分が不明朗で少ないことを、会員から抗議されたとき、関係のない事件であるところの「森永ヒ素ミルク中毒事件」の故岡崎哲夫氏のスローガンの言葉尻をどこかの本からか引っ張り出してきて、こんな詭弁(きべん)を展開するという。

「 “金はいらない、子供をもとに体にもどせ” が昔の精神でしょ? すばらしい精神です。だから、お金ばかり要求してはいけませんっ。」

まるで、漫才だ。・・・・・・どこまで、腐った人間性なのだろうか?
文脈を無視し、森永事件の救済運動史を無視すると、こういうことになる。
こんな政党、平和や民主主義や歴史の真実なんて言葉をいくら使っても駄目、嘘です。歴史歪曲を自ら縦横無尽にやるのですから。
自分たちの「特殊な生活」が第一なんでしょう。

2008.11.11 組織というもの
組織というものの運営に関して
組織のあり方を批判する一般国民の意見に聞く耳を持たず、「組織を破壊するもの」と逆上して、組織外の人物を徹底攻撃するような団体を時々見かける。
批判されると、その意見に真摯に耳を傾けるのではなく、あわてて手前味噌の学習パンフなどを作って、組織内で必死に「組織防衛と逆批判のための思想的引き締めの学習活動」を展開するのだ。笑止千万で、その行動パターンは、朝鮮労働党とどっこいどっこいであることに当事者だけが気づいていない。
また、これが民主集中制党派のDNAともいえる慣習であることは、団塊の世代の方にはすぐにご理解いただけることと思う。
中には「黄色のヘルメット集団」を思い起こす方もおられるかもしれない。未だに、こんなである。


2008.11.2

以下、一般論であるが、発行されている諸文献から読み取れる、ある団体Aに関する推論であり、公害被害者救済であってはならない戒めの類である。

公害被害者に対する恒久的救済を本当に実施する器量と度量があれば、そのコスト負担をする、かつての加害企業がある程度評価されることもよかろう。
逆に、仮に、恒久的救済が実現されなければ、さらにもっと低次元の問題が蔓延しているとすれば、団体専従職はもとより、企業も疑われるのは当然のことである。問題は、大金が絡む公害救済機関を公明正大かつ厳正に監督する第三者機関がないことである。
現状は金を出す側、受け取る側、それだけの関係だといわれる。そこから何が発生するか、社会経験が豊富な一般国民にはすぐにわかる問題だ。

時々驚くのは、公害事件に関して、「被害者が今では加害企業に感謝している」「親たちは、加害企業や国をせめていない。飲ませた自分のほうをせめている」などと、わかったような顔をして、美談めいて吹聴する評論家の向き。誰からたのまれたのか、このようなことを公言する向きがあることである。カッコつきの有名人の口を通じて語らせることすらある。「事件発生後は問題だが、今は問題ない」と言う向きに至っては、低劣なプロパガンダの類である。

「加害企業への感謝」など、この妄言の類である。通常なら誰の発想にも無い、愚劣な感覚だ。いや、むしろ、それには邪悪な意図さえ意識的に織り込まれている。
もともと、、しかも、どんなに状況がかわろうとも、公害被害者は、加害企業に少なくとも「感謝」する立場ではないからだ。仮に、かろうじての「和解」はありえても、「感謝」はありえない。悪い冗談のレベルだ。もし、そんな感覚を口にすることがあるとすれば、それは作為的に作られたシナリオだ。
もとより、そこまでおろかな感覚を「公言」し、そのような本末転倒した観点を普及してはばからない人間がいること自体、被害者の本当の痛みを理解しないところの、「実際に加害企業に感謝する金の亡者」がおり、「本末転倒の勘違い」が横行しているということでもある。

問題は、システムだけではない。人として正しいかどうか、の思考方法にある。
たとえば、団体専従が重度被害者に対して、「生かさず殺さず」の支配をはじめたとすれば、人間として恥ずべき問題である。
(※たとえば、森永事件が同一かどうかは、更なる検証が必要だろうが「求める有志」の刊行したレポートを読むと背筋の寒くなる実態がある。)

問題はそれを生み出す真の背景である。

一般的に、公害被害者救済事業で、仮に、重傷者が冷遇されれば、早期死亡の確率が高くなるだけである。これは一般医療の世界の高齢者対策に当てはめてみればわかりやすい。
支出コストの大きな部分が加速度的に圧縮される。結果として、それ以外の者の取り分が一時的かつ長期的に増えるかもしれない。一般企業社会での、金の亡者にはダブルのメリットとなる保険数理の世界だ。そして物言う被害者への各個撃破が行われているとしたら、まさに内外のリコール隠し企業が採用した手口であり、これまた保険数理だ。
加えて、一般的に、被害者救済事業団体の専従者集団が、救済基金を単なる「給与」だと割り切り、「声の大きく、自由度の高い専従者集団」がより多くの「分け前」を求めた場合何が起こるだろうか。
受給者の総数はいきなり減らせないものの、多めに取るものが早めに減ったほうが得だ…、と考える政治屋が産み出されたとしたら。そこからどんな政策が発明されるだろうか?

政治の世界に当てはめると、民主集中制支配がこれにあたる。(まあ、“みんなで決めてみんなで実行する制度です”なんて説明を、まにうけている方には通じない話であるが)
階級闘争の理論を逆手にとって、がんじがらめの支配テクニックを考案する習慣。
まさに、プロの政治屋とその取り巻きが作り出したヒドラか。
見方をかえれば、仲間だと称して独裁支配を行った旧ソ連ノーメンクラツーラ官僚支配体制と瓜二つだ。


(※
たとえば、1955年に引き起こされた森永事件では、誠実な救済を実施しているかどうかの精緻な検証を抜きに、年間十数億の拠出金だけを云々して、森永乳業を「褒める」向きがある。そのような見解には、まったく意味が無い。
このような感傷的視点に対しては、事実と歴史認識が必要だ。
歴史を紐解けば、森永乳業が、いま生き残っているのは、恒久救済を完全実施することと引き換えに、森永ヒ素ミルク中毒の子供を守る会(以下、守る会)が森永不買運動を取りやめ、森永乳業がかろうじて倒産の危機から救われたからである。
森永乳業は、大勢の赤ん坊を死に追いやったにも関わらず、守る会から、存続を一時的に許された。何のためか?唯一つ、、恒久救済対策案を誠実かつ「完全実施」するためである。
このことを、胸に手をあてて考えるべきだろう。(運動創始者を追放するための代筆などは、合意には入っていない。)
森永乳業は、守る会の当時のリーダーの判断に感謝すべきである。森永乳業は、被害者救済事業のために生存がかろうじて許されているのであり、会社関係者は雇用の機会があることに感謝すればそれで十分。いったいそれ以外、なにを望む必要があろうか?救済資金をケチらず、被害者を幸せにするという社会的に価値ある使命のため、誇りをもって仕事をすればよいことである。そんな意義深いことのために働ける企業があることは稀有なチャンスであると考えるのが、歴史を学んだものの当然の視点であろう。救済が十二分に実施されているかどうかがもっとも気になるのは、むしろ、世代交代を繰り返し、「ついつい歴史を忘れ、ついつい、“1955年から1969年の思考”に逆もどりしてしまいがちな」企業側でなければならない、という意見さえある。)



 別のサイトの掲示板に、2008年8月24日こんな書き込みをした。

2008.9.10  言わんこっちゃない。
 「中国の問題を他山の石に」「同じ問題ははわが国にも存在する」と。
 ところが、9月6日、メタミドホスなど有毒な農薬が混入した米原料(合板の接着剤などに転用される非食用の事故米)を、米販売会社・「三笠フーズ」が、酒類や菓子など、多くの加工食品メーカーに意図的に流し、実際に使用されていた、との報道が国民を震撼させた。巷では、あの酒を飲んだから病気がでるかも、などとと健康不安が広がっている。
 この事件は、「農薬を食品にいれるなんて中国でしかやらないこと」と思っていた最近の日本の風潮を一気に覆してしまった。(ただし、まだギョーザ事件の真相は確定されていないが)
 まず、わが国からしっかりしないと、とても他国の見本となる水準だと胸を張っていえないのではないか。もちろん他国がしでかした問題は、それはそれで、きちんと解明し、精算しなければならないことは言うまでもないが。社会と精神の疲労が目立つ昨今である。
 今回の事件も、森永事件やカネミ事件と似た部分がある。歴史をおろそかにするこの国では、国民の口に入るものでさえ、教訓というものは、まったく、なおざりにされている。

 日本は、かつて、赤ちゃんが飲む粉ミルクに砒素(正確には砒素混入の産業廃棄物から抽出された第二燐酸ソーダを安定剤代わりに使用)を入れて128人の幼児を急性砒素中毒症状で死亡させ、12000人の被害者を生み出した経験をもつ国だ。
 当時、この問題の第二燐酸ソーダは、旧国鉄の機関車のボイラー内部の洗浄用に流通しかけたが、その国鉄でさえ「国鉄職員に健康被害が出る」(別に飲むわけではなかった)という理由で「使用しなかった」猛毒のシロモノである。それをいたいけな乳幼児の粉ミルクに投入し、赤ちゃんの体内に摂取させたのだ。当時は、このMF印のドライミルクは健康優良児表彰をうけた幼児にプレゼントされるという最高級品クラスで売り出されていたものだから、品質管理のいい加減さに反比例した売り方の傲慢さは、表現の方法が見当たらないほどだ。

 しかも、公害事件の深刻さは歴史的に第二段階にある。いまだに、その「被害者救済事業」をめぐって、いかがわしい噂が絶えないこの国の現状である。救済団体の発足当時からその問題点を指摘した運動の創始者である一部被害者の親たちは、「救済団体」から「除名」された。まるで、スターリンの粛清もどきの手法で見事に排除され、大本営発表の「歴史」からは綺麗さっぱり抹殺済みである。
 つまり、毒物による世界史上最初で最大の大量幼児殺害事件は、表向き手打ちにはなったが、その後、救済組織は“民主集中制”的手法で何者かに掌握され(故岡崎哲夫 談)、ある集団へ変貌した。つまり、当事者からして、ある時期から、何かに目がくらんで、反省と教訓を大切にする姿勢を失ったのである。
 こんな奇妙奇天烈なことが「ポスト公害事件」でおこるようになったのが、日本の第二段階の「病気」であり、いくら先進国を気取っても、そのような理不尽な状態の是正さえ数十年にわたって実現しないのが、この国の民主主義のレベルなのである。ましてや、表向き、口先では「大企業批判」や「政府批判」の急先鋒だとイメージされている勢力が、その噂の当事者だと言うのだから聞いてあきれる。「唯一の革新」から「唯一の偽善」と看板を掛けなおしたほうが適切だ。「平和と民主主義」「弱いものの味方」「歴史の真実」を気取る偽善には、社会全体を停滞させる腐臭が立ち込めている。
 企業は容赦なく叩かれるが、腐敗党派の腐敗分子が「万年野党」という隠れ蓑を利用して、財団法人や市民活動を乗っ取って私物化し不正義行為にあけくれても、なんら正されない、この国の状態では、二大政党制や、中身のある政策論争はむずかしいだろう。「弱者の味方」を装って行われる悪事を見抜けないようでは、その逆にぶれた場合をふくめ、どちらにしても、思考と判断力の停止に繋がるからである。 まだまだ「きれいごとに弱い」ところの、民主主義とは異なる風潮がある。
+-----++-----++-----++-----++-----++-----++-----+
 ちなみに、外国の事例だが、スターリン主義以外に、おまけを一つ紹介しておこう。
 最近、共産党が伸びれば軍国主義の復活が防げるという、超おとぼけなお話をする人にめぐり合って、驚いた。
 その方は学生時代に聞いたお話を、今でも信じているらしい。
 共産党がかつてしきりに宣伝していたお話。それはドイツ共産党美化のお話だ。
  ………「共産党が反対していたとき、私はまだナチスの本質を見極められなかった」云々。
  つまり共産党を早めに信じればドイツでのナチス台頭は防げた、という話だが、この話の大きな嘘に触れておこう。
 ドイツ共産党は、国際共産主義運動に基づいてドイツ革命を目指していたのであって、日本人が思い描くような平和を願っていたのではない、という単純な事実だ。
 だから彼らは、ナチスとたびたび共同戦線をはり、何度も共闘関係にあったという事実がある。
 自党制作の学習パンフと推薦図書しか読んだことのない共産党員は、この一般的な事実すら知らない。
 彼らがいくら歴史の勉強をしても進歩がないのは、ありのままの事実を直視できない、という大前提があるからだ。
 ドイツ共産党は、ナチスを利用して「次の」政権奪取を図るという陰湿かつオトボケけな戦術をとっていた。だから、ナチスと同様、ドイツ国民からは嫌われものなのだ。
 当時、労働組合や大半の労働者は社会民主党に組織されていた。共産党は、今の日本とそっくりで、広範な支持層はなく、マルクス・レーニン主義のイカニモ理論好きの中産階級の知識人と、失業者という両極構造だった。
 だから、当時のドイツ共産党は、コミンテルンの思いつき戦術に忠実にしたがって社会民主党をファシストと攻撃し、ファシストである社会民主党(?)と闘い(実際にはその勢力や票を奪うため)ナチスと共闘することも辞さなかった。このことをドイツ人はよく知っている。党利党略、セクト争いの典型例が、すでにワイマール共和制期に出来あがったのである。日本で最近まで続いていた55年体制と今もあるその残滓の原型である。
 共産党が少しばかり違う擬似党派を攻撃するときの執拗さや激しさ、陰湿さは、表向きの敵と、陰に陽に手を組むことをためらわなくなり、民主主義体制下でも、相手との相互作用で、結果的に民主制を崩壊に導く危険性を実証した。
 だからドイツは、ネオナチと同様に、共産主義政党にも「言論・表現・結社の自由」を認めていない。
 イデオロギー対立は、互いに闘争相手を必要とする自己純化運動である。これは一見、判りやすさとヒロイスティックな美辞麗句を多数伴うので、心を奪われやすいが、この自己陶酔性が独裁へ繋がり、一方でセクト的闘争へと繋がるベースとなる。
 日本の55年体制も、その傾向の典型例である。国民の様々な被害や不幸が、イデオロギー勢力の伸張手段或いは政争の具として利用されてきた歴史を、そろそろ思い切って払拭・清算しなければ、いつまでたっても、真の民主主義的精神は我が国に育たないだろう。
 保守党も民主集中制を採用する共産党を必要悪と考えたり、民主党を切り崩すためにご都合主義的に共産党を持ち上げたりしていると、一体なんなのと思われるようになるだろう。時折テレビで、民主党へのあてつけで「共産党のいうことは良くわかる」とニタニタと公言する議員をみていると、煮詰まっているなと思う。それに「陰ながらの仲良しこよし」をみていると、裏で手を組んでいる部分があるんだと感じる。
 古いイデオロギーと原理主義的思考にいつまでもとらわれていると、時代の変化に対応できないさび付いた国になる。
 少なくとも、党内にしっかりとした民主主義的運営を認めないような政党は公党として認めべきではないだろう。
 ドイツは、独裁政治の復活を許さないために、そういう政党を認めていない。党内運営のあり方に非常に関心をもつ国なのだ。なぜなら、独裁的運営をする政党が、まかり間違って政権を握ったら、それが国の民主主義を破壊する作用を及ぼすことを誰よりもよく知っているからだ。日本はどうか、民主集中制を公然と実施する政党が存在していることは、同様に、同じような集中的支配手法を取る極右政党も生れる土壌を持っている。「最近自民党も、民主集中制になってきたよ」と自虐的に民主党幹部に語る自民党の有力議員がいたそうだが、面白すぎる話であるとともに、政治の疲労が極端に進んだことを垣間見させる話だ。
 「民主集中制」とはまぎれもなく独裁の代名詞であることは常識だ。現状の打開で、そういった勢力に期待を寄せる「はけ口的」発想から早めに脱出しなければ手遅れになるかも。
かれらが、国民の運動を私物化し、多くを分裂させ、数々の引き回しと破壊をくりかえす中でうしなわれた、精神的損失は計り知れないものがある。

正義や平和に必要なのは、イデオロギーではない。必要なのは、普通選挙権と秘密投票の原則、そして、情報公開と透明性の原則であり、それを基礎に実施される公明正大な議論と批判と共感の淡々とした活動である。言論・表現の自由は排他的なものではない。他人を封じ込めることを前提としない場合にのみ結社も言論も認められるのである。それを失った組織は、どれもこれも最終的には、国民を不幸に叩き込むだろう。



「金はいらない。子供の体を元に戻せ」
これが恒久救済対策の根本理念である。
もちろん救済には資金が必要である。
だが、運動の苦難への歴史認識を捨象した場合、
「資金が先か、救済が先か」の二律背反論へのすり替えが極めて容易になる。
血涙の歴史にこめられた教訓を忘れたとき、
この理念の「真意」と「原点」も忘れられ、
モラルの崩壊はたやすく発生する。

ただ、救済団体関係者の幹部が、
大きな問題点を抱えているとしても、
遺族は、彼らを全面否定はしない。
ある種のイデオロギーの呪縛は、
誰をも呑み込んできた歴史的経緯があるからだ。(※2)
そしてその背景にあるもっと大きな、
1955年から1969年にいたる「負の力」を知っているからだ。

岡崎哲夫氏は、死の床で、その最期の時まで、
不当極まりない卑劣な手段で自らを除名したところの被害者団体に
所属する被害者のことを気遣い続けていた。

これが親の心というものであり、
逆に言えば、「親の心子知らず」の典型でもある。

さらに、彼は、自らを除名する陰謀に手を染めた
一部の「親」や一部「被害者」のことを
自らの家族に怨みをもって語ったことは一度もなかった。
なぜか?それは14年間の苦悩が、彼に「あること」を理解させていたからだ。

自らが作り上げた組織が変質することで、
指導者が石もて追われる理不尽を、
人類は何度も経験している。

それを是正できない社会は衰退するだけだ。
だが、裏に隠れて不正義を行う「負の力」があるとすれば、
親不孝者のそしりだけでは済まされない。

彼は生前、明確に以下のとおり指摘した。
密室処理と、情報公開への抵抗は、必然的に独裁制を招く。
公害被害者救済史における前例のない汚名とならないよう
関係者に猛省を促したい…。”

当資料館の情報公開と批判・提言は
岡崎哲夫氏の精神を継承して、
敢えて行っているものである。
厳しい意見にも、耳と目を閉ざさないでほしいものだ。














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