中坊公平(元)弁護士の言説を検証する

「私が私が…」の自画自賛
は熱心だが、現状の救われない被害異常現実にはクチを閉ざす奇怪
歴史偽造世論誘導生業とする勢力の「大きな嘘」は“美談”の虚飾で包まれている。

【事件発生当時から、自社への “感謝” を被害者へ要求し続ける森永】
この傲慢の背景にあるもの
【ご注意】功利主義の罠を人権領域に持ち込み個の尊厳を破壊する一連のキャンペーン

 書籍『野戦の指揮官 中坊公平』(NHK出版/1997)は事実誤認がおびただしく多く、出版元は市民からの指摘に対し誤認を認めつつも、現在まで20年近くにわたり訂正を怠り、放置している。この本を、まに受けて読んだ読者は、情緒的な記述のなかで事件史に関して本質的に誤った認識が植え付けられる。「人間社会では起こりえない安直なストーリー」に乗せられ、最終的に「おカネを出している森永さんを褒めてあげよう」といった恐ろしく陳腐なおとしどころに誘導される。視聴者や読者は、知らないうちに、どうぞどうぞと「傍観者席」に移動させられ、「現実には存在しない安心感」に浸れるわけだ。同氏がもし水俣病裁判に関わっていたら、水俣病の被害者にも同様に、加害企業・チッソへの「感謝」が要求されたことだろう。
但し…水俣であれば、NHKはここまでやっていたか?
中坊ストーリーの理屈では水俣病患者も補償金を拠出するチッソに感謝していることになる。すべての加害・被害事件に拡張できる屁理屈だ。 
だが、水俣では、NHKはできない。
水俣病の被害者は集中的に支配管理されていないからだ。水俣でこれをやると、NHKは死滅するか、名実ともに「国営放送」へ転落する。全ての犯罪被害者に対して絶対に適用できない「詭弁(きべん)」を、森永ヒ素ミルク中毒事件で、NHKは実行した。
要するに、この本は、民主集中制で管理され、批判すると暴言が浴びせられ異論がいえない前提で運営されている被害者団体と、金づるを握って腐敗した公益財団基金、それにまとわりつく国森永というえげつないなトライアングル を前提として、初めてそのストーリーを “ノビノビと” 展開でき、森永ヒ素ミルク中毒事件の被害者と遺族に投げつけることが出来たわけである。このことだけは明らかだ。
 同書のもたらす印象は、要するに、ていのいい「拝金主義」である。“しょせん、この世はカネさ。カネの出所には感謝しなくっちゃ”というシロモノだ。(この本に便乗して、資本主義者でさえ是正を求める拝金主義の価値観を、なんと共産主義者がプロパガンダしている。まるで中国共産党の生き写しだ。)しかも、過去そして、同書発行時期に森永がどんなウソを流布していたかは、読者には知る権利がない。
 その後、同氏が、歴史的なウソを吹聴する森永乳業幹部との仲良し対談をやってみせたことや、その6年後の関西テレビの噓やらせ番組に、さしずめ “森永に感謝せよグループ” ともいうべき面々が、がん首並べて登場しているところをみると、あらかじめ、ある種の政治目的を織り込んだストーリーが90年代後半から開始された事がわかる。
 「情緒主義の仮面」の裏で、加害企業やその代理人が目論む不正な被害者支配の手法を世論に承認させるための印象圧力を伏線に仕込んでいるところなど、見事なプロパガンダの手法といえる。歴史を知らない牧歌的で受動的な視聴者は誘導されてしまう。ドキュメンタリーを良く知る人、或いは、現実社会を知る人は、安っぽい気色悪さを感じるだろう。更に事件史を良く知る人には この異様な「森永への感謝」連呼の起源がどこにあるか は一目瞭然だ。だからこそ「この面々」は14年間の暗黒時代の苦闘の歴史をあえて「知らないふり」をしながらスルーし、国民に知らせず、封殺するのである。彼らが機関紙で大要「14年目以降の歴史を学びましょう」「感情の持ち方をコントロールしましょう」と会員被害者へ要求する異様とも符合する。
 この書籍に追従して連鎖的に出版された書籍、そこからの引き写しがネット空間等に大量に溢れているので、くれぐれもご注意頂きたい。
 当書籍が十分に出回り市民から批判を受けていた時期、NHK出版は、編集長が横領をつづけていた。NHK及びNHK出版は、そのずさんな内容を電波及び活字媒体まで動員して流布し、事件史・運動史に関して日本全国に歪曲歴史観を定着させてしまった。それを指摘されても是正しないという怠惰な姿勢を長期間取り続けた。是正不能に近いレベルの、深刻で多重な結果責任がある。
 歴史を振り返ると、被害者救済を封殺した悪魔の「5人委員会」、その筆頭格・内海丁三はNHK解説委員でもあったことを付記しておく。NHKは、森永が開始した「赤ちゃんコンクール」を全国へ代行展開して被害を拡大しておきながら、「昭和の思い出」として当時の「コンクール」映像フィルムを未だに番組やネットで垂れ流し続けている。「公共放送」の冠は「反省無用」の免罪符なのか? それとも「官僚の無謬性神話」に習って面子を維持したいのか?
NHK及びNHK出版は1997年頃から、元弁護士・中坊公平氏の個人礼賛をいち早く開始し「森永事件の被害者は、加害企業・森永に感謝している」という彼の「主張」という形を通じた宣伝(ほとんどプロパガンダに近いもの)に先鞭をつけた。現・被害者団体も歩調を合わせるかのように同様のキャンペーンに手を貸してきた。
NHK出版は岡山の市民ルポライター・能瀬英太郎氏からの事実誤認の指摘を正式にみとめながらも、その後、訂正もせず放置し、事件史の全体像にはクチを閉ざしたままだ。森永及び政府・厚労省の願望を先取りしたかのようなこのキャンペーンが、NHKから始まり、わが国の出版界を一時席巻し、事件史に関する明らかなウソまでが広がった。中坊氏は「内閣顧問」にまで上り詰め、あっという間に不祥事が噂され、自ら弁護士資格を返上。このキャンペーンに関与した媒体は自称「リベラル」とその対極にある媒体である。両極端が共同歩調をとったのが特徴的だ。手を貸したメディアは、被害者・遺家族の心情・人格毀損につながるビロウな言説を全力で流布しておきながら、今もって誰も責任を取ろうとしない。それどころか未だにウソの上塗りを続ける媒体もある。 
 さらに歴代の総理は…、というよりも、与党の地方議員でさえも、森永の “代理人“ と化した党派勢力の体質(こと森永事件だけではないが…)を知っている。利権とカネにありつくチャンスさえあれば、表向きの看板などかなぐり捨てて、不正な権力に対し、コソコソと隠れて阿諛追従する体質だ…。貧困ビジネスにめざとく飛びつく「業界左翼」を組み入れて、「予定調和」(一部のデマゴーグとそれに疑問を持たず付き従う大衆という構図)が構築されている。

※森永乳業の親会社は森永製菓である。
 事件当時からのガバナンス。昔も今もそうだが、時々の内閣に陰に陽にぴったり寄り添っていることは周知の事実だ(※1 現在は「陽」。森永製菓→電通OL→電通紹介→御成婚…らしい。まるで森永事件のプロパガンダの裏面史をなぞっているかのようだ)。

 日本社会の真の意味での市民意識の成長と覚醒が問われている。


 

http://morinaga-hiso.blog.jp/archives/3018955.html  
2014年2月3日
中坊公平氏とそれに続く言説
「被害者は加害者に感謝してる」??
 中坊公平氏は、かつて2000年頃から数年間にわたって自身のおびただしい量の著作物のなかで、以下の言説を展開した。その言説が社会に残した「印象」の最たるものは、
─“森永ヒ素ミルク中毒事件の被害者は、加害企業である森永乳業に大変よくしてもらって、今では「加害企業に感謝している」”─というものだ。
 だが、少なくとも、森永ヒ素ミルク中毒事件の被害者運動においては、中坊公平氏は「指揮官」ではない。そして彼が、NHKを通じて全国に流布した自己礼賛の主張とは大きく異なり、
“被害者は加害企業にそれなりに感謝”など、してない。
 …赤ん坊に砒素を飲ませたうえに、全く反省もなく、国家権力を総動員して、凶暴極まりない姿勢で、20年間にわたり被害者家族を弾圧し続けた森永乳業に対し、現在も重篤な障害に苦しむ被害者がいまさら、いったい何を感謝しなければいけないのだろうか?
現在支給されている金銭を、被害者が「ありがたがっている」という印象を社会に強烈に焼き付けたいのだろうか。或いは「金銭支給をありがたく思え」という強要にも似た障害者差別だろうか? 或いは「“世間はありがたく思え”と考えているから、不満があっても表に出すな」というもっと巧妙な心理作戦だろうか?
 そして、その後「森永によくはしてもらっていない」ことを厳密かつ定量的に事実から解明し、レポートとして公表
(森永ヒ素ミルク闘争50年史)した一市民・能瀬英太郎氏を、被害者団体がその機関紙で公然と誹謗中傷する事件が発生し、名誉毀損の訴訟が提起された。岡山地裁、広島高裁で、能瀬氏に訴えられた被害者団体は二度にわたって有罪判決を受け、確定した。(2012年)
 中坊説は大量のマス媒体で流布されたが、この有罪判決を真摯に受け止め、不法行為を真摯に反省しようという空気はいまだ無い
 中坊氏の流布した「美談」とそこから得られる「印象」に対して、根本的な違和感を感じている市民が、実は非常に多いようだ。そしてその「印象」がもたらす効果は…。

 かつて弁護士・中坊公平氏がおびただしい著作で述べた森永事件についての言説について、以下の分析が市民から寄せられた。彼の著作に関しては、多数の「別の事実」が指摘されているが、現時点ではいくつかの事象をピックアップし、問題点を考察する。


森永ミルク中毒事件被害者弁護団への疑問40年ぶりに提示   

事件概要解説ポスター 
PDF:3.7MB
ウィキペディア改ざん行為を、飽きもせず、2015年2月に再開した者へのメッセージ。
この数十年、とくに直近15年ほど継続されている森永事件からみの、一部御用メディアまで公然動員した情報隠蔽、歴史改ざんと歴史歪曲、被害者感情の捻じ曲げという人間の尊厳への毀損行為の一端にも触れている。


【寄稿】---------------------------------------------

http://morinaga-hiso.blog.jp/archives/1000359671.html
2014年3月7日
NHK出版どうした!? 事実誤認を放置か?
中坊氏の手柄にするために
歴史的事実を歪曲してもいいのか

~「加害者に感謝する被害者」なる
 恐るべきプロパガンダに先鞭をつけたNHK出版~


フリーライター:能瀬英太郎 2004年、記
※原文は縦書きのため漢数字が用いられている。原文通りの表記にした。

 岡山市の南部にある児島湖は、諫早湾締切堤防工事の未来像として格好のモデルである。このまま締切り工事を続行すれば、現在の児島湖は未来の諫早湾の姿である。そのうち湖沼の水質汚染度の上位にランクされ、児島湖と首位を競うことになるであろう。

 児島湖の海底には十メートルあまりの汚泥が堆積して、その除去工事に莫大な費用をつぎこんでいる。しかし除去するあとから汚泥は堆積してくるので、終りはない。淡水化した水を農業用水に使うという当初の目的は、今では汚染が激しく野菜の栽培に使用するには不適当と、農家は敬遠しているという。
 淡水化以前は多彩な魚介類が生息していた児島湾は、現在では汚染されて捕獲される魚類を地元の人は口にはしない。
 そんな児島湖で捕獲されたアメリカ・ザリガニが、東京のある高級レストランで料理として出されている様子をNHKテレビが放映した。岡山支局のアナウンサーがおいしそうに食べている画面をみて、私は驚いた。いまから十数年前のことだが、児島湖では汚染によって骨が曲がったり、体に潰瘍ができたフナがたくさん発見され問題になっていた。
 児島湖には倉敷川、加茂川、笹が瀬川が流れこんでいる。その中でも笹が瀬川の米倉港は、冬になるとへらブナ釣りのポイントとして有名だということだ。釣り上げたフナは「琵琶湖産」になって、関西方面へ出荷されるという。
 「大寒」になると毎年必ずNHK岡山放送局は、米倉港でフナを釣る人を放映した。カメラマンは「大寒の風物詩」として写し、アナウンサーは情緒的な解説をいれる。釣人の回りは流れついた発砲スチロールで埋まっていようと、水が汚染されていようと、切り取られた画面とは無関係なのである。
 もしNHKが報道機関なら、汚れた児島湖で捕れたザリガニを食用にしていることを問題にすべきだと思う。寒ブナをつる人を風物詩として写すより、汚染された川から釣り上げられたフナが「琵琶湖産」に化けていることを訴えるべきだ。
 私がNHK岡山放送局へ電話してそのように抗議をすると、翌年からは「寒ブナ釣り」の画面は写さなくなった。それだけでお終いで、汚染のことを問題にするわけではなかった。まことにNHK的問題処理のしかたであると腹がたった。
 これらの出来事を思い出したのは、先日私とNHKとの間であった「やりとり」と関係がある。
 今では「中坊ブーム」も下火になったが、二三年前までは彼の人気は大したものだった。テレビ出演にあるいは新聞の見出しに、出版される本の広告にと彼の名前を聞かぬ日はないくらいだった。彼が「自分が変わる転機になった」として、いつも取り上げるのが「森永ヒ素ミルク中毒事件」とのかかわりである。
 被害者救済機関として「財団法人ひかり協会」が誕生したのが約三十年前で、それ以後森永ヒ素ミルク中毒事件に関する報道はほとんどされなくなっていた。これで「一件落着」とばかり、マスコミの関心はこの事件から離れていった。それが中坊氏が有名になると同時に、彼の口を通してこの事件のことが語られるようになった。ひかり協会の設立当時、被害者たちは損害賠償を求めて民事裁判を大阪、岡山、高松で起こして、彼はその弁護団長だった。
 私が『野戦の指揮官・中坊公平』を読むことになったのは、古本屋の百円均一コーナーで見付けたからだ。どのようなことが書かれているのか、ちょっと読んでみるのには手頃な値段だと思って買った。他のところはともかくとして、森永ヒ素ミルク中毒事件についての部分をだけを読んだ。それは「第二章中坊公平の遅すぎた青春」の中に収められていた。 第二章は六十六から百四ページまでで約四十ページを費やされいるが、読んでいて驚いたのは間違いの多いことだった。それも基本的な事実について、資料も調べずに書いているのではないかと思うほどだった。
 著者は、NHK社会情報番組部チーフ・プロデューサーという立派な肩書きをもった、今井彰氏だ。「あとがき」の最後には「そしてこの最初の本の出版後、中坊氏に関するさまざまな書籍が出た。(略)人間・中坊公平を描いた本物の一冊だと信じている」と自慢している。私が買ったのは「NHKライブラリー」という文庫(二〇〇一年一月二十五日発行)で、「本書は当社単行本NHKスペシャル セレクション『野戦の指揮官・中坊公平』(一九九七年十一月三十日発行)をNHKライブラリーに収載したのものです。」ということわりがきがあった。もとの本も読んでみたが内容は勿論同じだった。

 この本を読んで事実と違うと私が思った箇所を次に列挙してみる。

1 六八ページ「MF缶と呼ばれる人工粉乳に、ヒ素が含まれていたことが発覚した」

2 六九ページ「死者には一律五十万円、その他は症状に応じての賠償も行われていた。」

3 六九ページ「この調査は『十四年目の訪問』として、一冊にまとめられた。また、この調査結果を知った医師らの働きで、学会でも報告され、マスコミの注目を集めることになる。」 
4 六九ページ「依頼してきたのは、昭和四十四年から被害者救済にあたっていた青年法律家協会に所属する弁護士だった。」
 
5 八一ページ「国の責任は、厚生省がそれまで使用禁止にされていた第二燐酸ソーダという化学合成品を、いったん使用可能にしたこと。」 
6 八二ページ「そして中坊は、法廷戦術と平行して、法廷外戦術も駆使することにした。それは、森永製品の不買運動である。不買運動が効を奏せば、企業にとって致命的になる。まして、問題が問題である。社会の同情は原告に傾いていた。不買運動の効果は大きい。」

7 九六ページ「中坊は何度も厚生省を尋ねた。被害者たちとの対面を渋る国と森永を引っ張り出すために水面下で動き続けていた。」

8 九六ページ「中坊は、この三者会談に賭けていた。民事上の損害賠償の除斥期間は二十年、因果関係を立証する時間にも限りがある。なによりも、裁判の中だけで埋め合わせることのできない事態であることが十分すぎるほど中坊にはわかっていた。」

9 九八ページ「被害者の成長と事情に合わせて事業を拡大し、充実させている。」

10 九八ページ「三者会談の結果、永久的な救済施設として、一九七四(昭和四十九年)年、財団法人ひかり協会が設立された。」

 上記の十項目が事実とは違っている。 

2. NHK出版への申し入れ
 私はニ〇〇三年 (※1)七月二十二日著者宛てに出版元へファックスを送り訂正を求めた。これに対して翌二十三日(株)日本放送出版協会編集部第二図書出版部部長長岡信孝氏から次のようなファックスが届いた。要点だけ記す。
「さて、このたびは弊社から出版されましたNHKライブラリー『野戦の指揮官・中坊公平』(今井彰・首藤圭子共著、二〇〇一年一月二五日発行)の記載中の内容につきまして、一部事実誤認の箇所がある旨を7/22(火)付けのFAXにて拝見しました。内容に関することなので、著者、今井・首藤両氏がご指摘の箇所について至急取り調べのうえ、文書にてご報告させていただきます。なにとぞ御了承ください。」

 私は前記1から9までを三回にわけて指摘した。というのは読むたびにこれはおかしいと思い、七月二八日と八月四日に追加として送った。

 それでは私が事実とは違うと思う根拠を順番に述べていきたい。

 1の「人工粉乳」というものはない。人工の牛乳で製造すればそう言えるが、まだ聞いたことはない。事件発生からこれまで使用されてきたのは「粉乳」「粉ミルク」あるいは「ドライミルク」などの名称である。粉乳、粉ミルク、ドライミルクは意味は同じで水分を蒸発させて作ったものだ。それに対して「練乳」というのがあり、これらは製法上の分類である。

 粉乳のなかには「脱脂粉乳」、「全脂粉乳」、「調整粉乳」などがあり脂肪のある無し、または栄養素の添加などでそれらの分類がある。「人工粉乳」の意味を本文では「いわゆる粉ミルク、赤ん坊に飲ませるものだ。」と述べている。それならなぜ今まで使用されてきた名称を使わず「人工粉乳」なとどいう奇妙で意味不明な造語を使用するのか。

 2は「死者には二十五万円、その他は一律一万円」が正確な補償金額であり、このような基本的な事実を資料によらないで述べる意図がわからない。この金額は一九五五年十月二十一日に森永の要請で厚生省が有識者に依頼して結成された「五人委員会」が作成した「森永粉乳中毒事件の補償等に関する意見書」によるものだ。この委員会はこの後に発生する公害事件の解決に活用される「第三者委員会」の悪しき原形となる。公正な第三者のような顔をした、いわゆる有識者が公害発生企業を弁護する仕組みが森永ヒ素ミルク中毒事件で最初に登場することになった。

 3の「十四年目の訪問」についての記述は、片面的である。大阪の養護学校教諭が調査した結果が公衆衛生学会で発表され、それだけで新聞発表されセンセーションを巻き起こしたように書かれている。しかし、その裏付けとして岡山の被害者が社会から無視されながらも地道な活動で、自主検診を重ねそのデータの蓄積があったことを抜かしている。「十四年目の訪問」はいわば聞き書きであり、臨床検診のデータという裏付けがあって初めて有効性をもつ。新聞発表される前日に、岡山の守る会事務局長岡崎哲夫氏と面接して記者はそのデータを見ている。この自主検診での証明があったから発表することができ、両者は表裏一体の関係にあるのだ。

 4は「昭和四十四年から被害者救済……」に問題がある。同年十月十八日に「十四年目の訪問」が発表され、その後被害者を支援する「大阪府森永ミルク中毒対策会議」が結成されたのが昭和四十六年十二月十三日となっている。この中のメンバーに青年法律家協会も入っているのだから、どうみても四十四年からすでに被害者救済をしていたとは眉唾ものだ。

 5は「第二燐酸ソーダという化学合成品を……」というのは間違いである。「第二燐酸ソーダ」のみ使用が緩和されたわけではない。「などの化学合成品」と書かないと、正確ではない。多くの化学合成品のなかの一つに、この薬品も含まれていたのだ。

 6についてはデタラメもいいとこである。この著者は不買運動をすることになった状況を調べもせずに書いている。「十四年目の訪問」を契機として、被害者の組織である森永ミルク中毒のこどもを守る会(以下、守る会)に参加する会員が急速に増加した。守る会は組織としては不買運動に踏み切らないが支援者がするのは「ご勝手に」という方針だった。私が参加していた森永告発は、設立時から不買運動の拡大を主要な運動方針にしていた。各地の大学生協などにも、不買運動を呼び掛けていた。私たちは岡山の繁華街において、毎週不買運動を市民に訴えるためにビラ撒きをしていた。その他不買ステッカー、シールなどを作製して販売していた。

 昭和四十五年十二月を第一回として守る会と森永との間において、本部交渉が始まった。主な議題は被害者の救済についてであった。守る会は企業責任を認めた上での救済を要求したが、森永はそれを否認して救済のお手伝いという姿勢に終始した。交渉は第一五回目で決裂した。

 昭和四十七年十二月三日森永社長が出席することになっていた第一五回本部交渉に、森永側は約束を破って社長が欠席し、一方的に交渉を打ち切って退席した。そこで守る会は急遽第二回全国集会に切り替えて、民事訴訟提訴と森永製品の不買運動を決議した。

 ここで初めて守る会は組織として不買運動に取り組んだのである。それまでなぜ不買運動に慎重だったかといえば、事件当時に交渉の道具として不買運動を提唱して失敗した経験があるからだ。だが、守る会が国民に不買運動を呼び掛けた時期には、すでに多くの大学生や大学生協は実行していた。それを知ろうと思えば守る会の当時の機関紙「ひかり」を見ればいい。不買運動に参加を表明した組織の名前が掲載されている。

 不買運動と個人のかかわりについては、それは個々人の良心の問題でありはっきり把握はできない。無名の人が誰にも告げずに森永製品不買の行動をとり、その集積が森永の経営に反映したといえる。これら多くの人の無言の行動を「駆使」することなど不可能である。それに中坊氏が弁護団に加わったのは、翌年の一月とご本人が述べている(『中坊公平・私の事件簿』九三ページ)のだから、その時すでに不買運動は始まっていた。
  ※1)不正が発覚した河野編集長は、まさに2003年1月から2013年12月にかけてカネを騙し取っていた。

3. ウソにウソを重ねる
 7も6に劣らないウソであり、それもより悪質なものである。

 ここに書かれている当時の状況は、交渉が決裂し守る会が不買運動と民事訴訟に踏み切った時期のことである。守る会が大阪を第一波として提訴したのは昭和四十八年四月十日である。八月二十四日には第二波として岡山で、十一月二十四日には高松で第三波として提訴した。

 不買運動と民事訴訟に踏み切って以来、森永と守る会の接触は無くなっていたが、五月二十二日に岡崎事務局長に森永社員が提案をもって接触してきた。この案に対して守る会は六月八日に検討の価値がないとして拒否の回答をした。七月になって当時の山口敏夫厚生政務次官から、話し合いのテーブルにつかないかという非公式の打診が守る会の幹部にたいしてなされた。その後、厚生大臣の意向をうけた山口氏は、森永側の約束もとりつけた上で話し合いのテーブルにつくよう守る会へ要請してきた。

 『森永砒素ミルク闘争二十年史』によれば守る会事務局長岡崎哲夫氏は「森永の大野社長からも守る会に対し、貴会の恒久対策案を包括的に認めて誠意をつくさせていただくことを厚生省にもご確約申し上げましたので、何とぞ宜しくご配慮を賜るようお願い申し上げます。との書簡が届けられた」と書いている。これは九月二十六日のことであった。

 九月三十日の守る会第三十四回全国理事会で検討した結果、守る会・厚生省・森永の三者会談に臨むことを正式に決定したのである。だから「被害者たちとの対面を渋る国と森永を引っ張り出す」必要はなかったのである。むしろ国と森永の方が接触を希望し、守る会がそれほど乗り気ではなかったといえる。だから著者はまったく正反対のことを書いている。

 さらに『金ではなく鉄として』中坊公平著、岩波書店二〇〇二年二月二十五日発行によれば

 七三年(昭和四十八年)も押し詰まった十二月二十三日になってよもやの事態が起きた。

「森永ミルク中毒のこどもを守る会」、森永乳業、厚生省の代表によるこの日の第五回三者会談で、「確認書」が作られ、即日、守る会理事長、森永乳業社長、厚生大臣が調印したというのだ。そして守る会執行部は、提訴取下げの方針を原告団に通告してきた。

 もとより、この訴訟の実質的な原告は守る会であり、原告団のメンバーは多くの被害者の代表として立てられていたのだが、それにしても、前面で行動してきた彼らにも、私たち弁護団にとっても、寝耳に水の急展開だった。(二一〇ページ)

 とあり、いろいろな資料を比較検討すると、どれも『野戦の指揮官・中坊公平』に書かれていることとは反対のことばかりである。

 8は7の内容を受けている。7には三者会談とは書いてないが、次の行にある「中坊は、この三者会談に賭けていた」の「この」は7に書いた事柄、即ち三者会談をさしていることは明白である。だから、7がウソであるのだから、8もあり得ないことは納得してもらえると思う。民事裁判が進行中でありながら、それを否定するかのような三者会談に「賭ける」とは弁護団を裏切ることである。常識的に考えても、弁護団長がやるはずはないのである。

 また『森永ミルク中毒事件と裁判』森永ミルク中毒被害者弁護団編、ミネルバ書房刊(昭和五〇年一二月二〇日発行)の中にある「座談会ー訴訟の終結と被害者の今後の救済をめぐってー」に出席していた守る会の幹部の発言でも、国と森永がしきりに会談をもとめてきたことを証言している。この座談会には中坊氏も出席して、三者会談について発言しているので、ちょっと長くなるが引用する。


  「中坊 多くの弁護士の方から三者会談をめぐって弁護団と守る会との緊密な関係が欠けていたという指摘がありましたが、かろうじて公式のものではなくても非公式であっても、例えば私自身が全国理事会に出席する等、何らかの形で弁護団とはそれなりの意思連絡はとっていたと思います。私たちも三者会談のあり方について、当時から意見をいい、守る会の御意向を承わっていたわけです。

 しかしそこで何らかの誤解が生じた、守る会の一部の方からは弁護団は一つの主義主張のために裁判をやっているのであって、救済のためではないという疑いを抱かれたんですね。それが緊密さを保てない一つの根底にあったようです。しかし私は弁護団の責任者としてこの際はっきり申し上げたいと思うんですが、私たちはすべて弁護団会議で報告検討して行動していたわけですが、私たちとして決してそんなことを未だかって考えたことはないわけであり、三者会談に対しては批判的な意見を持ちつつも、それを原告や守る会の底辺の人たちに直接訴えることはやはり避けるべきである、絶対にしてはならないという一線を守って守る会のそれなりの組織の中で決定されたことに対しては、私たちとして従うべきであるということは、終始一貫して守ってきた。(以下略)」

 ここで本人が述べているように「三者会談に対して批判的な意見を持つ」人が何故それに「賭け」たり「水面下で動き続け」たりするのか、著者の考えがわからない。それにしても三者会談について、同一人物のとった行動が著書によっては正反対に分かれて記述されているのが不思議である。
 9については、何をもって「事業を拡大し、充実させている」といっているのか不明である。予算はひかり協会発足当時と現在を比較すると約三倍に拡大しているが、それが内容の充実とは結び付いていない。救済の憲法ともいえる恒久対策案からは後退に次ぐ後退であり、現状を検討せずに無責任なことを書いているとしか言いようがない。

 10については、直接NHK出版には訂正を申し入れはしなかった。しかし正確な表現ではない。この文章はひかり協会について述べているが、協会は財団法人の組織であり「救済施設」ではない。施設という場合普通は建築物などの設備などを意味する。ひかり協会には恒久対策案で建設するとされた、被害者の収容施設も病院もない。「救済施設」と呼べるものはなにもないのに、この名前はなにを意味しているのか分からない。

 私の申し入れにたいして「至急取り調べのうえ」と言いながら、回答が来たのは約二週間後の八月七日のことだった。

 「お問い合わせの件、大変遅くなりましたこと、誠に申し訳ございません。 本書は番組『NHKスペシャル 史上最大の不良債権回収』、そして『ETV特集 シリーズ弁護士・中坊公平』をベースに、新たな取材を加えて記したものです。執筆にあたりましては、中坊公平氏自身に取材し、証言をいただき、さらに内容に関しても目を通していただきました。また、併行して関係各位に取材をし、助言や資料のご提供をいただきました。

 今回、能瀬様から頂いた貴重なアドバイスの内容につきまして、そのうち「死者には一律五〇万円、その他は症状に応じての賠償も行われてきた」の記述については、ご指摘通り、「死者には二五万円、その他の被害者は一律一万円となっている」が正しい内容でした。ご指摘、まことにありがとうございました。次回、重版の際に訂正させて頂きます。その他の点につきましては、内容をいま一度精査のうえ、明らかな事実誤認がある場合には訂正いたします所存でございます。(以下略)」

 私の指摘にたいして一か所の誤りを認めただけで、その後に返事がないということは、それ以外は訂正するつもりは無いのであろう。しかも、「次回重版の際には…」と但し書きをつけているとは、どういうことだろうか。
  私は、このような書籍の重版など望まないが、要するに誤った事実を大量に垂れ流し、その修正は「事実上出来ませんよ」と慇懃無礼に述べているだけにしか思えない。
 それにしても、二度のファックスはいずれも第二出版部長である長岡信孝氏からのものであった。私は著者である今井彰・首藤圭子氏宛てに出しているのに、両氏からは何の返答もないのはどういうことであろうか。私の手紙に異論があれば、堂々と反論すればいいのに、黙殺しているのは失礼な対応である。権威者、権力者には卑屈になって事実でも歪曲するが、無名のものにはその裏返しの態度を平気でとるとしか思えない。    

 手紙の中で私は資料として書名を挙げて、それらを見れば正確な事実がわかると書いた。また三者会談について中坊氏がもし守る会の要請で「水面下」で行動していたなら、故岡崎哲夫氏が遺した資料を調査すればすぐ分かると書いた。しかし夫人の岡崎幸子さんに尋ねてみるとNHK出版からは何の問い合わせもないとのことであった。

 それらのことから判断すると、事実が判明すると『野戦の指揮官・中坊公平』という題名は不適当になる。著者が描くこの本の構図は、不買運動も三者会談も中坊氏が指揮したことにしなくてはならないのだ。

4. NHK本の悪い影響
 著者は中坊氏に関する最初の本を出版したと自慢げだが、それより不正確な記述が後々まで影響していることを恥じるべきである。中坊氏の偉大な人格に「傾斜」するのもいいが、それによってジャーナリストとしての目まで曇ってしまってはなさけない。事実まで歪曲しても平気なのだから、もともとこの著者にそんな目を要求するほうが無理かもしれない。 

  その後に出版された中坊氏に関する他の本を読んでみると、私がこの本であげたのと同じ箇所に間違いが多いのに気がつく。「中坊公平著」となっていても、聞き書きを編集者が文章化したのがほとんどのようだ。なにしろ約五年間に三十冊もの「中坊本」が出ているのだから、本人が書いていては間に合わないだろう。多くの出版社が「中坊ブーム」に乗り遅れまいと、聞き書きをすぐ本にするという、安直な金儲けのやり方を競った。
 森永ヒ素ミルク中毒事件に関しては言えば、二十数年前の中坊氏の経験である。その記憶が絶対に正確で信用に足るかと言えば、中坊氏の卓越した能力をもってしてもそうとは言い切れない。そのいい例が対談にあらわれている。二人の発言をそのまま本にしたと思われる『裁かれるのは誰か』(東洋経済新報社刊 一九九八、一、一発行)にも多くの誤りが見られる。この本については、あとからその箇所を指摘するつもりだ。

 「NHK本」と同じ誤りをおかしているのが『中坊公平・私の事件簿』中坊公平著・集英社新書(二〇〇〇、二、二二第一刷発行)である。

 「そして中坊は、法廷戦術と並行して、法廷外戦術も駆使することにした。それは、森永製品の不買運動である」(NHK出版本)

 「中坊は何度も厚生省を尋ねた。被害者たちとの対面を渋る国と森永を引っ張り出すために水面下で動き続けていた」(NHK出版本)

 「私は裁判と並行して不買(売)運動を進めたりしながら、国(厚生省)森永、被害者の三者会談を重ねるという策をとりました」(集英新書) 
 集英社新書は中坊公平著となっているが、読んでみれば聞き書きであることはすぐ分かる。文章化の時にNHK本を参考にしたものと思われる。要するに、NHK本のとばっちりを受けた格好となっており、当時の「中坊ブーム」の熱狂に巻き込まれた感がある。
 その他にも中坊氏に弁護団長を依頼してきた青年法律家協会員が
 「七三年一月、その伊多波さんが、私のところへ来られたのです。四年間自分たちでやって来た……」(五三ページ)は第一章のあやまりの4で指摘したことであり、年号を西暦にしただけである。

 その他「同年(六九年=能瀬注)一〇月一九日の朝日新聞で報じられたことが契機となり、「森永ミルク中毒の子供を守る会」が結成され、森永乳業と交渉が重ねられるようになった。」(五二ページ)も誤りである。 守る会が結成されたのは事件の翌年五六年(昭和三一年六月)であり、その後も解散せず少数の会員ながら活動を継続してきた。その基盤があったから「十四年目の訪問」報道の際に、自主検診データが裏付けになったことは既に述べたとおりである。いってみれば、守る会が岡山だけででも活動をしていなかったら、「十四年目の訪問」は生れなかったといえる。 さらに「結局、私は、三者会談で決まったいくつかの対策の内容や被害の因果関係を、口頭弁論において国や森永に一つ一つ認めさせ、裁判所の公式記録にとどめました。そして、そのうえで提訴を取り下げました。同時に森永製品の組織的な不買運動も収束させました」(五八ページ)も正確ではない。

 裁判の主体は守る会であり、中坊氏は弁護士として依頼をうけてやっているのである。提訴も取下げも決定するのは守る会であり、弁護士ではない。森永製品の不買運動を呼び掛けたのは、被害者の親でつくる守る会である。昭和四九年五月二四日「不買運動終結声明」を出して収束させたのも守る会である。このように本来「守る会」と書くべきところを、「私」あるいは「中坊」と書いているからすべて中坊氏の行為と誤解されることになる。著者あるいは聞き書きをした人は、有名になった頃の中坊氏のイメージでもって勝手にそう理解したのかも知れない。

 当時の中坊氏でもって、過去の彼を都合よく推測している。ほとんどの著書の中で中坊氏は、森永ヒ素ミルク中毒事件の弁護をしたことで生き方が変わったと書いている。そのことを忘れて「中坊=指揮官」と書くことで、守る会の主体性を無視して、中坊氏に引き回された印象をあたえる。それまで中坊氏は大衆運動とは無関係で、父親に進められて弁護を引受けたと述べている。この本で急に被害者運動の指揮官にでっち上げられた。 そのためそそかっしい評論家には、つぎの新聞記事のような読まれかたにもなり、事実に反することが広がる。これは二〇〇一年一月二一日の朝日新聞読書欄、「ベストセラー快読」に載った記事である。

 「ヒーローは一夜で生れず」との三段見出しで「裁判の目的は被害者救済と企業と国に加害責任を認めさせること。それを勝ち取るために裁判だけでなく不買(売)運動を組織し、さらに国と森永と被害者の三者会談を重ねるという方法をとった。」とまるで中坊氏が対森永闘争の全指揮をとったような読まれかたになっている。

 前にも引用した『金ではなく鉄として』と『中坊公平・私の事件簿』はどちらも「中坊公平著」となっている。しかし三者会談については全く逆のことが書いてある。『金ではなく鉄として』では三者会談が弁護団にとっては「寝耳に水」であったことなのに、『中坊公平・私の事件簿』では中坊氏がそういう「策をとった」ことになってしまっている。

 さらに『中坊公平・私の事件簿』ではすぐ三行あとには「自殺まで考えた」という見出しがある。なんのことかと読んでみると、三者会談や裁判を巡って守る会との間に溝ができ弁護団全員の解任を考えていると、守る会幹部にいわれたとある。それにショックを受けた中坊氏は自殺まで考えたというのである。

 それほど弁護団にたいする不信感があるのに、守る会が中坊氏に指揮を任すわけはないのである。この本の一ページほどのあいだにもこのような矛盾したことが書かれていて、中坊氏の「策」で守る会が動いていたわけではないことが分かる。それでもそのすぐ次ぎのページでは「私は……そして、そのうえで提訴を取り下げました。同時に森永製品の組織的な不買運動も収束させました。」と書くのだから、支離滅裂である。

 どうしてこのような事実に基づかないことが書かれるのかといえば、中坊氏の記憶が正確ではないことによる。文章化するに際して、話された内容を点検して資料と比較してみる作業を怠っているからだと、私は推測する。その責任は著者としての中坊氏と聞き書きをした編集者にあるのは勿論である。このような不良品を読者に紹介するにために、内容を正確に読まずに提灯記事を書いた批評家も責められる。

 なぜ私が中坊氏の記憶が正確ではないかと言えば、次にあげる対談集での彼の発言に誤りが多いからである。この本も彼の発言を検証もしないでそのまま文章化したのであろう。対談だからといって、発言内容が不正確なままでは許されない。

5. 「中坊ブーム」に便乗して

 私は今年の八月一四日に東洋経済新報社編集部へつぎのようなファックスを送った。その全文を次に紹介する。

「 前略 貴社発行の『裁かれるのは誰か』(一九九八、一、一発行)を拝見しました。その中で森永ヒ素ミルク中毒事件に関する中坊氏の発言に多くの事実誤認を発見し、是非事実関係を調査され訂正されることを望み拙文をしたためた次第です。中坊氏の発言とはいえ、間違いは間違いであり、そのまま放置しておかれますれば、以後この著書内容を真実として通用することをおそれます。

 第一は八〇ページの「昭和三〇年八月二五日のことでした。岡山大学法医学教室がその事実を発見する」です。正しくは八月二三日です。

 第二は同ページの「そのときすでに、厚生省の調査によっても、一万二〇〇〇人余りの人がすでに砒素中毒にかかっておって、百二十何名の赤ちゃんが死亡……」は誤りです。その年の一二月九日現在で厚生省が確認している数字は死者が一一三人、患者一一八九一人です。

 第三は八一ページの「そこで砒素中毒の診断基準、治療基準というものをつくる。そして砒素中毒に効くというバル注射などを勧めた」は誤り。ただしくはバルは砒素中毒ということが判明した八月二三日ごろから、岡大医学部の浜本教授が治療法として勧めたのです。

 第四は同ページ「死者で二〇万円ぐらい」は正しくは二五万円です。

 第五は八二ページ「昭和四四年に堺の保健婦さんが自分が管理している、いわゆる精神薄弱児の中に」は「昭和四三年ころ大阪の養護学校教諭が自分の勤務している学校の中に」です。

 第六は「厚生省は名簿は絶対見せない」は誤り、この時は名簿を請求してはいない。名簿はもっていたので、べつのこととかんちがい。

 第七は「三六人の子」は「五〇人」

 第八は一〇〇ページの「ある女性の厚生大臣の自宅へ行った。ところが逆に川本さんと同じように、これも捕まえられるんですわ」は誤り。厚生大臣に面会して直接陳情したが、その後に何等の対策も講じられなかった。 以上の誤りは次の著書で正確な事実が分かる。『岡山県における粉乳砒素中毒症発生記録』岡山県(一九五七、一〇、一発行)『森永ミルク中毒事件と裁判』ミネルバ書房(一九七五、一二、二〇)『砒素ミルク1』森永告発(1971、六、一〇)など。            草々」

 この本で中坊氏の対談の相手をしているのは錦織淳氏である。対談上手が相手の場合、文章として書かれたものとは、また別の面白さが引き出されることはよくある。話し放しのようでも意外と事実関係の検証や校正に、時間を掛けていることを「あとがき」で知って驚くこともある。対談と言えども、通常、それくらい発言の正確さを期することに神経を使っているものだ。
 ところが、『裁かれるのは誰か』の場合、中坊氏には残念ながらそのかけらも感じられない。ご自身が弁護団長を務めた裁判での証言くらい、正確に調べて言ってもらいたいものだ。裁判後に出版された『森永ミルク中毒事件と裁判』は弁護団の編集だから、持っていないことはない筈だ。私が指摘した誤りの五、六、七はこの本に養護教諭の証言として掲載されている。それについては次の『中坊公平の闘い』で取り上げるのでここでは省略する。 その他の誤りのうち事実関係を補足して記述すれば、第二の「そのときすでに」の「そのとき」とは八月二四日のことで、森永ミルクの中からヒ素が検出されたと発表された日のことである。混乱をきわめていた状況では、被害者の実数把握は不可能であり、この数字も誤りである。    
 第三については事件発生の年の一〇月九日、西沢阪大小児科教授を会頭にした委員会「六人委員会」で決定された。発表された「治癒判定基準」」でほとんどの患者が治癒と判定される大雑把な基準であった。これによってほとんどの患者が退院し、治療費は自己負担になった。

 それと同時に発表された「治療指針」には「今回の中毒患者については、患者は夫々適切と思われる治療により殆ど治癒している。然ながらその治療法は極めて多岐で而も各自に理論的根拠によって処理せられたものと解せられるので本委員会において、結論を出すことは、非常に困難である」(『岡山県における粉乳砒素中毒症発生記録』二九六ページ)とあり「バル注射……」を勧めることは発表されてない。
 バルについては次のように書かれている。「BALは第二次大戦勃発とともに発泡性の砒素性毒ガスの解毒剤に関する強力な研究が主に英国で進められた結果、この目的に最も有効なものとして発見された化合物である。多量の金属が永く蓄積する慢性毒中毒症の場合における効果は急性中毒の場合にくらべ不顕著である。」(前掲書二四二ページ)
 急性のヒ素中毒にバルを使用したが、それから一か月以上経過して問題はヒ素中毒の後遺症が心配されている時期にバルを勧めるわけはない。
 その他第四は既述のとおりで、第八は対談者の錦織氏が水俣病の川本さんが逮捕されたことを述べ、中坊氏がそれに関連して発言したものだ。
 事件が決着後、岡山県のみで守る会が組織され、細々と活動してきた。この事件は以後マスコミから意図的に無視され、社会に訴える手段を失った。その中で唯一つ、毎年開催される「日本母親大会」が発言の場であった。 昭和三五年の大会は東京で開催され、守る会からは吉房亀子さんら二人が参加して後遺症の存在を訴えた。私は吉房さんの日記を『砒素ミルク1』に掲載させていただいた。その中から八月二三、二四日を一部引用する。

「東京駅に行くと十時過ぎで今から行く所もなく四人は四千何百円も出して泊まることはできないので目黒警察署に一泊保護してもらい、八月二四日の午前五時に警察署を出て等々力町の大野勇(森永社長、能瀬注)さん方に行く。大野夫人に会って一言話し、お茶代わりに森永牛乳を一本ずつ戴いて八時にこの家を出て田町の本社に行くも面接できず正午ごろやっと社長代理に中須さん、池谷さん、松本さんが来て私と浅野さんは久方ぶりに米食をした。(中略)二四日に森永社長は面接してくれないので、私達は高田なほ子先生(参議院議員、能瀬注)の取次にて厚生大臣に直接陳情に行った所すぐ面会して私の話すことをよく聞いてくださいました。」

 この日記は『砒素ミルク1』以外では公表されてはいない。中坊氏はこれを読んで、記憶に残っていたのではないだろうか。それにしても事実を確かめもせずに、よく自分に都合のいいようにくっつけたものである。


6.「被害者は加害企業に感謝している」?
   …公害被害者の尊厳を踏みにじる凶悪な嘘 2014年追記

 『野戦の指揮官・中坊公平』(文庫本)(平成1年1月25日発行)の103ページでは「森永裁判当時の森永乳業社長が亡くなったとき、被害者の親たちは、遺された夫人に社長あての感謝状を送る。」とある。
 しかし、他方、『諸君』(2002年5月号)での菊地孝生との対談157Pでは「ひかり協会が主催して大野社長に感謝する会を開いたんです」とある。
 NHK出版の中坊本では、これが彼の驚くべき個人的主張であるところの 「被害者は今では加害企業に感謝している」を補強する「証拠」のように配置されている。彼は、その後もこの「行事」について、しつこく雑誌で触れている。ところが、同一人物・中坊氏が語る「行事」の内容が、媒体ごとに別物になっているのだ。

 そもそもこのような「行事」がオフィシャルに実施された事実はあるのだろうか?ちなみに、「森永裁判当時の森永乳業社長」の逝去は昭和59年(1984年)だ。不思議なことに、この「公式行事」は、ひかり協会の「10年のあゆみ」「30年のあゆみ」にも記載されていない。「守る会」の公文書にも存在しない。つまりこの「行事」は、少なくとも公文書からは確認されない。

 一体、この信じ難い「被害者合意のもとに公式に行われたとする行事」とはどこに存在するのだろうか?被害者とその遺族が、当時、こんな公式行事の開催を知っていたら、おそらく憤慨した事だろう。
 もちろん、このような言説を流布することで利益を得る者は誰か?は、押して知るべしだ。

 NHK出版は、「加害企業に被害者は感謝している」などという言説流布の先陣をはった事に関して、死亡乳児131人(事件発生後1年以内)、1万2159人の被害者、そして、2013年までに、もがき苦しみながら死亡したであろう認定被害者1170名の御霊とその声なき声に対して、きちんと答える責任があろう。

【了】 
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2.

中坊氏の言う事実

中坊公平氏はその著作で、森永事件の歴史的に重要な部分に関して、以下のように言及している。
関係者の言う事実

これについて、当時をよく知る関係者は、以下のように「別の事実」を語る。そして、このような基本的事実は諸文献や文書資料で既に余りに明確なのに、中坊氏が左記のような言説を敢えて流布する理由が分からない、といぶかしがる。
A【森永製品不買運動】

①「中坊は…(中略)法廷外戦術も駆使することにした。それは、森永製品の不買運動である」(※1)】

②「同時に森永製品の組織的な不買運動も収束させました」(※2)
A【森永製品不買運動】

 中坊氏は、被害者救済運動の戦略をたて、戦術を指揮する指揮官だったわけではない。不買運動は指揮していない。だが、いたるところで、戦略戦術の決定をする指揮官の位置にいたかのように受け取られかねない発言をしている。(書籍のタイトルからして「指揮官」とつけているから、余計にそういう誤解を与える)

●森永製品不買運動は誰が始めたのか?
 実際の「森永製品不買運動」は誰が始めたのか? それは、被害者団体が事件発生後に一度提起して、その後広がらず、自然収束していたため、その後本格的に再開したのは、市民ネットワークとして全国に急拡大した「森永告発」である。「森永告発」の自主的判断による献身的な努力での先行実施としての不売買運動があって初めて、守る会は、二度目の会としての不売買運動を成功裏におさめることができたのだ。
 1971年(昭和46年)4月26日当時の読売新聞は三段見出しで次のように報じている。

「森永不買へ 市民運動」。脇見出しで「岡山 ヒ素事件 告発の会 発足」。

 新聞記事でも明らかな事実を、なぜ、中坊氏は自分が戦術として始めたように言うのだろうか?


 この不買運動は事実上森永を被害者の前に一時的にせよ、ひざまづかせる巨大な武器であったため、歴史の改ざんを試みるときの第一候補にあげられるほどの栄誉に浴しているようだ。

●森永不買運動の中止を国民には求めなかった「守る会」
 
しかも、その後の歴史の事実はこうである。
 「守る会」が不買運動の中止を声明した時、それと同時に、一般国民が不売買運動を続けることに関しては、どうぞ自由にやってください、と機関紙上で正式に推奨していたのである。「森永告発」はそれに応えて、「不買運動の続行」を宣言した。機関紙に同時に掲載されている見事な連携プレーである。
 だから、「森永製品不売買運動」は未だに一般国民の間では「正式には」収束していないのである。
 もとより、森永事件は、国民の歴史に投げつけられた未曾有の悪徳企業による生命と社会的正義への攻撃であり、それにどう対処するかは市民一人ひとりのテーマであり、被害者を救うという目的と同時に、食品公害の深刻さとそれを圧殺する加害企業の悪徳さという本質的問題に市民一人ひとりがどう立ち向かっていくかという問題でもあったのだ。だから、当然、行動様式もその内容も、「守る会」が市民を統制するなどというおこがましい話などありえない。自由意志に任せられていた。だから、国民一人ひとりの心の中で被害者の悲しみを理解し、その行く末を見守り、ボイコットという大切な武器をもって、引き続き皆さん公害企業を監視してください、そしてあらたな公害の発生を防いでくださいと、当時のリーダーは半ば公式に宣言しているのである。除名されようが、なにをされようが、そのメッセージは市民の良心という名の歴史的記憶にしっかりと刻まれており、いかなる力をもってしても、これを抹殺することは不可能である。

 この重要な文脈を中坊氏はどこかで語ったことがあるだろうか?

●今日、被害者に対し「加害企業の繁栄を望め」という新手法
 森永乳業という企業は「儲かればそれに比例して被害者弾圧を強化する企業」と言われていた。被害者側が毎年、毎月、金を払って「もらう」ために、森永乳業をヨイショしなければならない、というような風潮を煽るものがいるとすれば、それは公害問題の本質を理解していないばかりか、現実の森永乳業と被害者との関係を全く理解できていないことを示している。また、それは精神的にすでに飼い犬になっていることを証明しているだけであり、障害の程度にかかわらず深く刻まれている被害者家族の悲しみの心を踏みつけにしてでも、利己的な現世の利益に関心をもたせるという仕掛けに見事にはめられていることを示すだけである。森永を「ヨイショ」する前に「禍根は内にあり」との言葉を思い起こすべきであろう。

●民主主義については語らない
 実際の被害者団体の指導者は現組織のあり方に異議を唱えるなかで1986年に謀略的かつ独裁的な手法で除名されている。現在の「守る会」や「ひかり協会」を語る上で、このことは極めて重大な事実だ。中坊氏はそれをよくご存知のはずだが…。
 だいたい、民衆が主体の運動において、真の指導者というものは、運動が目に見えない幾多の人々に支えられていることを知り尽くしているから、すこぶる謙虚なものである。
 事実でもないのに、「私がやらせました」という物言いの横行を見るとき、心から情けなくなる。

 歴史の事実は、どうも、コート紙の立派なカバーに包まれた出版物とは別世界にあるようだ。
B【和解交渉の局面】
③「被害者たちとの対面を渋る国と森永を引っ張り出すために水面下で動き続けていた」
(※3)
B【和解交渉の局面】
 和解交渉へのプロセスは極めて重要な歴史的経緯だ。
 事実は、追い詰められた森永乳業のほうが国を通じて被害者との面会を切望したのである。 したがって、歴史を良く知る者の間では、そもそも「中坊氏が、森永を引っ張り出すために努力する必用性すら元々ない」ことは一目瞭然だ。
 それとも、森永乳業が和解まで、あくまで強気で押し通したような事実が、別に存在するのだろうか?事実なら、森永事件史にとっては「歴史的スクープ」である。
「中坊氏、数十年ぶりに、単独での水面下工作を披露」ぐらいの大見出しになる。が、同時に、具体的事実を細かく明らかにして説明する義務も発生する重大なことだ。その詳細事実が全く披露されていないのはどういうことだろうか。

●被害者と加害企業の立場を逆転させる「印象」。
 中坊氏の発言を聞いていると、事情を知らない国民や一部の被害者の中に「強気の森永乳業を一弁護士が説得して、かろうじて被害者が救われた」というようなテレビドラマのような物語をうのみにする人が出てくるかもしれない。現実は、そんなよわっちい被害者運動では森永は相手にしないどころか、再度、容赦なく叩き潰していただろう。
 悪徳な弾圧を絶対にあきらめなかった森永が、自分からコウベをたれざるを得ないところまで徹底的に追い込んだからこそ、初めて和解の段階へ進むことができたのであり、それだけ被害者団体は、何度も煮え湯を飲まされてきており、「森永さんどうかお話を聞いてください」なんてお願いする立場などではなかった。

 反面、「森永さんに助けてもらった」という「弱い立場」でずっと来たことにして、現状の批判と不満を抑えたい意図が生れていると考えるのは邪推だろうか。(能瀬訴訟の差別暴言記録メモ参照)

 森永乳業への非人道な弾圧に対する激しい怒りと憎しみ、我が子への親としての責任から命がけの闘いが長期に展開された歴史的事実を薄めて、なんだか、被害者家族は「ものわかりのいい」「おとなしい」「ききわけの良い」集団であり、弁護士にすがってかろうじて生きていたかのように演出された場合、守る会の牽制力を骨抜きにして森永乳業がその橋頭堡としての基金の支配力を拡大しようという意図
(※a)と思想的に非常にうまくリンクすると思うのは、考えすぎだろうか?
(
a)『 技術と産業公害 』 宇井純 編 発行:国際連合大学 第3章:砒素ミルク中毒事件 著者: 東海林 吉郎/菅井 益郎 参照
C【被害者の心情について】

④「森永がけしからんという人は、本当に誰一人いわない」(※4)

⑤「被害者というものは…(中略)…森永もやってくれたということについて、やっぱり、それなりに感謝もしてますよね」
(※5)
C【被害者の心情について】
 単純にAとBが流布され、その文脈の流れから、彼が運動のキーマンなのだろうという想像が生まれ、そこから「自然に導かれる」ところの、もっとも影響力ある結論は、どうも、「被害者が加害企業に今では感謝している」という恐ろしいほど美しそうな話だ。

●逆連想法による心理的誘導?
 最終的に、このフレーズが国民の印象に残像として残るのである。なぜなら、にわかに信じがたい「驚きの」話だからだ。
 なんだか、ほんとうかな、ほんとうにそうだったら泣けるような話だな。「いい話すぎるな」と…。しかし、賢明な市民にはよく考えて欲しい。
 この話が美しく思えるのは、現実に存在しない物語だからだ。
 「それほど感謝するくらい被害者は喜んでいる」→「それほど被害者が喜ぶくらい、森永はすばらしい誠実な対応をし続けているに違いない」という逆連想法に基づく、森永乳業賞賛への心理的誘導となる、というのは考えすぎだろうか?

●「心理戦」について
 ある組織でこんな話を聞いた。
 「…戦争での不祥事や犯罪をごまかす最高のテクニック。下手に隠すのではなく、いろいろしゃべって美談に変えてしまうのがもっとも効果的だ。それには、当時を良く知るという者に言わせる仕掛けが必要だ。しかし、本当の元指揮官をインタビューしてしゃべらせてしまうと、真実がばれてしまう。過去の真実というのは物事の本質的ぶぶんへの“気づき”のレベルだ。真実が正確に表に出ることの実際的デメリットは、今に続く組織人脈や未解決問題が判明してしまうことだ。これを避けるためには、“現状の問題点を絶対に指摘しない誰か”を指揮官だということにして、その人物に演繹法で物語を構築させるのだ。その上で、“昔の思い出話”を懐かしそうに“悪気なく”…、しかもここがもっとも重要なんだが…“ヒューマニスティックな断片的事実をできるだけたくさん紹介しながら語らせる”ことがミソだ。人間臭い話であればあるほど良い。それこそ何百ページもの分厚い本になるくらい“受けのいい”エピソードをわんさと語らせるのだ。そうすれば、流れに目を奪われて、読者や聞き手を“呑む”ことができる。一見、汚い事実も躊躇なく語らせる。ポイントは、個々の不祥事ではない。全体の印象なんだ。物語の流れそのものに仕掛けを仕込むわけだ。事実認識が曖昧なベースというのは事態の本質が把握されていない現状をさす。本質さえバレなければ、断片的な犯罪はいくらでも触れてかまわない。メディアもそういう戦略に基づいて敢えて積極的に活用する。全体像の本質的部分が把握されなければ、大成功、ここがミソだ。疑われずに、むしろ“イイ話”“感動物語”として社会に一気に広がる…。その本質を解明するには数十年かかることもある。現世の利益をあと15年から20年ほど甘受したい人は、その程度の知恵は働かせるよ。そのあとは知ったこっちゃない、バイバイってことだよ。とにかく結論は、今は問題なくみんな幸せに円満にやっているということ。これが物語のオチの絶対条件だ。」


●「恩讐の彼方」??
 論点を元に戻すと、彼のしきりに言う「恩讐の彼方に」との一見美しい主張は、公害問題が「ドラマ的なハッピーエンド」へ落ち着かせる印象へ導いている。客観的に公害問題にそんな結末はないのだが…。どうも演出のしすぎのようだ。
 この人間の無意識下に形成される「印象」や「残像」こそ、「心理作戦」が膨大なコストとエネルギーを注いで最大の目標とする成果であることを読者にご理解いただきたい。これについては、ウィキペディア「心理戦」をご参照。戦争犯罪の隠蔽や軍事作戦で活用される心理作戦、他の一般的な詐欺手法にも共通する心理的仕掛けである。

 それ以前に、そもそも、公害被害者は、加害企業に感謝する義務を押し売りされる立場なのだろうか? なぜ、感謝しないと、了見が狭い人間のように言われないといけないのだろうか?最近の風潮は、街頭犯罪ではこの真逆になっているのだが。
 公害被害を受けた上に、なぜ加害者に感謝するなどという聞いたこともない変な宿題を、弁護士の個人的感傷という類の文章中で、背負わされないといけないのだろうか。

 なぜ、今現在の現実を語らないのか?

 基金や被害者団体を相手取った人権救済申し立て、民事訴訟、今も続く物言う被害者家族への攻撃。この断片的事実の萌芽をすこしでもみれば、その異常な乖離のほうが目立つ。現状の問題点である言論抑圧と被害者の怒りには全く触れずに振りまかれた「美談」は、一体どこに世論を誘導する効果を発揮したのだろうか?

●被害者が森永に感謝??
 本題に戻ると、もとより、ほとんどの被害者が森永に感謝している事実はない、と被害者家族は指摘する。
 森永に感謝する被害者が仮に居るとすれば、「どうぞご自由に」と申し上げるだけだが、彼が「被害者は…」という時、当然のことながら、それは被害者総体を表現している。そこで「感謝」とくれば、それは全く違う。
  「被害者の親が自責の念で自らを責め続ける」のは犯罪被害者にも普遍的にみられる心理的傾向だが、このことをもって、「被害者は誰一人森永けしからんとは言わんですよ」などと言って良いのだろうか。
 いや失敬、もしかすると本当に中坊氏は「けしからん」という単語は聞いたことがなかったのかもしれない。確かに「けしからん」とは政治家のような言い方だ。確かにそんなぬくぬくとしたソファーから発するような表現を使う被害者はいなかっただろう。
 事実を紹介しよう。当時のスローガンは 「殺人企業森永糾弾」 である。被害者家族は、「けしからん」などというお上品な言葉を使わずに「殺人企業森永糾弾・弾劾」と鉢巻を締めてデモ行進をし、テレビカメラの前で泣きながら憤りをぶつけたのである。現代の私たちからは、想像を絶する怒りである。
 
●加害企業へ「感謝」しないといけない?
 「けしからん」という言葉をたまたま聴いていないからといって、それをさらに飛躍させて、「被害者は加害企業に感謝している」という主張に結びつけることに、いったいどのような意味があるのだろうか。全く理解に苦しむばかりか、被害者家族からすると、怒りを通り越して、なにか別の誘導意図を感じるくらいだ。
 いくら、(仮に)犯人が反省をしたとしても、殺人事件の被害者が殺人の加害者に感謝まですることはあり得ない。そんな義務もない。どういう感覚で「感謝」という言葉を使うのだろうか。

 もとより、憎しみの感情などないほうが楽であるし、心の平安にとって良いに決まっている。しかし、現実にはその感情はなかなか消えない。なぜか?それは憎ませることをする者がいるからだ。被害者の現状を見よ、としか言いようがない。被害者が森永を許せないのは、単純な過去への憎しみではない。被害はもとに戻らない。障害は、ますます重荷になり、人生の最後まで被害者を苦しめる。何もいいことはないのである。

「金をちびちびと長期分割払いで払ってくれて、恒久的で、ありがとう。しかも支払いは生きている間だけで、ありがとう。早く死んだ人は運が悪いと諦めなければいけないけど、それでも、ありがとう」と、加害企業に感謝する理由はあるだろうか。何一つ無い。

●徹底した情報・心理作戦が駆使され、戦後初の御用学者を生み出した森永ヒ素ミルク中毒事件
 現在の基金からの年金は、森永からの「お恵み」ではない。森永乳業が当然払うべき保障の「何分の一」か「何十分の一か」に過ぎない。もとより親が要求したのは金ではなく後遺症の追跡とそれへの森永の社会的責任の実行だ。これは未だに実現されず、この事件は金銭(支給)問題に矮小化され、被害者の現状は、金銭の多寡に置き換えられて議論され、人間としての尊厳が毀損されている。
(不当な「民民合意」で形成された不利益変更に怒る被害者家族の感情はこの限りでないが)

 逆に、「お恵みのようなものだから支給されていることに感謝しなさい」「文句言ったら出なくなるかもよ」と思わせることに成功すれば、前述の太字のトリックにさえ、被害者自身が抵抗することが困難になる。「加害企業への感謝」が公然と語られることに、違和感をもつ一般国民は多いはずだが、この「感謝」のフレーズは、実は一方で、過去何十年にも亘って、森永乳業が被害者を押さえつけ分断支配するために政策的に流布してきた言説である。

 そして、そのトリックを維持するためには、森永乳業の意図やその根深いDNAを解明せず、「知らぬが仏」にして管理する必要がある。そのためには、真の歴史を伝え、公害企業の本質に警鐘を鳴らす運動指導者や、批判をする家族がなにより邪魔者となる。だから攻撃を連発し、被害者との接触を排除するわけである。
 しかし、いくら排除しても客観的事実が消えるわけではない。伝えようとする国民が居るかぎり、歴史は抹殺されることはない。悪事に加担する共犯者達は後世に恥を残すだけである。

●何を語り、一方で、「何を語ろうとしない」か?
 ところで、彼の言説の結末が前述のような意図と連携しているとは思いたくない。
 確かに彼は「金銭の補償を主たる目的にしておるのではございません」「やはり体を元の健康な体に戻してくれ」という当時の意見書を紹介する。
(これは当時の被害者家族が訴えていた内容であり、彼が決して触れようとしない、現組織から除名された運動指導者が、被害者の苦しみと森永の悪逆非道な弾圧を14年間体験して生み出した理念。)(※1書p92)

 だが、彼が本当に今も「意見書」どおりのことを願っているのなら、今の「救済」機関のやっていることが、まさにその精神に反した行為であることを「思い出話」と同時にセットで指摘する必要があろう。正義の視点から見るならば、それはどうにも我慢できない不誠実で陰険な欺瞞の巣であるはずだ。
 さらにまた、彼が、感謝について、それほど語りたいのなら、「森永告発」など被害者を心から真剣に支援してくれた一般市民・国民への感謝を先に語ってしかるべきであろう。
 
 しかし彼は、そういったことに関して決して触れようとしない。そればかりか、その後、森永乳業の元関係者とのまことに円満な対談を雑誌でやって見せた。

●「旧聞」報道がはやる森永事件(公害を終わったことにして、「先進国幻想」から自画自賛をしてみたくて仕方ないところの一種の「バブル後遺症」)
 新しい現実を世間に聞かせず、「新聞」の反対、「旧聞」に終始する言説ばかりが展開されている昨今の森永事件をめぐる動きが、どうもおかしいと感じるのは邪推だろうか? 一見「驚き」の新説という装いで国民の意識に残像として残るが、その内容は実は半世紀以上前から加害企業によって使い古されてきた言説であることと、どうしてもダブってしまうのはなぜだろうか?

●「感謝」の押し付けが、大昔から繰り返されている森永ヒ素ミルク中毒事件
 最近、再度この種の言説に飛びつき、しきりに「加害企業への被害者の感謝」「加害企業を憎むとつらいよ」「早く憎しみは忘れましょう」的な似非メンタルヘルスの押し売りをする者が増えつつある。言うまでもないが日本人的謙譲の精神を含む本来の「感謝」ではない。

 公害や事故災害の被害者救済に対して悪影響が生まれかねない。こういう手法は、必ず「とばっちり」が別の被害者団体へ波及する。それが大変心配である。
(出典:※1=『野戦の指揮官・中坊公平』今井彰・首藤圭子共著 日本放送出版協会2001.1.25第1刷p82 ※2=『中坊公平・私の事件簿』中坊公平著 集英社新書2000.12.23第4刷p58 ※3=※1p96 ※4=※1p88 ※5=※1p103-104) 【“森永に感謝” “一部の人だけが憤っている” は、森永が事件発生時以来、被害者運動の抹殺に使ってきた常套手段】

 1970年、まだ健全だった「森永ミルク中毒のこどもを守る会」機関紙「ひかり」は次のように主張し、森永乳業のプロパガンダ攻勢へ警戒を呼びかけている。
------------中略-----------
「森永事件以後、同じような事件が次々と起きています。私達が十五年前に、もっと徹底的に森永を糾弾していたならば、カネミ油症事件は起きなかったし、もし起きたとしても、もっと正しく処理されていたはずです。
 こう考えてくると『自分の子供は大して悪くないから』という理由で黙っていることは、結果的には森永に加担したことになります。
 事実、森永は十五年前にも、そのような人を利用して、事件をヤミに葬る手段に使いました。曰く『森永の処置に十分満足している』『森永に感謝している人が沢山いる』『騒いでいるのは一部の人たちだけである』と。
 今、森永はふたたび、この使い古した手を使って、こどもを守る親の悲痛な声をおしつぶし、社会正義のためにたたかう国民の努力を圧し殺そうとしています。
 被害を受けた人たちが、どのようにされても感謝するはずはないし、こどもを元に返して貰ったからと言って、森永の犯した罪が許されてよいはずはありません。」
------------後略-----------
 文中の「15年前」とは1955年、すなわち事件発生時のことである。つまり、この「森永への感謝」という表現は、被害者を分断支配するとき、森永乳業自身が繰り返し巻き返し使ってきた常套手段であるということである。
 この文章は、今日的な現状をも衝いたものとして教訓に富んでいるといえよう。
 今後さらに、森永事件の真の教訓を、具体的事例を通してご紹介していく予定にしている。


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【ナチ礼賛のDNA】
 森永乳業の親会社は森永製菓である。
 事件当時からの統制ラインだ。
 菓子屋、牛乳屋だと過少評価するなかれ。彼らは創業当初から軍部に取り入る営業を展開している。

 そのDNAを如実に示す書籍がある。

 森永製菓は、戦時中、自社チョコレートのパッケージに、ユダヤ人600万人をガス室送りにしたナチスのシンボル=ハーケンクロイツ(カギ十字)を掲載し、全国の子どもに販売していた。森永製菓は、日独伊三国同盟礼賛のポスターを全国の児童に描かせ、「絵画コンクール」を開催した。その会場は、さながら「ナチ党大会」を想起させるドギツイものだ。
 目を疑うのは、その数々のプロパガンダ写真を、戦後に発行した社史=『森永五十五年史』332頁(昭和29年-1954-12月)に堂々と掲げ、自画自賛していることだ。この本は、
各地の大学図書館にも納入されている。皆さん、一度、目を通されるといい。
 この社史は、ナチを礼賛し、軍国「少国民」を増産して戦場へ送り出して死に至らしめた事、金儲けの動機からこのプロパガンダに手を貸した事への反省の色など、カケラも見当たらない。それどころか、この自社の行為を褒め称えている。
 チョコレートの包装紙におお描きされた「カギ十字」のインパクトは、学校で習う軍国教育より数倍する児童への洗脳効果があったであろうことは、想像に難くない。

 さて、このナチ礼賛に続く、333頁には何があるだろう? 

【皇室利用し、毒ミルク製造・宣伝】
 332頁の「三国同盟礼賛」の後に続くのは、皇室利用だ。皇室の工場見学を「光栄の記録」と続け、そこに「感激 森永ドライミルク」の広告が登場する。これは何か? 皇室が森永の三島工場の見学に来たことを世に宣伝するため、自分から打った新聞広告だ。まさに自画自賛。
 ナチを持ち上げ、その次には皇室を利用して自社を持ち上げ、その真ん中に、「森永ドライミルク」新聞広告を配置した。
 では、卑しくも皇室を利用しつつ大宣伝した「森永ドライミルク」は、かろうじて真面目に生産しようとしていたのか?

  否。


 粉ミルクの原料は牛乳である。森永はトップシェア企業を目指し、正常生産の能力を越えた販売量を確保するため、遠距離輸送で腐った原乳を使っていた。腐った原乳の使用を隠蔽するため、劇物の殺菌剤・過酸化水素を違法に投入していた。それでも、湯に混ぜたときうまく溶けず、不良品質を誤魔化せないため、第二燐酸ソーダを投入して化学反応を仕込んだ。
 見た目はまったく異常が見えない白い粉ミルク。まんまと母親をだませた。しかし中和剤として投入したのは、成分保証のある薬でなく、産業廃棄物由来の、強力洗剤や殺虫剤として出回っていたシロモノ。表向き脱色精製で結晶化されているが、中身は中和能力だけのゴミのような化学物質だ。これを卸問屋には敢えて「使途」を告げずに納入させ、粉ミルクの中に密かに投入していた。

【事件発生・直後から親衛隊の育成で企業防衛】
 この悪魔の社史が出回る頃には、すでに企業犯罪は進行していた。すでに中毒症状が散発的に報告され、ミルクをつき返す地方の良心的医師に「営業妨害になる」と脅しを加えていた。だが、翌年には、もはや隠せなくなった。
 1955年8月、被害が爆発した。森永乳業が日本全国をパニックに陥れた。森永ヒ素ミルク中毒事件の発生である。
 岡山県には既にカネの力で森永の手先と化した人物がメディア・行政・大学と、要所に配置されていた。すでに十分に森永寄りとなっていた岡大小児科の浜本英次教授は、事件発表をずるずると遅らせ、食中毒通報さえせず、犠牲者の増加に加担した。(※1)
 だが完全に隠蔽できるわけがない。急性ヒ素中毒症状で乳児が高熱と嘔吐と内臓肥大、皮膚が真っ黒になり続々と大量死している。病院には、「森永」の名を伏せた「人工栄養児に奇病」の偽装報道で、明治や和光堂の飲用者まで殺到し、パニックだ。遅れに遅れて、8月24日の記者会見。
 ところが、これで一転、同氏は「砒素中毒第一発見者の英雄」とされ、厚生省から表彰された。そして、直後から後遺症を無きものにする不正な診断基準を作成する西沢委員会(筆頭:阪大・西沢教授)に合流し、名実ともに森永と国の御用学者となった。

【グループ企業・広告代理店の総力で、国・医学界・メディアを囲い込む】
 森永は、全く悪びれることなく、製菓をはじめグループ関係者(当時の電通常務-元森永製菓社員-含む)の総力をあげ、国・厚生省・医学界を抱き込んで、被害者救済運動の抹殺に狂奔した。
 赤ん坊の大量殺戮から61年、膨大な被害者が苦しみつつ生きながらえている中でも、未だに事件史を歪曲し続け、当時の幹部の免罪をはかる言説を雑誌などで垂れ流す。真摯な反省が見受けられない特異な体質だ。

【政府・政治への介入癖は治らず】
 その習性からかどうか、彼らが、昔も今も、時々の内閣にすり寄り添っていることは周知の事実だ。その目的が何かは、前述の事実をみれば、いわずもがなだ。それにしても、近寄るためには手段も選ばずなのだろうか
?(
※2 

【親衛隊を操り、陰に隠れて策する癖も健在】
 森永は、赤や白のコミューンとの付き合いが好きなようだ。今は「赤い貴族」の親衛隊に守られ、それを防波堤にしつつ、被害者・親・親族・遺族からの怒りの矛先をかわし、安心して利益をむさぼっている。税引き前利益からの資金拠出は、ていのいい「節税」だ。
 歴代の総理は…、というよりも、与党の地方議員でさえも、森永の “代理人“ と化した党派勢力の体質を知りぬいている。利権にありつくチャンスさえあれば、表向きの看板など振り捨てて、コソコソと色々なものに擦り寄っていく体質だ…。(例:大阪での与党への擦り寄りなども、相手が嫌がるほどであったらしい)

【61年前から、自社への “感謝” を被害者へ要求し続ける森永】
 軍国主義と産業報国礼賛のDNAをぬぐいきれない企業とマルキストの見事な連携。第二次世界大戦にあたり世界の人びとが驚いたナチとソ連の見事な連携を想起させる。ヒトラーとスターリンの合作による「ポーランド分割(侵略)」の姿だ。利害関係が一致すると、どんな勢力とも手を組めるのが大昔からのマルクス・レーニン主義の本性らしい。各種の全体主義イデオロギーは、その表紙は違えども、本質的な思考回路は「似たもの同士」ということだ。

 被害者の症状が悪化しても、「赤い代理人」と、その取り巻きの「民主的医療関係者」は “それは後遺症ではない、加齢だ” と言い放つらしい。現実とは程遠い「理論医学」の提唱者にでもなったつもりか? 或いは、森永に長年飼いならされて御用学者に「成長」したのか?
 重症者の検診は「来世の人々」の「貴重なデータ」にするためだと納得させる。まるで宗教カルトのマインドコントロールだ。

 毎年、何十人という被害者が、苦しみ、もがきながら死んでいく。しかも、「キミィ、今はカネを出す森永への感謝が必要な時代なんだよ」などという「白い説教」を延々と聞かされながら…。(※3)
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【脚注】
(※1 本人は自身の退職記念の冊子で正反対のことを書いている
    この天下周知の事実も、時間がたち、歴史継承の力が弱まると
    ─森永事件の場合は風化ではなく計画的封殺と歪曲だが─、
    正邪が見事に逆転する。
    
    参考文献は無料で読める。
    『砒素ミルク1─森永と共犯者たちによる被害者抹殺の16年─』
         前編 後編 森永告発刊)
    『森永ミルク事件史』=『砒素ミルク2』
        前編 後編  岡崎哲夫著  再刊:森永告発
    『森永ヒ素ミルク中毒事件 発生から50年』 (能瀬英太郎
      デジタルアーカイブコーナー
      学術論文コーナー 各種学術論文
      国連大学発行『技術と産業公害』(東海林 吉郎/菅井 益郎 著/ 宇井純 編)
      事件解説ポスター

(※2 現在は「陽」。森永製菓→電通OL→電通紹介→首相と御成婚…らしい。
    まるで森永事件のプロパガンダの裏面史をなぞっているかのようだ。
    関与している先は、安部政権だけではないことも付言しておく)

(※3 白い説教。最近は赤い貴族が代行しているので敢えて「白」とした。

【 “大体の人が森永に感謝している” “一部の人だけが事件に怒っている” とのトンデモ言説は、実は、森永が事件発生時以来、被害者運動の抹殺に使ってきた常套手段】

  1970年、まだ健全だった「森永ミルク中毒のこどもを守る会」機関紙「ひかり」は次のように主張し、森永乳業のプロパガンダ攻勢へ警戒を呼びかけている。
------------中略-----------
 「森永事件以後、同じような事件が次々と起きています。私達が十五年前に、もっと徹底的に森永を糾弾していたならば、カネミ油症事件は起きなかったし、もし起きたとしても、もっと正しく処理されていたはずです。
  こう考えてくると『自分の子供は大して悪くないから』という理由で黙っていることは、結果的には森永に加担したことになります。
  事実、森永は十五年前にも、そのような人を利用して、事件をヤミに葬る手段に使いました。曰く『森永の処置に十分満足している』『森永に感謝している人が沢山いる』『騒いでいるのは一部の人たちだけである』と。
  今、森永はふたたび、この使い古した手を使って、こどもを守る親の悲痛な声をおしつぶし、社会正義のためにたたかう国民の努力を圧し殺そうとしています。
  被害を受けた人たちが、どのようにされても感謝するはずはないし、こどもを元に返して貰ったからと言って、森永の犯した罪が許されてよいはずはありません。」
------------後略-----------
 文中の「15年前」とは1955年、すなわち事件発生時のことである。つまり、この「森永への感謝」という表現は、被害者を分断支配するとき、森永乳業自身が繰り返し巻き返し使ってきた常套手段であるということである。

まさに、ナチス流のプロパガンダ理論─「大衆は馬鹿だから、ウソを短い言葉で無限に繰り返し、愚かな大衆の脳みそに刷り込めば、現実になるのだ」(参考文献:アドルフヒトラー著『我が闘争』)を忠実に半世紀以上実践している姿。ご都合主義の「赤い貴族」も党生活者の根城を与えられると同じことをするのは、知る人ぞ知るレーニン党派の基礎理論・プロパガンダを必須とする習性だ。

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【現:森永乳業とそれに追随する
      巧妙なプロパガンダ企画の数々】

【関連ページ】
最近、森永乳業幹部が流す珍説について(1点紹介
未だ横行する嘘とプロパガンダ /Wikipedia大量改ざん事件
被害者団体幹部の恐るべき腐敗の実態 
被害者が「基金」告発 / デジタルアーカイブ


参考情報
奇奇怪怪、被害者が参加を許されない、秘密?のシンポジウム
戸倉恒信 blog
↓どこかで「シンポジウム」が開催されます
http://ttokura.blogspot.jp/2010/04/blog-post_14.html

【訴訟】
能瀬訴訟 一審 2009-2012(被害者団体を告訴 被告有罪
    被告が被害者向け機関紙に書いた内容の多くが
    ウソであることを裁判所が正式に認める。
【訴訟】能瀬訴訟 控訴審2012-2012広島高裁     
    
広島高裁、被告の控訴を棄却。
    被告・被害者団体が、再度有罪判決受ける。
【訴訟】榎原訴訟 2012~
     被害者が,森永/国/被害者団体/基金4者を告訴

【事件】厚労省が裁判対策と称して持ち歩いていた
    被害者455名分の名簿を、粗雑に扱った上、電車内で紛失
     2013.2.20
【事件】被告:公益財団法人ひかり協会理事長の不正行為露見
     2013.4.11
【発表】森永ミルク中毒被害者弁護団に関する疑義
    40年ぶりに電子掲示板に公開提示 
    (2013.5.3 憲法記念日 投稿番号 №1060
【投稿】No.1068 2013.5.6 市民からの投稿記事
    森永ヒ素ミルク中毒事件の事件史を正しく知れば
    少しはマシな企業になる。

■参考資料
粉乳事件史の現在 -森永問題とは何か- 戸倉恒信 blog
(上)http://ttokura.blogspot.jp/2012/02/blog-post_5.html
(中)http://ttokura.blogspot.jp/2012/02/blog-post_20.html
(下)http://ttokura.blogspot.jp/2012/04/blog-post_2.html

■ブログ 市民と社会…対話と交流

http://morinaga-hiso.blog.jp/archives/3019264.html



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